感動のツボ -なぜ「はやぶさ」に感動するのか-

 2015年は、「あかつき」が5年ぶりで金星の軌道に投入成功、「はやぶさ2」のスイングバイが成功して小惑星「Ryugu」への軌道に入った、「中年の星」の油井宇宙飛行士の帰還など、宇宙での明るい話題が続いた。さまざまなドラマの中で、我々に強い感動と記憶を残したものと言えば、やはり小惑星探査機「はやぶさ」の帰還であったろう。2003年に打ち上げられたはやぶさは、危機の故障や一時行方不明となるなど数々の困難に見舞われたが、2010年ようやく地球に帰還しカプセルを地上に届けると本体は大気圏に突入して燃え尽きた。7年にも及ぶ苦難の旅路の末、ようやく地球に戻りながら最後は火の玉と成って燃え尽きる姿に、涙さえ禁じ得ないほどの感動を覚えたものである。
 その感動は私一人だけの物では無く、多くの日本人が感動し、ついには映画まで制作された。それにしても、命を持たない物体に対して日本人はなぜこれほどまでに感動を覚える、いや覚えることが出来るのであろうか。

 日本人が感情豊かで、アニメやキャラクターから果ては無機質なモノにまで感情を移入することはよく知られている。それが、アニメやコミックの盛んな文化にもつながっており、その文化がいまや世界の若者にまで伝播している。だが、「はやぶさ」に覚えた感動は、モノへの感情移入という通り一遍の説明で済む話なのであろうか?どうもそうでは無いように思える。感動を覚える同じ遺伝子が、「それは違うだろ」と語りかけてくるのだ。

 感情移入に関わるような心理学的用語は、共感とか共鳴とかたくさんある。だがその基本は人間の自我や経験と密接に関係してはいるが、外界の対象物との関係性はどうしても人間主体の考え方である。アニメやキャラクターも擬人化された人間もどきが、対象になると考えられている。これでは、はやぶさへの感動や「刀は武士の魂」だという事をうまく説明することは出来ないだろう。



感動のツボ


 日本人の自然物、人工物を問わずあらゆるものに感動を覚えるのは、もっと大きなそして根源的な精神性が、日本人の遺伝子に組み込まれているからであろう。
 「笑いのツボ」と言う言葉がある。脳科学の進歩により笑いは人間にとって重要であることがわかってきたのだが、ここではその話では無く、「つぼ」のほうである。ツボとは、急所とか、ある特定の場所とか言う意味で、「笑いのツボ」なら必ず笑ってしまう話や事柄ということになる。そんな事は説明しなくてもわかっていると怒らないでいただきたい。

 実は笑い同様に、日本人には「感動のツボ」があるのでは無いかと言いたいのである。それも日本人なら誰でも持っているような普遍的で本質的なものが。本文でも取り上げた、アニメ「フランダースの犬」で涙するのは日本人だけという話も、感動のツボが違う、あるいは日本人にだけ強く存在すると考えれば容易に説明が付く。
 笑いのツボに個人差があるように、感動のツボにも個人差はあるのだろう。だが、その差が日本人と外国人との間ほどではないから、日本中で同じ出来事に感動の嵐が巻き起こる。例えそれが商業主義による演出され宣伝された物であったとしても、もともとの感動する主体が無ければ、そのような事も起きないだろう。

 では感動のツボという急所というか、ある空間を形成しているのは何であろうか?それには次のような三つの要素が関係しているのでは無いかと思う。
神との関係から生まれたもの
生き様の理想像としての「さむらい」
自己の投影や自我のくくりの拡大



神との関係から生まれたもの


 日本人は古代のアニミズム(この世のあらゆるものに霊魂・霊が宿るとの考え方)を未だに引きずる民族であるかのように表現されることがある。日本人が無宗教なのは、アニミズムからより高次の宗教に進歩していないとの誤解や偏見から出た考え方である。偏見はさておき、日本人の心の中には、この世の生物・無機物を問わずあらゆるものに超越的な存在(神と呼んでも霊魂と呼んでも構わない)が宿る事を、無理に否定しない意識が存在しているのは確かである。
 ここからは、依り代、霊代(たましろ)、形代(かたしろ)、人形(ひとがた)、身代わり、土偶などの言葉が生まれてた。それぞれの言葉の意味や解釈などを詳しく述べるつもりは無いが、神や霊魂がモノに宿ったり、降臨する場(道具や場所)で会ったりする事を意味している。さらにそこから転じて、人間の身代わりや人間の持つ罪・汚れをモノに移すという考え方が出来てきた。
 いずれにせよ、そこには生命体と無機物との明確な区分は存在しない。そのことが重要である。そしてさらには、何よりも神の持つ永遠性が深い意味をもつのだろう。


 なお、土偶を加えたのは、日本人の精神を形成したであろう縄文時代の精神性を現すものとして語られるからである。土偶については実に多くの遺物が発見されながら、その種類や扱われ方もさまざまで、未だにその存在意義がよくわかっていない。ここでは、土偶に多く見られる妊婦像がわざわざ壊されている事に注目したい。縄文時代においては妊娠・出産は、生命の神秘を感じさせる霊的な物であると同時に、医学の未発達な時代においては非常に危険をともなう物でもあった。そこで、妊婦の身代わりとして土偶を制作し、それを敢えて壊すことで実際の妊婦の健康を願ったのであろう。少なくとも、そういう土偶の使われ方が存在したように想えて成らない。

 少し蛇足の話になるかも知れないが。神が宿ると言うとき、元々それに神の心霊の一部が宿っている意味と、有るときだけ神がそこに降臨してくると言う意味がある。それら自然に神が宿る考え方と、罪汚れを流す形代などの考えとの中間に、土偶のような存在が有ったのでは無いかと考えている。時代の流れからしても、土偶は仏教と比較される宗教としての神道が成立する以前のものであるのだから。そして、個人的にはすでにこのような原初的な神観を「神道(かみながらのみち)」と呼ぶことにしている。


生き様の理想像としての「さむらい」


 二つ目が、日本人の好きな「武士(さむらい)」である。いうまでもなく「さむらい」とは、日本人が理想として考える生き様を持った理想像の事である。清廉潔白、恥じることを知り、困難に果敢に立ち向かう、そして滅びの美学と呼ばれるほどの潔い引き際をもつ、そんな数々の理想的な生き様を体現する物である。
 日本人はさむらいと言うだけで心が奮い立ち、感動を覚える。すばらしいと思いながらも、自分ではなかなか実行できないことが、さむらい実践者をさらに賛美することにつながる。
 さむらいは神でも無くヒトでも無い。男でも無く、女でも無い。精神に宿る最上の生き様を持つ虚像だと言えるかも知れない。このように理想を体現したものへの感動は、人間だけでは無くモノにも拡大される。刀は武士の魂とされるが、それは刀が理想像たるさむらいを体現し象徴する物だからであろう。刀の美しさは、さむらいの汚れの無い純粋性を象徴してもいる。
 このさむらい魂の根源には、日本人の精神基盤である無常観がある事は言うまでも無い。


自己の投影や自我のくくりの拡大


 三つ目の要素が、自我のくくりの拡大である。人間はさまざまなくくりの中に存在しているが、自己とか自我のくくりはそれ以上分解できないが故に、非常に強固なくくりでもある。職人が自分の作ったモノに強い思い入れを抱き、子供が長く一緒にいるぬいぐるみなどに特別な感情を抱く。そこには、自己のくくりの中にそれらが組み込まれていることでもある。自己のくくりの拡大とも、自我の投影とも言えるだろう。
 こうなるとモノではなく、自分の一部である。そこにはヒトとモノの区別をもたない関係性が生まれる。

   また自己の投影あるいは自我の一部と言うことは、身代わりや人形と言った考え方にもつながっていく。


感動のツボに落ちるモノは何か?


 これら三つの要素はお互い複雑に絡み合っているのだが、それらがある特別な空間を日本人の精神の中に作り出す。それこそが感動のツボ(場)である。

 

 

 では、このツボに落ちる、うまく当てはまるものは何であろうか?それは、はやぶさでよくわかるように、さまざまな苦労を乗り越えて使命を果たしながら、最後にはその命を燃やし尽くすという物語を羽織った、あるいは背負ったモノである。とりわけその物語が汚れの無い純粋性を持ち、なおかつ悲劇的とも言える滅びを見せるとき、涙が止まらないほどの感動のツボにはまってしまう。

 モノへの感情移入とか、モノの擬人化というだけでは説明が付かない多くの感動物語は、三つの要素を併せ持ちながら無常観を漂わせている。



 これだけ複雑な情動を惹起する精神構造が作られるには、長い時間が必要であったろう。縄文から続く長い期間、日本文化を継続させてくれた環境がそれを可能にしてくれた。そのことに感謝しながら、他文化の集団にはなかなか理解されなくても、この感動のツボを大事に持ち続けていきたいと思う。

平成28年1月7日(木)

 

2016年01月07日|気質のカテゴリー:補章