神ノ道

神ながらの道

オン草紙
【第二部外伝】市川海老蔵はいったん真央さんを忘れる事が重要

 これは神道(かみながらのみち)の外伝ですが、第二部つまり霊的な世界の話ですから、それが嫌いな第一部の読者の皆さんは、読まないでください。第一部では、霊的な話は一切含まれていません。

 海老蔵親子の宙乗りが成功したという事で、まずはめでたいですね。そのとき、亡くなった真央さんが側にいたと親子とも感じたとのこと、それはきっと確かなことでしょう。

 仏教では、人が亡くなってから49日目の日に、遺骨をお墓に納めます。海老蔵さんというか市川家では何代か前から神道のある教派を信仰しているようで、葬儀なども神式で行われているようです。神道においても、同様に喪が明ける五十日祭というのが行われます。喪明けと書きましたが、正確には忌明けで、穢れが落ちる日です。

 まあ、細かいさまざまな儀式については、仏教でも神道でも、宗派によって異なりますので、ここでは立ち入りません。神ながらの道では、基本的に人間の知性宗教が作った儀式は、否定しませんが勧めもしません。どれが正しいのかではなく、心の有り様(信仰)だと思うので、それほど固くは考えていません。ご縁のある信仰のやり方でかまわないと思います。


 前置きが長くなりました。本題は49日でも50日でも、この日までは、死んだ人にとって特別な期間だと言うことです。有り体に言えば、亡くなった方の魂が、現世/この世にとどまっている期間なのです。魂が肉体の滅を自覚して、真にあの世へと旅立つまでの間です。ですから身近に感じるのも当然と言えるのでしょう。問題はここからです。

 不慮の事故などで突然肉体が滅んだとき、魂はそれを自覚できずに、この世のその場所にとどまり続けてしまうことがあります。そんな魂が地縛霊とか浮遊霊とかに成るわけです。ですが、本人が自らの肉体の死を自覚できても、この世への未練が強すぎると、それが重りや足かせとなって、行くべき所に行かれなくなります。成仏出来ないわけです。この世への未練とは、単に魂の側の思いだけではありません。残った家族や愛する人達が、あまりにもその人の肉体の死を受け入れずに、ひたすら会いたいとだけ願うような生きてる側からの思いも含まれるのです。

 後のことは心配だけど、でもこれも運命(さだめ)だったのだと素直に受け入れて、行くべき所に旅立つのが、成仏への一歩なのです。行くべき所に行ってから、霊的な力をつければ(真の成仏が出来れば)、それから残してきた家族や愛する人達を指導したり守護したりすることも出来るのです。ですが、残された人達があまりにも悲しみに暮れて、ひたすら死んだ人のことを片時も忘れないで思い続けていると、その思いが、死んだ人の魂をこの世に無理矢理つなぎ止める鎖となってしまうのです。本当に死んだ人のことを思うのであれば、その魂の成仏を邪魔しないように、49日までは泣きわめいて死んだ人にすがっても、一区切りがついたら、そこから立ち上がるべきなのです。この世に、死なない人はいないのです。生まれ、出会い、愛し、そして死んでいく。そのさだめそのものが、神ながらの道なのです。

 海老蔵さんも、50日祭までは、ひたすら真央さんにすがりつきながらも、彼女の魂が安らかに行くべき所に行かれるように、祈ってあげる心をもつべきなのです。そうすれば、菩薩の純粋さを持っていた彼女の魂は、たちまち成仏して、そこから先は、常に指導や守護をしてくれる先祖霊の仲間になるでしょう。


 死んだ人のことを49日で忘れるなど、薄情に聞こえますが、そうではありません。神ながらの道の本道である、物事やいかなる事にも、執着したりこだわらないという事なのです。納骨で一度その人の魂をこの世から解放する共に、残った人もまた、そこから新たな人生を歩み始めるのです。心の奥底に大事にしまった思い出は、決して色あせることなく、いつでも取り出して思い出せるのですから。


 魂が49日でこの世を離れる事は知っていましたが、特に強く意識はしていませんでした。ですが、それをいやでも感じることを経験してしまいました。その内容をお話しするのは控えますが、皆さんもいつか経験することがあるかも知れません。

平成29年7月5日(水)