神ノ道

神ながらの道

オン草紙
第一部 第2章
第2章 日本における神ながらの道の誕生

 神ノ道と仏教の関係


 為政者達の思惑とは違って、仏教は日本の民衆になかなか広まらなかったと云われています。もともと、為政者達が治世のために導入したのですから当然かも知れません。しかし、だからといって仏教が日本に根付くようになったのは、為政者達の洗脳のせいだとばかりは云えないように思います。知性宗教たる仏教が日本に広まって土着の日本仏教が誕生したのでは無く、感性宗教たる神ノ道に、日本化された仏教がとりこまれたというのが、正しい認識のように思います。ここでは、そのような証をみていきます。

 山本七平が、日本には日本教とでも呼ぶべきものが大元にあり、その上に様々な宗教が加えられたので、日本教仏教派、日本教キリスト派などと考えるのが正しいと述べています。似たような考え方をする識者は、他にもたくさんいます。大元になるものを日本教と呼ぶとは限らないようですが、考え方は同じでしょう。本稿の神ノ道もある意味では、彼の日本教と同じような位置づけです。

 楽観主義者の無常観


 神道、仏教など日本の宗教史などでは、仏教伝来以前の古神道の時代の日本人は、非常に楽観主義者であり、そのために仏教の持つ解釈などを受け入れることが難しかったとされています。その代表としてあげられるのが、「無常観」です。仏教における無常というのは、ある意味で悲観的で永遠的なものなど無いという考え方であり、縄文人の楽観主義と合わなかったとされています。それは平安時代にまで続くとも。「無常」の宝庫とも言える平安時代の作品においても、作者のような知識人達とは違って一般民衆は、無常を否定する、受け入れないとする文章が多く残っていると、指摘する専門家もいます。

 個々の作品の内容については、ここで触れることはしませんが、根本的な部分で私は異なる考えを持ちます。それは、無常観そのものの考え方や、日本人の受け取りかたについての問題です。本来の仏教の無常観がどれほどの悲観的な、ニヒリズム(消極的ニヒリズム)的な考え方なのか、正直よく知りません。ですが、日本人の無常観は、はるか縄文の神ノ道においてすでに確立した物であり、決して仏教が持たらした考え方では無いと言うことです。もしも解釈を仏教がもたらしたというのであれば、それこそ仏教という文明(技術)によって、それまで説明しずらかったものに一応の言葉の定義が当てはめられたという事なのでしょう。何でも外来を上に考える明治期以降の卑屈な考え方はいい加減やめたいものです。

 この事は鴨長明であろうと民衆の誰であろうとも、決して変わる事は無かったと信じています。知識人層と民衆の感覚が違っていたと言いたがるのは、自分は知識層に属すると考えたい人達の自己満足に過ぎません。あるいは日本人の感性に対する観察不足でしょう。

   日本人の無常観については、日本人の気質においてもかなり詳しく取り上げましたが、日本人の精神や神ノ道の基本的な考え方、感じ方なので、次の章で改めて論じることにします。ここでは、仏教によって人々の考え方が大きく変わっていったと言うことを、あまり過大に評価しない方が良いと言いたいのです。そうでなければ、その後に起きた葬式仏教と揶揄されるような仏教の大きな変化についても、正しい解釈を施せないのでは無いでしょうか。

 日本の知性宗教としての仏教の成立


 日本における仏教の歴史をどこまで遡れば良いのか、なかなか難しいところがあります。つまり、日本における独自の知性宗教たる仏教がいつ頃出来てきたのかという問題です。六世紀に公伝された仏教は、聖徳太子により大きく花開きます。しかし、それは皇族、貴族などの話であり、一般民衆に必ずしも広がったものとは言えません。聖徳太子の時代に仏教が民衆一般にまで広がったとみるのは、むしろ後世による脚色が大きいのかも知れません。なぜなら、当時最新の知識や情報であった仏教が、簡単に民衆レベルに下ろされたとは考えづらいからです。

 勝手に僧を名乗ったり、戒律を守らないなどの問題が噴出したために、朝廷は最澄や空海などを唐に派遣して、正しい仏教の教えを学ばせたり、正しく戒律を授けられる僧侶を求めたりしました。

 この動きの裏には、外来崇拝や外国人を上に見たがる日本人の集団農耕の悪しき習性が色濃く出ています。外来崇拝と自文化尊重が相互に繰り返される日本の歴史については、文化と文明 「第3章日本文化 日本文化の変容と発展 らせん状振り子型受容」で詳しく述べています。


 なんにせよ、最澄と空海によって基本的な仏教思想やさまざまな技術に関わる情報と、それを権威づけるるための仕組みが導入されました。ここで、ようやく誰でも、それなりの知識があれば、何とか仏教の哲学性や思想性の香りをかぐことが出来るようになったのでしょう。空海は一部の特権階級だけでは無く民衆の中に入って仏教というか密教を広めようとしました。仏教の一般民衆への浸透とは、結局民衆の信仰心を呼び起こす事に他なりません。その意味では、教育の場を充分に与えられていなかったかも知れない一般民衆にまで、広く仏教が広まる、すなわち信仰としての仏教が成立するのは、やはり多くの宗祖が輩出した鎌倉仏教の時代なのでしょうか。

 こうしてみると、日本における仏教は、信仰心から始まって次第に高度な思想や哲学になったのでは無く、逆に知識や技術が先に伝わり、やがてそこに信仰心が加えられていった歴史を持つと言えるでしょう。

 知性宗教としての神道の成立


 日本における仏教が信仰心から始まって次第に知的な宗教になったのでは無く、はじめに知識や技術などがあり、そこに一般民衆の信仰心が次第に加えられていったと述べました。では、神ノ道はどうでしょうか?神ノ道は、感性に基づく信仰心があり、それが知性によって知識化・情報化されること無く、とても長い時を過ごしてきました。そこに知性宗教としての仏教が導入されることで、その影響を受けたのでしょう。そこから神ノ道の知性宗教化とも呼ぶべき事が起きたのです。


 それまでは教義も教祖も神像も何もいらなかった神ノ道が、一般の知性宗教と同じ形態を持たせようとする運動が始まったのです。それまでは、知識も情報も(無意識ではあれ)拒否していたのですから、仏教のまねになるのも致し方が無いことかもしれません。この流れは、神ノ道を後の世にまで生き残らせる上で、一定の役割を果たしたのかも知れません。しかし同時に、人智を越えるものとしての神をいわば人間の水準に落としてしまったとも言えるわけです。人智を越えるのが神ならば、知性の生み出す知識や情報、技術などは、所詮人間のなすことであり、神のあずかり知らぬ事です。こうして、本来の神ノ道を少し外れた神道が生まれることになったのです。

 言うなれば仏教という外来文明の過剰受容がもたらした副作用、と言うことが出来ます。現代にまで続く神ノ道への誤解は、こうして生み出されてしまったのです。それでも、日本人の遺伝子の奥深くに根を下ろした神ノ道は、決して無くなったり、本質から外れることは無かったのです。それが、自然のもたらす恵みと災いなどの風土によって維持されていた事は、繰り返すまでも無いでしょう。

 仏教導入が文明受容であったいくつかの証


 すでに文明としての仏教受容について述べてきました。少しくどいようですが、さらにいくつかの事柄をみておきましょう。


 聖武天皇の仏教信仰


 日照り、洪水、地震など多くの自然災害が続き、疫病は蔓延し、餓死者も出る混乱の時代が続きました。さらに武力による反乱までも。このような国の状態に対して、聖武天皇は国家鎮護の救いを仏教に求めたのです。多くの寺を建立し、有名な大仏建立まで成し遂げました。

 大仏建立が長屋王の怨霊を鎮める目的であったかどうかは別として、仏教がもつ最新の技術によって世の平穏を求めたことは確かでしょう。外来の新知識や技術だったから仏教にしたのか、それとも神道にすがりたくても神道では国家鎮護の具体的な技術が無かった、あるいは信じられなかったのでしょうか?

 大仏開眼供養においては、最も大事な眼を入れる役割をインド人の僧、菩提僊那(ぼだいせんな)に任せています。さらに、戒律を正しく授けられる僧を中国に求めて鑑真が来日したのですから、彼の外来崇拝も極まった感があります。


 そんな彼において根本的におかしな事があります。そもそもそれまでの神道の考え方に依れば、疫病や自然災害は悪しき神がもたらすものと考えていたはずです。それなのに、なぜそのような悪しき神を鎮める技術や技法が無かったのでしょうか?後の陰陽道などでは式神などを使役できるとしていますが、それは神道が知性宗教になってから後の事なのかも知れません。このあたりについての歴史は、ほとんど顧みられないので、浅学な私にはよくわかりません。

 それはさておき、大仏建立においては、もっと奇妙なことがあります。それは、大仏の建立がうまくいくようにと、神である宇佐八幡宮にお願いをしているのです。歴史的には、神仏習合のはじめとか、国家守護神の誕生、神より仏が上位になった時など色々と言われます。それよりも重要な事は、仏教を信じて国家鎮護を頼った聖武天皇が、結局は神の力を信じていたという事実です。神を捨てられなかったという事は、神ノ道に仏教という宗教のもつ知識・情報・技術を取り入れたという事なのでしょう。このように、仏教とは外来文明(知識・技術)のひとつだったのです。


 最澄・空海


 天台・真言の仏教の基礎を築いた二人ですが、同じ時期に唐にわたって仏教を学んでいます。後に両者を決別させることとなったとされる密教。最澄が空海に密教の技法を求めたのも、桓武天皇などからの国家鎮護の技法習得を迫られたからだとも言います。何のことは無い、結局は心の安寧より治安の具体的な技術が欲しかったのです。

 最澄も短期間で帰国していますが、空海も20年のはずの中国修行をわずか2年で終えて帰国しています。そのために闕期(けつご)の罪に問われたとも言われています。自己修練と言うよりは、新しい知識・情報・技術の習得が目的であった彼にとっては、学ぶものが無くなればさっさと帰国するのは当然だったのでしょう。これらの事からも、仏教の当初は最新の技術文明のひとつに過ぎなかったことが、よくわかります。


 親鸞などの破戒僧


 それまでの貴族中心の社会から武家が権力を持つ時代へと大きく変化した時代、それが平安から鎌倉なのでしょう。時代の変動期には数多くの指導的な人物が出るのもまた歴史の常です。そんな鎌倉仏教の開祖の一人である親鸞。彼は、肉食妻帯(にくじきさいたい)、つまり魚や獣の肉を食し、妻をめとったのです。当時の仏教ではそれらは固く禁じられていましたから、破戒僧として、仏教界から大変な非難を浴びることになりました。

 この行動について親鸞擁護派は、彼の狙いは「僧侶も在家も、すべての人がありのままで救われるのが本当の仏教である」事を明らかにするためだったと言います。この事は視点を変えれば、戒律や教義などの知識にしばられるのではなく、人間の本心としての信仰心が重要であると説いたことでもあります。仏教の本質である信仰心を大事にしたかったのでしょう。

 また、「あるがままに」と言うのは神ノ道の本質の一つでもあります。ですから、親鸞は意識してか知らずか、神ノ道に仏教という知性を加えた宗教を目指したと言えるでしょう。


 破戒僧と呼ばれる高名な僧は日本の歴史には数多く登場します。一方、修行に当たって日本人ほど戒律を守らないルーズな信者はいないと、仏教の世界でも他国からは非難されているそうです。ここから日本人の精神構造が明らかになります。所詮人間が作った戒律や教義などを守る事でしか、真理や悟りに到達できないのであれば、それが人間の信仰心という心の自由を保障するものなのでしょうか?こう考えるのは私だけで無く、多くの日本人にとって共通のものでしょう。だからこそ、日本では高名な破戒僧が、次々と出てくるのです。むろん、戒律や教義などを頭から否定しているわけではありません。その役割の重要性を理解した上で、それでもなお、自由なままでいながら自らを律する事こそ、信仰であり、大和魂と呼んだ日本人の精神性の根幹なのです。


 日蓮の国家鎮護


 仏教が導入された時から、仏教は神道(古神道から知性宗教としての神道まで)との共存がはかられていました。本地垂迹(ほんじすいじゃく)であろうが、反本地垂迹であろうが構いませんが、これらを神仏習合思想としてとらえるのが一般的です。ですが、それはまさに学問という知性の領域での話でしょう。真に仏教を信仰するなら、はじめから神道を捨ててしまえば済むことです。これはいわゆる土着化とか、土着の古い信仰との融合という次元の話ではありません。なぜならすでに宗教として神道はそこに存在していたのですから、それを捨て去ることが出来なかったという事です。


 海外からの侵略という国家の安全が現実に脅かされる状況下において、日蓮のような強烈な国家鎮護の宗教が生まれても何らおかしくは無いでしょう。ですが、彼はまた法華曼荼羅に象徴されるように、神道との習合というよりは神道の神々の力を信じた一人だったのでしょう。国家鎮護の大仏建立に古い神の加護を頼むような矛盾があったように、仏教知識の中の法華経という思想の力を、形の無い神々に付与することで、その力を借りようとしたのでは無いでしょうか。

 神という恐ろしいほどの力を持った存在。しかし人間はただひたすらお願いするだけで、その力を人間の思うように使わせてもらう事は出来ない。そこに、道教だろうが密教だろうが、とにかく何か他の媒介を利用して神の力に接近したいと多くの日本人が考えたのでしょう。僧侶が神を勧請する儀式を行うことがあります。単に祭るだけでは無く、この時仏教の「法」をもって神の力の一部をそこに封じる事が行われます。これこそ、典型的な例でしょう。そして日蓮宗における神社との親和性はまさに日蓮自体が、神の力を借りたいと願ったからに他なりません。

 ここには、知性宗教としての仏教と神ノ道としての神道の新しい関係を構築した事が見て取れるのでしょう。しかし、本質はやはり神ノ道にあります。


 鎌倉仏教


 12〜13世紀にかけて浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗の各宗が誕生しましたが、これらを鎌倉仏教と総称したりもします。はじめのの四つは、既存の旧仏教の中から改革を目指して生まれたもの、残りの二つは新たに中国から導入したものと分類されるそうです。ですが、問題はなぜこの時期に多くの仏教宗派が生まれたのか、その文明史的な意味合いは何であったのかでしょう。

 それまでの為政者など一部の特権階級の物であった仏教を民衆全体に広める、そのために厳しい戒律や難しい思想・知識を必要としない、誰でもが出来る業法を編み出したのが、鎌倉仏教の特徴でしょう。時代がそれを求めていたとも言えます。そしてそれはすでに述べたように、文明の一部としての仏教から、文化の一部としての信仰心に根ざすものへと仏教が変貌したことでもあります。単なる知識では無く、真に信仰心を持つ宗教としての仏教が誕生したのです。それはあまりにも日本的なもので、感性と知性とをより合わせて作られた宗教だったのです。仏教が宗教になったとき、それはもはや世界宗教としての仏教では無く、土着化し神ノ道の一部としての日本仏教だったのです。


 僧侶による神社の再興


 仏教や道教など外来の宗教や思想に影響されて次第に形成されていった知性宗教としての神道ですが、どのように表面を繕おうとも、その本質は神ノ道でした。その事を最もよく知っていたのは、真面目に修行や学問を積み重ねた多くの僧侶達だったのでしょう。世界史にはないような、仏教の僧が神道の神社を再興するために力を尽くすという行為は、そのひとつの現れだったのでしょう。

 西行が実際に僧侶だったのかどうかは別として、伊勢神宮で詠んだとされる和歌からもその思いをくみ取れます。

 何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる

 知識や思想、いや感情すらも越えて、ただ自らの感性に訴えかけるもの、それが神の本質でしょう。そこにおいては、知性が生み出したさまざまな宗教という区別は意味を成さないのです。

参考資料
日本人の気質 「第6章 文明の受容 空海と西行」