天才と赤穂義士

【追】これもかなり以前のコラムなのですが、中身の言いたい部分は今も通用するように思うので、掲載しておきます。 2020.12

 


 

 有る著名な作曲家が、赤穂義士のミュージカルをやると、テレビで話しているところを偶然みかけた。そこで、彼は、赤穂義士の行動は日本人として非常にまれなものである。事実、江戸時代に多くの大名が改易、取り潰しとなったが、あのようなあだ討ちを行ったのは彼らだけである。と言うような趣旨を話していた。ほんの一瞬だけ小耳にはさんだので、もしかすると違っているかもしれない。が、とりあえず、そんな話だったとして続けたい。

 赤穂義士のあだ討ちが日本においてまれな行動であったかどうかは首を傾げないでもないが、問題にしたいのは、そのようにまれな行動をなぜ多くの日本人が、是として、あるいは美として受け入れてきたのか、そしてまた我々の琴線に響くものがあるのかと、言う点である。 いかにまれな行為とはいえ、それを受け入れる多くの人々がいなくては赤穂義士の話は成立しまい。


 官僚の不祥事が相変わらず止まらない。また、その無責任な言動がこの国を動かしているのかと思うと、「この国をいつでも逃げ出せる準備をしている」、との知人の言葉にうなずきたくもなる。むろん、いまこの国の病んでいる現状は、官僚だけの問題ではないであろう。しかし、官僚機構が国の命運を左右することがあることを思わずにはいられない。

 私は常々、大日本帝国陸軍が、(無論海軍も含めてだが)なぜ、この国を人類史上まれに見る無謀かつ悲惨な状況に陥れたのか、その最大の理由の一つは日本陸軍における『軍人官僚』の存在によるものであろうと思っている。 およそ官僚的な発想をする利己主義的な人間達に共通の思考回路が二つ有る。ひとつは、「うぬぼれ」であり、もうひとつは「自己保身」である。この二つの相乗効果はすさまじく、ついには己のためならばその所属している組織を滅ぼしても良い、というところに行き着く。
 幸か不幸か、私自身そんな人間たちを現実の社会の中で見てきた。彼らは日常、自分は選ばれた優秀な人間であり、その判断は常に正しく、同じ選ばれた人間以外は自分よりも劣ると本気で思っている節が有る。従って、上の人間には面従腹背でへつらい、下のものには傲慢である。それだけならまだしも、利己主義は責任逃れのためなら何でもやることになる。

 実際、自分の責任を他人になすりつけるために、上司にその人間の陰口を言ったり、組織そのものに責任を押し付けたりもする。外資系では、海外からきている上の立場の外人が、自分の成績のために現地の会社を陥れるようなことを平気でやる。むろん、責任は自分にないことを力説しながらであるが。この場合、その人間はいずれ本国に戻るのであるからまだわからないでもないが、理解不能なのが、自分の所属する組織についても同じことをやる、日本の官僚的人種の思考回路である。自分の責任を逃れるためなら、自分の所属組織をつぶすようなことを平気で行う。自己保身のためなら国でも売る、その結果が帝国陸軍の所業なのであろう。頭ではわかっていても、まさかそのようなことを本当にやる人種が存在するなどとは、官僚のように優秀な頭脳を持たない私には縁なき世界で、信じられなかった。


 小役人から高級官僚にいたるまで、このような体質は日本においてかなり古くからあり、連綿としていまも続いている。それでもこの国が滅びなかったのは、そのような人間とは対極の人々がいたからであろう。時々思い出したように歴史にあらわれる、清廉潔白、あるいは、組織や国のために自己犠牲をいとわない人々である。

 赤穂義士の取った行動は、再就職活動のデモンストレーションであるとか、大局的に物事を見えない人間などと、批判的に片付けることは簡単である。だが逆に、何年もの赤貧に耐え命をかけて、ある目的だけに傾倒することはそんなに容易なことなのであろうか。そうでないことをよく理解していればこそ、多くの日本人がその行動を是とするのであろう。しかし、いま赤穂浪士など見向きもしない、自己犠牲など論外とする風潮が蔓延し、赤穂義士なども省みられなくなっている。これは、わずかに残る精神性への歯止めすらもなくなることを意味する。 

 欧米社会での官僚的な人々の倫理的、道徳的規律を成立せしめているのは無論、キリスト教的宗教観が大きいのであろうが、もうひとつの要素として、特に近代以降は、「天才」の存在があげられるのではないかと考えている。学歴的優秀性は官僚的思考者の持つ大きな特徴であり、それが方向性を失った時に、傲慢で私利私欲におぼれた者を生み出すことになる。しかし学歴的優秀性は、破天荒な天才の前には意味をなさない。ペーパテストの知識人がもっともにがてとすることは、創造性であろう。逆に天才の構成要因の大きな一つは創造性に有る。欧米での官僚的人種に取っての天敵的な存在は、時々出現して時代を変えていく「天才」ではないのだろうか。これが彼らにとっての精神的な歯止めの存在となる。 欧米では天才、日本では赤穂義士が官僚的志向人種の暴走に対する、精神的な歯止めの機能を果たすとするならば、今我々は、その歯止めすら失おうとしているのかもしれない。


 NHKの人気番組に「プロジェクトX」という日本人のさまざまな挑戦のドラマをロマンチック、センチメンタリズムたっぷりに描いた番組がある。この番組について製作者の一人が、「中年向けのお涙頂戴」をテーマにした番組ならそれなりの視聴率が取れるのはわかっていたが、まさかここまで取れるとは思わなかった」ということを話していた。 番組の内容に関しては、成し遂げる経緯にばかり光をあて、その結果についての冷静な判断を提示していない、との批判も聞かれる。番組の趣旨が違うのだから、この批判も的外れのような気もするが、それより赤穂義士が受け入れられ続ける日本人の精神基盤に目を向けるなら、この番組が受け入れられ続けることにこそ注意を喚起すべきであろう。
 赤穂義士はさておき、『天才』は少々強引であったかもしれないが、要は、道徳や倫理と呼ばれた(いまや過去形で書きたくなるのが問題だが)ものがもつ、自律すなわち、「自我の欲望の発散が人間だけでなく環境も含めた他者に対してして与える悪影響をどれだけ自己規制できるか」が、今この国の抱えている大きな問題のひとつである。ならばタリバンの支配時に犯罪が少なかったと言われるように、強圧的な政治体制によって道徳が実現されるより、赤穂義士をたたえるほうがはるかに健全であると思うのだが。このような日本人の精神的構造の根底に流れる受容機能が、消え去らないように願わずにはいられない。


平成13年12月

2001年12月17日|気質のカテゴリー:外伝