神ノ道

神ながらの道

オン草紙
【補章】人が死んで神になる

 日本が台湾統治を始めたときは、激しい抵抗運動がありました。反日の武力抵抗が頻繁に起きていました。そこで統治政策として武力による抵抗の封じ込めと同時に、現地の人達の生活や教育に力をそそぐことで、次第に抵抗も治まり落ち着いていきました。その成果が今も残っており、親日として知られるようにまで成りました。この歴史は、日米関係と似たような所がありますね。その台湾では、今でも台湾に尽くした日本人を神として祭っている所があります。お互いの民衆同士の心の交流が無ければここまでは行かないでしょう。

 ここではそのような関係性、友情物語についてでは無く、両者の感性というか信仰心についてです。つまり台湾の人々、特に先住民や土着の人達と日本人とが、同じ考え方を持っている点です。  具体的に言えば、人が死んで神になるという考え方です。死んだ人間があの世という別世界に行くのは、世界中の古い信仰や宗教においても、ごく自然なことです。ですが、人間が死んでそのまま、特別な力を持った神という高い次元の存在になるという考え方は、必ずしも世界共通ではないようです。さらに、こうして祭った神は、人々を守ってくれるようになるのも同じです。
 やはり、どこか感性で同じ部分があるのかも知れません。


 日本でも、祟りをする怨霊でも、神に祭りあげて祭祀をきちんと執り行えば、転じて人々を守護する神となります。これは、祟るほどの大きな力を、良い方向に向けていただくと言うことです。この元々の力に善悪は無いというのは、日本の古神道から続く考え方です。
 祟るのはこの世への執着でもありますから、祭る事でその執着を捨ててもらえれば、後には善悪に関わりの無い力(エネルギー)だけが残ります。その神ノ力に対して人々が思いを届けることで、願いがかなうことになるわけです。

 むろん、日本でもすべての人が死んだらそのまま神になるわけではありません。魂が浄化されて仏になる。その仏の段階を経て、神にまで上(のぼ)ると考えるのが、一般的でしょう。このことについては、ここではこれ以上立ち入らないでおきましょう。


 神ながらの道も、世界中の人々が知性の生んだ宗教から解き放たれれば、同じような信仰心になるのかも知れませんね。ある特定の宗教で無くてはならないと言うのは、それこそ執着心以外の何者でもありませんから。

令和2年(2020)6月19日(金)