2015年1月27日(火)
ISIL(イスラム国)の日本人誘拐事件に絡んで、国会答弁によって疑問が一つ解明した。それは今月まで政府がどうしていたのかという疑問である。昨年8月の湯川さんの誘拐、さらには11月の後藤さんの誘拐については、当時すでに日本政府がその情報をつかんで必要な対策室を立ち上げていたというのである。ま、それは当然のことなので良しとして、その活動内容についてである。湯川さんの誘拐の後、どんな情報収集が行われたのかである。とくに日本人のISILとの関係、動きをどこまでわかっていたのかである。何が言いたいのかと言えば、なぜ、後藤さんが行くことを日本政府は止められなかったのかである。
ISILから日本のジャーナリストなどに、ISILへの訪問を勧誘するようなメールなどが送られてきていたと、何人かテレビ番組でも明らかにしていた。そんな状況を冷静に分析できていれば、ISILが二人目をねらっているのではないかと推測できたはずである。さらに日本人の周辺での動きをきちんと把握していれば、後藤さんの動きも捉えられていたはずであろう。知っていて止めなかったのなら言語道断だし、知らなければそれもまた問題なのである。後藤さんは、騙されたという事を伝えてきていることからも、かなり周到な計画にひっかかったことになる。ならば、なおさら事前に捕まえられる情報でもある。
いま、ヨルダンをはじめ多くのところで、今回の事件解決に24時間で頑張っている大勢の人たちがいる。その人たちを非難したりする意図は毛頭ない。だが、ことが起きてから動くのではなく、ことが起きないように動くことこそ外務省、NSCなど情報を収集する部門のもっとも重要な役割である。これまでの政治家・官僚とりわけ外務省の動きからして、残念ながら情報収集能力があるとはとても思えない。日本の情報収集能力のなさは、これまでもことあるごとに指摘されている。
安倍総理は、この際、そのことを素直に認めるべきであろう。そうすることで、本当の情報収集体制や対応策が打ち出せるのではないだろうか。情報省の創設を何度も書いてきたが、今度こそ実現してほしいものである。外務省改革より、はるかに実現しやすい案のはずだが。
2015年1月25日(日)
自分のブログなどを検索したら、「ABC予想」について書いたものが出てきた。
2012年9月のものである。
当時、京都大学教授の望月新一は、abc予想を証明したとする論文を発表した。
この証明が正しいかどうかわかるには、数年かかるとされた。あれからすでに
2年半。その後どうなったのであろうか?
マスコミには、こういう知的好奇心をくすぐる事柄のその後を積極的に追いかけてほしいもの
である。
いやなテロの報道が続く中だからこそ、明るい話題も欲しい。むろん、そのこ
とで、困難な問題や課題から目をそらしたり逃げたりしてはならないのは、言
うまでもない。しかし、切り替えも必要である。
誰か知ってたら教えてください。
2015年1月23日(金)
まともな母親なのかな? 誘拐され殺害予告をされた我が子のことを何も言わずに、ひたすら反原子力の話ばかり。イスラム国に誘拐されているジャーナリストの実の母親の会見のことである。
昨日のイスラム法学者の会見といい、この海外特派員協会での会見は、まさに反日的
ジャーナリズム(もっとはっきり言えば反安倍なのだろうが)による宣伝としか思えない。
あまりにも、歪んだ特定の思想・心情に基ずく一方的な話を垂れ流させている。
普通の時ならまだ良い。だが、今回のようなときに、このようなことをやるのは、いく
らなんでも、人間としての良心があるのかと疑う。フランスの風刺画と全く同じで、自分
たちの価値観こそ正しく人類普遍のものであり、それ以外はすべて遅れた劣るものという、
欧米の人種差別意識を感ぜざるを得ない。
それにしても、こういうまともではない人物を利用するというやり方には、憤りを感じ
る。息子夫婦に子供が生まれたことも知らず、息子が誘拐された騒ぎの最中に、嫁と昨日
初めて電話をした、などという母親。これだけでも、息子夫婦からも相手にされていない
ことがよくわかる。また用意した文章以外では、息子を心配するような切実さと愛情が伝わってこない。そんな人物を引っ張り出して、わざわざ、恥をさらさせるようなこと
をするとは、この会見を企画したやからこそ、テロ集団と変わらず、人としてのの常識や
良心がないのだろう。
今回の誘拐騒ぎ、どうしても何か奇妙な感じをぬぐえないのだが。
とにかく無事の解放を祈るばかりである。
2015年1月22日(木)
フランスでのテロをはじめ、世界中でテロという名の暴力が吹き荒れている。その嵐に日本も巻き込まれてしまった。情報収集や危機管理が本当に機能しているのか、試される場面でもある。だが一人目の誘拐ビデオが流されたのは去年の8月、そして二人目のジャーナリストの妻に、身代金要求がなされたとされるのが昨年12月(10月とも)。この間、日本政府とりわけ外務省は、本当に動いていたのだろうか?この問題については、これまで繰り返し書いてきたので、ここでは少し違う角度の話をしたい。
名著「文明の衝突」でも、イスラム社会とキリスト教社会(というか欧米文化社会)の対立については触れられているが、両者の対立は歴史的に見ても根が深い。その結果、お互いの心の中に「差別」意識が生まれ、沁み込んでしまっている。そこに、「差別」は恥ずべきもの、あってはならないものという知性による教育が強くかぶさることで、さらに状況を悪化させているように見える。むろん、差別を是認しているのではない。差別と区別の混同が起きていないかという事だ。
日本では、ヘイトスピーチの民族主義的な傾向、共産党入党者の増加、オウム真理教の後継教団への参加、左翼過激運動への傾注と、方向性は違っても、その過激で極端に走る傾向は強まっている。日本だけではない、世界中でその傾向がみられる。イスラム原理主義だけではなく、他の宗教でも見られるし、理想原理主義や西欧文明原理主義も明らかにある。もともとは単に違うというだけの区別であったものが、いつしか差別すべきもの、差別されるべきものとして極端になり、歪んでいる。いうなれば、差別原理主義的思考とでも言えようか。
最近の脳科学や心理学は、白人が差別をよくないという意識を強く持っていることと、実際の差別的行動を見たときの不快感との間には乖離がみられる事を明らかにしている。差別してはいけないと言いながら、実際に差別されてる場面を見ても、脳はそれほどの反応を示さないのだ。つまり、意識しすぎ、知性でいうほどには、自らの感情はそうなっていないという事である。知性も過剰反応するのだと言えるのだろう。
差別差別と騒ぐほど、差別意識が強いことは、今の国際社会の現状を見ていてもよくわかる。差別撤廃を叫ぶ欧州での差別の根深さが、最近よく言われるようになってきた。これらのことは、西欧文化原理主義あるいは理想原理主義に傾いている人々の存在を明らかにしている。
くくりとしての「区別」と社会的な「差別」とは混同すべきではないし、差別として意識すればするほどお互いにさらに「差別」感情が大きくなってしまう。知性は、この混同をしないことにこそ使われるべきなのである。日本人の気質において提唱した「くくりと撞着」の概念。特に「くくり」という便利な日本語は、もっと世界に向けて発信されるべきであろう。「かわいい」「うま味」「津波」だけではない、深みのある日本文化の言葉を。
2015年1月20日(火)
イスラム国が、日本人2名の人質の映像を公開した。72時間以内に身代金2億ドルを払わなければ殺害するという。日本の総理大臣、日本国民宛とはっきり述べているのだが、それらを含めて、首をかしげる部分がある。
それは、あまりにも日本のことをよく知っている、知りすぎていないかという疑問である。いかにインターネットが発達して、世界の情勢がわかるとは言っても、これまで直接の利害がなかった我が国に対して、ここまで詳細な情報を日々集めているものであろうか?しかも、戦争中である。常識的に考えれば、直接敵対する勢力の情報は集めるであろうが、彼ら自身8500キロも離れた国と述べているように、そのような国の情報を収集しているものであろうか?
また、日本はこれまでアメリカと戦った国、原発を落とされた国として、彼らはいわば親日的な心情を有していた。それが、今回、安倍総理の中東へのテロ対策支援として表明した額まで持ち出している。とても心情とは一致しない。つまり、何らかの反日的な勢力の意図が働いているか、日本の行動を快く思わない勢力などからの情報提供が行われているのではないだろうか?
テレビでも、反安倍派の局はさっそく、安倍総理の発言を憂慮している外務省幹部の話などと、批判的な報道を早くも始めている。つまり、安倍総理の発言が今回の事態を招いたと批判しているのだ。TV朝日らしい偏向である。また、外務官僚の国益に反する言動は、もううんざりなのだが。イスラム国も、反安倍を全面に押し出しているのも、何かおかしい。身代金目的、あるいは世界に対する政治的メッセージ(欧米だけじゃないぞ等)が込められているにしても、ここまで強硬な動画は、明らかに安倍政権を敵視した内容になっている。そもそも、人道支援を敵対支援とすり替えての批判など、巧妙すぎないか?
これまでは動画で言う事のなかった身代金要求、さらにその金額が極端に大きい、72時間という期限を区切っている、安倍政権と国民に分けてメッセージを発するなど明らかに日本国内の分断を図ろうとしている。これらは欧米の日本への見方と奇妙に一致する。金を出すだろう、脅しに弱い、安倍政権と国民は離反しているとのリベラル報道を信じているなど、どう見ても日本という国に対する欧米リベラル派と称する勢力の日本像と一致している。
ま、考えすぎであればよいのだが。何はともあれ、狡猾な交渉による救出を期待したい。
2015年1月17日(土)
いやはや遅くなりました。去年のうちに仕上げるべき予定の「日本人の気質」第10章 後半部をようやく追加しました。やっつけ仕事なので、後で大幅に更新するかもしれませんが。
2015年1月14日(水)
あまりに卑劣極まりないやり口に、怒りで体が震える。イスラム過激派組織「ボコ・ハラム」が、自爆テロに少女や女児を使い始めたことである。200名以上の女児などが誘拐された事件の記憶もまだ生々しい。その少女たち、過激派と結婚させられるのはましなようで、奴隷として売買されたり、挙句の果ては自爆テロの道具に使われているという。おぞましいとしか言いようがない。
慰安婦問題など人権を軽視しているという非難というより、もはや日本たたきとしか思えないような欧米をはじめとする国際世論のありよう。なぜ、日本を攻撃するよりも強くこれらの所業を「人でなし」と非難し行動を起こさないのか。結局、欧米や国際社会の人権というのは、自分たちの権益が犯されない限り大して興味はなく、また、日本のように何も反論しない図体はでかくても弱い相手をいじめる道具でしかないのだろうか。欧米の人権尊重は自分たちむけだけのものなのであろうか。
自国の国益のためなら、他国に土足で侵入し殺人すら犯す国々が、200人ものいたいけな少女が誘拐されても、救出はおろかその足取りすら追わない。結局アメリカの言うように、「正義とは力」なのだとしたら、今の日本の力のなさがあまりにも情けない。正義を正義のこととして世界に発言することさえできないようでは、人間としての誇りも何もあったものではあるまい。むろんテロをわざわざ招くような言い方は避けるべきだが。
今年は、オウムのサリン事件から20年目になる。化学物質による未曾有の無差別テロは、その後の世界のテロにも影響を与えたという。だが、毒物製造の知識すらいまだに手に入れられないテロリストは、弱者をテロの道具に仕立てることを思いついた。人間はいったいどこまで残酷、非道になれるのかと、思わず天を仰いでしまう。
人間がお互いに殺し合い自滅するのも自然の理であるならば、神はそれを黙ってみておられるのであろうか?
傲慢な理想原理主義が先進国に流行り、虐げられていると感じる人達の間には宗教原理主義が蔓延し、あらゆる人々の中に自己中心的な考え方がはびこるいま、人類は真に進歩を遂げているのであろうか?「種の利己」と「個の利己」のバランスが崩れている現状は、進歩しているとはとても考えられないのだが。
[参考] 理想原理主義 種の利己と個の利己
2015年1月13日(火)
フランスで起きたテロに対する大規模な反対デモは、世界40か国からの首脳も参加して、第2次大戦終結以来の大規模なものになったという。普段は敵対したり、対立の火種を抱えている国々も参加したのは、「表現の自由」に対するテロは許さないという強いメッセージが込められているという。人類の普遍的な価値である「自由」を求めて多くの人々が連帯して立ち上がる。非の打ちどころのない、素晴らしい出来事である。
それでもなお、私の心にわだかまるものは何なのであろうか?人類全体の明るい未来に対する希望の感情と共に、それとは逆のどす黒くわだかまる感情がほんの少し、しかしどうしても完全に消し去ることが出来ずにそこにある。いわば、両価性(アンビバレンス)な感覚があるのだ。この否定的な感情を変に分析してしまうと、あらぬ誤解を生んだり、意図せぬ批判になりかねないので、それはやめておこう。
ただ、このような民族(もしかしたら私だけ)の感性の違いは、理屈ではなく存在しうるのだという事について、西欧価値の原理主義に陥る人々は、ほとんど気づいていないのではないだろうか。ま、原理主義にまでなれば当然なのだが、それ以前であっても、日ごろは文化相対主義的な言動をとりながら、いざ自分たちに直接かかわることになると途端に原理主義的になる人達が、欧米その他に大勢いると考えてしまうのは、私の勘違いなのであろうか。それとも、いじけた精神がなせる業なのか。
いまは、私が抱く両価性(両価感情)が一時的な気の迷いであり、明るい未来に向けて人類が歩み続けていることを信じることにしよう。
2015年1月07日(水)
「有給休暇取得、企業に責任…時期指定義務づけへ」
こんな記事が目に付いた。「人生は迷路かなー6」で触れた残業時間と並んで、労働基準法がらみで問題となるのが、この有給休暇の取得であろう。しかし、これも私の経験からいくと「日本人の気質」と絡む問題であり、企業に責任を押し付けただけでは、労働者・企業ともにうま味のないものとなってしまう。
外資系にいたときは、有給を取得しない社員など見たこともなかった。外資に来る日本人の気質のなさる業なのだろうか。一方、国内の大手製造のグループ企業にいたときは、人事が半ば強制的に上司を通して有給を取得させていた。今回の、労働基準法の改正も、ほとんどこのやり方を見習ったのだろう。だが、いかにも能がない。
なぜ、もっと日本人の気質に合い、かつ両者に有益な方法をとらないのか。最近の官僚は、頭が悪いのかな?それとも、見せかけを作っているだけで、本気でやる気がないのか?
それはさておき、方法とはこういうものである。どうせ、会社側から期日を決めて押し付けるのならば、そのこと自体をルール化してしまえばよいのである。それも、自動的に決まる方法で。自動的がミソなのだ。
例えば、勤続3年で年間10日の有給付与だと仮定しよう。3年目になったら、自動的に、毎月第2水曜日を有給休暇日と決めてしまうのである。方法が一つだとあまりにもひどいので、3か月ごとにまとめて3日を、その月の第2週の頭からと決めるなど、いくつかの選択肢を用意する。
何が違うのか、同じではないかと思う人は、日本人の気質を理解できていないのだ。 日本人は、その人がその人の自由意志によって選択したとみなすことについては、いがいに風当たりが強いが、会社に決められたことなら仕方がないと考える。つまりこういう方法だと、社員間で波風がたたず問題なく有給を取得できるのである。会社側も仕事のやりくりなど予定が組みやすくなる。むろん、こういう選択肢とは別に、本人の希望による取得は当然許可されねばならない。みんなが当たり前に有給を取得するようになれば、外資系と同様、多くの日本企業で有給取得に何の抵抗もなくなり、皆が自由に取得するようになるだろう。
さらに、全国一律でこれを決めてしまえば、国内旅行などの新なる内需とも結びつく。国内産業の成長は、アイデア次第でいくらでもある。頭を使わないで、一律規制の法律改正ばかり考えるから失敗するのだ。
最後に蛇足だが、さすがに今では全く存在しないと思うのだが、有給を裏で金で買うとか、退職時に勘案するなどという馬鹿げた慣習がまだ残っているなら、これこそ厳しく取り締まるべきなのは言うまでもあるまい。
2015年1月1日(木)
明けましておめでとうございます。
これまでブログは、外部のgooブログを利用しておりましたが、今後は、このトップにそのまま書かせていただくことにします。gooブログは、当面維持しますが、更新はお知らせ中心になります。
今年もよろしくお願いいたします。