神ながらの道
はじめに
現代の日本人は、「自分は無宗教です」と答えることが多いようです。それが科学的な時代に生きる人間の常識であるかのような認識が、誤った戦後教育の結果によるものなのだとしても、そこにはそのような言説を簡単に受け入れてしまう国民性がある事は確かなのでしょう。この問題については、すでに「日本人の気質」で相当詳細に説明を加えてきました。ここでは少し違う角度からみてみましょう。
無宗教だと言いながら、神道系、仏教系の信者数合計は、国民の総人口を上回ると言います。正月といわず一年中いつでも神社仏閣などを参拝する多くの日本人の姿があります。外国人からは、奇異の目で見られることも仕方が無い事なのかもしれません。ですが、そこには日本人の精神基盤にある信仰心を、日本人自身が知性によってうまく説明することが出来ないでいる姿を見ることが出来るのです。信仰心という言葉がいやなら、超越的自然観と言い換えても構いませんが、日本人の精神性に深く関わっていることに代わりはありません。
これまでの日本人が、いわば感覚としては十分すぎるほどに理解出来ていながら、それを言葉という道具を借りて表現することが苦手であった『(日本人の)神』というものを、少しだけ記述してみようとするのが、本稿の試みです。当然それは、日本人の精神史を書くにも等しいはずですが、そのような力は著者にはありませんし、その必要も無いだろうと考えています。
大きく二部構成で書きたいと思います。第一部は、いわゆる霊的なものや、あの世などの非科学的と言われる部分をできる限り排除した、理性的な説明を主とするものです。それはときに、知性による屁理屈や、言葉の遊戯になる恐れはありますが、少なくとも日本人の心の一端は、わかってもらえるのでは無いかと考えます。
第二部は、いわば言葉にならない感性的なものを、自らの経験によって感得したものを交えて記述してみたいと思います。従って、そのような非科学的なものを一切受け付けない日本人離れした体質の人は、読まない方が良いでしょう。実際、第二部はおまけのようなものです。
科学と宗教あるいは宗教間で、未だに対立的な構図を持っている現代社会の在り方は、人類の進歩の上からも間違っていると言えます。そのような対立や相克の構図を解消できるのは、日本人が長い間に獲得し維持し続けてきた感性と神への考え方であると信じています。両者は共存することが当たり前なのです。この考え方が当たり前になった時、宗教の名の下に行われるテロをはじめとするさまざまな過ちを減らし、科学の進歩の名の下に幸せから遠ざかる社会の在り方を、少しでも改善できるものと信じています。
平成28年7月1日(金)