On草子:秋山鷹志

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On草子は、文芸その他、日々感じたことをとりとめなく綴った
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平成27年(2015年)7月分

平成27年7月23日(木)

いじめ緊急対策

 岩手の中学生いじめ自殺では、いじめていた側の生徒4人が特定されたという。

 いじめの問題はいくら法律やガイドラインをつくったところで、関係者全員の意識が変わらない限り改善されることは無いだろう。それには教育の全面的な改革が必要であり、その具体例などはすでにいくつか述べてきた。だが、現在の日本は、いや多くの日本人は改革に総論賛成各論反対であり、誰も真剣に実行しない。

 そんな中、すぐに出来る緊急の対応策をひとつ提案したい。それは、転校の一般化である。いじめられている子も、もっと簡単に転校できればもう少し違うはずなのだが、そうも行かない現実がある。そこで、逆にする。つまりいじめている子供たち、たいていは何人かグループになっているもので、昔のような一人だけのガキ大将はほとんど見かけない。そのいじめグループの子供をばらばらにして、別々の学校に転校させるのである。

 大前提である学校や教師がいじめを正しく把握する事がうまくいっていないのが現状だが、実は知らん顔を決め込んでいるだけで、わかっていることも多い。面倒なことに関わりたくない、責任をとりたくない等の身勝手さが教育界にも充満しているために、知らなかったととぼけているだけであろう。

 学校として、いじめているグループの存在を見つけたら、転校を推奨あるいは指示できるという通達が1本あれば、教師たちもやりやすくなる。いじめる側は事件になったらやめさせるだけという教育放棄では、いわば社会に責任を押しつけるだけ。いやな言い方だが、厄介払いが出来るとなれば学校も積極的に、転校させようとするだろう。
 いじめる側も、一人になってしまえば、いじめることも出来ない子供が多い。転校生はいじめられることも多い。自分が何をしたのか、身をもって体験させるのも、教育のひとつのやり方であろう。それが、それ以上悪の道に進ませないための歯止めにもなる。


 また学校はもっと転校生を柔軟に受け入れるべきである。少子化で生徒の取り合いをしておきながら、いがいに転校生を受けいれない。これはまた、いまの学校中心の教育体制を壊していく一歩ともなるだろう。中心は学校でも教育委員会でも無い。生徒たちなのだから。自由にいくつもの学校で学べる体制こそ、真の教育である。本質を無視するから、学校ごとの成績を公表しろ、いやするな、とか、小中一貫校などという小手先の話ばかりが出てくるのである。


 完全なる対策などこの世には存在しない。仮に転校させられた生徒が外で集まって、いじめを続けるようであれば、その時は、もはやおとなの犯罪と同列に扱うしかあるまい。それでも同じ学校で無ければ、いじめを教師にもっと言いやすくなるはずで、いじめられてる側が追い詰められるのを少しでも防げるかもしれないのだ。通達一本で出来る事は今すぐやれと言いたい。

平成27年7月18日(土)

「(東芝)社内風土」とは「日本人気質」のこと

 1年前には、ベネッセの情報大量流出で犯人だけではなく、ベネッセ経営陣への批判が噴出した。そして、今年は東芝。2000億とも言われる粉飾決算疑惑。まだ疑惑で確定はしていないが、その内容が明らかになるにつれ、経営陣とりわけ歴代社長の責任は免れそうに無い。経営トップからの指示により社内全体に及ぶとみられ、無傷の経営幹部がいなくて次の社長が決められないほどだとも言う。

 正直、またかというのが大方の感想であろう。もはや日本では大企業であろうが、企業経営者の不正や不祥事など珍しくも無くなってしまった。そしてそのたびに言われる使い古された言葉がある。
      「それを許す社内風土に問題あり」と。
社内風土って何だ?各社ごとに異なるから「風土」なのであろう?どこも同じ、経営幹部の傲慢、上意下達、暗黙の了解、無責任、正義感の欠如等、毎回どこも同じ内容すなわち風土である。としたら、個別企業の問題ではあるまい、ここまで同じことになるのは、構成員がまさに同じ気質だからに他ならない。

 集団農耕型気質の人間ばかりが集まるとき、必ずと言っていいほどに組織や集団の内向きな腐敗(くくりへの撞着)が起きると繰り返し述べてきた。東芝は、さらに集団農耕型気質の人間たちが、権力闘争を行う醜さまで白日の下にさらしてくれた。多かれ少なかれ人間が集まるところ権力闘争は起きるのだが、くくり内部(社内)にとどまらず、経団連会長という外のくくりのトップを狙うために、権力闘争がさらに激化したおもしろい例でもある。

 もういい加減で、『企業風土』というその企業個別のものであるかのような言い方はやめるべきであろう。そうでないから、何度でも繰り返される。そのたびに「企業風土が」と同じ言葉で済ませてしまう。これでは、いつまでも改まるまい。社内から不正が暴かれた例はなく、ほとんどが内部告発により発覚しているのも、まさに同じ風土を示している。


 日本においては、直接的に言われなくてもやることが良いことであるとされる。相手の言いたいことをおもんばかる、推察するのだ。東芝でも社長が直接不正をしろとは指示していない、だが、そうでもしなければ達成できない利益を確保しろという指示は、受け取った側にとっては同じものとなる。言いたいことを勝手に推量して実行してしまう。正しいことならそれはすばらしいが、こういう不正においても同じ事がおきる。さらに全社的になればなるほど、みんなでやればこわくないということになるし、仲間はずれがむしろ怖いと言うことになる。

 これもすべて日本人の気質からでたものであり、どこか個別の会社の特殊事情などではあるまい。

 では、どうすれば良いのか。悲観的にいえば、教育がただされて少しでも孤高武士型に近い気質を持つ清廉潔白で、自己犠牲を厭わない人物が、社会に輩出されのを待つしか無いと言うことになる。はやりの社外取締役など、アメリカ流をいくら表面的に取り入れても何の役にも立たない。いい加減、自分たちの事をもう少し学ぶべきであろうに。監査法人も機能しないのに、金をもらう社外の人間が機能するはずなど無いだろう。孤高武士型気質の人物で無い限り。

 たとえ東芝がつぶれようとも、関係者の責任を追及して、具体的な責任をとらせるしかあるまい。刑事責任だけでなく、懲罰金のような個人が痛みを感じるものにしない限り、他への見せしめにもならないだろう。官僚の行政無責任と企業の経営無責任、どちらも個人の身に入む痛みが無いから誰もやめないのだ。これがいまできるせめてもの対策と思うのだが。

平成27年7月17日(金)

民主主義なんてくそくらえ

 この世で最も欺瞞に満ちたものであり、最も成立しないもの、それが民主主義であろう。言葉だけを金科玉条として後生大事に抱えながら、自己中の極みにいる人々が成す民主主義。さぞすばらしいものであろう。

 民主主義では、大変革は成立しない。なぜなら、現状改革とは現状の破壊にほかならないが、それを素直に認める一般大衆はほとんど存在しない。歴史を見ても大変革が民主主義によって成立した例は無い。強力な力によって成し遂げられたものを嫌々受け入れ、やがてはじめから認めていたかのごとく振る舞うだけである。

 民主主義以外の体制を破壊するのに、民主主義で成したことも無い。よく、デモや体制反対で政権や体制をたおしたときに、民主主義というが、とんでもないうそである。なぜなら、どこに民主主義の選挙が行われたというのだ。結局、民主主義を手に入れるために力による強権の発動が行われたに過ぎない。それが一人で行われれば独裁、少数で行われればクーデター、大多数で行われれば民主的デモと呼ぶに過ぎない。

 理想の政治体制とは聖人君子による独裁制だといった。そして、実現不可能とも。民主主義とは、それに近いものがある。なぜなら、民主主義に参加するものは、自らの頭で考え決断し実行する意志を求められるからである。そうでなければ、ほとんどの現実がそうであるように、衆愚政治と化す。そうならないためには、愚衆ではないそれなりの知性と判断力を持つ人が大多数いなくてはならないことになる。さもなければ正しい選択が行われないのだから。民主主義では数こそ正義なのである。だが、そんな優れたまともな人々が常に過半数を占めているなどと言うことはあるのだろうか?いやない。ならば、民主主義とは、聖人君子の独裁制に並ぶほど実現困難なものであるということになる。


 正しい形にすることも難しい、さりとてよりよい代替案が無い限り捨てることも出来ない民主主義。それを抱えた我々人類はどこに向かうのであろうか。

 ギリシャ政府が国民の多数の意志(国民投票)を全く無視したにもかかわらず、民主主義国家のどこからも批判がでない。むしろ、良かったという声ばかり。つまり、自ら民主主義を否定しているのである。結局、ご都合主義がべったりと裏にはりついているのが、欧米流の民主主義なのである。民主主義の選挙で選ばれた政権がイスラム色を強めるとクーデターで政権を転覆させても、民主主義の破壊だとして武力行使を行う西側諸国はない。ロシアがしたら、すぐに武力行使や制裁をとるくせにである。

 この国際政治の現実という名の自国利益主義に凝り固まった世界には反吐がでる。だが日本国内でも全く同じ事をやっている日本人にもいい加減うんざりである。都合の良いときは民意とか多数決とかいいながら、都合が悪くなると数の横暴だと言い出す。民主主義なんか信じていないじゃないか。単なる自己中の集まりであろう。



 別に腹を立ててもいないのだが、毒をはきすぎた。気をつけないと、自分の毒に自分がやられる。  でも、内容は相当高度なことを言っている(つもりな)のだが....。

平成27年7月16日(木)

『絶歌』嫌悪の正体

 少年Aの手記『絶歌』の出版が、物議を醸した。言論の自由が何でも許されるわけでは無いのは自明の理であるが、戦後の日本人はそれを教えられていない。イスラムを侮辱する風刺画等々、多くのものが規制と表現の自由の間の論争になる。いっぽうで、性器を露出したAV、児童ポルノ、残虐な暴行ビデオなどは、表現の自由から外れるものとの一応の社会的コンセンサスがある。この差はいったい何なのであろうか?そう考えてみると、この手記の出版はいかなる範疇に属するものなのであろうか? しかしここではその議論に、立ち入らないことにしよう


 出版の是非に対する賛成と批判、そして専門家と称するたぐいの人による内容の評価がある。そのわりには、社会一般からなぜかくも嫌悪の情を持って迎えられているのかの説明は少ない。

 彼はなぜ「書く」のであろうか。色々とくだらないものを書き散らす私の経験からすれば、ここには二つの事が隠れている。ひとつは、著作活動というのは必ず作者の自慰行為としての側面を持つこと。純粋な感動から、はき出さなければ自我が崩壊するようなものまで、精神内部に鬱積したさまざまなものを吐き出す行為は、精神の自慰行為に他ならない。特にこの少年Aは、「酒鬼薔薇」として、事件当時から様々なものを書き残している。自己尊大感、万能感などの見逃し得ない人格障害が付随してはいるが、それがなおさら自らの「書く」という自慰行為を積極的なものにさせたのであろう。
 もう一つは言うまでも無い現実社会における欲望の達成である。多くの人間への自己顕示欲と金を儲けたいという欲求である。自己利益を求める事は、人間にとって健全なものである。それが度を超さなければ、あるいは他の欲望の代替手段になっていなければとの条件がつくのだが。

 自分という人間が立ち直り、自我を正しく形成するためには、あの著作が必要だったのだという言い分を頭から否定はしない。だがそれなら公に出版しなくてもすむはずであろう。出版という形にこだわるのは、多くの人に己を顕示したい、もう一度有名になりたいという欲望と、少し儲けたいとの思いが間違いなくあるのだろう。

 仮に社会のために書き残すと言うことであれば、専門家しか読まない、読めない形もとれたはずである。一般社会への公開にこだわったそのとき、すでに別の欲望が顔を出しているのだ。もし本当に反省したうえで、自我の確立のためにあのような本の出版が必要であったというのであれば、匿名では無くまたさまざまな取材にも応じるべきである、というのは少し酷だろうか?


 「酒鬼薔薇」は、その後に同様の猟奇事件を引き起こした犯人たちにとって偶像化された人物である。だが、その偶像には、金儲けというような低俗な欲望とは関係が無いという暗黙の了解のようなものが存在しているはずであろう。世俗的欲望にまみれていないからこその偶像である。と個人的には考えるのだが、果たして広島の猟奇事件を起こした少女などは、世俗にまみれた彼をどう見ているのだろうか?こういうことこそ、知るにたる情報だと思うのだが。



 作者Aだけで無く、出版社についても批判が多い。それはある意味当然であろう。出版を断ったところからの紹介で、一も二も無く大量の初版本を印刷する行為は、金儲け以外の何ものも見えないのだから。いかなる理屈をこねまわそうと、本当に本の内容に価値を見いだしたのであれば、むしろ一般の人の目には付かない形で出版したことであろう。あたかも社会正義とか、表現の自由、出版の自由などという一見反論できない言葉を持ち出して、自己正当性をはかろうとするその薄汚さに吐き気を覚えるのは、私だけでは無いのだろう。
 手元に色あせながら捨てられない本がある。「講座 少年非行」(明治図書1968年)で、記憶が正しければ一時発禁とされるなど、もめた本だったと思うのだが。中身は専門書で、プライバシーに抵触した部分が仮にあったのだとしても、それが一般の人の目に触れることはまずないだろう。(ちなみにネット検索でも専門関係以外何も出てこない)
 世のため、社会のために必要だからあえて出版したのであれば、もっと違う形もあるだろう。そうではないことがあまりにも透けて見えるので、批判が集中したのだ。むろん本当のところはどうなのかわからない。だが、私を含めて多くの人にそう感じさせたのは、配慮が足らなかったと言われても仕方があるまい。


 ようするに今回の出版騒ぎは、高尚な価値ある行為だと是認や評価をする一部の専門家が言うようなことでは無いのだ。もっと素直に、人間としての受け入れがたい感情(嫌悪感)について、どれだけの配慮がなされたかが問題の本質なのだろう。
 専門家にとっていかに価値あろうとも、一般の社会において嫌悪感を呼ぶ事柄は存在する。そこを見落とす専門家は、すでに狭い領域に縛られているのだ。はるか昔、ある精神科の先生が「普通の人とたくさんつきあいなさい。患者さんだけ見ていると、それがいつしか当たり前の世界に見えてしまうから」と教えてくれた言葉は、いまでも真実だと信じて疑わない。


 付け加えるなら、ご遺族に出版の印税を渡すか渡さないかは、2次的な話であるように思う。むしろ、このようなたぐいの出版に対して、遺族が差し止め訴訟を起こせるかどうか、そういう法的な議論の方がまだ建設的であろう。

平成27年7月15日(水)

新国立競技場は日本人の知性問題 (新競技場私案)

 誰も責任をとらないくせに、自分たちの思うように事を強引に進め、それが国や国民の将来に多大な迷惑をかけても恥じることが無く平然としている。これは集団農耕型気質の人間だけが権力を握ると、己のくくりに対して病的な撞着を成し、より大きなくくり(ここでは国や将来の国民)への悪影響を無視することになる。戦前の軍部と同じであるとすでに指摘してきた。どうやら、さすがに安倍総理も動き出さざるを得なくなったらしいので、それを待ちたい。

 で、ここではさまざまな問題点、ラグビーに間に合わせるとか、8万人規模がほしいとか、芝のメンテとか、いくらでもあるのだろうが、それらをまとめて解決し、さらにコストも下げる私案を提示したい。


 東京ではいまお台場などの臨海部の開発が進んでいるが、それでも、まだ競技場を3つ作るくらいの土地はあるだろう。基本的な考え方は、それぞれ特徴ある競技場を3つ同じところにひとつの塊でつくる。ひとつは芝の無い陸上などに使える競技場。ひとつは芝を使う競技用の競技場。最後が、屋根付きの芝の無い競技場でコンサートなども出来るタイプのもの。特定の競技だけでなく、各種競技が出来てこその国立であろう。それなら金をかける価値もある。実際、さまざまな競技で1年中使用できれば、維持費回収も楽なはずである。

 いま問題を大きくしているひとつが多機能という名の無理な合体施設の基本的な考え方である。それをやめれば、非常にすっきりする上、1年中使用可能となる、さらに維持費も安く済む。民間への委託もやりやすくなるだろう。いずれにせよ、こうすれば工期もラグビーに十分間に合うだろう。屋根付きを後にすれば良いのだから。

 大きさであるが、基本的に5万人規模で良いはず。では8万人要求をどうするのか。これがこの案の優れたところであり、今後こういうものが世界でも採用されるであろう。仮設席3万人分は、ふたつの競技場にまたがり、自由に向きを変えられる施設を両競技場にまたぐ形でつくる。しかも、ここからさらにすごいのは、その部分を別建物の中に組み込むのだ。つまり建物の2階だか3階だかしらないが、そこがくりぬかれていて二つの競技場にまたがっているのだ。しかも席を可変にしておけば、どちらの競技場でも仮説3万席がそのまま増やせるのだ。

   さらに3つの競技場と建物をひとつのデザインにまとめ、建物のある部分を広場にすることで他にも利用が広がるだろう。広場の競技場の無い部分が海に向いていれば、そこで花火大会でもやれば、人も集まれる。仮説席の向きを競技場以外にむければ、花火大会の特等席になる。

 建物はそれほど高層にしなくてもよいだろう。が、仮説席だけではもったいないので、上部をホテルにすれば、宿泊と競技観覧とのセットも生まれる。

 こうして世界に無い発想とデザインの施設がうまれることになる。それを実現する技術も日本にはあるだろう。これこそ世界に誇るものとなるはず。

新国立競技場


 最後に、訳のわからないデザイナーの扱いである。違約金を払うなどと言うのはばかげた話である。1300億予算をはじめに伝えたのなら、出来ないものを提案したのだから逆に提訴すべきである。これが、外人とのつきあい方である。が、お金に余裕があるのならば、良い解決策がある。いまのデザイン案ではなく、最初のスマートな案をそのままにして、大きさを1/5位に縮めて、いまの国立跡地に作る。全く別のものに使えるし、デザインを活かしたものも考えられよう。もちろんオリンピック後でよい。



 傲慢な、自己中心的なくくりへの撞着をやめれば、アイデアはいくらでも出てくるものなのだ。

平成27年7月14日(火)

やはりソフトが弱いな

 猛暑やら大雨やら、おまけに台風が切れ目無く来るとは。で、その台風の進路予想図を見て思うのだが。すごいスパコンのハードはあっても、やはりソフト力で日本は遅れているのかなと。
 めったやたらと、天気解説をやっている昼の番組があるが、そこで時々欧州が予想した台風の進路予想がでてくる。いまも問題の台風11号。気象庁の予報では、西日本に上陸するかもしれない予想である。この進路とほとんど同じ予想を10日も2週間も前に行っているのが欧州の予想進路図である。

 気象庁では、せいぜい5日先くらいまでしか予想を出さない。影響が大きいから慎重なのだろう。発表の前に20以上の予想進路を計算しているというのだが、そこではいまの進路をどのくらいの確率で見れていたのだろうか?はっきりいえば、欧州がかなり前に進路を予想できているのに、なぜ気象庁は出来ないのだろうか、と言う疑問である。

 過去にも何回か同じような事があった。だからこの番組でもわざわざ欧州の予想図を出しているのだろう。慎重なのなら良いのだが、どうも日本のソフト力不足のような気がしてならないのだ。日本ではよく観測網というハードを取り上げるのだが、欧州の予想機関が日本周辺の観測網を日本より持っているとは考えずらい。結局、観測網では無く、その結果のデータを処理するソフトの力の差であろう。

 日本には、気象庁とは別に高精度の天気予報機関がある。それは在日米軍である。軍隊にとって、気象情報は軍事機密に属するほど重要である。したがって、在日米軍も独自の天気予報を出している。この精度が気象庁よりも高いと言われていたりする。それはないと思いたいのだが

 いまや気象庁の予想精度は世界一だと信じたいのだが、地震でもハワイの津波警報センターの発表の方が早いなど、いまいちの感がぬぐえないのである。火山噴火も後手が多いし...。


 日本がハード重視というかソフトが弱いのは昔のことで、いまはそうでも無いと思いたいのだが、そうでもなさそうである。もう一つの例が、人型ロボットによる災害時活動のコンテストである。ロボット先進国などと自慢しながら、福島原発では全く役に立たなかった日本のロボット。残念だがいまも、原発内部の調査途中で動かなくなるようなレベルにとどまっている。これを教訓にアメリカが動き出して、コンテストになったのだが、日本は惨めの一言の結果だった。4体参加して最高が10位である。どこがロボット大国なのだ?うぬぼれ、井の中の蛙そのものである。色々と言い訳はあるようだが、勝てなければ意味はない。

 アメリカからは6体が参加したのだが、なんとハードは皆同じもの。はじめからソフト力を競わせていたのである。それに対して日本はすべてばらばらのハード。もちろん載せられるソフトもばらばらになる。戦略無き国家が、戦略国家にかなうはずが無い。


 自動操縦車などの自動車産業に、グーグルのようなIT業界からの参入が進んでいる。これは未来の自動車がもはやハードではなく、ソフトによるものだという何よりの証でもある。トヨタでは危機感を持ってソフト開発陣容の拡大を図ろうとしているようだが、製造業がハードだという思い込みが日本ではなかなか消えない。ソフトこそ高度製造業の要なのだが、ソフト軽視はサイバーセキュリテイの脆弱性にもよく現れている。根本的な対策が必要であるが、目に見えないソフトに弱いのは日本人の気質とも絡む問題でもあり、なかなかやっかいである。

 「IT日本が欧米に勝てない理由」のなかで、ソフトが弱い点も取り上げたのだが、10年以上たっても、変わっていないのは何とも寂しい限りである。

平成27年7月10日(金)

私が教師にならなかった理由A能力B常識

 私が教師にならなかった理由@では、最も重要な教師になる覚悟について述べた。残念ながら、そのような覚悟を持った教師に出会った記憶はあまり無い。私が教職を拒否した頃、「でもしか教師」という言葉が使われていた。教師でも(なるか)、教師(ぐらい)しかなれない、と言う意味である。学友も含めてすべてがそうであったなどとは言わない。だが、覚悟を持ってなる教師像と、なんとかけ離れた言葉であろうか。

 教職さえとれば誰でも教師になれてしまうことが、教師の質を低下させているとの反省から、教育の大学院を設けることにした。あいかわらず本質を無視し、ばらまきと焼け太りしか考えていない連中のやりそうなことである。教師にとって必要な能力は何か、ここでは、二つだけ取り上げておこう。


 ひとつは、『人間が好き』で『ヒトの顔を覚える』能力に長けていることであろう。わたしは人間嫌いもあり、およそ人の顔と名前が覚えられない。すれ違ったとき、「このヒトどこかで見たことある顔だな」と言うひどいレベルである。これでは、教師は務まるまい。

 もうひとつ、決定的に忘れ去られていることがある。それは、人(特に子供)に教える能力である。名プレーヤーが名監督ではないように、個人の成績がいくら良くても、教える技術とは関係が無い。教えるのもまた、立派な能力なのだ。そこがすっぽりと抜け落ちてはいないだろうか。個人的にはいくらかの自信はあるが、飽きっぽいからやはり向いていないだろう。


 私が教師にならなかった理由Bは、Aとも関係するのだが、常識とりわけ社会常識を備えているかどうかである。そのような一般社会の常識は、学校という閉鎖的で自分が教室では独裁者である立場にいては、およそかけ離れたものになる。教える技術のためにも、社会経験は重要な要素となる。つまり、いまのように、一般の社会を全く経験すること無く、いきなり教育の現場に飛び込むシステムは、異常なモンスター教師を生み出す大きな原因である。

 屋上屋を重ねるより、社会人の経験を1−2年積んだものだけが、教師になれるようにすることこそ、最も現実的で効果の高い方法であろう。


 子供ことより、己の思想信条に基づく権利の主張に重きを置く人間になど、教師の資格は基本的に無いのだ。それがいやなら、教師にならなければ良いだけだ。でもしか教師でないというなら、何も問題はないはずである。

 教師の置かれた大変な現状ばかりを強調する向きがある。たとえば、家族でいるとき、子供が他人に襲われているいるのに、父親が、「いつも仕事が忙しくて極度に疲れているから子供は助けない」と言うだろうか。そんな親がいるだろうか?ま、最近はいるからなおややこしいのだが。

 極端な話などいくらでも例に引ける。そうではなく、一人の子供への接し方が、その人間の一生を左右することを常に意識していたならば、また、自分は教師になる資格があるのか自問自答していたならば、もう少し学校の閉鎖性もなくなるであろうと思うのだが。




 人ごとのような発言、無責任な対応の校長と教育委員会。体調を崩したと雲隠れの教師。まるで、芝居の配役が決まっているかのように、毎回同じ役柄の三文役者が出そろっている。岩手の自殺をはじめとして、繰り返される教育現場のひどすぎる現状は、結局、集団農耕型気質のくくりへの撞着が生み出す金太郎飴的同質性によるものだが、この話は別にしよう。あるいは日本人の気質を読んでもらいたい。

平成27年7月10日(金)

アメリカも劣化か? 日本人がとりつかれている狂気

 6月にアメリカの人事管理局(OPM)が、中国からとみられるサイバー攻撃により流出した情報は、420万人分としていた。だが、その後の調査の結果、2150万人分にも及ぶと発表。このうち1970万人分については、社会保障番号をはじめ、極めて詳細な情報が含まれている。さらに、110万人分の指紋情報までも流出していた。

 前にも書いたが、日本で言うマイナンバー(社会保障番号)が盗まれているのである。それも2000万人近くも。後から後から被害が拡大するどこかの国の話とよく似ている。

 これはアメリカという国の劣化なのか、それともオバマの失態なのか、アメリカのスパイ手口がばらされた事の影響なのか、いったいどの当たりに主要な原因があるのだろうか?


 アメリカの話はさておき日本である。残念ながら、アメリカから遠く離されている日本のソフトとりわけサイバーセキュリテイの分野。それで、本当に、日本のマイナンバーは大丈夫なのだろうか?アメリカが守れないものを、アメリカに劣る日本が守れるとする根拠を知りたい。


 安保法制の実力阻止も良いが、いまやらねばならないことは、日本年金機構を始めとするサイバー攻撃への脆弱性の洗い出しと、具体的な対応策、そのために必要な行政措置や法律はなにか、それを国会で議論することであろう。政権を倒すだけの道具としか考えないのは、あまりにも卑劣である。

 あまりに愚劣で、能なしの政治家すべてに言いたい!
 君たちは、自分や自分の組織(くくり)がよければ、国が滅びようが、国民が苦しもうがかまわないというのか!


 右でも左でも無い。くくりへの病的撞着気質こそ、日本を滅ぼすのだ。いまの君たちは、戦前の軍部と全く同じである。戦前の軍部は、自分たちの組織防衛のために国民を見殺しにし、天皇の降伏受け入れを実力で阻止しようとすらした。くくりへの病的撞着は、そのくくりが属しているより大きなくくり(軍も日本国の一部に過ぎない)を滅ぼしてもかまわないと考える、まさに狂気なのである。国が滅んで軍が残ろうか。

 いまの日本では、政治家も経営者も学者もマスコミもあらゆる日本人が、この恐るべき狂気にとりつかれている。自分のところだけよければ、社会などどうでも良いと。本当にこの国の将来が危惧されてならない。

平成27年7月9日(木)

わからない安保法制成立の真の意図

 集団的自衛権行使の安保法制では、野党だけでは無く、マスコミのほとんどを敵に回して孤軍奮闘する安倍政権。マスコミは元々反安倍なのだからこういう騒ぎになることは織り込み済みだろう。とすれば、そこまでしてこの法案をいま成立させる真の意図はどこにあるのだろうか?

 国民の安全より憲法という紙切れが大事だという原理主義者から、中国への対抗上当然とする意見までさまざまある。が、どれもありきたり。反だろうが、親だろうが、いくら探してみても、納得のいく意見を述べているものが見当たらない。日本のジャーナリズムやアカデミックなるものの限界なのか、知性の劣化なのか、それとも、あまりにも表に出せない話なのか...。

 この安保法案が、アメリカの要請にそうものである事は、少し考えれば誰でもわかる。アメリカのいわゆる知日派(個人的には全くのうそだとおもっているけど)と呼ばれる人々は、日本のさまざまな活動制限を取っ払おうと圧力をかけ続けてきたことは、よくわかっている。今回のことも、その一つに過ぎない。

 問題は、安倍総理の腹のなかである。これをいま政権の命運をかけてまで通すことのメリットは、いったい何なのであろうか?彼はいわば日本独立主義とも言うべき政治家であろう。だからこそアメリカにまで右翼と称されているのである。ならば、その彼が、単なるアメリカのご機嫌取りだけで、この法案を成立させようとしているのであろうか?引き替えに得るものも無く、いたずらに危険を冒しているのであろうか?そうも思えない。

 自前の防衛力整備のためには、アメリカの許可がいる。アメリカのいいなりに動く範囲であれば、軍備増強も許すが、真に日本が新たなる世界のリーダーの一国として台頭することは決して好ましく思っていない。だから、その一歩として、まずは言うことを聞いているのか?としたら、その裏で日本の要求のどこまでが認められているのか?あるいは、全く別の意図があるのか?


 想定されることはかなりの数に上る。逆に考えられることが多すぎて、真意とその効果に疑問符を持つのである。自分の政権をかけてまで事を起こすからには、見合うだけの国益が無くてはならないはず。それとも、本当に単純な「これやるか」程度でのめり込んで抜き差しならなくなっただけなのか?

 戦前復古とか大仰な批判論など誰でも口に出来よう。真の動機とその結果の予想、そして得るべきもの、失いかねないものは何なのか、わたしはそれが知りたいのだ。

平成27年7月9日(木)

私が教師にならなかった理由@恐ろしさと覚悟

 人間の好き嫌いが激しい子供だったのだろう。この選り好みは生涯変わらない。ただ社会に出てからは、好き嫌いと能力とをわけて考えて、人と接したり評価を下したりしてきた。子供の時には、とりわけ他の人間から影響を受けやすい。
 子供心にも教師を厳しく選択していたようである。「選択」とは「好きか嫌いか」と共に、「出来る教師だめな教師」という評価を下していたという意味である。そして教科の成績と教師との間には少なからずの関係があった。そんなこんなで、高校生になったときには、すでに教師には絶対にならないと心に決めていた。

 自分が教師に影響を受けたことを自覚していたわたしは、他人の運命を変えてしまう教師という職業を心底恐ろしいと感じていたのだ。自分が誰か他の人の、それもまだ子供時分に、一生を左右するなど、とても受け入れられなかったのである。


 またも岩手の中学でいじめが原因とみられる自殺があり、大きな話題となってしまった。これまで何度となく繰りかえされ、そのたびに全国の教育関係者が襟を正したはずなのに、同じようないい加減な対応がみうけられることは、もはやこの国の社会病理なのだろう。

 特に今回は、担任教師と自殺した生徒との間でノートによるやりとりがおこなわれていて、その中でいじめを訴えたり、「死」と言う言葉が直接使われていたにもかかわらず、担任の対応が悪かったのでは無いかと問題になっている。テレビだけでは無くネットでもそのやりとりの内容がばらされているが、確かにおかしいと思えるところが多々ある。


 いまの教師の置かれた立場からの擁護論もあるが、大多数は教師の対応がひどいとの批判論である。全体の構造上の問題はさておき、わたしは聞きたいことがある。この担任教師だけでなく、全国にいるすべての小中高教師に。
「あなたは教師という職業が、一人の人間の一生を左右してしまう恐ろしいものであるとの認識がありますか。」と。
 一生を左右どころか、命まで左右しているのが現実である。わたしなら、その恐ろしさに身体が震え、声も出なくなる。教師が人間であるなら、自分の言動が他の人の命を奪うことの恐ろしさを、どれだけ自覚しているのだろうか。

 忙しさもあるだろう、多くのふざけた発言の中から本当なのかどうかを見極める能力や感性の問題もあろう。だがもし、人の命を握っている自覚が常日頃からあれば、もう少し敏感な反応が出来たのでは無いだろうか。


 私が教師にならないと決めた理由の第一は、大人同士ならいざ知らず、おとなの自分が子供の人生を左右してしまう、そんな恐ろしい職業に付く覚悟が無かったからである。

平成27年6月29日(月)

いま日本で起きていること アメリカ文明の過剰受容

 日本人の気質には、簡単に他文明を受容する特徴のある事はこれまでに述べてきた。そして、その受容が過剰になりやすいのも気質が絡むものであると。いま安倍政権をはじめとする社会の指導層とも呼ぶべき人々の多くが、アメリカ文明のよりいっそうの受容を目指しているようにみえる。日本においてアメリカ文明の受容は、すでに過剰受容になっている。過剰受容は、社会に混乱を招くだけでなく、反動的な動きを生み出すことにもつながり、決して望ましいものではない。

 日本の歴史を見ても、弥生文明の過剰受容、中国文明の過剰受容、西洋文明の過剰受容は、それぞれ次の時代に悪影響を残してしまった。第二次世界大戦の終結により、日本は強制的にアメリカ文明を受容させられてきたが、必ずしも悪いことばかりではなかった。しかし、日本人の大元にある日本文化、それは日本人の感性と言い換えることも出来るが、と相容れないものを無理矢理押しつけられれば、当然、摩擦や衝突が起きてくる。それがさらに進むと、やがて反動的で偏狭な民族主義が顔をのぞかせることにもなる。いまの日本は、すでにこの混沌とした状況が始まっているように思われる。

 本来保守的、民族主義的と思われている安倍政権が、逆のアメリカ文明の積極的(実際には過剰)な受容を推し進め、結果として極端に愛国主義的なものが生まれている。これは歴史の皮肉なのか、それとも精緻な計画に基づくものなのか!



 日本が外国の文化や文明を受け入れるとき、ひとつの型のようなものがある。それが「らせん状振り子型受容」と名付けたものである。


らせん状振り子型受容



 日本は極端から極端に走るとよく言われる。確かに明治維新でも、戦後の復興でも、一夜にして百八十度変わることが、平気で起きてしまう。保守的でありかつ新しいもの好きでもある、そんな両面を持つ日本人ならではなのかもしれない。理由はさておき、よく見るとこれが日本における他文明の受け入れ方であるように見える。つまり、保守的、伝統的であるがゆえに、振り子を引っ張るように大きく揺らしてやらないと反対側あるいは異なる方向に動かない。動き出すと極端に振り子が振れる。そして行き過ぎた反動で自文化への回帰が起こり、両者が融合した新たな文化が形成されていく。日本文化のらせん状振り子型受容方式とでも呼ぶべきものである。

 このような形態をとる結果、洗脳されやすい気質とも相まって、他国文化の受容において行き過ぎることも多い。それがまた、反動の振り子となって伝統文化が重視されるようになる。しかしいずれにしても、それは主に表層文化のことであり、深層文化の領域にまではなかなか影響が及ばない。振り子が異なる方向に振られて激しく動き、その結果が深層文化に少しずつ浸透していく。変わったようで日本文化の本質は何もかわらない、といわれるのはこのためであろう。


アメリカ文明過剰受容が引き起こしている衝突・混乱の例



 これまでの話を理解した上で、実際の日本社会で起きている事柄を見てみると、その実相がよく見えてくる。いくつかの例を見てみよう。

外国人経営者の失敗

 バブル崩壊後の日本経済の低迷において、SONYをはじめ多くの日本企業が、再度アメリカを見習え、アメリカのまねをしろということになった。アメリカ式の実力主義、評価主義、効率重視主義、短期主義、人材の社内教育放棄、株主重視、リストラ、人件費圧縮(人件費のコスト化)等々、きりがない。すべてをアメリカ流だというのも酷な気がするが、それぞれのやり方を導入する際には必ずと言って良いほど、欧米の成功事例とやらが引き合いに出された。

 アメリカ流究極の姿が、外国人経営者の導入であった。だがSONYに代表されるように、およそ日本企業での大々的な成功例はない。当然であろう、企業は経営者だけで成立しているわけではない。多くの従業員、そして顧客、それらがよってたつ文化の上に成り立っている。周囲がアメリカ流になっていないところに、いくら経営だけアメリカ流を持ち込んでも成功するわけがない。こんな単純な事もわからないほど劣化した日本人経営者たちは、文化とか気質というものを全く考えてこなかった。
 最近では、数式で割り切れるはずの経済までも感情で動くと言われる時代になった。それから見ると、彼らの意識が遅れているとしか言いようがないのだが。

 日産という成功例があると反論する人もいるかもしれない。何にでも例外はある。それを取り上げてもさして意味はない。個人的には、外国人経営者で日産が成功したなどとは思っていない。日本人の集団農耕型気質があればこその成功であった。あれだけのリストラでコストカットをすれば別に日本人経営者でも、同じ結果がえられる。それを日本人経営者だとやりずらく、外国人経営者だと仕方がないと受け入れてしまうのは、彼の手柄ではなく、日本人の集団農耕型気質のなせる業である。他にもあるが、ここでは関係ないので省略しよう。

 外国人経営者というのは、典型的な例であり、日本の多くの経営者が自ら考えることを放棄して、ひたすら欧米流のやり方を信奉する他文化崇拝主義のひとつに過ぎない。

 アベノミクスでしこたま内部留保を蓄えながら、それを国内投資や給与として日本社会に還元することなく、ひたすら自己保身と自社の目先の利益のために浪費する。それが内需をさらに冷え込ませて、成長の足を引っ張る。こういう自己中心的な考え方は、本来の日本人気質である孤高武士型気質とは相容れないものである。
 国内生産を続けることで、雇用確保を必死でやっている経営者もいるなか、ドライな欧米流経営が、全体の首を絞め続けていることがわからないのだろうか。


男女平等という名の低賃金労働者確保

 安倍政権は、女性の積極的な活用をうたい文句にしている。それは、経済界からの労働力それも低賃金の労働力を求める声に押された結果でもある。

 日本企業は仕事の効率が悪い、従ってもっと安い賃金の労働力を必要としているなどともっともらしい説明にだまされて、安い労働力の確保に悩む政府。さりとて安倍総理は移民受け入れには基本的に反対である。となれば、女性労働力が良いと言うことに。官僚は税金が多くとれるので、労働者が増えればうれしい。またさまざまな問題(保育所不足、教育等)があれば、それは官僚が権限を拡大する絶好の機会ともなる。女性たちは、社会進出という美名に酔い、労働環境の劣悪さに目をつぶる。家庭に収まるのは男女平等に反するという、これまたゆがんだ話についだまされる。働くには保育所を作れと女性は要求する、が基本的には家庭重視の安倍総理、理想とのギャップがあって、なかなか乗り気にはなれない。......そう、この話、きりがないのである。社会の矛盾や不条理の裏側にある、隠れた大きな原因を理解すべきなのだ。

 バブル崩壊前、日本の標準的な家庭は夫が働き妻と子供が家にいた。こう書くだけで、批判が飛んできそうだが..。「夫」のところを「一人」と置き換えてほしい。気がつかれたであろうか?当時は、一人の収入で4人家族が生計を立てていられたのである。いまは共稼ぎをしなくては、子供を育てることも出来ないという。これって、明らかに日本社会の劣化であろう。いま目指すべきなのは、男でも女でもよいから一人が働けば、家族4人が暮らせる社会を取り戻すことである。理想なのではなく、実現していたのにそこから悪くなってしまったのだ。理想でいえば、この働く「ひとり」が一人分になることだろう。たとえば夫も妻も交代で、週に3日だけ働く形態のような。

 男女がともに社会で働くという欧米流の考え方、正規、非正規の働き方の多様性という欧米流の考え方。だが、社会構造が異なり、極端に走ってしまう社会においては、表層だけ導入しても、悪い方向に利用されるだけで終わってしまう。男女がともに働くことで経済が上向くと考えている総理に、どうして二人働かないといけないのかと、立ち止まって考えてほしいものである。男女平等なら、どちらが働いても、ともに少しずつ働いても良いであろうに、男女共に社会に出ないのはけしからんというのは、欧米の傲慢な理論である。
 男女どちらかが週5日働けば家族が食べてゆける。夫も妻も3日働くと、一日分さらに余裕がうまれる。それを消費に回せば、内需も拡大する。その日だけ子供を保育園にいれれば、子供の世界も広がるし、保育所不足にもならない。

 正規、非正規どうでも良い。問題なのは、待遇なのだから。正規だろうが、3日の派遣だろうが待遇は同じ。それが本当の働き方の多様性を保証する根本である。むろん労働者だけの方を持つ気はない。企業にとって負担となっている社会保険等の公平化と見直しもまた必要になろう。企業年金、終身雇用型の退職金も、変えねばならない。
 いま問題となっている個々の事柄に細々とした対処療法的な政策を施すのではなく、どうあるべきかの姿を描き、その実現を邪魔しているものを取り除く。それが正しい政治、企業そして社会のあり方だろう。


アメリカ文明の過剰受容が日本人の分裂を招いている



 文化の衝突や矛盾などの話はきりがないので、また別の機会に続けよう。

 株や住宅で少し儲かると、すぐに消費に回すアメリカや中国流。それが国内の消費拡大をうみ、経済成長の好循環となる。少し余分なお金が入ると、すぐ貯金に回そうとする日本流。あぶく銭と不労所得を軽蔑する日本人。これでは、経済の悪循環も抜け出せない。国民の気質や文化を考えない政策は、決して成功することはないだろう。

 このまま、アメリカ文明の過剰受容を続けることはさらなる文化的摩擦や衝突を生む。戦後の自虐的とも称される左翼的、リベラル原理主義に洗脳された人々に対して、怒りにもにた反発が日本人の中に醸成されている。そこに中国と韓国が、そして時に欧米が油を注ぎ込む。
 現在の日本は右傾化しているのではなく、振り子が正しい位置に戻ろうとする動きなのだが、それを無理矢理止めようとする動きがかえって反動を強めてしまう。ヘイトスピーチとか、一部議員の傲慢な発言などは、その端的な表れであろう。

 戦前と戦後で全く異なる日本人が生まれたわけではない。戦前は振り子が右に、戦後は左に極端に振られただけで、気質は同じものである。極端に走らない調和のとれた位置を心がけることこそ、すべての日本人が肝に命じる事なのだ。振り子を極端に振らす原因の一つが、アメリカ文明の過剰受容なのだと認識してほしい。


 難しい問題をはしょって説明したため、わかりづらくなったかもしれない。反省!

平成27年6月26日(金)

テロ犯人への対応をどうするのか?

 少し前に、アルジェリアのテロ実行の主犯ベルモフタールを米軍が空爆で殺害したニュースが流れた。日本でも10名もの犠牲者を出した大きなテロであり、日本の警察も彼を犯人として指名手配していたのだが、日本のマスコミはほとんど騒ぐこともなかった。自国の国民が10名も殺害された事件だというのに、相変わらずのど元過ぎればなのだろうか。

 安全保障関連法で国会は大もめにもめ、マスコミも野党も感情的な反対論をひたすらあおるだけの様相は、あまりにも見苦しい。この法案の是非はさておき、ここでは、今回のように日本人が殺害されたり誘拐されて、犯人がわかった場合に、いったい日本の国、国民はどう対応するつもりなのだろうか?

 アメリカのように空爆をすれば、当然軍事行動と言うことになる。さりとて、警察がのこのこ行けるような場所でも状況でもない。結局、知らん顔を決め込むだけなのだろうか?この問題は、政府だけの問題ではない。日本人全体の問題なのである。だが、本当に検討しなくてはならない事柄も少し困難さを伴うと、議論すら拒否してしまう。

 軍事行動を起こさなければ、それは結局、犯人を野放しにして見逃すことを選択したことである。その負い目をきちんと背負う覚悟が、いまの日本人にあるのだろうか?
 いまの日本の軍事的能力から、犯人への対応行動を起こすことはほぼ不可能であろう。だから、軍事力を増強せよと言うつもりもない。ただ、逃げずにきちんと対峙する覚悟くらいは、すべての日本人が持ちたいものである。

平成27年6月26日(金)

マイナンバー 焼け太りをいい加減やめさせろ

 何か不祥事や問題が発生すると、その原因究明や責任の所在追及はほとんど行われることなく、誰も責任などとらない。監督官庁の大臣の首など取ったところで、何の実効性も意味もない。単なる政治家たちのパフォーマンスである。肝心の官僚たちは、責任を痛感するどころか、姑息な焼け太りを画策する。そして、政治家、マスコミはむろん、社会もそれを無条件に受け入れてしまう。なんと愚かな国民なのだろうか。

 この官僚などの焼け太りについては、これまでも原発事故その他の事例で、幾度となく指摘してきたが、世の中はいっこうに目を向けようとすらしない。

 日本年金機構の情報漏洩では、マイナンバー制度の情報漏洩防止が問題となった。死肉をあさるハイエナのごとく、たちまち関係者たちが焼け太り策を策定した。担当大臣たちは自己保身と実績誇示のために、官僚たちは自分たちの利権拡大のために、関係者はそこでの金儲けのために、マスコミは自分たちが騒いで対応をとらせたと自己満足と虚栄のために、多くの無責任な国民はとりあえずの安心感のために、誰も反対をしない。それどころか反対すれば、けしからんと袋だたきに会うのが関の山である。

 実効性のない無駄な政策と金の浪費が、多額の借金と繰り返される不祥事の山を築き上げていく。

 記事にある図を見て頭に血が上ってしまい、無駄な毒をはいてしまった。反省、反省!
「マイナンバー、サイバー防御…監視組織を新設へ」(読売)

 ある図とは、新しく作られるマイナンバーの情報漏洩のための仕組みである。一見して、現在の組織と同じものをなぜわざわざ二つも作るのか、それでなくても日本ではサーバーセキュリテイの人材が不足しているというのに。さらに致命的なのは、今回の年金機構の情報漏洩で一番の問題は、働く人間たちの意識と、重要なデータを手元のシステムに簡単に移して使用させるシステムそのものである。これらの対策は何も講じられずに、またまた組織と予算だけをぶんどるのでは、これまでの焼け太りと全く同じにしか見えないのである。

 むろん詳細は知らないのだから、なぜこの政策が単なる焼け太りだと言えるのかと聞かれれば、過去の経験と報道された内容から想像したとしか言えない。それでも、それほど大きくずれてはいまい。

 表のマスコミは、こういうとき官僚擁護派と化す。裏マスコミ(ネット)では、私と同じように強く批判するコメントもあるのがせめてもの救いである。

平成27年6月23日(火)

「人類も滅亡か」「結婚したくない」同じ背景が

前回掲題で書くつもりが、少し横道にそれてしまった。今回こそ、この話に。

 人類が地球上の生物絶滅の6回目を迎えようとしているというのが、「人類も滅亡か」である。一方、「結婚したくない」というのは、少子化社会対策白書のニュースである。白書に寄れば20代30代の若者が「恋人が欲しくない」と答えた人は、37.6%となった。その理由を尋ねたところ、46.2%が「恋愛が面倒」と回答。「自分の趣味に力を入れたい」が45.1%、「仕事や勉強に力を入れたい」32.9%、「恋愛に興味がない」が28%と続いた。

【参考】内閣府HP「平成26年版 少子化社会対策白書 全体版(PDF形式)」


 この二つは何ら関係がない事柄に見える。だが本当にそうなのだろうか?わたしには、大元のところでつながっている、同じ理由が隠されているように思えて仕方がない。早々と結論を述べてしまえば、どちらも人間の自己中心的な考え方や生き方が事柄の背後にはある。

 身勝手な欲望や経済的利益追求のために、人間が自然や環境を破壊していることは明らかになっているが、なかなか止められない。一方、恋人より趣味を選ぶのも、恋愛という他人とのつきあいが面倒だと考えるのも、すべては自分と言う個人だけしか考えない、それがすべてだということに他ならない。一言で自己中心的と言うにはあまりにもさまざまな要素が含まれてはいるが、少なくともヒト種の存続など全く眼中にないことは事実であろう。


 これは、日本人の気質で指摘した『「個」の利己』が、『「種」の利己』を上回っている状態を端的に表しているのではないだろうか。知的生物としての人間ではあっても、ヒトという生物種ではなくなっているのだろう。

【参考】日本人の気質 第9章「種の利己」と「個の利己」

種の利己と個の利己

 いま人類が絶滅の危機に瀕しているとしたら、このヒト種の存続という生物が待っている遺伝子が壊れてしまっているところにこそ真の危機があるのではないだろうか。

平成27年6月23日(火)

「人類も滅亡か」 どうぞご勝手に(地球より

 こんな記事が目についた。

『世界は地球史上6回目の大量絶滅を迎えつつあり、これまでの約100倍のペースで生物種の消滅が進んでいるとした研究論文が先週、発表された。人類も早期に死滅する可能性があるとして警告している。
 研究は「すでに脅威にさらされている生物種を保護するため、生息圏の喪失や経済的利益のための搾取、気候変動など、生物種にかかっているそうした圧力を緩和する集中的な取り組みが早急に必要」だと呼び掛けている。 【AFP=時事】』

 アメリカのいくつかの大学の研究者が、先週発表した論文だとか。紹介する記事が短すぎてその詳細は不明なのだが、要するに6回目となる地球上の生物の大量絶滅の原因は人間にある、という事らしい。

 この種の報道や論説に接するたび、西洋科学に毒された科学者の思い上がった傲慢さを感じてしまうのが常である。なぜなら、地球をそして地球上の生物を救うのは我々人類であると言うことなのだが、そんな事、地球が頼んでいるのだろうか?

 地球環境を破壊し、他の種を絶滅させる「ヒト」もまた、地球上に生まれた生物種のひとつに過ぎない。それが暴走して自ら滅ぶのなら、それもまた自然の摂理であり、恐竜絶滅と同じであろう。地球は、また新たにヒトに代わる生物種を生み出すだけだろう。この種の話には、常にこの視点がすっぽりと抜け落ちている。人類こそ地球の主であるかのような傲慢さが、人間の暴走を生み出している事への反省が感じられないのだ。

 人類が生存しようが滅びようが、そんな事『地球』の知った事ではないし、どちらに転んでも痛くもかゆくもないだろう。地球が気まぐれを起こして、あるいは何らかの理由によって、いきなり氷河期が来たり、地殻が急に動き出せば、いまの人間の科学ではなすすべもなく、人類は絶滅するであろう。

 ヒトが生まれる前から、地球上では多くの生物種が誕生し、そして絶滅していった。生まれるのも、滅びるのもまた、自然の営みだったのである。それを、人間様が他の生物種を絶滅から救ってやるだと?どこまで思い上がっているのだろうか。

 牛や豚はどんどん殺せ、イルカや鯨を殺すのはけしからん。少数民族が鯨を殺すのは見逃してやるが、日本が殺すのはけしからん。これらの話は、みなどこかでつながっているように感じてしまう。これはあまりにも民族主義者的な考え方なのだろうか?それともただのひねくれ者?
 どちらにしても日本人の感性とは、とうてい相容れないものである。それを博愛主義だの、理想主義だの、進歩人だのと、深く考えもせずに無条件で迎合する日本人のなんと多いことか。彼らはすでに、日本人としての感性をその遺伝子から失っているのだろうか。

 自然への畏敬の念があればこそ、初めて傲慢な我が物顔の行動を慎むことになる。それに対して、人間が知性を持って偉いから他の生物をコントロールしてやるというのは、同じように見えて全く異なる。この勘違いが直らないから、なおさら人間社会の暴走もまた止めることが困難になっているのだろう。

 この話は難しすぎて、なかなか伝わらないのかもしれないが...。

平成27年6月22日(月)

増えている かけるだけの電話

しつこい勧誘やいたずら電話には、いい加減腹が立つが、さらに奇妙な電話が 増えているように思える。

番号は通知してかけてくるのだが、電話に出ても無言のまま、時に、相手を待た せるときに使う音楽のようなものが永遠に流れることも。単なるいたずらでは なさそうである。留守電にまで無言やBGMを長々入れてくるのだ。 固定電話にはかからず、携帯だけ。固定電話は昔ながらの勧誘ばかり。

電話番号もしょっちゅう変えてくるので、いくら着信拒否にしてもきりがない。

単純ないたずらでなさそうだと思うのは、ネットで見ると同じような経験がのっ ているからだ。これだけ多くの相手にしつこくやるのは、なにか目的があろう。 もしも詐欺目的であれば、電話に出た相手がそれにあわないとおもえば、二度 とかけては来ないだろう。しかし、何度でも繰り返してくる。


IP電話用ルータが乗っ取られて、高額な国際電話代を請求された詐欺があった。 この時、国際電話をした先はアフリカで、しかもかけて相手が出るとすぐに切る というのをしつこく繰り返している。なぜ、これで金がとれるのかと言えば、相 手国の電話会社が、自分の電話網を使った人にキャッシュバックをしているから だ。時にこちらの電話会社も。

同じような事を考えてしまうのだが、考えすぎだろうか?



おかしな発信元とわかっているのに、なぜNTTや電話会社はその電話をすぐ使用 できないようにしないのだろうか?
詐欺のブラックリストに載っている電話番号から電話が来たら警告する装置もある が、おかしな話である。わかっているなら、なぜその番号をすぐに使えなくしない のだ。おとり捜査が許されない(麻薬ではOK)日本では、その電話を野放しにし ておくより、次々と詐欺の電話を使えなくする方が、被害を食い止めるのに有効で ある。

電話会社が個人の権利だの、個人情報だのと規制するのをいやがるのは、結局は 詐欺に荷担しているのも同じであろう。改善を強く求めたいのだが...。
電話会社にも勤めた経験があるからこそ、なおさら強く言うのだ。


秋山鷹志