平成27年(2015年)5−6月分
平成27年6月29日(月)
いま日本で起きていること アメリカ文明の過剰受容
日本人の気質には、簡単に他文明を受容する特徴のある事はこれまでに述べてきた。そして、その受容が過剰になりやすいのも気質が絡むものであると。いま安倍政権をはじめとする社会の指導層とも呼ぶべき人々の多くが、アメリカ文明のよりいっそうの受容を目指しているようにみえる。日本においてアメリカ文明の受容は、すでに過剰受容になっている。過剰受容は、社会に混乱を招くだけでなく、反動的な動きを生み出すことにもつながり、決して望ましいものではない。
日本の歴史を見ても、弥生文明の過剰受容、中国文明の過剰受容、西洋文明の過剰受容は、それぞれ次の時代に悪影響を残してしまった。第二次世界大戦の終結により、日本は強制的にアメリカ文明を受容させられてきたが、必ずしも悪いことばかりではなかった。しかし、日本人の大元にある日本文化、それは日本人の感性と言い換えることも出来るが、と相容れないものを無理矢理押しつけられれば、当然、摩擦や衝突が起きてくる。それがさらに進むと、やがて反動的で偏狭な民族主義が顔をのぞかせることにもなる。いまの日本は、すでにこの混沌とした状況が始まっているように思われる。
本来保守的、民族主義的と思われている安倍政権が、逆のアメリカ文明の積極的(実際には過剰)な受容を推し進め、結果として極端に愛国主義的なものが生まれている。これは歴史の皮肉なのか、それとも精緻な計画に基づくものなのか!
日本が外国の文化や文明を受け入れるとき、ひとつの型のようなものがある。それが「らせん状振り子型受容」と名付けたものである。
らせん状振り子型受容
日本は極端から極端に走るとよく言われる。確かに明治維新でも、戦後の復興でも、一夜にして百八十度変わることが、平気で起きてしまう。保守的でありかつ新しいもの好きでもある、そんな両面を持つ日本人ならではなのかもしれない。理由はさておき、よく見るとこれが日本における他文明の受け入れ方であるように見える。つまり、保守的、伝統的であるがゆえに、振り子を引っ張るように大きく揺らしてやらないと反対側あるいは異なる方向に動かない。動き出すと極端に振り子が振れる。そして行き過ぎた反動で自文化への回帰が起こり、両者が融合した新たな文化が形成されていく。日本文化のらせん状振り子型受容方式とでも呼ぶべきものである。
このような形態をとる結果、洗脳されやすい気質とも相まって、他国文化の受容において行き過ぎることも多い。それがまた、反動の振り子となって伝統文化が重視されるようになる。しかしいずれにしても、それは主に表層文化のことであり、深層文化の領域にまではなかなか影響が及ばない。振り子が異なる方向に振られて激しく動き、その結果が深層文化に少しずつ浸透していく。変わったようで日本文化の本質は何もかわらない、といわれるのはこのためであろう。
アメリカ文明過剰受容が引き起こしている衝突・混乱の例
これまでの話を理解した上で、実際の日本社会で起きている事柄を見てみると、その実相がよく見えてくる。いくつかの例を見てみよう。
外国人経営者の失敗
バブル崩壊後の日本経済の低迷において、SONYをはじめ多くの日本企業が、再度アメリカを見習え、アメリカのまねをしろということになった。アメリカ式の実力主義、評価主義、効率重視主義、短期主義、人材の社内教育放棄、株主重視、リストラ、人件費圧縮(人件費のコスト化)等々、きりがない。すべてをアメリカ流だというのも酷な気がするが、それぞれのやり方を導入する際には必ずと言って良いほど、欧米の成功事例とやらが引き合いに出された。
アメリカ流究極の姿が、外国人経営者の導入であった。だがSONYに代表されるように、およそ日本企業での大々的な成功例はない。当然であろう、企業は経営者だけで成立しているわけではない。多くの従業員、そして顧客、それらがよってたつ文化の上に成り立っている。周囲がアメリカ流になっていないところに、いくら経営だけアメリカ流を持ち込んでも成功するわけがない。こんな単純な事もわからないほど劣化した日本人経営者たちは、文化とか気質というものを全く考えてこなかった。
最近では、数式で割り切れるはずの経済までも感情で動くと言われる時代になった。それから見ると、彼らの意識が遅れているとしか言いようがないのだが。
日産という成功例があると反論する人もいるかもしれない。何にでも例外はある。それを取り上げてもさして意味はない。個人的には、外国人経営者で日産が成功したなどとは思っていない。日本人の集団農耕型気質があればこその成功であった。あれだけのリストラでコストカットをすれば別に日本人経営者でも、同じ結果がえられる。それを日本人経営者だとやりずらく、外国人経営者だと仕方がないと受け入れてしまうのは、彼の手柄ではなく、日本人の集団農耕型気質のなせる業である。他にもあるが、ここでは関係ないので省略しよう。
外国人経営者というのは、典型的な例であり、日本の多くの経営者が自ら考えることを放棄して、ひたすら欧米流のやり方を信奉する他文化崇拝主義のひとつに過ぎない。
アベノミクスでしこたま内部留保を蓄えながら、それを国内投資や給与として日本社会に還元することなく、ひたすら自己保身と自社の目先の利益のために浪費する。それが内需をさらに冷え込ませて、成長の足を引っ張る。こういう自己中心的な考え方は、本来の日本人気質である孤高武士型気質とは相容れないものである。
国内生産を続けることで、雇用確保を必死でやっている経営者もいるなか、ドライな欧米流経営が、全体の首を絞め続けていることがわからないのだろうか。
男女平等という名の低賃金労働者確保
安倍政権は、女性の積極的な活用をうたい文句にしている。それは、経済界からの労働力それも低賃金の労働力を求める声に押された結果でもある。
日本企業は仕事の効率が悪い、従ってもっと安い賃金の労働力を必要としているなどともっともらしい説明にだまされて、安い労働力の確保に悩む政府。さりとて安倍総理は移民受け入れには基本的に反対である。となれば、女性労働力が良いと言うことに。官僚は税金が多くとれるので、労働者が増えればうれしい。またさまざまな問題(保育所不足、教育等)があれば、それは官僚が権限を拡大する絶好の機会ともなる。女性たちは、社会進出という美名に酔い、労働環境の劣悪さに目をつぶる。家庭に収まるのは男女平等に反するという、これまたゆがんだ話についだまされる。働くには保育所を作れと女性は要求する、が基本的には家庭重視の安倍総理、理想とのギャップがあって、なかなか乗り気にはなれない。......そう、この話、きりがないのである。社会の矛盾や不条理の裏側にある、隠れた大きな原因を理解すべきなのだ。
バブル崩壊前、日本の標準的な家庭は夫が働き妻と子供が家にいた。こう書くだけで、批判が飛んできそうだが..。「夫」のところを「一人」と置き換えてほしい。気がつかれたであろうか?当時は、一人の収入で4人家族が生計を立てていられたのである。いまは共稼ぎをしなくては、子供を育てることも出来ないという。これって、明らかに日本社会の劣化であろう。いま目指すべきなのは、男でも女でもよいから一人が働けば、家族4人が暮らせる社会を取り戻すことである。理想なのではなく、実現していたのにそこから悪くなってしまったのだ。理想でいえば、この働く「ひとり」が一人分になることだろう。たとえば夫も妻も交代で、週に3日だけ働く形態のような。
男女がともに社会で働くという欧米流の考え方、正規、非正規の働き方の多様性という欧米流の考え方。だが、社会構造が異なり、極端に走ってしまう社会においては、表層だけ導入しても、悪い方向に利用されるだけで終わってしまう。男女がともに働くことで経済が上向くと考えている総理に、どうして二人働かないといけないのかと、立ち止まって考えてほしいものである。男女平等なら、どちらが働いても、ともに少しずつ働いても良いであろうに、男女共に社会に出ないのはけしからんというのは、欧米の傲慢な理論である。
男女どちらかが週5日働けば家族が食べてゆける。夫も妻も3日働くと、一日分さらに余裕がうまれる。それを消費に回せば、内需も拡大する。その日だけ子供を保育園にいれれば、子供の世界も広がるし、保育所不足にもならない。
正規、非正規どうでも良い。問題なのは、待遇なのだから。正規だろうが、3日の派遣だろうが待遇は同じ。それが本当の働き方の多様性を保証する根本である。むろん労働者だけの方を持つ気はない。企業にとって負担となっている社会保険等の公平化と見直しもまた必要になろう。企業年金、終身雇用型の退職金も、変えねばならない。
いま問題となっている個々の事柄に細々とした対処療法的な政策を施すのではなく、どうあるべきかの姿を描き、その実現を邪魔しているものを取り除く。それが正しい政治、企業そして社会のあり方だろう。
アメリカ文明の過剰受容が日本人の分裂を招いている
文化の衝突や矛盾などの話はきりがないので、また別の機会に続けよう。
株や住宅で少し儲かると、すぐに消費に回すアメリカや中国流。それが国内の消費拡大をうみ、経済成長の好循環となる。少し余分なお金が入ると、すぐ貯金に回そうとする日本流。あぶく銭と不労所得を軽蔑する日本人。これでは、経済の悪循環も抜け出せない。国民の気質や文化を考えない政策は、決して成功することはないだろう。
このまま、アメリカ文明の過剰受容を続けることはさらなる文化的摩擦や衝突を生む。戦後の自虐的とも称される左翼的、リベラル原理主義に洗脳された人々に対して、怒りにもにた反発が日本人の中に醸成されている。そこに中国と韓国が、そして時に欧米が油を注ぎ込む。
現在の日本は右傾化しているのではなく、振り子が正しい位置に戻ろうとする動きなのだが、それを無理矢理止めようとする動きがかえって反動を強めてしまう。ヘイトスピーチとか、一部議員の傲慢な発言などは、その端的な表れであろう。
戦前と戦後で全く異なる日本人が生まれたわけではない。戦前は振り子が右に、戦後は左に極端に振られただけで、気質は同じものである。極端に走らない調和のとれた位置を心がけることこそ、すべての日本人が肝に命じる事なのだ。振り子を極端に振らす原因の一つが、アメリカ文明の過剰受容なのだと認識してほしい。
難しい問題をはしょって説明したため、わかりづらくなったかもしれない。反省!
平成27年6月26日(金)
テロ犯人への対応をどうするのか?
少し前に、アルジェリアのテロ実行の主犯ベルモフタールを米軍が空爆で殺害したニュースが流れた。日本でも10名もの犠牲者を出した大きなテロであり、日本の警察も彼を犯人として指名手配していたのだが、日本のマスコミはほとんど騒ぐこともなかった。自国の国民が10名も殺害された事件だというのに、相変わらずのど元過ぎればなのだろうか。
安全保障関連法で国会は大もめにもめ、マスコミも野党も感情的な反対論をひたすらあおるだけの様相は、あまりにも見苦しい。この法案の是非はさておき、ここでは、今回のように日本人が殺害されたり誘拐されて、犯人がわかった場合に、いったい日本の国、国民はどう対応するつもりなのだろうか?
アメリカのように空爆をすれば、当然軍事行動と言うことになる。さりとて、警察がのこのこ行けるような場所でも状況でもない。結局、知らん顔を決め込むだけなのだろうか?この問題は、政府だけの問題ではない。日本人全体の問題なのである。だが、本当に検討しなくてはならない事柄も少し困難さを伴うと、議論すら拒否してしまう。
軍事行動を起こさなければ、それは結局、犯人を野放しにして見逃すことを選択したことである。その負い目をきちんと背負う覚悟が、いまの日本人にあるのだろうか?
いまの日本の軍事的能力から、犯人への対応行動を起こすことはほぼ不可能であろう。だから、軍事力を増強せよと言うつもりもない。ただ、逃げずにきちんと対峙する覚悟くらいは、すべての日本人が持ちたいものである。
平成27年6月26日(金)
マイナンバー 焼け太りをいい加減やめさせろ
何か不祥事や問題が発生すると、その原因究明や責任の所在追及はほとんど行われることなく、誰も責任などとらない。監督官庁の大臣の首など取ったところで、何の実効性も意味もない。単なる政治家たちのパフォーマンスである。肝心の官僚たちは、責任を痛感するどころか、姑息な焼け太りを画策する。そして、政治家、マスコミはむろん、社会もそれを無条件に受け入れてしまう。なんと愚かな国民なのだろうか。
この官僚などの焼け太りについては、これまでも原発事故その他の事例で、幾度となく指摘してきたが、世の中はいっこうに目を向けようとすらしない。
日本年金機構の情報漏洩では、マイナンバー制度の情報漏洩防止が問題となった。死肉をあさるハイエナのごとく、たちまち関係者たちが焼け太り策を策定した。担当大臣たちは自己保身と実績誇示のために、官僚たちは自分たちの利権拡大のために、関係者はそこでの金儲けのために、マスコミは自分たちが騒いで対応をとらせたと自己満足と虚栄のために、多くの無責任な国民はとりあえずの安心感のために、誰も反対をしない。それどころか反対すれば、けしからんと袋だたきに会うのが関の山である。
実効性のない無駄な政策と金の浪費が、多額の借金と繰り返される不祥事の山を築き上げていく。
記事にある図を見て頭に血が上ってしまい、無駄な毒をはいてしまった。反省、反省!
「マイナンバー、サイバー防御…監視組織を新設へ」(読売)
ある図とは、新しく作られるマイナンバーの情報漏洩のための仕組みである。一見して、現在の組織と同じものをなぜわざわざ二つも作るのか、それでなくても日本ではサーバーセキュリテイの人材が不足しているというのに。さらに致命的なのは、今回の年金機構の情報漏洩で一番の問題は、働く人間たちの意識と、重要なデータを手元のシステムに簡単に移して使用させるシステムそのものである。これらの対策は何も講じられずに、またまた組織と予算だけをぶんどるのでは、これまでの焼け太りと全く同じにしか見えないのである。
むろん詳細は知らないのだから、なぜこの政策が単なる焼け太りだと言えるのかと聞かれれば、過去の経験と報道された内容から想像したとしか言えない。それでも、それほど大きくずれてはいまい。
表のマスコミは、こういうとき官僚擁護派と化す。裏マスコミ(ネット)では、私と同じように強く批判するコメントもあるのがせめてもの救いである。
平成27年6月23日(火)
「人類も滅亡か」「結婚したくない」同じ背景が
前回掲題で書くつもりが、少し横道にそれてしまった。今回こそ、この話に。
人類が地球上の生物絶滅の6回目を迎えようとしているというのが、「人類も滅亡か」である。一方、「結婚したくない」というのは、少子化社会対策白書のニュースである。白書に寄れば20代30代の若者が「恋人が欲しくない」と答えた人は、37.6%となった。その理由を尋ねたところ、46.2%が「恋愛が面倒」と回答。「自分の趣味に力を入れたい」が45.1%、「仕事や勉強に力を入れたい」32.9%、「恋愛に興味がない」が28%と続いた。
【参考】
内閣府HP「平成26年版 少子化社会対策白書 全体版(PDF形式)」
この二つは何ら関係がない事柄に見える。だが本当にそうなのだろうか?わたしには、大元のところでつながっている、同じ理由が隠されているように思えて仕方がない。早々と結論を述べてしまえば、どちらも人間の自己中心的な考え方や生き方が事柄の背後にはある。
身勝手な欲望や経済的利益追求のために、人間が自然や環境を破壊していることは明らかになっているが、なかなか止められない。一方、恋人より趣味を選ぶのも、恋愛という他人とのつきあいが面倒だと考えるのも、すべては自分と言う個人だけしか考えない、それがすべてだということに他ならない。一言で自己中心的と言うにはあまりにもさまざまな要素が含まれてはいるが、少なくともヒト種の存続など全く眼中にないことは事実であろう。
これは、日本人の気質で指摘した『「個」の利己』が、『「種」の利己』を上回っている状態を端的に表しているのではないだろうか。知的生物としての人間ではあっても、ヒトという生物種ではなくなっているのだろう。
【参考】
日本人の気質 第9章「種の利己」と「個の利己」
いま人類が絶滅の危機に瀕しているとしたら、このヒト種の存続という生物が待っている遺伝子が壊れてしまっているところにこそ真の危機があるのではないだろうか。
平成27年6月23日(火)
「人類も滅亡か」 どうぞご勝手に(地球より)
こんな記事が目についた。
『世界は地球史上6回目の大量絶滅を迎えつつあり、これまでの約100倍のペースで生物種の消滅が進んでいるとした研究論文が先週、発表された。人類も早期に死滅する可能性があるとして警告している。
研究は「すでに脅威にさらされている生物種を保護するため、生息圏の喪失や経済的利益のための搾取、気候変動など、生物種にかかっているそうした圧力を緩和する集中的な取り組みが早急に必要」だと呼び掛けている。
【AFP=時事】』
アメリカのいくつかの大学の研究者が、先週発表した論文だとか。紹介する記事が短すぎてその詳細は不明なのだが、要するに6回目となる地球上の生物の大量絶滅の原因は人間にある、という事らしい。
この種の報道や論説に接するたび、西洋科学に毒された科学者の思い上がった傲慢さを感じてしまうのが常である。なぜなら、地球をそして地球上の生物を救うのは我々人類であると言うことなのだが、そんな事、地球が頼んでいるのだろうか?
地球環境を破壊し、他の種を絶滅させる「ヒト」もまた、地球上に生まれた生物種のひとつに過ぎない。それが暴走して自ら滅ぶのなら、それもまた自然の摂理であり、恐竜絶滅と同じであろう。地球は、また新たにヒトに代わる生物種を生み出すだけだろう。この種の話には、常にこの視点がすっぽりと抜け落ちている。人類こそ地球の主であるかのような傲慢さが、人間の暴走を生み出している事への反省が感じられないのだ。
人類が生存しようが滅びようが、そんな事『地球』の知った事ではないし、どちらに転んでも痛くもかゆくもないだろう。地球が気まぐれを起こして、あるいは何らかの理由によって、いきなり氷河期が来たり、地殻が急に動き出せば、いまの人間の科学ではなすすべもなく、人類は絶滅するであろう。
ヒトが生まれる前から、地球上では多くの生物種が誕生し、そして絶滅していった。生まれるのも、滅びるのもまた、自然の営みだったのである。それを、人間様が他の生物種を絶滅から救ってやるだと?どこまで思い上がっているのだろうか。
牛や豚はどんどん殺せ、イルカや鯨を殺すのはけしからん。少数民族が鯨を殺すのは見逃してやるが、日本が殺すのはけしからん。これらの話は、みなどこかでつながっているように感じてしまう。これはあまりにも民族主義者的な考え方なのだろうか?それともただのひねくれ者?
どちらにしても日本人の感性とは、とうてい相容れないものである。それを博愛主義だの、理想主義だの、進歩人だのと、深く考えもせずに無条件で迎合する日本人のなんと多いことか。彼らはすでに、日本人としての感性をその遺伝子から失っているのだろうか。
自然への畏敬の念があればこそ、初めて傲慢な我が物顔の行動を慎むことになる。それに対して、人間が知性を持って偉いから他の生物をコントロールしてやるというのは、同じように見えて全く異なる。この勘違いが直らないから、なおさら人間社会の暴走もまた止めることが困難になっているのだろう。
この話は難しすぎて、なかなか伝わらないのかもしれないが...。
平成27年6月22日(月)
増えている かけるだけの電話
しつこい勧誘やいたずら電話には、いい加減腹が立つが、さらに奇妙な電話が
増えているように思える。
番号は通知してかけてくるのだが、電話に出ても無言のまま、時に、相手を待た
せるときに使う音楽のようなものが永遠に流れることも。単なるいたずらでは
なさそうである。留守電にまで無言やBGMを長々入れてくるのだ。
固定電話にはかからず、携帯だけ。固定電話は昔ながらの勧誘ばかり。
電話番号もしょっちゅう変えてくるので、いくら着信拒否にしてもきりがない。
単純ないたずらでなさそうだと思うのは、ネットで見ると同じような経験がのっ
ているからだ。これだけ多くの相手にしつこくやるのは、なにか目的があろう。
もしも詐欺目的であれば、電話に出た相手がそれにあわないとおもえば、二度
とかけては来ないだろう。しかし、何度でも繰り返してくる。
IP電話用ルータが乗っ取られて、高額な国際電話代を請求された詐欺があった。
この時、国際電話をした先はアフリカで、しかもかけて相手が出るとすぐに切る
というのをしつこく繰り返している。なぜ、これで金がとれるのかと言えば、相
手国の電話会社が、自分の電話網を使った人にキャッシュバックをしているから
だ。時にこちらの電話会社も。
同じような事を考えてしまうのだが、考えすぎだろうか?
おかしな発信元とわかっているのに、なぜNTTや電話会社はその電話をすぐ使用
できないようにしないのだろうか?
詐欺のブラックリストに載っている電話番号から電話が来たら警告する装置もある
が、おかしな話である。わかっているなら、なぜその番号をすぐに使えなくしない
のだ。おとり捜査が許されない(麻薬ではOK)日本では、その電話を野放しにし
ておくより、次々と詐欺の電話を使えなくする方が、被害を食い止めるのに有効で
ある。
電話会社が個人の権利だの、個人情報だのと規制するのをいやがるのは、結局は
詐欺に荷担しているのも同じであろう。改善を強く求めたいのだが...。
電話会社にも勤めた経験があるからこそ、なおさら強く言うのだ。
平成27年6月20日(土)
日本を狙ったサイバー攻撃の図式
6月13日に約束した図がようやくできた。是非とも日本中に拡散してほしい。
日本では個人情報漏洩ばかりをとりあげて、他の情報漏洩についてはほとんど関心を示さないばかりか、マスコミはほとんど取り上げることすらしない。自分に関係することは騒ぐが、直接関係しないことは知らん顔というのは、まさに自己中心的な考え方と言えよう。もはやそのような甘えた状況ではないことは、すでに述べてきたので、ここでは繰り返さない。
アメリカでもソーシャルナンバー(日本のマイナンバーに相当)を含んだ情報などが、サイバー攻撃によって450万件も盗まれたことが報道された。さらに1000万件との報道もある。そして報道機関の中には、それが中国によるものだと名指しをしているものもある。むろん中国政府は反発しているが。
またアメリカのセキュリティ会社Palo Alto Networksは、東南アジア各国の政府や軍事機関を標的としたとみられる一連の国家的サイバー攻撃に関する調査結果を公開した。狙われたのは、香港、台湾、ベトナム、フィリピン、インドネシアなどである。このサイバー攻撃は、特注ツールの使用、豊富なリソース、複数年にわたる継続性などの特徴から、背後には潤沢な資金を持つ組織的な団体が存在し、東南アジアの地域情勢に強い関心を持つ国家が関与しているか、資金提供をしていると推測している。つまりサイバースパイ行為である。
あまりに対応がお粗末なこともあり、日本年金機構ばかりが取り上げられるが、より広く日本という国自体がサイバー攻撃の標的になっていることに注意すべきであり、今回の一連の標的型攻撃は、サイバースパイ行為だとみて間違いなかろう。日本年金機構や石油連盟、商工会議所など一連のサイバー攻撃もすべて、この流れの中にある氷山の一角に過ぎない。
情報処理推進機構(IPA)のサイバー情報共有イニシアティブ(J-CSIP)の活動レポート(2014年度)や日本のセキュリテイ会社が公表している各種レポート、さらに様々な報道などをまとめてみると、下図のような全体像が見えてくる。
IPAも
『国内組織を狙う執拗な攻撃者「X」の分析』(J-CSIP別冊)を公表して、特定の大がかりな組織が計画的に日本を標的にしている姿をあぶり出している。その中から2カ所ほど抜き出してみたのが、次の図である。
標的型攻撃メールの分析。
サイバー攻撃を分析して得られた攻撃者「X」の特徴。
いまこそすべての日本国民が、次の事を真剣に考える必要がある。
サイバー攻撃はすでにサイバーテロとも呼べるほど大がかりで周到かつ執拗に、「日本」という国を標的としておこなわれている。ここまで来ると国家レベルでの攻撃者を想定せざるを得なくなるという事実。
個人だけでなく国全体が狙われており、それはやがて国力の衰退や社会の混乱へとつながる恐るべきものとの危機意識を持つ事。
自分の勤める企業や組織、さらには個人のパソコンなどあらゆるものが狙われており、たとえ自分のパソコン上には重要な情報がなくても、遠隔操作につかわれたり、盗んだ情報の中継場所に使われる恐れは常にある。セキュリテイを万全にするのは、PCのような機器を所有・使用するものの義務であると知るべきである。
盗まれたさまざまな情報は形を変えて、2次3次の新たなる悪影響をもたらすことを認識すべきだろう。しつこい商品勧誘などで済めばまだよいが、詐欺などの犯罪、さらにはテロ活動、軍事的攻撃にさえ利用される恐れがある。
攻撃メール以外にもIP電話用ルータが乗っ取られて多額の電話料金を請求されたり、WiFI(無線機器)の無防備な使用でクレジットカード情報がもれたり、ネットバンキングのIDとパスワードが漏れて預金を盗まれたり、ちょっとした不用心、油断が、経済的損失を招いている。そういう社会にいるのだという自覚を持つこと。
日本が安全な社会だからと言っても、サイバー空間は全く別である。サイバー空間には、国境はおろか国を隔てる海もないのだ。そこを分けて考えられないと、後でまた想定外の事態だと言うことが生じかねない。
自動車の運転では、過失で罪に問われることもある。サイバーセキュリテイにおいても、少なくとも運転手の過失相当の責任は明確にして、罪に問うべきであろう。そういう新たなる法律(考え方)が必要になっている。
平成27年6月18日(木)
新たなる情報テロの予感
サイバー攻撃が広範で執拗なテロと化した現在社会。一方で、新たなるテロとして警戒されているのが、化学・生物テロである。日本ではすでに、オウム真理教というテロ集団により、実際に甚大な被害が出たのはかなり前のことである。この両方のテロを重ねたときに、これまであまり問題にされなかった新たなテロが見えてきたように思える。
韓国でのMERS騒動。日々死者が出ていて、未だ収束を見ない。6千人とも1万人とも言われる人が隔離されている。その中には外国人、日本人もいた。問題なのは、その隔離対象の日本人がすでに帰国しているという点である。韓国で隔離しろと言うのではない。隔離対象者との情報が、迅速かつ的確に日本に来ているのかという問題である。日本政府は、韓国から情報がきたかどうかまで、個人情報とか言う訳のわからない理由で、何も答えようとしない。これは、明らかに危機管理上の問題であろう。パニックを起こさないためにも、的確な情報発信が必要なことは原発事故でいやと言うほど学んだはずなのに、日本の政治家や官僚は頭が悪すぎるのか、結局は保身だけで国民の事など心配していないと言うことなのか。
脇道にそれてしまった。取り上げたかったのは、今回のような病気に感染した人間とは、(人権を無視して言うならば)生きた生物化学兵器でもある。その情報を隠すと言うことは、相手国への情報テロとも呼べるものになる。サイバー攻撃のような情報戦を広くとらえるならば、このように必要な情報を伝えないで隠すというのも、立派な情報テロと呼べよう。今後このような広義の情報テロが、実際に安全を脅かすようなことにつながる事態が起きるのかもしれない。そんな、いやな感じを受けたのである。
天然痘やペストなどの病人を敵国に送り込み社会を混乱させるという、直接的なテロ以外に、そのような情報を隠すという間接的なテロも、グローバルでネット化された現代ならではのものであろう。旧態依然としたばかげた理論や習慣にとらわれて、現実や近未来を的確に把握できなければ、社会の混乱や成長の鈍化は免れないだろう。軍事情報だけでなく、本来伝えるべき情報も隠されてしまう時代が来ているのかもしれない。このことは、これまでも行われてきた、政府や当事者が都合の悪い情報を隠すというレベルとは明らかに違うものだと、私には思えるのだが。
安倍政権には、このようなことにまで気がつくブレーンがひとりもいないのかと、気がかりである。
平成27年6月13日(土)
サイバー戦争は「敵国家と自国民」の戦い
戦争の形が変貌している
戦争とは、国と国とが兵器を用いて争うもので、宣戦布告により戦時、つまり戦争状態と見なされ、戦時国際法が適用されることになる。戦争をするのに定めた国際法などとは、あまりにばかげているとも言えるのだが、第1次、第2次世界大戦などの大きな戦争を考えたとき、戦争中でも最低限の守るべき事を決めたと言うことであろう。従って国際法上は、国家同士の争いでなければ戦争とは呼ばないのであろう。それ以外はすべて、単なる紛争と言うことになる。
わざわざ戦争定義を持ち出したりしたのは、現実の国際社会で起きているさまざまな武力紛争に対して、いかに「法」成るものが無力なのかを確認したいことと、いまや戦争の形態が大きく様変わりしてしまったという事を言いたいからである。ここでの主題は、後者にある。
イスラム過激派IS(イスラム国)による武力闘争は、もはや戦争状態と何もかわらないであろう。だが、イスラム国は、国家として認められたものではなく、武力集団が特定の地域を実効支配しているに過ぎない。またシリアをはじめとする国々における大規模な内戦は、国家を分断する激しいものとなっている。
テロ、内戦、大規模武力紛争などの発生は、戦争と呼んでいた武力による軍事衝突の形を大きく変えてしまった。さらに、サイバー攻撃という新たなる戦争の形態が出現してきた。
サイバー空間における戦争では、戦車が走り戦闘機が飛び回るわけではない。だがその破壊力は、すでに過去の戦争を上回る威力を持つまでになっている。目に見えないサイバー戦が、兵器による戦争を引き起こすのか、戦争がサイバー戦を激化させるのか。両者の関係性も境界線も、不明瞭になっている。
サイバー戦争は「敵国家と自国民」の戦い
サイバー攻撃には、単なる愉快犯や犯罪目的のものも多い。しかし、北朝鮮がアメリカのSONY子会社に仕掛けたように、すでにサイバー空間における戦争は発生しているのである。その対象が国家全体ではなく、特定の組織、施設、企業などであるために、戦争と認識されずらいのだが、これは明らかに現在の戦争なのである。
敵国のミサイル施設や核開発施設に侵入して破壊したりするサイバー攻撃は、すでにイスラエルやアメリカをはじめとするいくつかの国々が行って来たことも明らかになっている。それでも、このような軍事関連施設の攻撃はまだわかりやすい。敵国の経済力(国力)を低下させたり、社会を混乱させたりすることは、過去の戦争においても行われた軍事行動の一つである。それが現在では、宣戦布告することもなく、見つかることもなく、実行に移されているのだ。
その際の目標は、個人のパソコンであったり企業や組織のシステムである。国家(軍事施設)そのものではなく、国民の多くがサイバー攻撃の第一の標的になる。まずそのことを認識しよう。だから『敵国家 対 国民』なのだ。国家がいくらサイバー攻撃に備えても、国民のパソコンや企業のシステムがいい加減では、防衛のしようがないのである。サイバー戦争では、否応なく国民全体がすでにまきこまれているのである。その自覚がほしい。
日本年金機構への攻撃が、いかなる勢力からのものかは判明していない(わかっていても、政治的な理由から発表されないかもしれない)が、サイバー戦の第一の主体は、国民それぞれなのだという危機意識と自覚が必要であろう。特に安全への無知・無頓着、お上に頼る意識が強い国民性を考えたとき、もっと強く警鐘をならすべきなのだが。敵勢力のシンパなのか、すでに取り込まれているのか、単なる自己中なのか、マスコミなどもほとんどそのような形での警鐘を鳴らすところはない。いわゆる保守的とか右よりとされるところが、安全保障問題として取り上げる程度である。これでは、まさに戦う前に負けている事になる。多くの日本人は、もっと自覚を持つべきであろう。
日本年金機構、商工会議所などへの一連の攻撃の姿については、次回にでも図示しよう。
平成27年6月7日(日)
憲法9条はなぜサイバー攻撃を防いでくれないのだ?
いまの日本の平和と安全は、憲法9条があるから守られてきたのだという、言霊信仰でもそこまで言うまいと思えることを、平然とそして半ば本気で口にする多くのジャーナリストや文化人・学者・政治家が、未だにうようよといる。なら、聞こう。なぜ、サイバー攻撃を憲法9条は守らないのだ?え、憲法ができたときには、まだサイバー空間(インターネット)がなかったからだって?なら、なぜ憲法を変えないの?
いま、サイバー空間においては、もはや日々戦争状態という状態に陥っている。北朝鮮や中国からの攻撃は、アメリカを直接狙うほどにまでエスカレートしている。アメリカやイスラエルなどもまた、実際の戦争においてサイバー攻撃を行ってきたと明らかにされている。また、アメリカで400万件を超える情報が漏洩したが、それが中国の仕業だと報道されている。
サイバー空間(ネット上)における攻撃は、核兵器の関連施設をサイバー攻撃で破壊するというような、単純に軍事的な直接行動だけではない。軍事にとどまらず科学技術や産業の先端技術・政治や行政の情報を盗む、社会に騒乱を起こさせる、テロ勧誘など、それこそ多岐にわたる。すでに指摘したとおり、今回の日本年金機構への攻撃も、そのような日本を標的とする攻撃の可能性が大きい。現代社会においては、経済的損失を引き起こして国力を低下させたり、社会を混乱させるための犯罪もまた、戦争の一部なのである。敵対勢力に違法薬物をばらまくのも同じ事である。
日本人の大半を占める集団農耕型気質は、残念ながら平和や安全に関して無知であるばかりではなく、極端に鈍感である。それはこの国が平和で安全な国だったからだけではなく、常に孤高武士型気質の人間によって、危ういところを逃れてきたからに他ならない。だが、明治以降とりわけ戦後、この気質の人々がほとんどいなくなってしまった。それが、この国や社会の劣化を招いている。[詳しくは「日本人の気質」参照]
なぜ、ここまで厳しく言うかと言えば、政治の世界の相変わらず自己中心的でくだらない争いが続くのを見ているからだけではない。年金機構の問題が発覚してすぐの、TBSの昼の番組でのひどさを見たからである。TBSだからすべての番組がいわゆる民主シンパやリベラリスト信奉というわけではない。この番組自体は、MCも中立的なのだが、毎日新聞の記者だか解説委員だかが、時々出演して相変わらずの発言をなす。その人物が、事もあろうに、日本年金機構を擁護するような発言を繰り返していたのだ。社保庁から年金機構に移さずに多くの退職者を出した、まだ裁判でも争っている、経験者がいなくなっている、民間なのに公務員と同じ罰がある等々、およそ情報漏洩の本質を隠蔽するかのようなばかげた擁護論を展開していたのだ。さすがに、ほかの出演者からつっこまれていたが、番組自体として、この発言を否定する方向には持って行かなかった。ま、あきれて何も言わなかったのかもしれないのだが。その後、年金機構のひどさが次々と明るみにでた。次回は何というのかな?
言いたいことは、これほど重大な問題に関して年金機構の労働者を擁護するという、自分の政治的信条によってゆがんだ発言を繰り返す、そんな人間がジャーナリストだなどと大手を振っているこの国の現状に、ほとほと嫌気がさすのだ。事柄を正しく理解することよりも自分の政治的な信条に基づく思考や発言をして恥じることもないのは、まさに無知であろう。左翼だろうと右翼だろうと、どんな心情を持つのも自由である。それに基づく発言もまた自由だろう。だが、社会全体の利益を無視し、事柄を冷静かつ正確に分析・理解しようともしない人間が、いまの日本社会にはあまりにも多すぎる。
安倍政権も同じだと言うことは付け加えておこう。マイナンバーの導入においては何も問題がないから、見直すことなく進めると言い放つ無能な大臣たち。基幹システムが強固なファイアーウォール(Firewall(壁))
に守られていても、これまでの情報漏洩においてはほとんど意味をなさない。年金機構でも、基幹システム(大親分のコンピュータ)が破られたわけではないのだ。それがセキュリテイがしっかりしていて面倒だ(使いづらい)から、データをそこから取り出して手元の共有サーバ(小親分のコンピュータ)に入れておき、それをみんなのパソコンで使っている。この部分が破られたのである。システムのセキュリテイを考えるとき、この子分たちのコンピュータや手足のパソコンを含めた全体を考えなければいけない。だが、誰もそれをやらない。それはそれぞれの事務所の仕事なのである。ここにもお役所の縄張りが問題を生んでいる。が、なぜか誰もそれを指摘しない。
マイナンバーにおいては、この小親分が全国の自治体すべての事務所になるのである。その数は膨大であり、ずさんなセキュリテイのところも数多くあるだろう。年金機構だけつながなくてすむ話ではない。
軍事などと大げさに言わなくても、ある構築物(システムも)全体の強さは、最も強い部分と同じではなく、最も弱い部分の強さが全体の強さである。こんな事は誰でも知っている。だが、設計やシステム構築時には忘れられる。だって担当外だからという理由で。国益(社会全体の利益)より、自分たちの保身と自己利益優先が蔓延する、いまの日本社会そのものである。
平成27年6月4日(木)
年金情報漏洩を政争の具にするな
安倍政権というのは、運がいいのか悪いのか、よくわからない。一見順調で、ここで飛躍というときに外部からの問題が起きては頓挫する。そんな繰り返しに見える。今回の年金情報の漏洩問題もそんな一つのような感じがする。第一次安倍内閣が「消えた年金問題」が発端で瓦解したことから、野党特に民主党は、これを安倍内閣打倒に利用すべく、躍起となっている。この国では官僚だけでなく政治家の多くも、自分の事が優先で国益などそっちのけである。今回も全く同じなのだが、もういい加減で目を覚ませと言いたい。
社保庁から名前を変えただけの日本年金機構など、まともなはずはないと言うことはすでに書いた。放置した厚生省や政治家の責任は非常に重大で、大臣の首は飛んで当たり前のずさんな内容である。だがいまはそれよりも、今回の情報流出の背後を真剣に考えるべきときである。ネットにはびこる陰謀説に簡単にのって言うわけではない。断片的ではあるが、明らかになってきた経緯や内容を見てみると、とても単純なものには思えないのだ。
狙いを定めて長期間、用意周到に、そしてしつこく何重にも構えた攻撃と攻撃者の正体の隠蔽工作。とても、素人のハッカーやIT知識のある犯罪者が、単純に起こした犯罪には見えない。むろん、ここまでの被害を出したそのほとんどの原因は年金機構の内部、とりわけ人間にあり、人災とすら言えるものである。しかしそれ以上に、周到に練られた計画的犯行の背後には、大がかりな犯罪組織だけでなく、さらに別の政治的な勢力、簡単に言えば反日勢力の存在がうかがえても不思議ではないと思ってしまうのである。
報道から明らかになったいくつかの具体的な点を上げてみよう。
標的型メールの名前通り、不特定多数ではなく、特定の組織を狙ったメールである。当然相手の正しいメールアドレスを知らなければ、送ることができない。企業なら名刺をばらまくので、メルアドも簡単にわかるかもしれないが、日本年金機構の人間のメルアドなど普通の人間は知り得まい。しかもそれが一人ではなく、実に多くの人間宛てに送られている。
添付ファイル型のメールだけでなく、リンク先をクリックさせるタイプのメールまで使用している。同じ相手に対して異なるウイルスメールを使うなど、明らかにこの目標を明確に狙っている。
最初のウイルスメールは九州(福岡)にある年金事務所で発覚した。セキュリテイの手薄そうな地方を選んだのだとすれば、これも相当に用意周到である。ここだけではなく、東京本部などでもウイルスメールが発見されている。相当に大がかりな攻撃を行っているのである。
メールの表題も、過去に実際に使用されたメールの表題と全く同じものが使用されている。内通者がいるのか、どうやって漏れたのか。ウイルスメールの表題は4種類もあるという。このしつこさも異常である。
ウイルスが、感染させたパソコン上ではなく(これも含めてであろうが)はじめからみんなで使用してる共有サーバという大量データのあるコンピュータを狙っている。だから、一度に大量のデータが盗まれた。
送りつけたウイルスメールから足がつかないように、フリーメールを使うことはもちろん、その発信元まで乗っとった無関係の人のパソコンを使っている。
抜きとったデータも、足がつかないように、港区の海運会社のサーバをあらかじめ乗っ取っておき、そこにまず
移した。さらにいくつもの無関係な人のパソコンを経由して本当の犯人の手元に持って行ったのであろう。つまり、行きも帰りもその所在がわからないように何重にも用意しているのだ。これだけ用意周到な犯人が単独とは思えない。
つまり発覚することを前提として、いくつもの策を講じた上での犯罪である。とすれば、九州以外の事務所のパソコンにトロイの木馬のように仕掛けられたウイルスがまだ眠っている可能性もある。今回は、基幹システムと呼ばれるいわば親分のコンピュータはやられていないというが、時間がたってから動き出して基幹システムに侵入することも考えねばならないだろう。125万件は、今回漏洩があきらかになった事務所で普段使う情報だけであるが、ほかの事務所が無傷とは考えずらい。なにせ初めてウイルスが発見されてから3週間も他のパソコンのネット接続をやめなかった素人集団である。これだけの犯罪者集団なら、同時多発的にかつ時間をずらして攻撃することなど、当たり前に考えるはず。
サイバー犯罪ではなく、警視庁の公安部が担当しているのも、単に国の情報だからなのか、それとも公安が担当するような事案としてとらえられているのか、そこも気になるところである。
事の重大さをもっとまじめに、そして深刻にとらえるべきである。国民の情報だからと言う感情的な問題ではなく、もっと大きな日本という国の安全の脆弱性、国民の安全に対する鈍感さとセキュリテイへの無知・無関心を取り上げて、国民意識の改革を図らねばならない。党の利益争いや政治家個人の手柄争いなどしてる余裕はないのだ。与野党の別なく、国を挙げて取り組むべき喫緊の課題である。
平成27年6月2日(火)
年金機構は人の総入れ替えを
我々の年金を扱う年金機構から、情報が大量に漏洩していたことが判明した。その数わかっているだけで実に125万件。過去の情報漏洩で繰り返される隠蔽を見ていると、今回も本当にこれだけか、と疑いたくなってしまう。特に相手が年金機構では。
年金機構の前身は、悪名名高かった社会保険庁である。ずさんでいい加減な仕事により多くの年金が行方不明となってしまった。あまりのひどさについに廃止され、跡を継いだ年金機構だが、名称は変わってもその陣容は社保庁そのものである。これで本当にまともになるのかと危惧していたが、今回の件で、やはりと思わざるを得なくなった。
組織の大半を入れ替えない限り、組織の悪癖など簡単に変わりようがないのだ。いったい、国や自治体の官僚が関係する組織は、何度同じ誤りを繰り返し続けるのだろうか?責任をとらない、人も換えない、こんな事を許し続ける政治家も国民も、無能の極みであろう。あまりのひどさに、つい非合法的な手段を正当化してしまいかねない気持ちにさせる。こういう国民の不満の鬱積が、過激なテロや過激宗教団体の暗躍にもつながるのだろう。
安倍政権は、今回の事態を受けて慌ててセキュリテイの会合をひらいて、再度点検を指示したと言うが、どうせ口だけで、実態は何も変わらないのだろう。もういい加減で、指導者が国民の生命・財産をまもるための改革をなすのに、強権を発動してでも実行すべき時である。
怒り混じりの愚痴はさておき、毎度同じ事を繰り返しているのだが、しつこく書くしかあるまい。少しばかりITの世界で飯を食っていた人間としては、その恩返しにもなる。日本という国全体に蔓延する安全に対する甘えや、情報への無知は、いずれこの国を大きな危険に陥れかねない。
個人的には、有料のサーバ・サービスを長年使用している。(個人が使うには正直高い使用料金である。ずいぶんと貢いできたものだ)だが、メールには、ウイルスチェックが当然含まれており、危険なメールをサーバが検知すると、そのメールを削除して、駆除の通知をくれる。さらに、これでも漏れたものは、自分のパソコンのセキュリテイソフトがリアルタイムにチェックしていて、怪しいメールも除去してくれる。さらに、さらに、自分でも知らない人からのメールに添付されたファイルはそのまま削除してしまう。知り合いからのメールでも、基本は添付ファイルなどは開かない。どうしてものときは、まずこちらから連絡して確認をとってからである。最後につとめていた日本企業でも、メールでのファイル添付は、機密保持もあり、社内間も原則送ることさえも禁止していた。
他人の情報を扱うなら、この程度の事は至極当然の日常行為である。こんな基本動作すらなされていなかったのであろうか?そしてマスコミも、このような基本動作がなされていたかどうかを、どうして確認しないのであろうか?日本のジャーナリズムには、科学的知識を持つプロが欠落している事は過去にも触れたが、ITや情報セキュリテイに関しても全く同じなのだろうか。
ほかにも数多くの疑問があるし、何よりこの手の問題において個人的な責任が全く追及されないのは、明らかに間違っている。責任追及というのは、その当事者を責めるということではなく、どうしてそのような事をしてしまった、あるいはしなかったのか、その原因をきちんと把握するためである。上の人間が頭を下げているからいいではないかという、日本社会の悪しき慣習とそれで納得する国民性が、原因の真の究明を妨げ、いつまでも同じ過ちを繰り返すことになる。
いつものように、ウイルス感染は相当前にわかりながら放置していたし、公表せずに隠蔽していた。さらにおそまつなのは、警察に言われて初めて漏洩していた事実をつかんだと言うことである。感染を認めながら漏洩を考えなかったのだろうか?それとも、例によって都合のよい方に解釈していたのだろうか。何より恐ろしいのは、感染発覚後もネット接続を10日も続けたと言うことである。
この組織内のシステム関係の技術者や、請け負っていたであろうITメーカのシステム関係者は、どうしていたのだろうか?いったいどんなセキュリテイシステムをもうけていたのか。ベネッセなどのように、内部の人間が悪意を持ってデータを盗み出すのを完全に防止することは非常に難しい。だが今回のように、外からいともたやすく破られるなど、あいた口がふさがらない。むろん、年々巧妙化するハッキングを完全に押さえるのも難しい。だからこそ、重要データを扱う端末でインターネットアクセスを許したり、メールを同じパソコンで扱うなど言語道断なのである。専用端末化しないで、パソコンをそのままネット端末として利用することは、全国の自治体でもいっこうになくなっていないようである。こんな状態では、マイナンバー制度の機密保護などとうていできまい。上だけいくら繕ってみたところで、現場が守らなければ、全く意味をなさないのである。
パスワードをつけない50万件以上のデータは、内規違反であるというが、それを見逃していたのは誰なのか。もはや性善説でこの社会は成立していない。性悪説に基づく頑強なセキュリテイ・システムで、守るしかあるまい。
安全に対する甘えと情報軽視、情報セキュリテイ軽視の国民気質は、そう簡単には直らないだろう。地道に教育をかさねるしかない。だが、それを犯罪者や反日勢力が待ってはくれない。インターネットから切り離した、別のイントラネットを国家単位で構築するべき時なのかもしれない。
2015年5月17日(日)
日本人気質に負けた橋下徹 大阪都構想
やっぱり負けたか。もしかしたらと思ったのだが、だめだったな、そんな感想を持った。大阪都構想の第一歩となるはずだった大阪市改変の住民投票は、橋本大阪市長と維新の会の惜敗に終わった。事前の世論調査とは関わりなく、今の日本とりわけ大阪では、住民投票では勝てないだろうと感じていた通りになったとも言えよう。
敗因については、いろいろ並べることが可能だし、反橋本の勢力はここぞとばかりに言い立てるであろう。だが、本質は別にある。日本人の大半を占める集団農耕型気質の日本人は、基本的に改革ができない気質・性格なのである。ましてや既存の自分たちの寄って立つ基盤そのものを壊すかのような根本的な改革など、自分からは決して賛成しない。このことは、すでに「日本人の気質」で詳しく論じている。
日本においては上からの改革や変革が大半で、下からの革命が起きなかったことを見ても、集団農耕型気質の中からは革命的な変革は生じないのである。新しいことが嫌いなわけではない。新しい文明や社会の仕組みを受容して、いとも簡単にそれを身につけてしまう。明治維新でも戦後の占領政策でも、上からの押しつけともいえる大きな力によってなされる変化には、従順ともいえる反応をみせるのである。これは日本人の国民性とも呼べるもので、世界的にも珍しいものであろう。
しかしこのことは、民主主義という多数決原理至上主義においては、時にやっかいな問題ともなる。現状に満足していたり、仕方がないと受け入れている日本人が大半である限り、改革や変化を求める住民投票(あるいは選挙)において、改革推進派が勝つことは困難なことになる。どうにもならないところまで追い詰められるか、何か外的要因によって変わらざるを得なくなるまで、自己改革の道は閉ざされてしまうのである。今回の住民投票はまさに、この日本人の大半を占める集団農耕型気質の人間が投票という権力をにぎる社会において、どのようにすれば時代に合わせた改革や、新しい変革をなすことができるのかという大きな問いを改めて我々に突きつけたのである。
国民が変革を認めたから、小泉郵政改革選挙で大勝できたのだろうと言うかもしれない。だが、それは誤りである。集団農耕型気質は、新しいことが嫌いなのではない。むしろ好きである。だが、それが自分の現状を脅かすものであると感じたとき、極端に保守的、現状肯定派となるのである。郵政改革など、大方の国民から見れば自分に直接関わりのないこと、でも改革だというのだからそれは認めよう、ということだったのだ。今回は、出口調査の結果を見ても、現状より悪くなるという反対派の主張に引きづられるように、60代以上の多くが反対に回った。大阪市独自の優待パスがなくなると言うだけで、反対に回った人がいるのである。地方自治体が大赤字で、北海道の夕張のようになるかもしれないと言っても、自治体の経営する集会場の有料化はもちろん、統合など絶対反対を言い出す風潮と重なっている。
直接に問えば自己中心的な答えが戻って来ることが多くなった今の日本社会において、孤高武士型気質の、社会全体のためには自分を犠牲にすることも厭(いと)わない性格を持つ人々が相当数出てこない限り、多数決による変革は困難を極めることになる。だからといって、他の国々のように、実力行使やクーデターもまた今の日本では行えないであろう。民主主義の弱点としてポピュリズムがよく引き合いに出されるが、それ以前にそのような自己中心的な考え方に傾きやすい気質こそ問われるべきなのである。
橋下徹が、「日本人の気質」を読んでいればもう少し違った対応もできたであろうにと考えるのは、あまりにも傲慢不遜なのだが、これからの日本社会の改革推進を考えるとき、つい愚痴りたくなってしまう。
2015年5月02日(土)
シリコンバレー発言でわかる安倍政権の無理解度?
訪米中の安倍総理は、カリフォルニアのシリコンバレーに移動した。そこでベンチャー企業のトップ達と会い、さらに日本のベンチャー200社をここに送り込むとの政策も披瀝した。ベンチャー企業が新しい産業を生み出す事につなげようというのだろう。この考え方自体はそれほど間違ってはいない。だが、今更の感がするのは私だけであろうか。
産業振興だけでなく、米国流のやり方・政策を日本に取りいれることが日本の成長につながるというのが、アベノミクスなど安倍政権の各種政策に流れる基本的な考え方なのだろう。だが2年たっても経済成長の確実な成果は、この国に現れてはいない。なぜだろうか?既得権などの抵抗勢力を排除できないから、そのような政策が不足しているからとそれらしい理由は挙げられているのだが。
日本社会さらには日本人の気質・国民性に合わないものをいくら持ち込んでも、結局うまく機能しないという事なのだが、その自覚が不足しているように思えてならない。シリコンバレーを見習えという、もはや陳腐化した言葉をそのまま使う総理大臣には、もう少しこれまでの経緯や現状を認識してほしい。それは自らの経験からも、いえることなのだが。
私にとって初めての海外出張先がシリコンバレーの近くであったのは、合弁先企業がITベンチャー系だった偶然によるものである。もはや40年以上も前のことである。『最近IT関連の企業が集まる場所があって、シリコンバレーなどと呼ばれ始めている』という話は、すぐに私の耳にも聞こえてきた。そして当時から有名だったのが、シリコンバレーのカレンダーである。シリコンバレーの地図のイラストに存在する企業名が載っている1枚のカレンダーである。当初は、10社に満たないほどの企業名しかなかったのだが、その時すでに日本企業の名前がいくつか載っていた。日本企業は先見の明がないどころか、いち早くシリコンバレーの一員になっていたのである。ただ、それらの日系企業は名もなきベンチャーではなく、すでに名の通った企業やその関連会社ではあったが。
その後もカレンダー上の企業名は爆発的に増えて、次第にカレンダーは大きくなり、そして高度成長からバブル期には多くの日本企業名が掲載されていた。さらに大手の日本企業の中には、シリコンバレーの技術を専門に調査し、M&Aを仕掛ける会社を現地に設立したところもある。何の因縁か、年十年もしてからそんな企業のグループ会社の一員として、何度か訪問したこともあった。
私自身、シリコンバレーだけではなくボストンやカナダまで有望な技術を求めて、ベンチャー企業への訪問を繰り返し、多い年にはその数が50社にまで上ったこともあった。自慢話や、年寄りの回顧録を述べようというのではない。いまさらシリコンバレーで学ぶという発想は、ここ半世紀にわたる日本企業の歩みを理解できていないのではないかと言いたいのである。進出もしていたし、学んでもいた。M&Aも行った。それなのに、その成果が日本社会とりわけ産業界に現れていない、それこそが問題の本質なのである。
日本のシリコンバレーと騒がれた地域はどうなってしまったのか。IT産業の中核として名乗りを上げた多くの自治体は、どうなってしまったのか。とっかかりは良いのだが、それが結実しないのはなぜなのか?基礎研究では進んでいるのに、それが産業として実を結ばず他国に負けてしまうのも、みなおなじ事柄なのであろう。
この日本人とりわけ集団農耕型気質の日本人が実権を握る組織や社会の問題点は、「日本人の気質」で詳しく解説したので、興味があればそちらを見ていただきたい。
安倍総理が訪問した電気自動車のテスラの経営者は、様々なアイデアを持つことでも有名な人物である。総理との面談のあと、またもや世界的に話題を振りまいたのが、家庭用蓄電池である。素晴らしいデザインと日本製の半額という価格。蓄電池の重要性を認識していたのは私だけでなく、日本企業の先進的な技術によって大きく花咲いた産業分野である事からも明らかであろう。だがいまでは、御多分にもれず中国・韓国にシェアを奪われ続けている。かといって、アメリカのように革新的なものも出てこないまま。一度製品が出来るとそれを根底から破壊するようなものを決して作ろうとしない、認めようとしない体質が続く限り、日本の産業はこれからも負け続けることになるだろう。
40年以上前のシリコンバレーにも日本のサムライは、進出していたのである。そういうサムライが活躍できる「場」をつくること、邪魔する無能経営者の企業をつぶすこと、それこそが今求められている、技術革新による経済成長の主要な政策なのである。それを具申できる人間が総理周辺に誰もいないことは、あまりにも不幸なことであろう。