憲法改正:国民共有財産

 現在の憲法では、改正しなくてはならない項目が多々ある。既存の項目の改正もさることながら、新たに付け加えるべき項目もあるのではないだろうか。その一つがこの『国民共有財産』の項目である。

 そもそも、「国民」という言葉の定義にも新たな考え方が必要であろう。国民とは言うまでもなく、日本国の日本国民のことであるが、これまでの憲法は今現在の国民のことしか頭に無いように見える。国民と言う場合、過去から現在までの国民はもちろんのこと、将来の国民についても考慮しなくてはならない。例えば、環境の保全は、今の国民だけではなく、将来の国民の為にも、よりよい環境が保たれなくてはならないのは言うまでもないことであろう。とするならば、現在の国民のことだけを考えた法律や憲法ではなく、将来の国民のことも考慮したものでなくてはならない。これをどこまで、どのように定義するかは難しい問題ではあるが。


さて「国民の共有財産」の話である。現憲法は、言うなれば個人の私権を最大限に尊重する憲法である。その一方で、本来それとバランスする形で尊重されねばならない、公共という概念が希薄なところがある。国民共通の共有財産についての考え方を、きちんとしておく必要があるのではないだろうか。

 当然のことながら、個人が取得した土地は個人の財産である。だが日本の領土と言う視点を考えてみたとき、土地は国民にとって共有の財産としての側面もまたある。いやそういう側面を持たせなくてはならないものであろう。戦後私権があまりに過大に尊重されすぎたため、公共のための土地の取得が非常にやりづらく、国土の計画的な開発などの大きな妨げとなってきた。また土地バブルのような経済的な側面ばかりに振り回されて、土地本来の持つ機能や使われ方が、必ずしも重視されていたとは言い難い現状がある。

このような意味において、土地は、本来は過去から将来にわたる日本国民の共有財産である。それを一時的に特定の個人に貸し与えているという考え方を導入する必要があるのではないだろうか。これは私権を制限するような、共産主義的な考え方、国がすべての土地の所有権を持つ考え方などでは決してない。そうではなく、私有化された土地といえども、国民の共有財産としての側面を持ち続けると言う意味である。

 すでに『公共財』という概念がある。これは、いわば、経済合理性よりも公共の福祉が優先されるべきもので、公共財は主に政府が提供するものになる。この公共財とここで取り上げている「国民共有財産」は、その公共的性格から混同しやすいが、別の概念である。むろん、公共性という共通項はあるのだが、『国民共有財産』は、政府が所有する物でも、作り出す物でもない。国民全員が少なからず、公共の福祉の目的にかなう場合には、その所有の権利を行使できるとする考え方である。


 この国民共有財産からは、一方的な既得権(私権)の永久保証は行わない、また、私的所有物であっても、所有者はその所有物を適正に管理する義務を有する、と言う考え方が生じてくる。これが重要な点である。
 土地収用法などの基本的な概念をきちんとする事、公共に関わる部分においては、私有物といえども、適正に管理されねばならない概念が明示される。

 国や自治体がむやみやたらに、公権力を行使することは慎まなくてはならないが、一方で、多くの国民が被害を受けるよりも、一人の私有権が尊重されすぎるのも問題であろう。

 卑近な例で言えば、ゴミ屋敷や不法投棄などの問題がある。自分の土地であれば何をしても良いだろうという考え方が強すぎれば、そこで行われていることを公共の福祉から規制することが非常に困難になる。個別に様々な対処法を作らねばならないことになる。だが土地のような公共財は、 その所有者によって適切に管理されねばならない、それが共有財産の本質であると定義したならばどうであろうか。私有地だからと言って勝手に有害なものを埋めたり、あるいはゴミを溜めて放置するなどと言う身勝手な行為は許されなくなる。私権制限の本質的な拠り所と成り得るであろう。
 私有物の適切な管理が行われずに、公共の福祉に反する、たとえば周辺住民がゴミの匂いに苦しむなどと言った場合に、所有者に管理を要求することができる。金もうけのために、使用せずに放置された空き家も多いという。放火の対象となったり、周辺の環境を破壊していることもある。それをきちんとさせる事も、この概念があれば容易になる。

 この考え方がきちんとしていれば、たとえば外資や特定個人が水源を買い占めて、それを独占するような行為を取り締まる、安全保障上の制限もやりやすくなる。深い井戸をほって、地下水を根こそぎ吸い上げてしまうようなとき、その地下水は国民共有財産なので、たとえ取り出し口の土地が私有地でも、何をしても許されることにはならなくなる。

 土地を例に挙げて話をしてきたが、国民全員にとっての共通の共有財産は土地ばかりでは無い。例えば農地権、 水資源、鉱物資源、山林など入会権、漁業権、川などの水利権、などなど様々なものが考えられる。しかもこれらは、現在その既得所有者による権利が尊重されすぎるがあまりに、弊害と言うものも目立つようになってきている。漁業権との折り合いが付かないがためにロケットを十分に飛ばすことができないとか、洋上発電の装置を設置することができないなどと言う、いわば新しい産業の成長を阻害するようなことも出て来てしまっている。むろんそれらの権益によって生活の糧を得ている多くの人々がおり、それらの権利は最大限に尊重されねばならない。しかし同時にまた、他のすべての日本国民もまた、それらの権利や資源を有効に利用する権利を持っているはずである。

 さらに現憲法においては、第25条で国民の生存権と国の社会的使命について規定している。こことも若干絡んでくる概念であろう。


 この問題、そう簡単にかたがつくようなものではないかもしれない。しかし少なくとも憲法の条文に国民共有財産という考え方をきちんと示し、あとは国民共有財産基本法などの個々の法律によって、現実的な対応を柔軟にできるようにすればよいのではないだろうか。少なくともこれまでのように特権者となった一部の国民だけがその権利を主張し続けるというのは、公平性の観点からも明らかに問題であろう。
 むろん独裁国家や共産主義国家で行われているように、個人の権利を無視して、国家や地方政府が勝手なことをやる、そんな事はあってはならない。その歯止めをきちんとしておく必要はあろう、だが一方で、外国資本に水資源の源流を押さえられてそれが個人財産であるが故に海外へ持ち出されると言うようなことがあってはならないのだ。これは日本人の生存に関わる安全保障上の問題でもある。
 なんとしても、付け加えなくてはならない、憲法改正の重要項目であると思う。

平成25年(2013)4月3日

 

2012年06月20日|烈風飛檄のカテゴリー:idea