On草子:秋山鷹志

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On草子は、文芸その他、日々感じたことをとりとめなく綴った
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平成27年(2015年)3−4月分

2015年4月22日(水)

忘れやすい国民よ 目を覚ませ

 総理官邸の屋上で、無人飛行機ドローンが発見された。墜落なのか、故意なのか、はたまたテロ失敗なのか、詳細は不明である。一刻も早い解明がまたれるが、それを公安事項などと言って隠さないことである。無人機やテロの話題の中で、このような無人機によるテロの危険性については何度も触れてきた。何か事が現実に起きないと真剣に考えない、起きると今度は理性を失い感情的に反応する、この悪い国民性は何としても直さないと、これから先が心配である。

 このような国民気質を考えるとき、危険情報を隠すことは決して良い方向に向かわない。それより、事実をきちんと公表して、対策の速やかな実施を国民にも求めるべきである。最近、TVでは昔の事件を取り上げる番組が目につく。ネタ切れなのだろうが、一面では寝ぼけた日本人の眼を覚まさせる役目も果たしている。残虐なテロは、ISの専売特許ではないし、自爆も神風特攻隊というのが戦前からあった。安全な日本は憲法がどうとか意味不明なことを言う原理主義者が多いのだが、世界は日本をそんな目で見てはいない。戦後史をもう少しきちんとみなおすべきであろう。

 60−70年代の左翼過激派によるテロは、多くの企業を爆破したばかりではなく、仲間割れを起こして凄惨なリンチ(内ゲバ)を繰り返していた。その残党が、いまだに大学に巣食っているのだ。一般人への無差別化学テロも、20年前のオウムが規模からも世界初であろう。飛行機のパイロットによる故意の墜落も日本ではすでに経験済みである。そう、残虐性、テロの方法など、日本は世界の最先端を走ってきた現実を忘れるべきではないのだ。世界はそういう目で日本を見ている。日本人だけが忘れているのだ。

 オウムはサリンをロシアから買ったヘリコプターで東京中に散布しようと計画していた。もし実行されていたなら、あなたも私も今ここにいないかもしれないのだ。脅しているのでも、煽っているのでもない。現実を冷静にしっかりと認識してほしいのだ。ヘリという高度な手段がなくても、今ではドローンで簡単に出来てしまう。
 残念ながら、日本の高い知的水準は、テロなどでも発揮されてしまうのである。最先端の技術を駆使すれば、いともたやすく無差別テロを起こせてしまう。それも日本で。それをテロなど戦後の平和な日本には無関係という馬鹿げた、あるいは洗脳ともいえる言説を信じている日本人よ。いい加減で、自国のここ半世紀に起きた出来事位勉強しようよ。

 無人機開発への投資拡大と、無人機によるテロ・スパイ・侵略に対応する現実的な体制と法整備を、今すぐにやるべきであろう。もう、自分の党や省益のために国益を損ねる人間をいい加減で排除しよう。

 安倍総理も米国のご機嫌を取る政策ばかりでなく、自国の安全を自国で確かなものにする政策をもっと打ち出すべきである。そうでなくては、タカ派、右寄りの名前が泣くだろうに。

2015年4月20日(月)

「Dr.倫太郎」を見たけれど...

 精神科医が主役という事で、テレビドラマ「Dr.倫太郎」を見てみた。こういう内容には人一倍の思い入れがあるからかもしれないのだが、全体の感想から言えば、「今一」と言ったところであろうか。
 芝居のことなど全く分からない私が、批評めいたことを書くのは僭越だが、ま、素人のたわごとと思ってもらおう。

 このドラマ、娯楽性よりも社会性を訴求しようとしているのか、それとも娯楽性を最重要視しているのか、そのあたりがいまいちよくわからない。というのも、心の病の患者さんの診療場面がかなり多いのだが、それにしては突っ込みが甘いような。
 たとえば主役の敵役として精神科教授を出すのは良いが、生物学的心理学と精神分析の対立などは、あの脳画像を見てるシーンと説明だけでは、ほとんどの人にはわからないはず。専門家の監修が裏目に出ているのかも。ちなみに、主人公は昔ながらの精神分析的な療法を主とし、教授は、脳科学をはじめとする最新の医療方法を主いやそれだけをやっているのだ。今では精神分析という言葉すらアメリカの専門の教科書では削除されているそうな。

 主役のこれまでの極端に強調した多くの役柄からは落差が大きすぎて、少し物足りなさが感じられるのは私だけだろうか?また、患者さんは、かなり演技力がないとあのような長丁場での心の変化は表現できないのではないだろうか。あまりにも....。
 さらに、主役の相手となる芸者さん、最後のシーンも含めてどうやら二つの顔を持つ女性のようである。それを多重人格にまでもっていくのかどうか、見どころではある。だが、正直あの女優さんには荷が重いのでは。

 私自身、はるか昔の用語でいう分裂型気質としての自覚もあった。つまり全く異なる自分を演じていたようなのである。むろん、本人は意識して演じてなどはいなかった。ただ、それぞれ社会的に異なる「場」に応じた自己が存在していたのである。学校の仲間との場、女性だらけの各種学校の場、好きな女性がいた簿記学校の場、そして私的な誰も知らない私だけの場。そして、これはむろん多重人格ではない。少し性格が悪いだけなのだ。

 そんな昔を思い出しながら、今後の展開を見守ることにしよう。次回が楽しみでありながらも、忘れるかもしれない。

2015年4月14日(火)

ヒラリー・クリントンと「チャンピオン」

 アメリカ大統領候補として名乗りを上げた、ヒラリー・クリントン。日本で政治家の老害が騒がれたことがあったが、彼女もまたそう若くはない。結局、日本人だけが年齢を気にしすぎなのだ。駄目な奴は若くてもダメだし、出来る人は年を取っていてもできる。と言いながら、世界を破滅させかねない核のボタンを押す権限を持つ人が、年齢により健康を損ねられてはこれまた困るのだが。ここでは、別の話をしよう。


 彼女の出馬宣言をしたビデオが、日本のテレビでもたびたび取り上げられている。そのなかで、ある民放が伝えた部分に、引っかかる部分があった。その局では、日本語の字幕として、『(アメリカ国民)皆さんの擁護者として』という翻訳をしていた。よく聞こえてはいないのだが、その部分について彼女はチャンピオンchampionと話しているようである。短いセンテンスの中で2度使用している。

 興味をひかれたのは、昔の経験がよみがえったからである。その当時、合弁から100%外資の会社に切り替わり、社内公用語は英語になり、日本人同士以外は英語での会議であった。あるプロジェクトが立ち上げられて、そのメンバーになった時、役割分担が決められた。オーナー、リーダー、チャンピオン、他にもあったかもしれないが思い出せない。なかでも、チャンピオンって何だと、私を含めて大方の日本人社員は首を傾げたものである。

 チャンピオンをネットの辞書で検索しても、「擁護者」という訳は出てこない。しかし、手元のコンサイス英和では、「(主義などの)擁護者」の訳が載っている。したがって、テレビの訳は正しいのだが、経験したチャンピオンの意味とは少し異なる。
 会社のプロジェクトでは、チャンピオンの上に、リーダーやオーナーというのがいた。しかも、その時のリーダーが、本国から来た若い(20前後)女性で、当然のようにそのプロジェクトの技術的な力はもっていなかった。で、上司の外国人に、かみついたところ、彼はわたしがなぜ怒るのかわからないという。彼女はチャンピオンではないと。しばらくして、ようやく理解できた。チャンピオンとは、その実務におけるもっともできる人物(まさにチャンピオン)という意味だったのである。そして、その上のリーダーは、単なるタイムキーパーとでもいうべき、スケジュール管理者だったのである。予定通り進んでいるか常にチェックして、それをオーナーに報告する。そういう仕事だったのである。

 この会社、実はイギリスの会社だった。アメリカの会社が合弁相手だったときには、プロジェクトなどでも、このような言葉遣いをした記憶はない。だからよけい不思議だったのだが、今回ヒラリーが使用しているのを見て、その言いたいニュアンスがなんとなくわかる気がした。中間層や少数派の擁護者であるとともに、最もよく実務に精通している自分(大統領にふさわしいことを謙遜して言う)、そんな感じだったのかもしれない。


 ついでだが、私をはじめ日本人の使う英語で問題になりやすいのが、まさに「問題」である。私もすぐに、problem(プロブレム)と使ってしまうのだが、彼らは決してproblemとは言わない。ほとんどは、challenge(チャレンジ:挑戦)と言う。日本語では、まさに「課題」というニュアンスが当てはまるのだろう。ネット辞書では、problemに課題の訳もついているのが、問題なのだ。 悪いニュアンスだという事が、隠れてしまう。


 カタカナ語をやたらに氾濫させる現在の風潮は、明らかに行き過ぎているし、意味がない。使うのなら、全部英語で、正しいニュアンスの言葉を使うべきである。言葉の混乱は、結局は、文化をはじめ様々な混乱を生み出す原因ともなる。正しい英語への翻訳が間に合わず、日本の政治家の発言が歪められて外国に報道されることも多い。母国語の話者同士ですら、理解できないことが多々あるなかで、安易な外国語使用は避けるべきであろう。

2015年4月13日(月)

過剰SNS

 う〜.......。IDが多すぎてどうにもならない。
本当はこのホームページだけでいいのだけど、サラリーマン時代に入ったもので消してないのやら、このHPへのアクセスを増やそうと入ったSNSが多すぎて結局機能していない。

 Facebook,Twitter,Gmail,Google+,SKYPE,Yahoo,LinkdIn,Goo..... いやはやきりがない!!パスワードどころかIDさえ忘れている。自分の独自ドメインの管理すらままならないのに。オン草紙のメールIDも持ちすぎてるよな。反省! 

 何年か前に手紙、写真、名刺類をすべて消去したことがあったが、そろそろサーバ上でもやるべきかな。それにしても、独自ドメインで有料サーバーを使うと、かえってアクセスは来ないようだ。理屈はわかるけど何か変だよね。とにかく『神道(かみながらのみち)』を書き終えるまで頑張ろう。

2015年4月12日(日)

日本の真の独立とは

 戦後体制からの脱却とは、日本にとっては悲願であり、当然の事柄である。しかし、外にむかってそれをそのまま言う事は問題が大きい。なぜなら、今の世界を牛耳っているのはすべて第二次世界大戦後に確立された世界の体制を担う国々であり、そこから脱却するという事は、中国や韓国のような反日国だけではなく、アメリカを含めた欧米の戦後体制への挑戦と映り、またぞろ日本封じという話につながりかねないからである。したがって、日本以外に向かっては、新しい理想郷に向けての進歩であり、変革であると言わねばならない。不用意な「戦後レジュームからの脱却」とか「新しい国際秩序の構築」と日本から声高に叫ぶのは、避けねばならない。

 それにしても、では、日本にとって戦後体制からの脱却とは、具体的には何を意味するのであろうか?アメリカの属国、ポチとまで揶揄される対米依存から、真のパートナーとしてお互いを尊重しあえる立場でアメリカと友好関係を維持することであろうか。アメリカ一国依存からの脱却とは、経済的にも、安全保障上も自立した国となることである。安全保障上の自立とは、必ずしも日米同盟を破棄して核武装をすることを意味してはいない。そうではなく、不平等な日米間の条約を対等なものに変え、米軍基地を全廃もしくは最低限に縮小して、自国防衛を自らの手に委ねることである。アメリカの手に安保をゆだねるがゆえに、経済その他でも言いなりになるというような、みじめな恥ずかしい国柄をやめることである。日本の国益のために、世界の中で日本の新しい立場を確立して、世界の平和と繁栄に寄与する。それこそが日本の真に独立した姿である。

 詳細や具体策は、烈風飛檄などでも一部触れているが、あまりにも広範囲にわたるのでここでは触れないでおこう。日本独立の意味だけでも、解ってもらえればそれで良い。

2015年4月11日(土)

アップルティ+レモンママレード=?

 いつも同じママレードでは飽きたので、たまには違うものをと思った。レモンのママレードが目に付いた。きっと甘くないのだろうなと、散々迷ったのだが、買ってみた。案の定パンにつけると、そんなに甘くなかった。さわやかでおいしいのだが、甘さが欲しいときには甘党の私には物足りないかも。ホットケーキとかほかの物にも合うかと思うのだが、まだ試していない。

 レモンと言えば、レモンティがあるではないか。手元にある紅茶となら相性は良いはず。贅沢な紅茶は最近買っておらず、手元にはごく普通のテイバッグがあるだけ。が、なぜかアップルのテイバッグがあったので、それで試してみた。元々レモンママレードには、はちみつも入っている。ならば、なおさら面白い。

 普通のカップでアップルティを作り、そこにさじ1杯程度のレモンママレードを加えてみた。飲んでびっくり。 何だこの味は! いつものアップルの味も、加えたレモンの味もしない。普通の紅茶の味にばけてしまった!!  ま、味覚音痴の私の感想である。本当はどんな微妙な味なのか、みなさんに直接試していただこう。

 飲み進めてカップの底の方に行くほど、レモンティになり、沈んだ実を食べると酸っぱくない甘いレモンだった。ママレードの分量で微妙に味も変化するのだろうか。この次は、普通のティバッグに入れてみよう。間違いなくレモンティに化けるだろう。

2015年4月10日(金)

親の責任を限定した最高裁判断に見る『偶然を否定する社会』

 10才の子供が、学校の校庭でけったサッカーボールが校外に出て、驚いた通りがかりの老人が転倒し負傷した。寝たきりとなり1年半後に死亡した。そこで両親への損害賠償請求がなされ、1,2審では両親への多額の賠償請求が認められた。その最高裁の判決が出たのである。両親には損害賠償の責任なしとして、1,2審を覆す判断が示された。一般の人が常識的に考えれば、至極当然の判決であり、なぜ10年も争われたのかが不思議である。

 この問題からは、日本社会の様々なゆがみが透けて見えてくる。当初被害者は、保険金請求で保険会社と争っていたという。だが、うまくいかなかったのであろう、そこで両親への賠償請求訴訟を起こした。これまでの例に多い、学校や地方自治体(今回は市)への提訴を行わず、両親に起こしたのは、過去の判例では、子供の起こした問題の責任は親にあるという事で、ことごとく親に損害賠償が請求されていたからである。そのため親ならすぐに訴訟に勝てると弁護士が考えたのであろう。実際、1,2審では両親が負けている。それに対して、最高裁が初めて、すべてを親の監督責任にするのは酷であるという常識を判断に加えただけのことである。

 それにしても、この例あまりにも問題は多い。1,2審のなんでも親の責任にしてしまう画一的な判断。元裁判官の八代英輝が、このような判決になる理由は、民事ではどちらに損害を賠償させるかを考える、そのうえで被害者を保護しようとする考え方から出来上がったものだと解説していた。良い説明で、言わんとすることはよくわかる。だが裁判官が、損害賠償の問題を保護者の責任問題にすり替えることは、あってはならないのではないだろうか?

 他にも1年半後の直接関係ない死亡まで責任を取れというのは、あまりにもおかしな話ではないのか等々、問題だらけと言えるのだが、それもこれも今の日本社会の抱える歪みやひずみの縮図とも受け取れる。そのなかで、およそ誰も指摘しないことを、ここでは述べておこう。


 日本社会というか、今の日本人の中に根を生やしている傲慢さ、人間が万能であるかのような尊大さも絡む心の問題である。それは、『仕方がない』という言葉が死語になったのではないかという思いである。偶然とか、たまたまとか、運悪くとか、偶然にそうなってしまったことを認めようとしない風潮である。たまたま起きた不運な出来事まで、やれ誰が悪いの、管理が悪いの、どこかの責任だのと、あらゆる偶然の出来事を否定して、あたかも強固な因果関係を持つ必然的な出来事であったかのような事を言い出して、訴訟などを起こす。
 逆に、昔の日本人は何にでも「しかたがない」と言って泣き寝入りすることも多かった。その意味では、個人の権利に目覚めたともいえるのだが、何事も度を過ぎれば、本質からゆがんでしまう。アメリカの真似をして、なんでも訴訟を起こしたり、誰かのせいにしたりするような態度を、本来の日本人は「見苦しい」と思っていたはずである。そんな社会は、一体どこに行ってしまったのだろうか。

 個別の事例を引き合いに出すのははばかれるのだが、今回でいえば、校庭で子供が遊んでいて、ゴールに向かってけったボールがゴールを外れ、さらに校門から外に出てゆき、そこを偶然バイクで通りかかった老人が驚いて転倒した。負傷だけだったが、85歳の高齢のためそこから寝たきりとなった。1年半後に、肺炎となり、それがもとで亡くなられた。これを聞けば、「運がわるかったね。仕方がないよね」というのが普通の感覚であろう。むろん被害者家族の無念さは痛いほどよくわかるし、また寝たきりの看護の大変さや金銭的負担もよくわかる。それでも「不運としか言いようがないね」と思うのは、間違いなのであろうか?


 自分の責任で事故を起こしても他人のせいにしたり、単なるまさに偶然の事故まで、何らかの理屈をつけようとする、見苦しい日本人が多くなりすぎてはいないだろうか。自然災害でも同様である。運命としか言いようのない事柄は、人生においては起きうることである。サムライの潔さがあまりにもなくなってしまったように感じられる。さみしいし、どこかおかしいと思う。


 蛇足だが、犯罪被害者救済と同じように、このような偶発的事故の被害を補償することは、もっと深く社会全体で考えられなくてはならないだろう。子を持つ親のすべてが、民間の保険に加入するなど非現実的なのだから。医療過誤や予防接種の副作用事故なども、合わせて考えられるべきだろう。むろん、最近増えてきた、認知症の老人が起こした事故などの賠償も含めて。だが、そのことと偶然性を否定することとは、別の話である。

2015年4月08日(水)

AIIB騒動は米国支配の終焉の始まりなのか?

 中国が提唱するアジアインフラ投資銀行(AIIB)には、結局、雪崩を打つようにして51か国・地域もが3月末までに参加を表明した。6月まで参加可能であるが、設立準備に加われるのは3月末までの参加国のみ。それ以後の参加など金をとられるだけで、発言権は何もないのだから価値があまりないであろう。その意味で、まだ検討するなどと言っているのは、相変わらずの外交・経済・政治音痴というしかあるまい。

 この問題では、実に多くの考えされられる事があるのだが、最大のものは、これがアメリカによる世界支配の終焉の始まりと成るのかどうかである。最大の同盟国それも同じアングロサクソンの仲間たちに裏切られる形となった今回のAIIB参加騒動。単純に経済的な国益だけの話で済むのかどうか、もっと大きな地殻変動が国際社会に起きているのではないか、それが最も知りたいことである。

 ネットでは、アメリカのポチとまで揶揄される日本政府のアメリカ追従政策。もしも、本当にアメリカの世界支配が流動化しだしているのであれば、日本はこれまでとは全く異なる国際戦略を持たなくてはならないのは言うまでもない。特に、アメリカから真に独立して、属国状態から抜け出すための準備を急がねばならないことになる。

 中国の台頭とアメリカの国力低下という簡単な図式で理解可能なほど、国際社会や人類社会は簡単なものではない。人類史的に言えば、アメリカ文明、さらにその基になっている西欧文明が、限界を露呈して支えきれなくなろうとしているのかどうか、いずれにせよ時代の転換期にあるのだろう。

 最近10〜20年くらいの世界の動きを見て、私と同じような考え方を持つ人が、ネットでは見受けられるようになってきた。一方日本政府において、この視点からの分析がどこまで行われているのか、いないのか。とくに、発足して時間も経過したNSCは、AIIB問題を日本の安全保障の上からどのようにとらえたのか。そもそも、分析したのかどうか聞きたいところだが。
 アメリカの国防長官(日本の防衛大臣)が、TPPは空母と同じように重要であると発言している。日本にとっても、AIIBやTPPは、国の命運を左右する安全保障問題であるという認識を持つ必要がある。賛成であれ、反対であれ。


 文明は必ず滅びる。アメリカ文明とて例外ではない。だが、過去の文明と異なりここまで世界中に浸透した文明、そして今なお拡大を続けている文明のありかたは、人類にとっても初めての経験である。過去と同じような滅びの道をたどるとは限らない。そもそも、とってかわる新しい文明が、全く見えてきていないのだから。

 ただ気を付けなくてはいけないのは、アメリカの世界支配が緩んだからと言って、アメリカの国力が低下したと考えるのは誤りであろう。世界支配の力がアメリカ合衆国の力と等値でなくても、白人支配の力は当分変わらないであろうし、なにより、アメリカの国力は、そう簡単に低下していくものではない。個人的には、内部崩壊の可能性の方が高いと思っているのだが。

 アメリカ支配の終焉を見誤るのか 日本よ!


 朝8時ごろから、季節外れの雪が降り始めた。少し小降りにはなったが、まだ完全に止んではいない。田舎とはいえ都心から30k圏内の場所である。いやはや、まさに自然が荒れている。それゆえ、人類社会も揺れるのか、それとも、人類の愚かさが自然の怒りを買っているのか...。

2015年4月07日(火)

移民政策の本質的な矛盾

 過去の経緯

  低賃金の下層労働者を受け入れて、自国民はいやな仕事を避けてきた。はじめは大喜び、だがその2,3世が差別に反旗を翻してテロにまで進むようになった。また、経済が成長して労働市場が十分にあったうちは良いのだが、成長が止まるとともに、増えすぎた移民が自国民の雇用まで奪うという皮肉な結果になり、規制に傾くことになった。

 現在

  多くの国が、単純労働者の移民を拒否し、代わりに高学歴の優秀な人材の受け入れに傾いている。だが、これは裏を返せば、今度は自国民を移民より下に固定するわけで、問題が生じないわけはない。別差別となる。トランプ出現の理由としてあまり語られないのだが、アメリカではこれが格差そのものの温床となっている。留学生優遇策への反発はその現れのひとつである。

  結局、同化せざる民の受け入れは、いかなる形であれ、いずれは破たんするという事を意味しているのだ。そのことになかなか気が付かない。いや、目先の利益にすがる人々は、自分さえよければ将来など考えていないのである。

  そもそもすぐに人権を持ち出す欧州や北欧が、最も早くから低賃金の外国人を受け入れていた。だが、自分の子供などがいやがる仕事を外国人にやらせるのは、そもそも差別ではないのか?だれも、指摘しないから不思議である。リベラル原理主義者の二枚舌といえるのだが。

2015年4月05日(日)

善光寺「御開帳」に見る神道(かみながらのみち)

 今日から7年ぶりの善光寺「御開帳」だそうである。御開帳と言いながら、その実公開されるのは「前立本尊」と呼ばれる仏像である。本来のご本尊(阿弥陀如来)は秘仏として公開されることはない。その秘仏の代わりというと言葉が悪いのだが、公開されるのが秘仏の分身とでもいうべきか、お身代わりの前立本尊である。さらに、この仏様に結ばれた糸が外に建てられた巨大な木の碑につながっている。参拝者は、この回向柱に直接触れることで、仏のご利益をいただくのである。

 私は仏像については知識が全くないのだが、ネットなどによれば、全国に秘仏は数多く存在し、完全に公開されない仏像と何年かに一度とか時々公開されるものとがあるそうだ。善光寺は両方持っていることになる。完全に秘密とされて僧侶すら見ない仏像の中には、文化財としてみたときに問題のあるものも多いだろうという。つまり、こわれていても、劣化していても気が付かないし、中には開けたらあるはずの仏がなかった例もあるとか。

 本来あまねく人々に救済の手を差し伸べる仏教において、本尊(仏)を隠して見せないというのは奇妙である。実際、これは日本的な仏教文化であり、他の国には見られないという。では、なぜ隠すのか?大方の人は、すぐにあるものを連想して気がつく。そう神社のご神体である。どんな小さなお社の神様でも、ご神体を出している神社は見かけない。ご神体がどういうものかの話はここでは置いといて、数年に1度の御開帳というのも、神社の遷宮と同じ思想を連想させる。

 また秘仏にする理由として語られるものに、仏の力が強すぎてかえって仇を成すので、隠していてちょうどよいという話があるそうだ。これまた、神道にしかない考え方から来たものだろう。神は、和魂と荒魂の両方を持つ。本質的には人間にとっての善悪、良し悪しなどとは関係のない超越した存在が神であり、だからこそ畏敬の念を抱くのだが、仏教のような宗教という人間の知性レベルの話では、どうしても人間界に近い形で語られてしまう。仏の力が強すぎるというのは、神の荒魂に対する考え方に他ならない。日本古来の神の無条件な受容に、このような話が生まれる基があるのだろう。

 一方で神の力の再生という考え方が、世界中にある。神道のお札は1年でその効力が失われて、新年には新しい物と交換する。年神様などもそういう思想が裏にあるのだろうが、仏教ではその手のものがない。そこで、本来なら永遠である仏像を周期的に公開するような考え方が導入されたのかもしれない。
 前立本尊につながる回向柱、巨大な木の柱は諏訪大社の御柱に通じるものがあるのだろう。

 いずれにせよ、日本における仏教の導入とは外来文明の受容のひとつであり、日本古来の神と新しい仏との宗教戦争であるというのは、現代的・西洋的な宗教観に基づくものである。(このあたりは日本人の気質で少し触れた)聖武天皇が大仏を建立して国家鎮護を祈ろうとした際にも、大仏造営の成功を八幡神社に祈念したことからも、それがよくわかる。このあたりはまた別に「神ながらの道」としてまとめて書きたい。

 日本人における神の存在は、宗教という知性によって意識されるものではなく、感性の遺伝子に刻み込まれた精神性の基盤を成すものである。それゆえにいつの時代になっても、日本社会・日本人の生活奥深くにある神ながらの道は、様々なところに顔をのぞかせることになるのだろう。

 ネットをみても、秘仏と神の関連を述べている人が私以外にもいることは、それをよく現している。

2015年4月03日(金)

人類が病んでいる

 ドイツの航空機がフランスで墜落した事故は、副操縦士により故意に起こされた事件であったという。この副操縦士は心の病で通院しており、事故当日も医師から勤務中止を指示されていたという。プライバシー保護なのか、特定の病気に対する偏見助長を恐れてなのか、病気の内容については一切公表されていない。ただ、ドイツの一部の報道が、うつ病(最近の報道では両極性障害つまり躁うつ病)でパイロット訓練を一時休んでいたと報じている。さらに、網膜剥離で、パイロットを続けられないことを悲観していたとの報道もある。

 これほど平静で通常勤務を出来るような状態で、このような行動を計画的に起こすものなのかなど、いくつかの疑問が頭をもたげる。だが、何も情報のないところでそれを語る意味はさしてないだろう。むしろ、この事件が、あくまで個人の犯罪としてかたずけられるであろうことに、少しばかり違和感を覚えるのだ。

 それは、イスラム過激派の一般市民対象の無差別自爆テロと、いくつかの個人の起こす事件との間に、ある種の共通性を感じるからである。自殺であれ自爆であれ、自らの命を捨てる覚悟と、その際に全くかかわりのない人々を巻き添えにする気持との間には、いったい何があるのだろうか。

 テロの場合、イスラムの大義なる言い訳がある、オウムの場合には殺すことが相手のためになるという恐るべき教義がある。では通り魔の無差別殺人や、今回のようなわざわざ他人を巻き添えにする個人の犯罪はどうであろうか。社会病理学的な解説は私にはよくわからない。ただ言えることは、人命尊重、人権重視と叫ばれるいっぽうで、全く逆のことが起きている。両極端に走るどちらも、原理主義的な色彩ばかりが目について仕方がないのだ。本来の調和、ほどほどが失われることで、かえって他人(ひと)を人間(ひと)と思わない心の闇が、人類全体に広がっているのではないだろうか。そんな気がしてならないのだ。


 人類は本当に進歩しているのであろうか。むろん科学技術ではなく、心や精神のありようにおいて。

2015年4月03日(金)

お釜騒動

 お釜って炊飯器です。新宿2丁目はもう何十年も行ってないので、話題がありません、あしからず。で、お釜騒動での教訓。ネット時代、他人(ひと)の話はやっぱり重要。

 本をネットで買うようになってから一時、衝動買いが増えて、実物を開いてがっかりという事も多くなった。そこで、クリックの前に、購入者のコメントを読むようにした。結果、不用な本を買うことが少なくなった。それが、お釜でも大事なのだと知らされたのが、今回である。

 2009年製のお釜にガタが来た。内がまの底が一部剥げてきたし、ふたの留め金が甘くなって勝手に開いてしまう。一度は開いたのに気がつかずに炊飯してしまい、芯のあるご飯が出来て、仕方がないからそのままおじやに。

 いまは玄米を混ぜて炊いているので、玄米がメニューにあり、少量でも炊けるのを探すことにした。それまでと違うメーカのもので、最近のおいしそうな形容詞のモノを奮発することにした。いくつか価格も比べて、これだと選んだのは3万2千円台の炊飯器。よし、クリックというところで、念のため購入者のコメントを読んでびっくり。3合炊きの小さなものだから問題はないと思ったら、1合しか炊かない人のコメントがあった。私はほとんど0.5合だけど!で、曰く。おこげを作る機能が少量の場合邪魔をすると。焦げて固くなるか、水を増やすとうまくないとか。言われれば、納得。高級品を買うぞという高まりを抑えて、一段下のレベルのものに変更。

 こんどは、2万円前後で「圧力」炊飯器を物色して、様々な種類に迷ったのだが、ここでもコメントにびっくり。圧力釜で少量炊くと真ん中がへこんで炊きあがり、すぐにほぐさないとだめだと。またまた納得。そうだよな、圧力をかけてふっくらなんて、1合じゃ無理だよな。

 またまた、同じような種類で圧力を取ったモデル(?)を選びなおした。なんのことはない、今と同じメーカになってしまった。でも1万7千円台で、安く上がったのは良いことだ。ただ一つ心配なのは、このメーカには、私と同じように蓋の開閉が甘いという弱点を指摘するコメントがあったのだ。いまのは日本製でないからかと思ったのだが、コメントは日本製だし、同じメーカのポットも同じように時々蓋がゆるむので、どうもメーカの(悪)性格のようである。


 ネットの情報はほとんどがとるにたらない、馬鹿げたものが多く、コメントでも同様である。会社の回し者かと思うようなべた褒めや、ひたすら文句や悪口だったりと、役にたたないことが多い。でも、あの悪名名高き2ちゃんでさえ、いくつかのスレのひとつくらい(つまり数千件に1件くらいだが)まともな発言も見受けられる。結局ネット活用の要諦は、受け手の質の問題という事になる。(自慢じゃないよ)

 ネット通販は伸びる一方。まず価格より信用置ける業者かどうかが第一。次に、製品選びでは購入者のコメント選びが重要である。その意味では、店頭で見ない限りは、予約などコメントのない新品は避けた方がよいのかもしれない。


 新釜、1合でも1時間弱はちょっとかかりすぎだろう。まだ、早く炊くモードと玄米を試してないので、どうなるか、楽しみである。

2015年3月31日(火)

烈風飛檄を再び

 日本の社会や人々の在り方に対して、変革を促す具体的な改革案などを書いたのが烈風飛激である。平成22年(2010年)11月ぐらいから、思いつくまま数年にわたって書いてきたが、具体的な改革案は常に日本人の気質を意識したものである。順番が逆になったのだが、「日本人の気質」もようやく全体像を解説できるところまで進んだので、もう一度改めて「烈風飛檄」を書いてみようと思う。日本人の気質のように系統立てたものにはならないが、思いつくままに具体的な考え方、対処の仕方などを取り上げるつもりでいる。このことが、日本社会が将来のために、今なさねばならない変革の方向性を示す糸口にでもなればと考えている。以前のものも当面は残しておくので、重複などが発生するであろうがご承知いただきたい。

 第1弾は、「犯罪予防起草警察の創設」である。

2015年3月27日(金)

国産ミスコンもやろうよ!おかめ美人賞つくって!

 2015年ミス・ユニバース日本代表に選ばれた女性が、アメリカ人の父を持つハーフだったために、批判が一部から出ているという。ま、そもそもミスユニバースなど世界中から集まるものは、そのほとんどが欧米の基準や価値観、美意識からなるのは、今更言うまでもあるまい。特に美しいと感じる美意識などは、民族や個人によって大きく異なるのだから、そもそもそんなものに一喜一憂するのがおかしいのだ。当然、海外の審査員受けする人を選ぶことになるので、勢い日本人の好みとは合わなくなることも多い。

 もう、そろそろ、欧米基準をありがたがるだけの感覚から、それぞれの文化を対等に見る冷静な感覚を身に付けるときだろう。日本独自というと、とたんに復古調とか戦前がどうのという的外れな批判はいまだに残っている。だが、多くの日本人は、そういう洗脳的な束縛から自由になりつつある。

 では、どうするのか。世界のミスコンに参加するなら、それはそれでよいだろう。大いにやろう。そこでは、もはや日本人の美意識など完全に忘れて、海外で勝てる女性、男性を選ぼう。本人が希望すれば、そういう女性を子供の時から育てるのもよいのかもしれない。

 一方で、国内だけのミスコンを新たにやろうではないか。国内だけでは協賛企業が集まらず、運営できないなどと言わずに頑張るとして、個人的には二つのコースを作りたい。ひとつは、うりざね顔の日本美人コース、もう一つはおかめ美人コース(かわいいコース)である。もちろん男性用も、野性味コースとやさ男コースを作る。
 うりざねもおかめも今では美人ではない、と叱られないうちに言っておこう。面長と丸みという区別に近いのかもしれないが、個人的な美意識では、いわゆるきれいな女性とかわいい女性のタイプがあると思う。その両方があると楽しいなと思うのだ。ちなみに私の好みは、美しい(きれい)だが笑うととてもかわいい女性である。そんな女性に生涯でただ一人、出会った事がある。

 日本国内専用のミスコンであるが、もちろんハーフでも外国人でも、日本美人だというなら参加してもらおう。ここで、間違えてはならないのは、あくまでも日本人の好みという基準を変えてはならないことである。参加者が増えたら、日本美人ではないが日本人が好む外国人コースなどもよいかもしれない。


 この提案は、結構真面目に行っている。つまり、文化相対主義でお互いの文化を尊重せよと言いながら、いっぽうで、個々の文化の基本たる美意識など感性を無理やりひとつの普遍的なものに押し込めようとしている。この現状からもう一歩踏み出すことが、世界の様々な民族が仲良く暮らせるようになる一歩である。日本では、関西特に大阪と関東(東京)では、かなり性格が異なる部分があり、それがよく笑いのネタなどにも使われる。だからと言って、それがもとで戦争がおきたり地域間紛争が起きることはない。大人としての常識の範囲での争いなのである。

 それぞれの文化の違いを認めながら、自分の文化を大事にする。その姿勢が、結局、他国の文化も尊重することにつながるのである。徒に、ひとつの価値観でなくてはならないと押し込めることこそ、争いの基になる。
 ミスユニバースと日本美人コンテストの両方があれば、今回のような批判も自ずから消滅していくだろう。


 トヨタのように大儲けしているのなら、トヨタ日本美人賞を開催するくらいの度量が欲しいものである。そして、こういうものこそ政府が後援してやるべきなのだ。(ないと思うが、すでにあったら失礼。)

 個人的には、某CMのかぐや姫など、おかめ美人コースの有力候補だと思うのだが.....ファンに怒られるかな?

2015年3月26日(木)

オウム真理教テロとイスラム過激派テロの共通項

 ほとんど語られることのないオウム真理教とイスラム過激派との共通点について、考えられることを少し述べてみたい。無差別テロ、若者の参加、残虐性などはあるが、やはり一番の共通点は、宗教または信仰心と関係していることであろう。

 あれは本当の宗教ではないとか、教えに背くものだ、全く別のものと考えるべきだと、多くの知識人やら何やらが発言する。それが宗教の自由と人権を守る進んだ、優れた人間の考えなのだと言わんばかりに。イスラム過激派が、穏健な多くのイスラム教徒と別物であることを否定はしないし、考えてもいない。だがそれで、イスラム過激派やオウム真理教が、宗教の衣をまとっているという事実から目をそむけてよいことにはならないだろう。実際、真に宗教や信仰の自由を口にするのであればなおさら、どうしてこのような宗教や信仰心を利用するようなことが起きるのか、起きやすいのか、そこをきちんと考えるべきであろう。宗教の自由の尊重の名のもとに、この問題から逃げることは許されない。

 むろん、宗教を信仰する人間は非科学的である、と考えるいわゆる無神論者の考え方にくみするものでもない。宗教や信仰心がもちだされたとき、なぜそのくくりはより強固になり、属する人々は病的な撞着(執着と考えてよい)を成すのか。その理由をきちんと見定めない限り、このような組織が生まれることを真に防ぐ事は出来まい。


生み出すもの

 オウムでもISでも、なぜ多くの学問知識的に優秀な(人間としては非常に劣ると思うが)若者が参加してしまうのか。若者の特権でもある何かを成したいという強い欲望、一方でそれがかなえられそうもない社会への不満、また自分自身の将来を見通すことが出来ない不安、そういういくつもの相反する感情や思考が混在して心を占有すると、不安定化した精神は自ずから安定を求めるようになる。この精神の不安定さを解消するために、人間がとる行動には様々なものがある。その一つが宗教や信仰である。なまじ中途半端な知識は、混乱や不安定さを増す方向に働いてしまうのだろう。

 チュニジアでもいわれたことだが、本当に極貧の貧しい生活にあえぐ人よりも、むしろある程度の豊かさを知ってしまった人々のほうが、過激派に参加しやすくなっている。その日の糧におわれていれば、己の心の不安定さすら感じている余裕はない。そこからほんの少しだけ抜け出すと、社会への不満、現実の理不尽さに対する怒りが、不安定な精神を生み、生きるべき方向性を見失わせる。移民の2世や3世が、差別感によってISに参加する。それは事実であるが、同時に1世は参加しないことにもっと目を向けなくてはならない。どんないひどい差別の下にあろうとも、1世のほとんどは自ら望んできたのである。それが根本的な自我に関わる精神の違いを生み出している。


組織への同化(くくりへの撞着)を強化するもの

 オウムであれISであれ、一度その組織に入り込むとなぜかそこから抜け出せなくなる。いや抜け出さないのだ。過激な組織というくくりに同化したようになってしまう。

 小さなことを言えば、宗教的な修行によって精神を鍛えることは古来行われてきた。だが千日回峰行とまでは言わなくても、滝に打たれる厳しい修行をどれだけの人が出来るであろうか。それから見れば、作られた偶像や教祖を崇め奉り、同じ動作や言葉(呪文ともいうが)を繰り返して自己陶酔に入る方がはるかに手軽で、簡単である。それによって、マヒした思考のもと自己充足感が得られるのなら、なかなかそこから抜け出すことは難しいだろう。

 子供でも、遊ぶ範囲を決められればその中で楽しく遊ぶ。どこでもいいから好きにして遊べといわれたら、皆ちりじりばらばらになって、遊びを楽しむこともできなくなる。「傲慢な自由」より、宗教組織のような限られたくくりの中にいる方が、気楽で落ち着くこともあるのだ。それが宗教という、現世だけでなく死後の世界まで含めて保証してくれる(と言い聞かす)のならば、なおさら、個人は心の安定の為にすがってしまう。宗教に関わる以外のものでは、現実世界への話しかしない。だが、宗教にとっては、死後の世界を含めての世界観であり、それは人間の基本的な疑問や知りたい欲求へのひとつの回答となっている。

 柴田錬三郎原作の「図々しい奴」というテレビドラマが昔あった。そのなかで、主人公が尊敬する人物にこんなことを言われるシーンがある。「人な皆何かにすがって生きている。子供は親に。妻は夫に。社員は上司に。生徒は教師に。そして宗教に、神に。すがらずには生きられないのだよ。」最後の方は、私自身の記憶違いもあるかもしれないが、要するに、人間は一人では生きていかれない存在だと言っている。宗教では、絶対的な存在(神)が必ず登場する。これ以上頼りがいのある存在もあるまい。
 さらに現在は、ひたすら最優先で個人ばかりを強調して、家族、地域、国家などの人々の集団の和を否定している。そのことがすでに人間の生き方に必ずしもあっていないため、心の不安定さを増してしまっている。

 宗教や信仰心は、これらを強化する役割を果たす。すがるものが溺れることなく自己充足感や満足感が得られ、さらには自分たち以外の外の社会全体を見下すような優越感すら持つことが可能になる。個人の自由という名の利己主義が、自己中心的な考え方を擁護し、増大もさせてしまう。


抜けられない罠

 強化されたくくりに撞着してしまうと、自我組織とくくりの同一化が起こり、そのくくりを否定することは、自己の存在そのものを否定することになる。ようやく獲得した自我の存在感、自分の居場所を自ら放棄することは、容易なことではない。宗教の麻薬性とは、このことに他ならない。安心立命をあたえ、人々の心を落ち着かせる役割を果たしてくれる。それが行き過ぎたり、歪んだ方向性を与えられた時、自ら暴走を始めてしまう。マインドコントロールは、しょせん副次的なもので、自らが求めたものを得られたという感覚を一度手にすると、それを自ら打ち消すことは、相当に強い精神力と思考力が必要になるのである。


問題への対処

 結局は、くくりへの病的撞着という問題に行き着くのだが、それを悪い方向で強化してしまう可能性が、宗教や信仰心にはある。むろん多くの人は、正しい方向へと導かれるのだが、くくりへの撞着は変わらない。いかに様々なくくりに自分が属しているかを自覚し、くくりの動的転移を柔軟に行う事こそ、最も重要なことなのである。

 日本ではオウムを破防法適用でつぶさなかった時の政権や関係者たちの愚かさが、今も悪影響を及ぼしている。20年たって、名称は違え何も変わらない宗教組織を存続させ、信者と称する多くの人々を、歪んだ魔のくくりへ引き込んでいる。大きくいえば、そのようなものにすがらない強い精神力を養う事、信仰心の持つ正しい考え方と付き合い方をきちんと教えることこそ、今の日本や世界で必要なことなのではないだろうか。



 タブーともいえる、宗教や個人の自由への批判的な解説をしてきた。問題は、そのものが持つ方向性と範囲(限度)なのである。それが度を越すとき、様々な悪影響を及ぼすことを認識しておくことは、まさに知性を持つ人間の役目でもあろう。むろん、先進国では個人の自由の行き過ぎが問題になる中、世界の多くの国々では、まだ個人の自由が全く保障されていない現実がある。そのアンバランスが、この種の問題をさらに複雑にしていることも、よくわかっている。そのうえで、絡み合った糸をほぐしながら、真の自由たる「心の自由」を一人でも多くの人間が獲得できる道を考えるしかないのだろう。


【参考】くくりへの撞着とは、ここでは組織への同一化、病的な執着などの意味として理解してもらえればよい。詳しくは「日本人の気質 第4章 くくりと撞着」を参照されたい。

2015年3月25日(水)

他国の後方支援の前に自前の防衛整備を急ぐべき

 集団安全保障の議論が煮詰まっているようである。自国の安全にかかわることはもちろん、国力に見合う国際貢献としての後方支援を行うことは国際社会の真の一員としての責任でもある。しかし、その前にやるべきことがあるのではないだろうか。それは言うまでもない、自国の防衛力の真の整備である。

 日本の自衛隊はかなりの実力や装備を持つとかいろいろ言われる。軍事的潜在能力の高さは国力・技術力とも比例するので、その意味での日本の潜在能力を否定するものではない。だが、それは勝手のような国家対国家の全面的な戦争において、それも長期にわたる場合においてのみ意味がある。現在の戦争や紛争、テロは、長期戦を避けて、いかに短期で終わらせるかが重要な課題となっている。

 ロシアのプーチンが、ウクライナ(クリミア)で、核兵器の準備を進めたと発言したが、私には、これも軍事衝突の新しい形を、彼が無意識のうちにではあるが、認識したからではないかと思っている。つまり、超小型核兵器による『局所的戦争』である。
 いろいろ定義が混乱しているが、戦争は国家対国家の大規模戦、紛争は局地的な小規模戦闘と定義するなら、その混在型としての新しい「局所的戦争」があるのではないだろうか。意味するところは、地域は限定されているが、内容は戦争と同じ激しいものであるという事だ。プーチンは、局所的な戦争を回避しない決意を持っていたとするならば、核の使用も当然選択肢には入ることになる。むろん、クリミアのように併合を望む地域に核を使用はすまい。しかし、緩衝地帯としての地域確保であれば、核使用にさしたる軍事的デメリットはないのである。むろん、国際社会からは袋叩きに会うから、政治的に決断するかは別問題であるが。

 IS(イスラム国)との戦いは、これまでの定義ではうまく表現できないために困っているが、これなども典型的な「局所的戦争」だと思う。戦争と言ってしまうと、ISを国と認めることになるので言えないなどと、くだらない議論をしていても仕方がないだろう。自爆テロばかりが強調されるが、より深刻な問題は、特定の地域を支配してそこでの統治が行われていることである。そこに戦闘を仕掛けるのである。これが戦争でなくて何であろう。


 少し、軍事的な話に深入りしすぎたので話を日本に戻そう。軍事力、軍事的分野(サイバー、宇宙等)の拡大、戦闘内容の変化など、科学技術の進歩に伴って「戦争」や「軍事的衝突」の形や内容も大きく変化してしまった。そのなかで、旧態依然とした戦争をイメージして、攻撃兵器だとか、武器使用の制限とか、活動範囲とか、もはやほとんど意味を成さない概念に固執して、真の安保や防衛を論じようとしない日本社会。

 いま必要なのは、本当の自国防衛に必要な軍備を確実に整備することである。ここで軍備とは単なる兵器のことではなく、例えばサイバー防衛隊の充実とか、人工衛星の保護技術(中国はまたも人工衛星破壊のミサイル試射を行ったという)とか、インフラの代替整備とかもすべて含まれる。後方支援に必要な軍備を整えるよりも、自衛隊員の安全を図るためにも、まともな装備を持たせることの方がより重要である。

 おためぼかしの(いいすぎかな)ヘリ空母など、これからの実践にはほとんど役立たない。(「いずも」の配備はそれはそれでうれしいのだが!)むろん、昔のような攻撃機を搭載した空母を持てというのではない。それより、全く新しい考え方に基ずく、無人機搭載用の超高速護衛艦(空母と呼びたければ名前などなんでもよい)や、自国の領海のはじからはじまで届くミサイルを搭載した護衛艦、迎撃用レーザ砲を装備した(アメリカはすでに配備しだした)護衛艦、国産無人偵察機などのほうが、よほど現実的なのである。

 徒に馬鹿げた反日的あるいは平和原理主義に踊らされて、現実社会を見失ってはならない。とくに、変な洗脳をされていない若者にこそ、冷静でかつ現実的な安全保障を考えてほしいと思う。平和は、棚から落ちてくるものではない。自ら成し遂げるものである。「兵器を持ったら、必ず使うから駄目だ」などという自己のコントロールもできない人間に、何かを語る資格などないのである。そういう人間が、戦前の軍部独走を止められなかったのである。
 むろん、安保は軍事力だけではない。国際社会での日本を確かなものにするため、外交力向上や日本の仲間を少しでも増やす努力は、必要である。だが、その時間稼ぎをするためにも、今軍事的防衛力の真の整備が必要なのである。危機は目の前にあると考えるべきだろう。

2015年3月22日(日)

日本の技術者は遅れていないぞ!

 最近ようやくというか、ロボット掃除機が国内大手メーカからも発売されるようになった。実際は、テレビで宣伝するほど、力を入れ始めただけなのかもしれないが。

 それにしてもお掃除ロボットレベルの製品がこれまで作られなかったなんて、日本の技術力も大したことないなと思った人も多いのではないだろうか。それは明らかに違うのだ。技術者は、同様の製品の開発など、とっくに終わっていたのである。だが、それを製品として市場に投入することが許されなかったのである。誰が止めたのか?大手になった企業の体質と集団農耕型気質の人間の責任回避、現状維持の姿勢である。

 むろん私が開発したわけではない。しかし実際に話を身近で聞いたのだ。技術者の提案を承認しなかった上司たち。理由は、「事故が起きたとき、だれが責任を取るのだ?」というのが、最大の理由であった。意味わかりますか?

 無人でしかも人が不在の時にも勝手に動き回るロボット掃除機。もし、ペットにでもぶつかったら、もし何かにぶつかって壊したら、もし階段から落ちて事故でも起こしたら、子供に怪我させたら...等々。あらゆる想定できる事故を挙げて、事故が起きたときの責任を追及したのである。この姿勢、大手企業がお役所仕事と言われるまさに同じ官僚の行政においても見られる。典型的な事例が、エアコンの外出先からの制御について、日本の行政(官僚)は、事故が起きたとき大変だから許可できないとして、なかなか許可を与えなかったのである。いまも完全には自由操作を許可されていないのではないだろうか?

 新しい技術による製品の市場投入を妨げている原因の一つは、技術力ではなく、規制や現状に満足する現状維持派による反対なのである。このことをどれだけの国民が知っているだろうか?


 もう一つ大企業があげる反対の理由が、市場規模の大きさである。小さすぎて、儲けが出ないというのだ。私がお世話になった、とある企業グル―プでは、1製品の最少売り上げが200億円とすら言われた。ちなみに、売り上げが200億以上の企業は、144万事業者(都道府県別事業者数)のうち6800程度しかない(2013年)のである。つまり、普通であれば、大きな会社として認識されるほどの売り上げを確保できなければ、自社製品とは認め難いというのである。そもそも、この高コスト体質が、日本の多くの企業を苦境に陥れた原因のひとつでもある。それを単に人件費が高いから、効率が悪いからだと、労働者に責任転嫁するかのような経営者・専門家や政治家たちが多すぎる。ここを直さない限り、真の日本企業(とりわけ製造業では)の発展は望めないだろう。


 技術者の端くれだったことから、技術者を擁護する内容になってしまった。本当はこの後、今の技術者が能力不足に陥っていないか、苦言を呈するつもりだったのだが、次の機会にしよう。



 さらに、最近、PCの中に会社の金で開発したシステムの一部(残骸)が見つかった。それを出して、自慢話をしながら、日本の技術者は新しいアイデアがないのではなく、むしろ早すぎるのだという事を述べたかったのだが、こちらは、「人生は迷路かな」にでも書くことにしよう。

2015年3月21日(土)

オウム真理教報道が物足りない

 昨日3月20日は、オウム真理教による地下鉄サリン事件から20年の日だった。当然少し前から昨日にかけて、オウム関連のTV番組も多かった。最近のTVをじっくりとみる根気がないので、パラパラではあるが、NHKをはじめいくつか見てみた。全部真面目に見てないので、どこかで詳細に扱った番組もあったのかもしれないが、個人的には、ほとんど興味もわかない低レベルなものに思えた。詳しく書く気にはなれないが、とりあえずひっかかっ方ことだけでも、以下に列挙してみよう。

・麻原の生い立ちなどの解説がない。
・村井の人物紹介がない。
・村井刺殺事件の背後や全容が不可解なのに究明していない。
・この事件を未然に防げなかった責任者追及が全くない。
・テロ防げなかったのに、事前に知ってたという自慢話に終始する警察を出演させて持ち上げているばかり。
・当時の政治家や官僚も自画自賛の話ばかり。対応がうまくいってたらこんなことになるか。
・公安と自衛隊が出てこない。ま、彼らはマスコミには出ない原則だが。そこを行くのがマスコミだろ。
・TV局の自慢ばかり。どこも同じなのに独自入手、単独、今回初めて....。うんざり。
・破防法の適用に強硬に反対したのは誰なのか。時の村山社会党内閣は、なぜ認めなかったのか。
 これがのちに日本はテロに甘すぎるという海外からの批判を呼ぶのだが、それを当時報道した気配すらない。
・1970年3月31日よど号ハイジャック事件でテロリストを解放して国際批判を浴びたのに、教訓がなぜ生かされなかったのか。
・麻原の精神鑑定結果などが全く分からない。もう出してもいいだろう。
・オウムの肩をもって、テロ前に宗教弾圧だと当時騒いだのは誰なのか、どのように責任を取ったのか、全く報道がない。



 細かい話はきりがないのだが、要するにこれだけの大事件に対しての分析や理解が甘すぎるうえ、資料もすべて後から公開されたようなものばかり。本当の内部資料が見当たらないのだ。また、マスコミ自体に科学知識がないので、化学テロとはという突っ込み不足。したがって、現在につながる中東などでの化学テロとの関連性なども全く追及されていない。何か新しい事実や教訓を引き出すか、現在から将来にわたっての影響を類推するような番組が、およそ見当たらないのは、日本自体の劣化なのかな。ちょうど日本人劣化の20年だし。

2015年3月18日(水)

万歳! ガンバレF3 国産戦闘機

 ようやく本当の意味で、自国防衛の技術のひとつが生まれそうだ。政府が、航空自衛隊の戦闘機F2の後継機であるステルス戦闘機F3の開発方針を固めたという。万歳、万歳!!
なんだか軍事オタクと間違われそうだが、ようやく戦前の航空機開発力を何とか取り戻す第一歩になりそうである。軍事的な安全保障だけの問題ではない。日本のこれからの最先端技術力や、それで食べていく産業や社会の在り方にも大きな影響を及ぼすからである。

 戦後、航空機の開発をアメリカによって長いこと禁止されており、ようやく解除されたのちも、無理やり共同開発を押し付けられるなど、自主性が踏みにじられ、技術力もまた大きく遅れてしまった。このところようやく、商業機の本田ジェットや三菱のMRJが開発されて、ジェット機を作れるまでになってきた。それでも、エンジンはホンダも共同開発、MRJは海外製である。強力なジェットエンジンは、国産ではどこにもないのである。今回、F3の開発の方針を決められたのも、この国産ジェットエンジンン開発のめどがついたからである。


 私は勤めていた合弁企業の相手が、一時期アメリカの軍事(それも戦闘機など)関係の企業だった時がある。むろん、私の企業はIT企業で、軍事とは縁もゆかりもなかったのだが。このあたりはまた「人生は迷路かな」ででも述べることにして、その時本社の場所に行ったことがある。滞在したホテルのすぐ下に滑走路があり、四六時中戦闘機などが飛んでいた。戦闘機の爆音のすごさ、ほんの短距離でまるで90度に近く急上昇していくのを眺めた経験がある。うるさいが興奮ものでもあった。

 戦闘機の強力なジェットエンジンは、推力が15トンともいわれ、世界でも製造できる企業はわずかしかない。これまで、自衛隊ではATDと呼ばれる実験機の開発を長年コツコツとやってきた。今年そのATDが初飛行を予定している。このエンジンが推力5トン級である。これをもとに開発を進めていくことになる。


 説明が長くなったが、言いたいことのひとつは、ここでも自衛隊という軍事技術の開発が続けられていたからこそ手にした新技術であるという事。競争の激しい民間企業では、なかなかこのような長期開発に手を出そうとすらしないのが現実である。だが、こういう形で初めて、世の中を変えるような新技術が生まれてきたのも事実である。資源がない日本、技術で食べていく日本というのなら(個人的にはどちらも思っていないのだが)このことを肝に銘じるべきである。


 ジェットエンジンやロケットエンジンは、そう簡単に物まねのできるものではない。したがって、ここで高い技術力を身に着けて、あとはコスト低減が図れれば、これからしばらくの間(50年くらいかな?)は、この技術関連の産業で食べていけるはずである。
 また自動車以上にロケットや航空機産業はすそ野が広い。つまり雇用が生まれるのだ。F3の100機体制で24万人の雇用が生まれるとか。どこででも製造できるようなものから離れるのなら、こういう宝の山を大事にしなくてはならないだろう。

 国産エンジンが開発できれば、もっと様々な航空機が開発可能になる。例えば、バッテリーや水素電池で飛ぶ50人乗り程度のエコ小型機などである。運用費用が極端に低ければ、日本のように離島の多いところをもっと緊密に結べるし、それを利用した新しい観光も考えられる。アイデアはまたそのうち書こう!むろん、海外にも輸出できるかも。


 エンジン関係は、その材料関係、製造技術の他に、日本の得意な小型化と結びつけることが考えられる。ATDは飛行中、ほぼ垂直に立つことが出来るとんでもない飛行機であるが、小型化した複数エンジンの制御によりこれまで不可能だったことが出来るようになるだろう。発想を変えれば、垂直上昇機ももっと簡単に出来るかもしれない。ほかにも、空気を必要としないロケットエンジンから、水中用の推進エンジンも考えられないだろうか。夢はいくらでも広がる。それも現実化可能な範囲の夢である。


 願わくは、今度はアメリカに妨害されずに、純国産戦闘機を無地離陸させよう。それが将来日本の離陸でもある。
 反米好きの野党も賛成だろう。だって、アメリカからの真の独立のひとつなのだから。まちがっても、これに反対する馬鹿な政治家は自国の将来を考えていないのだから、当選させるべきではない。


頑張れF3! 本田ジェット、MRJに続け!!

2015年3月18日(水)

銃撃型テロへの迅速対応が可能なのか?

 チュニジアでのテロにより、またも日本人が犠牲となってしまった。当初のチュニジア政府の発表と日本政府の発表が大きく食い違っており、相変わらず情報収集の脆弱さが露呈してしまった。日本時間10時でも、日本政府は日本人死者3名確認としており、5名との違いは残ったまま。ま、この問題はもういい加減言いあきたところもあるので、別の危惧を述べてみたい。

 自爆テロでも、爆弾爆破型は事前に抑える以外に手はないが、銃乱射型テロでは、事態発生に対する武力制圧をいかに迅速に行えるかが、被害を最小限にとどめるカギになる。相手は、一人でも多く殺すことを目的としているのであるから、日本での立てこもり事件とは全く性質が異なる。日本の立てこもり事件では、警察はとにかく現場を封鎖して閉じ込め、時間をかけて解決にあたるのが普通である。だが、銃乱射テロでそんな悠長なことは言っておられない。被害が拡大するばかりである。

 SATやらなにやらいろいろと銃乱射にも対応する特殊部隊は警察にもあるが、はたして、このような銃乱射型テロへの対応は可能なのだろうか?

 第一が現場への出動である。誰かの許可だのへったくれだのという時間的余裕はない。普通にパトカーが出るように出動できなければ、意味をなさないのだ。

 次が、素早い制圧のための武器を使用した攻撃である。人命尊重だの過剰だのと馬鹿げたことを言っている暇などない。一刻も早く相手を制圧することこそ、最重要課題であり、被害を最小化する唯一の道になる。そんな訓練が出来ているのか?誰がどうやって対応するのか?お偉いさんの指示待ちなど馬鹿げた余裕はないのだ。

 もう一つが、日本が最も苦手とする分野である。大勢の人質がいる中での突入である。これほど凶悪なテロにまだ国内で遭遇していない日本。パニックをいかに抑えながら、人質の被害を最小化しながら、でも武力制圧しかない状況。どのように対応するのだろうか。



 とにかくこの手の銃撃型テロでは、時間稼ぎの余裕は1秒もないのである。1秒銃が乱射されれば、多くの死者が出る。このようなテロへの対策が十分できているとは、正直思えないのだが。これだけは、実際に起きてからそれを教訓とすることなどないようにしてほしいものである。

 そして、もちろん警察だけでなく自衛隊がまともに国民保護に迅速に動ける体制を作っておくべきであろう。海外派兵がどうとかいう前に、国内での対応策も同時並行で整備すべきであろう。テロはいつ来るかわからない。サリンの二の舞だけはやってほしくない。
 反対のための反対は、絶対にあってはならない。国会が一致して対策を真剣に講じる時である。

被害にあわれた方の冥福とけがの回復を祈りつつ

2015年3月18日(水)

今頃何しにくるミシェル・オバマ

 日本には今まで来日せず、前回のオバマ来日でも来なかった夫人。 そのくせ、その1か月前には中国を訪問している。それも子供連れで。

 ま、ドイツのメルケルも日本には来なかった7年間に、中国には9回も 訪れている。しょせん、日本に対する扱いは、自分勝手な理由による ものや国益だけのものが多いのが、現実の国際世界である。

 そういう現実を認識して、馬鹿げた騒ぎだけはしないでほしいものである。

 日本人もそろそろ大人になるときが来ている。アメリカとの付き合い方も、 まともなものに少しづつでも改善する努力をすべきである。

 中国のAIIB(アジアインフラ投資銀行)に欧州の先進国が参加を表明 している。イギリス、ドイツ、フランス、イタリアと。アメリカの反対な どどこ吹く風である。オーストラリアもこれをみて不参加を変えるかもし れない。

 いま、アメリカとの付き合い方が世界中で変わり始めているのだ。日本だ けが、旧態依然とした思考から抜けきれないでいる。特に官僚と政治家が。


 アメリカからの真の独立は、そう単純でも簡単でもない。細い隘路を通る ようなものである。でも、やらなくてはならないだろうし、今がその機会 でもある。沖縄のためにも、早く大人の付き合いにならなくてはならない。

 なぜなら、いつアメリカが中国と手を組んで、日本を捨てるか、それは、 決して絵空事ではなく、彼らの選択肢の一つにすぎない。そのことを認識 して準備を怠るべきではないのだ。

 現実を認識し、自己の力を理解し、そのうえで頑張るしかないのだ。

2015年3月17日(火)

こりない奴らを懲らしめるには・・・最後の経済政策を進めよ

 少し前、東電の汚染水漏えいの隠ぺいがあったが、以前ほどには騒がれなかったと感じたのは、こちらが慣れてしまったからなのか。とにかく懲りない会社である。だが、懲りないのは東電だけではなかった。今や免震ゴム不正の東洋ゴムの話が持ちきりである。かなり長期間も行われていた上に、相変わらず、一年も隠ぺいし、さらにまだ調査に1か月かかると、薄らとぼけたことをのたもう経営者たち。企業経営者たちの倫理や道徳、常識などを今更嘆いても誰も見向きもしない。ここまでひどくなったその理由は、「日本人の気質」を読んでもらうとして(宣伝だ!長すぎて読めるか!!)、面白いニュースが流れていた。アベノミクス否定派、反安倍派には、あまり面白くないかな?

 今年の春闘は昨年以上に良い数字が大手企業で示されている。うらやましい限りである。ある証券会社など、来月臨時で平均100万円の特別賞与が出るとか。いやはや。そんな中、大企業はがっぽりため込んでおきながら、下請けの子会社、仕入先には、価格の引き下げを要求している現実がある。消費税も原材料費の値上がり分も認めない企業ばかりとか。さすがにこれはまずいと気が付いたのか、安倍政権。国会答弁で宣言した。

 今年中に大企業500社への立ち入り検査をおこなって、原材料費の値上がり分の価格転嫁を認めているかどうか調査するというのだ。ごく当然のことだし、消費税増税時も同じことを言ったけど、記憶では1社の名前が公表されただけで、何をしたのかもよくわからなかった。今回もどこまで本気なのか、実際の結果を見ない限り信用できない。アベノミクスは、釣鐘理論による経済政策を取っている。その経済理論からも、大企業ばかりがため込んで、下に回さなければ、全体の市場の活性化も成長もあり得ない。したがって、今回は何がなんでも、この小さな政策を強力に実行に移す必要がある。そして実は、この経営者脅し政策こそ、集団農耕型気質の経営者たちにもっとも有効な手段なのだ。


 お上には弱い、横並び、脅しにすぐ負ける、こういう弱点を持つ気質の人達には、お上の脅し、それも実際に本気度を示すもの、が有効なのである。言葉だけでなく、500社には実際の立ち入り場面を報道させ、疑わしき企業名を公表する。さらにひどいところ(必ずあるはず)数社にはあらゆる種類の立ち入り検査を行って、経営者が責任を取るまで営業を実質的に止めてしまう。それをマスコミに大々的にとりあげさせる。

 要するに、いけにえ、スケープゴートである。何社か大手をつぶすのが最も良い方法である。なぜ、ここまで過激なことを言うのか、理由はまさに今の日本企業の経営者層などの気質である。アベノミクスは、安倍総理の本心は知らないが、これまでのところ企業それも大企業に恩恵を与える政策をとってきた。戦後の有能なそして社会全体を考える経営者がいた時代と異なり、自分の会社だけ良ければ、自分達さえよければという利己的な経営者がほとんどとなった現在では、性善説的政策は機能しない。性悪説に基づく強い政策が歪みを是正させる力を持つ。何とも情けない話ではあるが、これが今の日本社会の現状である。
 サムライ(孤高武士型)がいれば、それが口火を切り、ほかの経営者も真似をすることで、よりましな方向を期待できたのだが。

 これはある意味、最後のチャンスでもある。成長とは言わないまでも、蓄えた富があまねく分配されデフレから脱却すれば、国民の意識も改善されるだろう。そうすれば、次の本当の成長戦略や、財政再建の道を歩む余裕も出てくる。


 企業だけではない。警察の隠ぺいと身内をかばうだけの体質が、またも明るみに出た。大阪の警察官による殺人と、その警察署長をはじめとする警察幹部の非人間的対応である。被害者に謝罪はおろか、葬式にもいかないとは、人間として屑としか言いようもあるまい。このように外から隔離していると勝手に考えるくくりへの撞着意識は、大きな力でそれが通用しないことをわからせない限り、真に改善されることはない。


 残念だが、今の日本社会の歪みを正すには、もはや『正義の力』を使わなくてはならないのだろう。無能な経営者、警察幹部にも家族はあろう、生活もある。だがそのための生活保護政策の存在でもある。社会を変革するとき、時代の犠牲者は必ず出るものなのだ。

2015年3月16日(月)

無人機を開発しないのは誰の責任なのか?それとも圧力?

陸自の無人偵察機がトラブル
 陸幕によると、機体はオーストラリアのメーカーが製造する「スキャンイーグル」。全長約1・6メートル、翼長約3・2メートル、重さ約20キロで、高度数千メートルの上空から搭載カメラで撮影できる。災害現場での運用を目指し、2011年度補正予算で2機を計約6億円で取得した。(産経)


 こんな無人飛行機を作る技術力も、日本企業はないのか?
 ブログでも何度も書いてきたが、ただただあきれるばかり。なぜ、無人機の開発をもっと積極的にやらないのだろうか?国内の特定勢力の圧力なのか?それとも某国からの圧力なのか?はたまた、単なる日本の無能さなのか!


 高度な機能を持つ人工衛星(カメラ等)、ロボットなど遠隔操作、飛行機・ロケット等、無人機を開発するのに必要な様々な技術力が、日本にはあるはずであろう。あとは、それをまとめる力だけのはず。

 どう考えてもおかしい、こういうことにこそ、国民はもっと関心を払うべきであろうに。中年の路上キスなどよりはるかに国益(産業・安全保障・災害対策)に直接関わることなのに!

2015年3月13日(金)

武蔵よ 永遠に

 当時世界最大の戦艦、大和と武蔵。そして日本最後の戦艦となった。どちらも華々しい活躍をする場を与えられることもなく、いま海底にその身を横たえている。男性は、どうしても戦艦などに特別な愛着のようなものを持ってしまう。戦争の悲劇とは全く別の、男のロマンをかき立て、そして静かに去っていく哀愁の後ろ姿に、言いようのない感慨を持つのだろう。

 私もプラモデル作りには挑戦した。もっとも最近作ったのは、戦艦(実際は巡洋艦)と空母が一体となった航空戦艦最上だった。あだ花、無駄な抵抗、価値がない艦と言われようとも、そんな現実を逃避する場がプラモ作成である。


 なぜ、膨大な費用と時間をかけてまで武蔵を見つけようとしたのか。単なる金持ちの功名心や気まぐれだけではないように思える。今日、1000mの海底からの映像がネットで配信された。朽ち果てた武蔵を見るのは忍びないが、せめて艦と運命を共にした多くの御霊に首(こうべ)を垂れたい。


 巨艦巨砲時代の時代遅れな産物としたり顔で言う人間も多い。だが、歴史を見ると、むしろ日本の数々の兵器や攻撃方法などは、アメリカに徹底的に研究・利用されたのである。航空機による戦艦攻撃なども、日本海軍が初めて効果ある攻撃だと実証したのである。ま、それは歴史の皮肉でもあるが。大和、武蔵の悲劇は、活躍の場を与えられなかったという事である。巨大戦艦は、総規模な小競り合いの先頭においては、相当な威力を発揮したはずである。だが、国力をかけた全面戦争では、巨大戦艦を活かす場面すら作ることが出来なかったというのが、本当のところであろう。全面戦争とは国力がもろに出る闘いであり、長期戦になれば国力差によって勝敗は決まってしまう。

 自分たちのことしか考えない集団農耕型の人間が占めていた政界や軍部とりわけ参謀本部の、くくりへの撞着がなければ、ここまで悲惨な敗戦を迎えることなく、早期に和睦できていたかもしれないのである。むろん連合国軍側は、初めから日本をたたくまでやめる気はなかったのだが。
 戦争反対と叫ぶだけでなく、くくりへの撞着によって国益も社会のことも考えない人間が多く輩出することを阻止することこそが、馬鹿げた選択をしないための道なのである。その意味では、現在の日本では多くの集団農耕型人間が占有するくくり(業界であり組織であり、官僚、社会の様々な仕組み)があまりにも多すぎる。


 武蔵への憧憬は、宇宙戦艦ヤマトにつながり、いまも我々日本男子の心をとらえる。それを戦争賛美と混同するような浅はかさこそ、大方の道を誤らせるものである。むろん、プラモデルへの愛着と戦争への期待を混同するような人間達に、武蔵を組み立てる資格がないのは言うまでもあるまい。両者の違いを正しく認識できる人間こそ、真のサムライである。


 最後に現実的な話をすれば、果たして日本に今回の武蔵発見や映像の中継という技術力があるのだろうかと、ふと不安になる。海洋国家として生きるべき日本。海中や海底の探査、遊覧の機材や無人機、透明潜航艇などつくりたいもの、これからの日本の産業ともなるものは数多くある。挑戦することを忘れた今の多くの経営者たちにはもはや期待できない。男のロマンを、現実の技術や産業に結びつける挑戦を、果敢に行う多くの若者が出てくることを望んでやまない。もちろん、男女の別なく。

2015年3月12日(木)

異常な奇声を発する子供のいる社会

 スーパーマーケットで、すぐ近くから奇声が聞こえた。小さな男の子が発したものだった。お菓子売り場でもないのだが、子供が母親に何か言われたようである。子供がわがままを言って叱られ、駄々をこねて泣きわめいたり、座り込んだりという風景は昔からおなじみである。場面としては同じものなのだが、感じるものが少し違っていた。

 それは、子供の発した異常とも聞こえる、あまりに奇怪な叫び声のせいであった。 母親は自分の体に子供を抱きかかえることで、何とかその声を抑えようとしていた。見ていた限りでは、特に暴力をふるったり、無理に引っ張っていこうとしたり、逆に普段甘やかしてわがままに育てているようにも思えない、常識的な母親に見えた。どこからか姿を現した父親らしき若い男性も、しゃがみこんで子供の目線で何か話している。

 子供が駄々をこねて大声を出しているときには、「うるさい」と言いたくなるのが常であった。が、今回はそうではなかった。うるさいと感じるよりも、大げさに言えば奇怪な怖さを感じてしまったのである。思わず近寄って、両親に医者や専門家と話すことを勧めたいと思ったほどである。

 このような「うるさい」というより、「おかしい」と思うような子供の反応を目にするのは、考えてみると今回が初めてではなかった。が、昔はこういう場面に出会う事はなかったような気がする。ヒステリーやパニックの発作と子供の駄々をこねた泣きわめきは似ているところもあるが、明らかに別物として私たちは捉えることが出来る。そういうものとは異質な何か別なものを感じてしまうのは、私だけであろうか?あるいは私がおかしいのだろうか?

 ごく普通に見えるこの家族の躾を非難したり、子供をわがままだと非難しようというのでは全くない。そうではなくて、もっと大きなもの、現在の日本社会はまともなのだろうか、という素朴な疑問である。結論を急いで乱暴に言えば、エピジェネティクス(後成遺伝学)の影響が社会に滲みだしてきているのではないかという危惧である。

 様々な少年犯罪や親族殺人における残忍性や異常性、女児を誘拐して奴隷化するなど、とてもまともな人間のやることとは思えない事件などが多発している。凶悪犯罪の件数は減少しておりマスコミがあおるからだという批判は、それなりに正しいとしても、だからと言って、今我々が肌で感じている日本社会のおかしさを否定することには全くならないだろう。
 社会的文化的な影響は世代を超えて遺伝することがないはずであったが、それを覆したのがエピジェネティック的遺伝変化である。しかも、いろいろなものがその役割を果たすことも明らかになってきた。その意味することは、社会の乱れや個人の不健康は子供や孫の時代により深刻な形で現れてくる、今まさにそれが起きているのだろう、ということである。自己中心的な考え方や、個人の権利の異常なまでの主張は、個人の問題というだけでは済まないのである。そのことを真剣に考える時が来ているのだ。


参考:エピジェネティクスや日本人の劣化については、「日本人の気質 第9章日本人の気質が歪み始めた」でも詳しく取り上げている。

2015年3月10日(火)

日米専門家の差=気質+知性

 3月7日にこんなコラムがあった。 【緯度経度】古森義久  中国軍拡に日米専門家の温度差

 要約すると、中国の軍拡による日本への脅威について、アメリカの専門家が強い脅威認識を持っているのに対して、当事者である日本の方が甘い考えで危機意識が薄いという事になろうか。

 いわゆる保守系の産経のコラムであり、バイアス(偏り)があるとの批判もあるかもしれない。ただ実際にシンポジウムを聞いたわけではないが、この日米の「温度差」は、私には納得がいくことでもある。
 安全保障のみならず、経営でも、災害等の危機管理でも、基本的に日本人は楽観主義であるように見える。楽観主義が強すぎるならば、明るく前向きに物事を解釈する気質ということで、それ自体は悪いことではない。暗くて常に悲観的な気質よりも、前を向いて明るく進んでいこうとする気質のほうが、災害の多い列島に住む日本人の精神の健康上も望ましいことである。

 したがって気質はそのままで置くとすると、なにが問題なのか。インテリジェンスという言葉が、頻繁に使われるようになったが、肝心の組織や体制など、中身はそれほど改善されているようには見えない。テロなど何かあると大きく騒ぐが、すぐに忘れてしまう性格が災いする。また言霊ではないが、悪いことを出来るだけ考えないようにしようとする傾向もある。このような性格傾向や思考の癖があることを自覚するのが、初めの一歩である。


 そのうえで、重要なのは、知性(理性)である。情報を正しく収集する能力、それを的確に分析する能力、自己の力を客観的に判断する能力など、多くの知識と能力が要求されることになる。脳みそ自体で日本人がアメリカ人に負けているとは思わないのだが、知性の実力というか厚みというか、要するに突っ込みが不足しているように思えるのだ。安保の専門家と言いながら、軍事についての知識も自衛隊の能力(装備、兵站)についてもほとんど知らない人物が、時々見受けられる。知識層の薄さでもあろう。

 いやゆる大手マスコミなどの、軍事的安全保障への楽観的な報道内容に対して、日本国民のほうが危機感を持っているようである。内閣府の意識調査では、現在の世界の情勢から考えて日本が戦争を仕掛けられたり戦争に巻込まれたりする危険があると思うか聞いたところ,「危険がある」とする者の割合が72.3%(「危険がある」27.3%+「どちらかといえば危険がある」45.1%)であった。そう考える理由も、常識的なものである。決して日本の軍備増強が原因などとは思っていないのだから。内閣府世論調査のHPはこちら


 危機意識が希薄、言霊で危機自体を想定しない、何かあってもすぐ水に流す淡白さ等々の弱点を抱えながらも、温和で争いを好まない気質は、悪い気質ではない。ただ、それを自覚して対応する強い知性が、求められているのである。
 紛争地を取材して不発弾を持ち帰り、他国の税関で爆発させてしまったジャーナリストがいた。兵器のことを何も知らないで紛争地取材など、無知の極みであるが、個人の問題ではなく、今の日本社会全体の問題である。
 医者が病気を知らなければ治せないのと同様に、軍事を知らずして国家間の安全保障など論じられるはずもない。本来きちんと議論すべきことをやらないから、逆にネット上の一部では、軍事・軍拡をもてあそぶような風潮が出てきてしまうのであろう。

 危機管理でも、気質と知性の両方の調和が大切なのである。

2015年3月09日(月)

少年法問題に見る日本人の気質

 川崎の中一殺害事件の残酷さがわかるにつれ、少年法の改正を求める声も強くなっている。改正に反対はしないのだが、法律だけでは済まない日本人の気質のことについても注意を払うべきだと思うのだが。

 更生、更生と騒ぐ割には、少年法の条文ばかりにこだわり、更生施設での処置内容や少年院などの教育内容、出所後の社会の受け入れ態勢整備の話はほとんど聞こえてこないのはなぜなのだろうか?少年法の条文を守ることが目的化しているのは、まさに言霊信仰である。これでは何も変わらない。


 日本の社会全体に充満しているのが、社会的公平性という名の硬直した紋切型、お役所仕事的な対応である。少年法なども全く同じ過ちを犯している。今回の川崎事件の加害者の主犯は18歳だが、ほかの二人は17歳。だが、このうちの一人は主犯と同じ学年、単に誕生日の違いなのだ。求められていることは、ここの事情をよく考慮して柔軟な対応をすることである。刑法でもそうだが、一人しか殺していないから死刑回避とか、検察求刑の8割とか、わけのわからない公平性や硬直した思考がまかり通っている。公平性、柔軟性における集団農耕型気質の抱える悪癖が露呈していると言えよう。情状酌量の理由まで画一化して、大岡裁きをすることは法の下の平等に反するという歪んだ考え方が、社会全体に蔓延している。

 このように個別対応を許さないのは、単に主観が入るからとか、不公平とかいう言葉の裏に、主観という名の正義・余裕・常識という名の柔軟性などを拒否する原理主義的発想なのである。極論すれば、世界中にはびこる原理主義と同じ根っこなのである。日本のみならず先進国に蔓延する原理主義は、その表面を着飾るだけに反対をすることが難しくなっているが、これが行き過ぎれば、必ず文明の崩壊を迎えるときがくる。イスラム過激派のテロだけが、原理主義なのではない。人類全体の進歩が、個人の権利という原理主義の化け物を生み出している。

 個々の問題に応じた調和した考え方を、すべての人々が常識の範囲として柔軟に受け入れられる社会こそ、本当の自由な社会であろう。

2015年3月08日(日)

日本語の誕生

 「日本語」について語ることは気が重い。日本人とか日本文化を語ることが非常に困難で、膨大な内容になってしまうからである。言語は文化の中心的なものであるから、当然と言えば当然ではあるが。それにしても、「日本語」をめぐる状況は、縄文軽視だった「日本の歴史」をめぐる状況と似ているどころか、それよりもひどい状況にすら感じられるのは、言語が専門性の高い事柄だからなのであろうか。とにかく、これ以上知の泥沼にはまりたくないという事なのだが、日本文化の成立で、感性と言語がその成立の証だと述べたので、無視はできまい。

 日本人の古い言葉として、大和言葉(やまとことば)がある。これがいったいいつの時代の言語なのか、実はよくわかっていない。縄文語とか縄文時代の言語についての本もあるが、たいていは専門家以外によるトンデモ本として扱われることが多い。専門家は相変わらず、日本列島における日本語の成立を認めないばかりか、ひたすらそのルーツなる言語を列島外に求め続けている。いまではさすがに変わりつつあるようだが。

 結論を言えば、縄文時代に日本文化が成立したのであるから同時に日本語も誕生した、あるいは少なくとも文化集団内での意思疎通には困らないような言語空間環境が整備された、とみなすべきであろう。そしてその日本語とは、日本人のもとになった集団が使用していた言語も(『を』の間違いではない)源とする混合されたものであったろう。ある意味で混合言語という事になる。
 正当なる言語学を自任する専門家は、この「混合言語」の存在を認めない立場にある。その理由は、言語は言語の系統樹がきれいにあり、必ずそのどこかにつらなるもので、混合言語を認めたら、その系統樹自体が混乱して収拾がつかなくなり、結局系統樹という考え方そのものが成立しなくなるからである。この考え方に対して、さすがに専門家の中からも異論が生まれて、混合言語的な日本語の成立論を論ずるものも出てきた。だが、これらにも個人的にはあまり納得していない。日本語の混合言語論が、ある特定の言語をもとにそこに別の言語が加わったという、混合と言いながら、全く別の新しい言語が誕生したという考え方は全くと言ってよいほど排除されているからである。これでは言語系統樹派の言う、混合言語はピジンやクレオールの範囲だという説にくみすることになる。

 個人的には、日本語がクレオールの成れの果てであるかのような言説には賛成できない。なぜなら、彼らはスペイン語やフランス語(イタリア、ポルトガルなども同じ派生とされる)をクレオールの成れの果てというだろうか?同じ俗ラテン語をもとにしていながら、地域や民族文化の違いからそれぞれの言語に分かれていったのが、今のヨーロッパにおける言語である。他言語との接触によって直接変化したものはないのでクレオールではないというのだろうが、ではなぜ日本語が、その日本文化を成立させた文化集団によって生まれたものであるなら、クレオールであると言い切れるのであろうか。ことさら日本異質論を唱える気は毛頭ない。だが一万年以上に及ぶ長い期間、列島という天然の要塞に守られて、他文化との大きな衝突もなく同じ文化圏を維持できた文化集団が、世界にどれほどあるのだろうか。それも民族という単位になるほど大きな集団が。その特殊性については、もっと素直に認めるべきであろう。それを言うことが直ちに自文化絶対主義であるとの批判をする専門家は、あまりにも世界史とりわけ日本史について偏狭に思える。(ここまで「日本人の気質」第2章「日本語の成立」より。部分修正有り。)

 なぜどこかに元があるとばかりに考えるのであろうか?固有という概念を持ち出すと、国学的発想すなわち国粋的な発想であるかのような批判が生まれる。だがよく考えてみればおかしな話である。人類すなわちホモサピエンスの出生をたどれば、アフリカの一人の女性にたどり着くという。仮にこの時すでに人類が言語の基となるものを獲得していたとするならば、世界中すべての言語の大元は一つであり、個々の言語は、それが時代と地域によって新しく変化したものに過ぎない。ならば日本列島という地域において、何万年もの閉ざされた時間経過がありながら、そこで新たな言語の発生を否定することの方が、よくわからない。ルーツばかりを求めたがるすべての言語学者に聞きたい。どうして、この列島上で新たなる言語ともいえる日本語が誕生してはいけないのか。誕生しなかったという証拠を示してほしいものである。科学技術においては、「存在しない」事の証明は不可能に近いので、無理な要求だとわかってはいるが。

 最近の研究によれば、鳥は恐竜から派生したものだという事がわかってきた。動物進化の系統樹でいえば、恐竜の幹から枝分かれして鳥が生まれたのである。だからといって、恐竜と鳥を同じものとして扱うことはまずあるまい。生物学的な共通性よりも差違の方を重視するのが普通である。このような考え方が、とかく系統樹を作りたがる専門家にはどうも欠落しているようである。言語の系統樹においても、遺伝子の系統樹においても、日本の基の幹を探すことは、知的には興味あることだが、もはや別のものであることをなぜ素直に認めようとしないのであろうか?

 たとえばヨーロッパにおいて、隣の民族の言語が似ていてかなり理解可能だからと言って、それらを系統樹としてたどることに意味はあっても、そのような分離派生の過程を正確にたどれるのであろうか。日本語だけ、多言語と異なる扱いをしたがることこそ、ゆがんだ日本特異論にくみするものなのではないだろうか?


 列島に来た時点ですでに異なるDNA特性を持っていた集団がいた。当然、言語もすでに異なっていたであろう。だが、長い時間を経ていつしか一つの文化集団が成立したときには、言語もまたほぼ共通的なものが成立していたであろう。ではなぜ日本語が、他の文化集団の言語発生と大きく異なるのかは、言語の持つ二方向性にその源がある。

 文明は、拡散しながら同一化をしようとする、いわば侵略的拡張の方向性を持つ。その表層文化たる文明に対して、より基底に近い文化は、全く逆に分離しながら独自化を進める方向性を持つ。そして、言語は、まさにこの両方の性質を持つと考えられる。アメリカ文明が世界的に拡散することにより、英語もまた世界中に広まっていった。なぜ世界共通語として作られたエスペラント語が普及せずに、英語が使われたのかと言えば、そこには英語を浸透させる侵略的な文明力が働いていたということであろう。一方で、東北と九州とでは全く異なる方言が使用され、言語学的には全く同じ日本語でありながらも、通訳が必要なほど異なるものになっている。これは、言語の分化・独自化傾向を端的に示しているだろう。



 言語が相反する両価的性質を持つという前提に立つとき、日本語もある特定の文化集団の言語の侵略的浸透力が存在していれば、それこそが日本語のルーツと言えたのかもしれない。だが、そうではなかった。しかも日本列島は、その基底となる文化集団の成立以後は、大量の移民流入つまり他の文化集団の激的な影響を受けることなく、新たなる移民は既存の分化集団に同化していった。と考えるならば、そこで成立した新しい言語たる日本語は、外からの大きな変化をもたらされることなく列島内での分化が始まった、すなわち成熟したのである。


 そんな日本語に、大きな影響を与えたのが、二度の外部文明の受容である。一度は言うまでもない、中国文明すなわち漢字文化の導入であった。その受容が行き過ぎて、それまでの日本語が相当にゆがんでしまったのだろう。それが、いわゆる古語日本語を見つけづらくさせている最大の原因である。その行き過ぎの揺れ戻しとして、カナ、すなわち日本語の発展がなされた。それにより、日本人の持っていた感性をのこしながら、新たなる言語体系を確立することが出来たのであろう。しかしそれは、逆に過去の日本語を忘れさせる効果もまた持っていたはずである。高々100年前の自国の人間と会話ができない(100年前の日本人の話す言葉がよく理解できない)民族というのは、世界的にも珍しいのではないかと思うのだが、この手の話を専門家からはあまり聞くことがない。なぜ、自国の言語の変遷がかくも激しいのか、なぜ理解不能に陥るのか、いろいろと考えられるはずである。

 もうひとつの言語を変えた大きな文明受容とは言うまでもない、明治期およびその派生としての戦後の文明受容である。中国文明の受容においては、語彙とか発音とか直截的に言語体系に影響を与えてしまった。それから見れば、明治期の西欧文明受容においては、言語を直接導入するのではなく、日本文化の中で咀嚼し、新たなる語を数多く創作して、新しい概念を取り入れた。だが戦後は、そのような努力をほとんどしなくなり、やみくもにアメリカ文明を取り入れることに執着した。それが言語上で現れたのが、横文字(カタカナ語)の氾濫である。それがけっきょく、各概念を正しく理解するという力をそぎ、さらには自文化そのものの本質まで破壊する形となってしまった。そのことが高度成長後の急激な社会、知性、文化の衰退を生じさせる一因ともなっている。実際には、言語的な現象は、一因(原因)ではなく、結果なのかもしれないが。


 つまり、日本語の混合言語説的な考え方に近いのだが、あえて元は何かということが無意味なほど、新しく出来上がったのだろう、というのが、私の日本語発生論である。この基底日本語の成立は、縄文時代なのか、あるいはさらに遡るのか、まだ私自身にはよくわからない。いずれにせよ、100年前の自国の人の言葉がわからないとか、1000年前の自国の人の発音すら理解できないのだとしたら、やはり寂しい気がする。紫式部が源氏物語をどのように朗読したのか、聞いてみたいものである。せめて、万葉集に書かれた言葉の意味ぐらい正しく理解したいものである。歌に使われた単語の意味がわからないために、詠まれた歌の感情すらわからないとは、情けないばかりである。

参考:

 「ピジン」とは現地人と接触した外国人(貿易相手等)との間で異言語間の意思疎通のために自然に作られた混合言語(接触言語)のことで、それがその地域において根付き、母語として話されるようになった物がクレオール言語である。多分に植民地政策と絡むので、あまりよいニュアンスで使われないのはやむを得ないであろう。  戦後積極的に外国語である英語を取り込んだ国や地域もある。この場合、クレオールとは異なるニュアンスを持つが、これらを積極的に示す言葉はまだあまりないようである。外来文明の受容という観点を入れない限り、これらを整理して論じることは難しいであろう。

2015年3月07日(土)

無人機ドローンの規制・運用ガイド作成を急げ

 立ち遅れていた日本も、ようやくドローンの製造に乗り出したことはすでに取り上げた。欧米ではすでにドローンによる実害が出てき始めている。ホワイトハウスに落ちたり、フランスでは原発上空を正体不明の無人機(なんと13機も)が飛んだり、さらにはドローンを飛ばしていた中東アルジャジーラの記者3人を逮捕する騒ぎまで起きている。そこで、アメリカでは早くもドローンを規制する法律がつくられようとしているが、その規制内容が厳しすぎるとドローン利用を考えている人たちからの反発もある。
 操縦免許を必要としたり、高度は150mまでで、視認飛行のみとか、いろいろ言われている。

 ここで言いたいのは、この世界的な規則等の標準作成には、日本も積極的に参加しろと言いたいのだ。世界標準など約束事を作るのが苦手で、常に損をしてきた日本。スポーツでも、日本人が活躍すると欧米は、ルールを変えてしまう。それに対して日本人は従順に従うだけ。クレームすらあまりしないようである。スポーツでこれである。産業で、これまでどれほどの不利益をこうむってきたか。

 無人飛行機だけではない。例えば、海洋開発に関わる分野での標準や約束事こそ、日本が中心となって作成すべきであろう。ドローンもまず国内の規則やガイドラインを早急に決めるべきである。そうでないと、また、日本製ドローンがガラパゴス化しかねない。

 頑張れ、日本!。

2015年3月06日(金)

廃炉原発の有効利用をすべき

 原発専業の日本原子力発電が、運転開始から約45年が経過した敦賀原発1号機(福井県)の廃炉を、今月下旬に開く取締役会で正式決定することが5日、分かった。(産経WESTより)

 火災の研究でも、シュミレーションだけではなく建物のモデルを作って実際に火を放つことをやる。耐震構造物の研究などでも同様である。シュミレーションだけでは得られない生のデータをることが出来るのは、有意義なことである。原発の格納容器などもそれなりに実物による試験が行われてきたと考えるが、ここで、もう一段それを進めて、廃炉が決定した原発設備すべてを使った実践的な研究をすべきであろう。めったにない廃炉作業である。最大限有効に利用すべきである。

 実際の設備がまだ動くうちに、あらゆるテストをすることは、今後の安全のためにも必ず役立つと信じている。特に、各種テロ対策など、昔はあまり意識していなかった数多くの攻撃や事故の想定を見直すことに、反対の国民はおるまい。原発メーカーや電力会社は反対するかもしれない。だが、結果によって過去の責任を追及するのではなく、今後に生かすことを国が保証すれば、彼らも賛成するであろうし、技術者というのは常に新しい挑戦には興味をもつものである。


 さまざまな課題の中で特に真剣にテストされなくてはならないのが、サイバー攻撃と各種のテロ攻撃とりわけ無人飛行機あるいは無人車突撃であろうか。本当に各種制御装置のコンピュータセキュリテイは万全なのか、あるいはスパイなどによりコンピュータウイルスが持ち込まれたとき、実際の機器の動きはどうなるのか。
 欧米では、原発に飛行機が墜落したときの耐性まで考えられているという。日本ではそこまでは考えないとしても、これからは、小型無人飛行機による攻撃や墜落事故は十分に可能性がある。ドローン程度の無人機で、格納容器は無事でも、周囲のケーブルに損傷を与えることで致命的なトラブルは生じないのか、試すべきことは山ほどあるだろう。

 すでに、そんな対策は取られてるというなら、その結果をぜひとも公開してほしいと思う。実機による実証テストなど、日本では全く行われていないはずである。何せ、廃炉自体が珍しいのだから。


 国は単に廃炉の費用を援助するのではなく、有効に利用してとことん使い倒すなら、支援する意味も出てくるであろう。いくら免震棟を作らせても、そこに無人の装甲車が突っ込んだ時、どうなるのか、国民の安全保障上、想定外など許されまい。20年も前に、世界で初めて一般市民に向けた化学物質(サリン)テロが行われた国でもある。高度の技術を持つ人間が、異常な行動に出るとき、それを阻止できる体制があるのか。サリンなどを無人飛行機に乗せて、免震棟に突っ込んだ時、本当に中の人達は無事で、制御も問題なく継続できるのであろうか?想定されることは無限にある。だからこそ、出来ることはすべて試してみて、廃炉を壊しまくればよい。


 国民も反対のための反対ではなく、現実に即した脅威を取り除く努力を共にすべきなのである。そのための意識を持たなければ、将来に禍根を残すことにもなりかねないだろう。

2015年3月05日(木)

成人(おとな)って何だ?

 選挙法の改正が確実だという。現在の20才から18才に投票者年齢が引き下げられるのだ。ほとんどすべての政党が賛成しているので、今年成立して、来年の選挙から投票者が増えるのは確実である。他の重要な政策、急がねばならない法律の検討は進まないのに、なぜ政治家はこの選挙年齢引き下げに、かくもみんなが賛成なのだろうか? 政治家の見えざる魂胆があるようで、気持ちが悪い。

 といって、年齢引き下げに反対なのではない。逆で、同時に、成人年齢を20から18歳に引き下げるべきだと思っている。大きく絡むのが民法の成人規定と少年法である。120年ぶりの民法大改正が行われるのなら、そこではぜひとも、成人年齢を18歳に引き下げてほしい。

 投票という権利はあたえても、義務は果たさなくてよいなどという過剰な保護は、社会を乱すだけであろう。ちょうど川崎中1殺害事件で、少年法改正を唱える一般国民と、人権派を自認する(いや自認したい)一部の原理主義者が対立を深めている。少年法についても当然変えるべきだと考えるが、ここでは触れないでおく。


 そもそも成人てなんだろう? 大人としての成熟した心身を持つ人間という事なのだろうか?としたら、それは明らかに個人差があるだろう。それを年齢という尺度で一律に決めること自体に無理がある。昔の武士は、元服をもって大人として扱われるようになる。その年齢は必ずしも全員が一致していたわけではないし、ましてや、誕生日の違いで刑罰が変わるなどという馬鹿げたことはなかっただろうと思う。余談だが川崎事件でも、主犯は18歳だが、共犯の17歳二人のうち一人は、主犯と同学年なのである。


 成人とはどのようなものであり、どうなければならないのか、そのためにはどのような教育がおこなわれ、社会の仕組みはどうあらねばならないのか、そういう肝心な議論がすべて抜け落ちている。

 日本人は性格として、人の年齢をやたらに気にする。おまけに、異常なほどの平等主義、公平性を求める。それも個々の事情ではなく、特定の尺度により一律に決めることを公平なのだと勘違いし易い気質がある。こういう日本人気質が、話をさらにややこしくしているのだろう。

 精神年齢が子供のままだと言われる大学生などの若者を、どうやって大人にするのだろうか。誕生日をもって突然子供からいきなり大人になる、などという事を本気で信じているわけではあるまい。


 すでに、烈風飛激で、成人になるための1年間の教育を全国民に行うことを提案した。すでに働いていようが、まだ学生であろうが、成人となる前年に成人の権利と義務、一般常識とは何か、そんなことをもう一度教える必要があるのだろう。本来なら家庭や周囲が、それまでに育むものであるが、それが実践されていないのなら、せめてこういう教育を国として行うべきである。むろん、さすがに試験をやれとは言わない。その必要がないことこそ大人の証(あかし)なのだから。

 これを機会に、「大人って何?」と自問自答してほしいものである。

2015年3月04日(水)

無人機ドローンで日本が出遅れた理由

 無人機の開発についてはかなり以前から発言してきたのだが、世界的に見ると日本はかなり遅れてしまった。いま、大急ぎで研究・開発を進めている現状である。なぜ、こんなに日本は遅れたのか。新しいことに投資をしようとしなかったここ20年の経営者の存在も大きいのだが、やはり何と言っても、軍事技術での開発遅れ、というか開発をしてこなかったということであろう。

 失われた20年は、マクロ経済だけの話ではない。社会を直接動かす立場にある多くの人間の劣化がある事は、折に触れて述べてきた。アベノミクスで経済が上向き、大手企業などは、空前ともいわれるほどの内部留保を蓄えていながら、それを有効に使おうとしない。市場の先行きが少子化で見通せないので、投資は控えるのが当然であるという「合成の誤謬」を絵にかいたような発言をする経営者ばかりである。単なる自己保身と新しい技術や社会の仕組みへの先見性のなさにすぎないのだが。

 それ以上に馬鹿げた問題が、軍事技術蔑視観とでも呼ぶ歪んだ意識であろう。東大には、軍組織からの資金(直接の武器開発だけでなく、主催するコンテスト結果まで)は一切受け取ってはならない決まりがあるが、最近ある学部がそれを廃止したと報じられていた。現実を正しく把握することが出来ない一種の平和ボケが、日本の技術の進展を阻んでいるのが現状である。行政による規制ばかりが問題ではないのだ。

 現在の世界においては、軍事技術と平和利用目的の技術などという区分は、意味をなさなくなっている。特に、最新技術においてはその傾向が強い。一部のマスコミや政治家などが、軍事軍事と騒いで、日本の技術の発展を阻害してきた。基礎技術があっても商業化・産業化で遅れをとる日本と言われるが、それだけでは済まずに、新しい基礎技術自体が、日本ではほとんど生まれなくなってしまった。

 インターネットもGPSも現代社会でなくてはならないものであるが、ともに軍事技術が解放されたものであることはさすがに有名になった。エボラについても、民間は患者数が少ないので薬の開発をしようとしなかった中で、アメリカ軍は研究を重ねていた。むろん理由は国防、すなわち細菌によるテロへの対処のためであるが、結果として人類全体に貢献することになっている。技術そのものに、色はない。ダイナマイトも土木作業で使えば良い技術でも、爆弾にすれば人殺しの道具である。言うまでもないことだが、軍事用兵器を大々的に開発して売れと言っているわけではない。基礎技術に軍事という色を付けることの愚かさを述べているに過ぎない。


 無人機には飛行機から潜水艇まで様々なものがあるが、ここでは無人機ドローンについて話している。ドローンは、無人飛行機のひとつで複数のプロペラを持つ機械である。無人飛行機の重要性は、かなり前からわかっていたことで、とくに軍事上は激しい開発競争が行われていた。そのなかで、ドローンと呼ばれる無人機の商用利用をアマゾンがぶち上げたことから、がぜん注目されるようになった。

 無人飛行機ドローンの開発でも、軍事での開発だけではなく、日本では、大学や研究機関でもほとんど行われてこなかった。技術に対する偏見と大学や研究開発に携わる者の新しいことへの挑戦心のなさが原因であろう。結果、全日本でと言えば聞こえはいいが、どこもやっていなかったので、唯一ともいえる千葉大学発のドローンをもとに半ば国策として福島での製造を決め、それに全国から200社もの企業が参画するという。相変わらず、誰かがやるとか、補助金が出るとなると参加する主体性のなさには、日本の製造業の未来に首をかしげてしまうのだが。


 あまりにも悲観的な話になってしまった。無人機関連でも頑張っている企業も日本にはある。ぜひとも頑張ってほしいものである。そこでひとつ提案というか考えてほしいのが、無人機単体の開発ではなく、利用アプリも含めた総合的なシステムを考えて欲しいと思うのだが。
 たとえば、石炭などの資源を掘り出すために使われる特殊車両でGPS利用によって無人で動くものがある。これに加えて、ドローンのような無人機で現場の状況などを詳細につかんで、その情報を特殊車両に送ってやる。こういうAI的な複合システムを開発できれば、単純な単体の価格競争からも逃れられるであろう。このような組み合わせは非常に多く考えられる。
 災害対策用であれば、平常時の地形と豪雨の動きを重ね、さらに土砂災害の危険性をリアルタイムに把握しながら(これには雨中でも飛べる無人機の開発が必要だが)、さらに災害発生後の対応までひとくくりにしたシステムを作ることが、これからの時代の要求でもある。

 アイデアやチャンスはいくらでもある。やろうとしない自己保身の意識が、それを邪魔しているだけなのだ。


 無人飛行機は偵察だけではなく、アメリカのような本格的な攻撃機でなくても、近い将来テロなどにも簡単に利用されるときが来るであろう。それにどう対処するのか。そこでも、技術力が重要になってくる。国民の安全を守るためにも、軍事関連などと言っている余裕などないはずである。

2015年3月03日(火)

大塚家具の騒動にみる集団農耕型気質

  日本人の気質では、現代日本社会の多くの組織で起きる問題の裏に、気質それも集団農耕型気質のもつ特徴(特長ではない)が関係していると述べてきた。

 父、会長と娘、社長の性格は、個人のことなので触れないでおこう。報道によれば、会長を支持する文書への幹部・店長の署名捺印は42名に上り、幹部の8割を占めるという。ここにも、集団農耕型気質の問題が見え隠れするような気がする。

 親子だろうが何だろうが権力闘争なのであるから、会長がこういう文書を出すのも、社長が配当金倍増を発表するのも、株主対策としては当然であろう。ここで気になるのが、幹部8割の動向である。結局、会社や従業員さらにはお客様という大きな「くくり」を重視するのではなく、すでに幹部としての自分の立場をめぐる「くくり」、それを守ることが最優先になっているのではないだろうか。
 既得権者は基本的に保守的、保身的である。すでにそれなりの利益を得ているのだから当然と言えば当然なのだが、この自己のくくりだけしか見ようとしないくくりへの撞着が、結局は、くくり(ここでいえば会社そのもの)を滅ぼす事になる。戦前の軍部が国を亡ぼしても自分のくくり(軍や参謀本部)を優先させたように、現在の縦割りの弊害について国益より省益と言われるように、小さな亡国の思考は日本のあらゆるところに今も存在しているのだ。

2015年3月02日(月)

移民賛成の裏にある差別観

 IS(イスラム国)のテロそして欧米からの若者の参加で、改めて「移民」問題が大きくなっている。欧米では、移民排斥機運が高まる一方で、移民排斥は差別だとのリベラル派の主張も強い。そんななかで、海外の後追いばかりが好きな日本では、少子高齢化対策、財政破たん回避、成長維持のためには、移民受け入れも止む無し、いや積極的に受け入れるべきだとの主張が、財界をはじめとする既得権益者たちから湧き上がっている。

 相変わらず、目先の利益、自己利益しか考えず、将来の問題など無視する今の日本人の官僚的思考には、ほとほといやになるし、同じ日本人として恥ずかしくもある。だが、私が移民受け入れに反対するのは、移民2世、3世などの将来の話だけではない。

 なぜか、だれも口にしないことがある。そもそも大方の移民受け入れとは、つらい、きつい仕事など自国民が嫌がる仕事の担い手か、安く使える安価な労働力としての受け入れが大半である。という事は、自国民とそのような仕事の労働者という明らかな差別が存在していることになる。単純な肌の色による人種差別や、民族差別とことなり、自国民と移民という構造は複雑であるが、差別する集団のくくりがあることに変わりはない。なぜ、この差別感(差別観)には口をつぐんでしまうのであろうか?人権派やリベラルとか言いながら、この種の移民の受け入れを容認していること自体、そのような集団の違いを認めている前提ではないのか?受け入れた移民を差別することはけしからんという話には、無意識であれ、そのような前提にある差別を無視しているのではないだろうか。


 反論は多々あるだろう。少子化や成長の鈍化した社会に新しい移民を受け入れ、その移民に自国民と同じ待遇を成すのだから差別ではない、と言い張る人もいるだろう。だからと言って、それが現実に欧米をはじめとして根深くある差別意識をなくすことにはつながってはいない。仮に、全く対等な機会と待遇が与えられてもなお、移民の側が感じる差別感は、移民でもない日本人が欧米で受ける差別感を知っていれば、十分に理解が出来る。

 認めるべきであろう。移民受け入れとは、移民と言う名の人々を自分達より低く見ている差別意識が根底にあることを。確かに、貧しい国の人々が、たとえ少しくらいきついいやな仕事でも、母国よりましな生活が出来るのであれば、自ら受け入れるのだから認めるべきである、という論は成立するのかもしれない。しかし、私はいやである。なぜなら、同じ人間として、相手が認めるから差別意識を持ってよいという事にはならないであろうと考えるからである。真の人権尊重とは、そういうものではないのだろうか。


 人生勉強をさせてもらえる機会に恵まれた会社員生活であった。そのなかで、多くの国における、民族差別や人種差別を見てきたし、ささやかではあるが自ら体験することもあった。その話は、ブログや自著に取り上げさせてもらってきたので、ここでは取り上げないでおこう。ただ、くくり(集団と言ってもよい)への人間の差別意識は、動物の縄張り意識のような動物の生存そのものに関わる本能的なものが根底にあり、決して理性だけで解決できるようには思えない。それが、正直な考えである。


 なお、移民と一口に言っても、金持ちが持参金付きで移住することを、認めるというか奨励している国も多い。ここではそのような恵まれた移住者を移民に含めていないことは、言うまでもないことである。また、アメリカのように移民で成り立つ国では、優秀な頭脳の移民や、広大な土地がある限り受け入れることが可能な労働者かつ消費者としての移民も、少し異なる移民であることも。だが、それでも、そのようにして受け入れたアメリカですら、差別が一向になくならないのは、人間の性(さが)なのであろうか。

 あなたは、今の日本で受け入れる労働力としての移民に対して、差別意識など微塵もなく受け入れるのだと、「天」にも恥じることなく言う事が出来ますか?


おまけ:
 私がアメリカのシリコンバレー近くにある合弁先の会社に初めて出張したのは、40年以上も昔のことである。繰り返して出張しているうちに、相手先のアメリカ人と自由な話が出来る関係に成れた。そこで聞かされた話である。
 いま白人の多くは北に向かって逃げ出しているのだと。理由はヒスパニック系移民が多くなり、このあたりにまで居を構えるようになってきた。それを嫌って町を逃げ出しているのだと。古い家を壊すこともなく放置したままで、別のところに引っ越していく。そんな広大な土地を持つアメリカをうらやましく思いながら、差別感とは、理屈ではなく嫌悪感からなるのだと、改めて知った私であった。渡米の機会を失ってから7年以上がたつが、報道などを見る限り、白人の非白人への嫌悪感が消滅したようには思えないのだが。むろん、非白人の白人への嫌悪もまた。

2015年3月01日(日)

戦後70年総理大臣談話の内容

 戦後70年の総理大臣談話。総理大臣の談話でありながら、他国が口をはさみ、野党や与党・連立与党まで口出しをしている現状は、異常に見えるのだが。ここでは前向きな提案をしたい。戦前の反省や戦後の歩みは挿入してもらうとして、やはり、格調高い未来に向けた人類の課題を取り上げるべきであろう。それは同時に日本社会が抱える問題でもあるのだから。それは、次のような事柄である。

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 人類は本当に進化しているのであろうか?戦後の焼け野原から経済的には豊かな国となり、平和を希求する穏やかな国柄にもどった日本社会。しかし世界に眼を転じると、あらゆるところで戦火は続き、人心は荒廃している。人の心の荒廃は日本も例外ではない。科学技術の素晴らしい進歩の恩恵を受けながら、なぜこれほどに人間社会は多くの問題を抱えてしまったのだろうか。本当に人類は進歩しているのであろうか?

人類はいま、七つの大罪とでもいうべき問題を抱えている。

 戦争・紛争・争い
 貧困
 病気
 教育の不在
 さまざまな差別
 環境破壊
 核兵器



戦争・紛争・争い:
   世界大戦と呼ばれる様な大きな戦争がなくなったからと言って、戦火が消えたわけではない。それどころか、戦後になってから世界中で戦火の収まった時は一度もない。
貧困:
   貧しさは次第になくなるはずであった。しかし、現実はそれとは程遠い。貧しさは格差をさらに拡大させて、それ以外の他の大罪の大きな原因ともなっている。
病気:
   科学の進歩は、病(やまい)を劇的に減少させる。確かに一部の国や地域では、そうなった。しkし、ここでも大きな格差が出来るとともに、先進国でも、新たなる病が増加するばかりである。まるで、人間が病を生み出しているかのように。
教育の不在:
   人類の進歩・発展の礎は、教育にある。教育なしに、様々な問題の芽を摘むことは出来ない。いまだ、教育の機会を奪われた多くの人々がこの地球にはあふれている。
さまざまな差別:
   格差が差別を生み、多くの問題を深刻化させる。対立の基になる差別をなくしながら、お互いの差異を尊重しなくてはならない。差別と差違を混同してはならない。
環境破壊:
   経済発展のために許容されるとしてきた環境破壊は、すでに人類の手におえないところにまで進んでしまった。個々の利益だけを追求しても、地球が滅びれば何も残らないことをもう一度自覚すべきであろう。
核兵器:
   一瞬にして20万人もの一般市民が犠牲となった原爆投下。まさにこの世の生き地獄を体験したのが日本である。しかも、二度にわたって。人類が再び同じ生き地獄を見ることがないように、地上からすべての核兵器が廃絶されなくてはならない。



 これら人類が抱える七つの課題に戦後の日本は果敢に挑戦してきた。しかし人間社会がこれらの課題を克服したとはいいがたいのが現実である。これら七つの問題は、結果として、憎悪・憎しみの連鎖を生み出す事になる。過去の反省を踏まえたうえで、これらの課題を、国際社会全体とともに克服する歩みを進めていく。それがこれからの日本の目標であり進むべき道である。

 これらの課題をのりこえて、疑いもなく真に人類は進歩をしていると胸を張って言える明日にしたい。その日が必ず来ることを信じて。

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 七つの大罪の詳細は、文章では補足的なことでもよいかもしれない。だが、口頭で発表するときには、短くてよいから的確な内容、つまり本当に言いたいことも暗に含めてよいだろう。核兵器を取り上げることは、とりもなおさず、日本が受けた非人道的で無差別の大量破壊への暗黙の抗議でもある。徒に反論したり、無視するのではなく、普遍的な価値観に絡めて発信することが重要なのである。むろん、これらは、単に日本が言いたいことを言うためだけのものではなく、真に世界が抱える深刻な問題なのである。そのことを多くの日本人と世界の人々に知ってもらう事こそ、世界のリーダーを目指す国の指導者がなすべき行為である。

 戦前の反省と戦後の歩みは簡潔にどこかに追加すればよいだろう。しかし、はじめと終わりは、「人類の進化」という高尚な言葉で繋げるべきである。

 官僚の好きな抽象的な飾り文句は、英語には正しく翻訳しずらい。それよりも、このような具体的な事柄を取り上げる方が、外国人には理解しやすい。この内容ならば、日本に偏見を持った勢力も、批判はしずらいであろう。なにせ、正しい事なのだから。

秋山鷹志