神ノ道

神ながらの道

オン草紙
第一部 第2章
第2章 日本における神ながらの道の誕生

 仏教の導入は外来文明の受容


 宗教史から見れば、仏教伝来がいつかは重要な事柄かも知れません。しかしここでは、いつかと云うことよりも、仏教の伝来と呼ばれる出来事とは、一体何だったのか、そちらが最大の関心事です。

 仏教導入以前の神ノ道


 一万年以上も続いてきた縄文文化・文明に大きな変革をもたらしたのが、弥生文化と呼ばれる水耕稲作を中心とした外来文明です。大量の弥生人が大陸から押し寄せて、縄文人を駆逐していったという昔の説の誤りは、ようやく一般にも広く知られるようになりました。縄文から弥生への変化とは、言い換えれば、外来文明の受容と云う出来事だったのです。

 イネそのものは、縄文のかなり早い時期から日本列島に来ていたことがわかっています。しかし本格的な普及には至らなかったのです。その後、縄文人が自らの意思で、この弥生文明の技術を受け入れていった歴史がそこにあります。その証拠に、北海道と沖縄を別にして日本全体に水耕稲作が広まるまでには、非常に長い期間がかかっています。また、北九州から始まった稲作の伝播は、単純に東へと広まっていったのでは無く、いまの長野を中心としたあたりで強い抵抗に遭い、いったんそこを飛び越えて東北に移り、そこから南下してきたともいわれています。この間、実に何世紀もの時間が過ぎているのです。この時間は、渡来系弥生人が、日本文化にそして日本人に同化していった期間でもあるのでしょう。

 縄文人いや日本人が自らの意思で、外来文明を受容するのに激しく抵抗したのは、単なる技術の域を超えて、それが文化とりわけ精神性にまで及ぶものだったからに他なりません。自然の恵みに頼るのでは無く、人間が自分で生産し、その富みをコントロールすることで、より強い権力が生み出され、人々に階層が生まれ格差が生じたのです。それまでの平等社会から階層社会への変化を嫌ったのが、この長い受容期間を生んだ理由のひとつでしょう。

 それでもなお、諏訪に御柱の祭事が生き続けたように、日本文化の精神基盤を形成した縄文の精神構造は、その後も日本人の中に生き続けたのです。実際、いくら文明が変わろうとも、風土はそれほど大きくは変わりません。自然の持つ力や無常さは、なにもも変わらないのですから、感性もまた変わらなかったのは当然なのかも知れません。つまり、縄文時代に神ノ道は、すでにできあがっていたのです。


 縄文時代にはすでにできあがっていた神ノ道。世界の他の宗教と比較して特異なのは、その後の展開です。偶像を認めるかどうかは別として、世界の他の地域においては、自然神はやがて形あるもの、あるいはさまざまな創造の主として、変化を遂げていきます。先祖例や動物などと結びついて、土着神や多くの神々に姿を換えていきます。多神教の誕生です。そこからさらに、世界的な一神教に変わるわけです。

 ですが、日本においては、この縄文時代に確立した神ノ道は、農耕などの技術の進歩や国家の成立を見る段階になってもなお、その姿を変えることはありませんでした。それほど1万年を超える長い文化の歴史は、日本人の遺伝子に強固な精神基盤を構築したのです。


 外来文明受容としての仏教


 仏教とは


 仏教を語るには、そもそも仏教とは何かを説明する必要があるのでしょう。この問いについて、いまでも忘れられない経験があります。高校生時代、倫理の授業で仏教を学んだときに、私はこんな質問をしました。「では、釈迦が悟ったという、その悟りとは何ですか?どのようなものでしょうか?」と。教師は「それがわかればノーベル賞だよ」と答えてくれたのです。その後、誰かノーベル賞をもらったでしょうか?

 確かに、釈迦は人間の生老病死の苦しみ・悲しみを知り、その苦しみから逃れるためにはどうすれば良いのかを求めて、ひたすら修行を積んだのでした。そしてやがて「悟り」を開いた。つまり非常に個人的な内面の体験が悟りであり、その悟りの内容はどこにも語られていないのです。言葉では説明できないというのが正しいのでしょうか。ですから、ここまでであれば、神ノ道同様に、仏教は感性の宗教なのです。あ、現代の高僧達は、とっくに言葉による解説が可能なのかも知れませんが...。


 しかし、釈迦は自ら弟子達に戒律を設けたとも云います。方便とか哲学的な思考は釈迦の時代からそなわっていたのでしょう。したがって、釈迦入滅後(死後)に、その弟子達によってさまざまな教えが説かれたり、戒律が設けられたのも自然な事だったのかも知れません。そして、それは仏教が感性の宗教から知性の宗教へと変化していった証でもあります。

 解脱や悟りそのものを説明できない代わりに、六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)において生死が繰り返される輪廻転生を、永遠に抜け出す事が解脱だという説明が成されました。インドに元々あった輪廻の考え方が、この元だとも云われていますが、解釈や説明をすると云うことは、知性の働きに他なりません。つまり、ここで仏教もまた知性による宗教となったのです。さらに、悟りを開く為の修行の方法を伝授したという事は、情報や技術・技法という文明部分をより多く生み出していったと言うことでしょう。

 北インドで生まれた仏教は、東南アジア方面に伝播した上座部仏教と、西域(中央アジア)、中国から朝鮮半島などへ広がった大乗仏教とに分かれます。上座部仏教は昔、小乗仏教と呼ばれていましたが、小さな乗り物という差別用語だと言うことで、いまは避けられるようです。個人的には、小乗仏教と大乗文教と並べた方が、その違いがよくわかるような気がします。個人的な見解として両者の違いを簡単に述べれば、小乗仏教は個人の為の仏教であり、大乗仏教は社会(公)の為の仏教と言えるかもしれません。個人が解脱への道を求める時にそれを導くものと、社会全体の幸福を求めるための技術を授けるもの(それは当然個人の解脱にもつながる)とも云えるでしょう。この違いは、概念的なもので、両者は本来裏表の関係のような気がします。ですが、この違いはいまでも仏教を信仰する国々において、それぞれの特徴を良く現しているように思います。

 小乗仏教は、出家して厳しい修行を積んだ僧だけが解脱出来るとした教えだと言います。その事が差別的だと言うことで大乗仏教からは批判されますが、現在広くアジアの国々に広まっている小乗仏教は、個人(自ら)による個人の救済という本質を、きちんと残しているように見えます。

 大乗仏教は、釈迦の死後500年もしてから生まれた、まさに哲学や思想を色濃く反映した教えです。小乗仏教と違ってすべての人々を救う事を目的としながら、宇宙が仏そのものであるとか、顕教、密教でその宇宙仏が異なったりと、非常に知識や思想体系にこだわるものとなっています。もっとも、現在の日本で考えられている大乗仏教の教えは、その多くの部分で神ノ道に通じるものがあります。  私は昔、このように大乗仏教が神ノ道に似通っているから、仏教が素直に日本に受容されたのでは無いかと考えていました。いまは、むしろ仏教の日本化によってそのようになったのでは無いかと考えています。いずれにせよ、究極の目的は同じ個人の救済でも、より国家や社会全体を相手にする技術という特徴があることに代わりは無いでしょう。大乗仏教は生まれたときから、知性宗教なのです。

 日本における仏教受容


 すでに述べたように、日本における仏教という世界宗教の導入は、外来文明(とりわけ技術的側面)の受容に他ならないのです。信仰心によって仏教を強く信奉し、それまでの信仰や宗教を離れて乗り換えたという類いのものでは無いと言うことです。こういう視点はほとんど論じられていませんが、文化や文明論的な視点を持てば、特に大きな異論も出ないことでしょう。

 日本においては、6世紀中頃の欽明天皇期に百済から伝えられたのが、仏教公伝つまり国としての正式な仏教受容の時とされています。逆にいえば、それよりも以前にすでに私的には渡来人等により、日本に伝来していたということです。この伝えられた仏教は、大乗仏教です。当時の百済は、隣国などからの軍事的圧迫を受けており、倭(日本)の救援を求めていました。そのようなときに仏教をわざわざ日本に伝えようとした理由は何でしょうか。いわば新しい文明としての仏教を伝えることで、日本の歓心を得ようとしたものでしょう。ここからも、仏教は新しい文明という視点が浮かび上がります。


 一万年以上にも及ぶ縄文時代に、確立された感性の宗教としての神ノ道。それは、その後も他国とは異なる宗教的な発達を遂げてきたのです。自然崇拝から進歩することで宗教になるという進化論的な考え方に基づけば、日本の神は、古いまま新しい知性の宗教に生まれ変われなかったということになるのでしょう。しかしそれは西洋近代文明の考え方であり、世界の文化集団すべてが同じ道をたどってきたわけではありません。とりわけ日本では、知性による宗教が誕生する前に、感性による宗教が成立してしまっていた事に留意すべきなのです。

 ですから仏教の導入とは、新しい宗教への変更でも、アニミズムからの進歩でもなく、文化に根をはやしている感性の宗教たる神ノ道にくわえて、新技術の外国からの導入に過ぎなかったのです。日本の統治者達が受け入れたのが、大乗仏教であったのも当然のことなのです。


 国家統治と宗教


 すこし脇道にそれますが、国家の統治と宗教について簡単に見ておきましょう。為政者が国家の運営のために宗教を利用するのは、ごく自然の成り行きで、歴史上国家が成立した当初から、そのような関係が成立していました。アジアの国々において、仏教による国作りはいまもなお現実の事柄ですが、小乗仏教、大乗仏教の特徴と重ねてみる事が出来ます。あるいは新興国などにイスラム教が広まるのも、同じものが根底にあると言えるでしょう。

 人心が乱れ、人々がなかなか言うことを聞かないとき、為政者が自ら信仰する神にすがる事は当然かも知れません。それに加えて、民衆に宗教や信仰心を広めることで、国家を統治しやすく出来ると考えたのです。個人の心を対象とする小乗仏教であれば、個人の人格形成に役立つ、すなわち荒れた、反抗的な心が修まり、統治しやすくなります。社会や公を治める技術としての大乗仏教は、国家や社会を治める為に直接的な技術を提供します。国家鎮護の像や業法などは、まさに統治の為の具体的な技術(ツール)なのです。さまざまな戒律・教義などは、統治者にとって民衆をコントロールする上で有効な道具になる事は、言うまでも無いでしょう。

 仏教に限らず知性宗教による国家の統治とは、個人と社会を抑える両面性を持つものです。個人と社会の両方を治めるのです。むろん、それは権力者や一部の勢力に悪用されれば、民衆は本来の安心立命の為の信仰心をゆがめられ、知性宗教の奴隷となりかねません。


 仏教と神道の争い


 さて話を戻しましょう。日本における仏教の受容を、神道派と仏教派の争いというとらえ方をこれまでの歴史学ではしてきました。物部氏と蘇我氏の争いも、これを原因だと決めつけてきました。しかしそう単純な話では無いでしょう。実際の両豪族の権力争いの中に、単に象徴的に含まれただけなのかも知れません。  この争いは、仏教という外来の神を災いをもたらす神として拒否するか、それとも幸福をもたらす神として受け入れるかであったと一部の専門家も書いています。これは、明らかに古神道の八百万の神に仏教という新たな神を加えるかどうかと言う話であり、新しい宗教の受容などと言う話ではありません。蕃神(ばんしん)を論じていながら、この事を素通りするというのもおかしな話に思えます。

 それにしても、いかに八百万の神といえども、外国の神を素直に受け入れられたのかどうか、難しいところです。仏教史に依れば、一般民衆が仏教を受け入れるのには長い時間がかかったとあります。それは、この事とも関わりがあるのかも知れません。いずれにせよ、蕃神という考え方そのものが、神道の八百万の神を基盤とする考え方に代わりは無いはずです。それがどうも忘れられてしまい、仏教という宗教が古神道という宗教に取って代わったと誤解してしまうのです。


 さらに、当時の天皇や聖徳太子に代表されるような人々が、豪族合議制から中央集権的な国家体制を強く確立したいと考えたとき、そのためのひとつの道具として、社会統治の文明(思想・知識・技術)たる仏教の導入を考えたのではないでしょうか。もしも、伝えられた仏教が小乗仏教の個人救済の色彩の強い物であったならば、果たしてあれほど熱心に受容をはかったでしょうか?

 この事は、後の仏教と神道(神ノ道を含めて)との関係や仏教各派の開祖の行動とも密接に絡んできます。少なくとも歴史上は、そのように読み解くことが出来るのです。