平成27年12月16日(水)
夫婦別姓合憲 意識の男女格差こそ問題の本質
夫婦別姓を認めない民法の規定が違憲かどうかが争われた訴訟の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は16日、夫婦別姓を認めない規定は「合憲」とする初判断を示し、原告側の上告を棄却した。
現時点での合憲は、それなりの意味があるのだろうと理解している。何でもすべて自分の要求が通らないと、国が悪い社会が悪いと訴訟を起こす過剰反応の社会には、少々うんざりしている自分がいる。世論調査では、夫婦別姓を認めるのに賛成が半数強だが、自分が別姓をするかと言えば8割以上がしないという。この回答が、この問題の本質をある意味で映し出しているのだろう。
そもそも、このような問題はあまりにも人間の主観や心情に関係していて、紋切り型の法律にはなじまない事柄である。その大前提を忘れて議論のための議論は、社会を殺伐とした物にしてしまう事を、もう一度確認するところから始めたい。
そのうえで、今回の最高裁の判事の判断でも、女性判事3人全員が違憲判決であったという。ここまで男女で判断が割れる法律ってなんなのだろうか?結局この問題の本質は、男女間の意識の差にある事を示している。男性と女生とで感じている物が違いすぎるのである。
歴史的に見るとき、日本においていまのような固定的な夫婦同姓が導入されたのは、明治維新での西洋文明導入の名残とも言える。日本では名字と姓が違っていたり、一般大衆は名字を持てなかった時代も長句あった。とすれば、夫婦同姓は違憲であるとの判断が出されても、おかしくないことになる。にもかかわらず、素直にそう思えないのは、女性の反対論が男女差別論に基づく原理主義的な色彩が強すぎると感じるからに他ならない。夫(男)の姓を強要される、個人の人権が侵害される、社会生活上著しい不利益を被るなどの理由が挙げられて、違憲論が女性から多く出されているのだが。
姓が変わることで、本当にそんなに耐えられないほどの不便さや差別が生じているのだろうか?芸能人、役者、落語家、作家、どれほど多くの人が別名を使用していることだろうか。それでなぜ、彼ら彼女らから、不平が出無いのであろうか?物理的な不便さがそれほどだとは思えない。むしろ押しつけられたという、精神的な差別感が大きいのだろう。女性だけが男性と違って差別されているという、あまりにも人権原理主義に基ずく過剰反応である被害者意識のなせるわざと言っては、言い過ぎであろうか?
男女差別が日本社会に全くないなどと言うつもりは無い。一刻も早く是正されるべき問題であろう。だからといって、何でも男女同じというゆがんだ原理主義の影が見えると、どうしても身構えてしまう。(
常識の毒「日本は男尊女卑の国では無い」参照)男女差別だけではなく、この社会には多くの差別や格差が存在している。多くの男性は、それを感じてもいる。それらが男女差別よりも小さく影響が少ないとはとうてい思えないのだ。共に正していくべき事柄であろう。
江戸時代の武家では、次男や三男は家督を継げず、他家に婿養子に行く人もたくさんいた。中には武士を捨てて町人の家に行くものも。男性はもっと柔軟な考えを持つように意識改革を行うとともに、どうしたら女性の過剰な被害者意識が消えていくか、時間はかかるが柔軟な社会の構築と教育が欠かせないのだろう。企業では旧姓使用が普及してきている。こういう柔軟な対応を社会が進めるべきなのだろう。
法律判断では右か左の判断を下さざるを得ない。だがそれが行きすぎると、寛容さや柔軟性を失ない、人間性を喪失した無機質な社会が生まれてしまう。それだけはなんとしても避けるべきである。感情を持たない人間など、存在価値が無いだろう。いまや日本のロボットは、感情さえ持とうとしているのである。そういう時代の潮流も見て欲しいものである。
最後に現実的な解答を示してみたい。現在の夫婦同姓を認めた上で、大きく例外もまた認めるのである。何らかの事情がある場合には、裁判所などの判断で夫婦別姓を認める。そういう柔軟性が、これからの法律や裁判官には求められている。だがこれは、「選択的夫婦別姓」と同じでは無い。ここが肝心なのである。両方用意しておいて好きな方を選べというのは、わがままを助長する権利の過剰である。そうではなく、どちらかを原則として、なおかつ例外を柔軟に認める。
こうして何十年かたって社会を見てみたら、夫婦別姓が80%にのぼっているかもしれない。その時は、今度は夫婦別性を原則として、例外として夫婦同姓を認めるように法律を変える。むろんこの時の例外条件は、単に夫婦両者の共同意思の存在だけに成ろうか。
寛容で柔軟な社会は、日本人の気質が生み出した望ましい社会のあり方である。それが失われた現在の社会が、住みやすいはずは無かろう。