恥と気質

 最近ではあまり使われることのなくなった感がある「恥」という言葉。まして、「恥の文化」なる言葉は死語に近いのかもしれない。それでもこれらの言葉には、未だに多くの誤解や混乱がまとわりついているように思える。

 その元凶は、ルース・ベネディクトの著した「菊と刀」にあると言っても過言では無いかもしれない。実際に書かれている内容を読まずに誤解している人々と、それを批判的に見ている人々が存在するが、そのどちらも混乱していることに変わりは無い。その状況こそが、毒された混乱状況である。え、ますます混乱した?

 少しずつ解きほぐしていこう。

 さすがに欧米でも今どき「菊と刀」が持ち出されることは無いだろうと思う。専門論文を検索しても、ほとんど出てこない。それほど過去の遺物である。ただ作者が意識していたかどうかは別にして、白人もしくは欧米優位主義的な雰囲気が根底に流れている著作である事は間違いなかろう。そう思わせるに充分な内容である。本人の自覚はさておき、いまも欧米の一部にはこのような無自覚の思考があり、時々それが顔を覘かせる。とりわけリベラルと称される人々にもかなりあることは、承知しておいても損は無いだろう。

 批判的に取り上げた理由は言うまでもない。日本人や日本文化に対する考察自体が、明らかに間違っているからである。本棚にはほこりをかぶった本があるのだが、もう一度取り出して読む気にはならない。従って認識違いを犯すかもしれないが、このまま続けてしまおう。

 「菊と刀」は一言でいえば、比較文化論的な著作で、欧米は「罪の文化」そして日本は「恥の文化」と両者を対比させている。ここからが、首をかしげてしまう内容となる。罪の文化とは、神を常に意識して、倫理的に正しい行いをしようとする文化である。恥の文化は、そのような規範は無く、ただ他人の眼を気にして、自分の行った悪行がばれないようにする。もし知られてしまうと、それは非常に恥ずかしいことであり、恥ずかしさのために死ぬことも厭わない文化である。つまり、悪行が恥なのでは無く、知られたことだけが恥なのだと言わんばかりでなのである。

 こうして解説してくると、多くの人が著作の内容を誤解していたことがわかるであろう。また逆に内容を理解した人は、内容を否定するあまりに、日本文化は恥の文化などでは無いと言い出すことになる。

 現在の心理学的な言葉で言えば、罪悪感と羞恥心であろうか。が、これらが対立する文化圏という、捉えられ方をする事はまず無い。さらにいえば、個人志向性と社会志向性、あるいは内的適応(心理的適応)と外的適応(社会的・文化的適応)の対比にも成るのかもしれない。これらの概念が、後述の神の眼と他人の眼に関わる事は、改めて言うまでもないだろうが、ここでは立ち入らないことにしたい。いずれにせよ日本文化における「恥」という概念は、日本人の二つの気質とも絡んでおり、簡単に説明ができるようなものではないだろう。「日本人の気質」においては「言語」など一部の項目に深入りしなかったが、「恥」もまた同様である。


 恥とは何か

 せっかくここまで取り上げたので、気質と絡め少しだけ深入りしてみよう。

 恒例のいいまわしだが、そもそも「恥」とはなんであろうか?

1 恥じること。自分の欠点・失敗などを恥ずかしく思うこと。
2 それによって名誉や面目が損なわれる行為・事柄。【デジタル大辞泉】
とネットにはある。ここでの議論には、次の説明の方がわかりやすそうである。

1.世間体を意識したときに、馬鹿にして笑われるのではないかと思われるような欠点・失敗・敗北・言動など(を自省する気持ち)
2.自ら・人間として(道徳的に)未熟な所が有るのを反省する・こと(気持ち)【新明解国語辞典】

 要するに規範や基準からの何らかのずれを、自分自身が良くないものと思う気持ち、感情が「恥ずかしい」ということである。だが「恥」という名詞では、この感情を生じさせた原因や、結果としての感情そのものを指し示しているわけではない。ネット辞典では、「気持ち」と「原因」の両方をあげている。つまり、「恥」だけでは、正しく意味が伝わらないのである。「恥をかく」とか「恥ずかしい」とか、「辱めを受ける」とかということで、ようやく言葉の意味が伝わってくる。本稿でも、「恥ずかしい」と言う感情の表出と、感じさせた理由・原因になった行為等の両方を含むと捉えておこう。

 国語辞典の解説では、「恥」の持つさらに別の側面がよく言い表されている。恥ずかしいと思う相手、あるいは恥ずかしいと思わせた相手は誰かという問題である。世間体という「他人の眼」と、道徳という「神の眼」の二つの側面が述べられている。神の眼というのは、言うまでも無く道徳とか倫理と呼ばれる、人類が普遍的に持つ基本的な価値観である。人間が自己内部(心)に抱える規範や基準と言い換えても良いだろう。

 

 

 もう一度まとめてみると、恥というのは自己の内面にある道徳とか倫理と呼ばれる規範や基準と、自己の行為などが一致しないと自覚するときに生じる感情である。内なる規範が無ければ、不一致の自覚が無ければ、恥ずかしい感情は生まれてこない。すべては自己の内側にあると言える。
 となれば、比較すべき基準が必要になる。それらは一般的には、道徳心とか倫理観、正義感、公共心などと呼ばれるものである。これらは人類が普遍的に持つとされるのだが、大元は神観、自然観、超越した存在などにつながる意識である。ただ最新の研究では、数パーセントの人間は悪事に対して罪悪感を持たないという。規範そのものが壊れているのである。興味ある話だが、例外としてここでの話からは除いておこう。

 他人(ひと)の眼は、神の眼の具体化したものとも捉えられるが、内なる規範が、一部は外側にも存在することになる。つまり、周囲の人間の行為などとのズレを自覚する時、それは周囲の人々の尺度を基準とした事にもなるからである。

 また恥ずかしいと思う感情は、必ずしも不正などの負の原因によって生じるものだけでは無く、種々のものがある。すてきな異性に見つめられたら、何となく(気)恥ずかしくなる。大勢の人の前で自分を紹介をされたとき、少し恥ずかしくなる。
 好ましく思う異性に見つめられて、気恥ずかしくなるのも、常の状態からズレた状態である事を、無意識に自覚するからなのかもしれない。こういう恥ずかしいという感情は、「恥」で感じる感情と基本的には同じ感情なのであろうが、話を混ぜてしまうとややこしくなってしまう。そこで、ここでの「恥」とは、自分の「行った言動(思考レベルも含まれる)が自己の持つ正の規範からずれていること」を恥ずかしく思う気持ちに限定しておきたい。

 日本の恥の文化

 少し古い映画などでは、江戸っ子の台詞に「おてんとうさまは見ているんだ」「お天道様に恥ずかしくないのか」などと出てくる。おてんとうさまこそ、神すなわち超自然の存在であり、それは各個人の内面における規範・基準となるものである。日本ほど、この神の眼を意識する民族は他にいないのでは無いだろうか。欧米の特定宗教における契約をする神とは、根本的な違いを持つのがここで言う日本の神(の眼)である。不正や悪事などをはたらくときだけではなく、いついかなる時にも、その眼は存在しており、内省する自己の眼でもある。

 この神の眼が常に意識されているとき、そこから様々なものが生まれてくる。孤高武士型気質の人間に強く見られる「自律心」は、この神の眼に裏打ちされた価値観である。一方、集団農耕型気質の人間が、神の眼をより具体的に意識するのが、周囲の人間(他人)の眼である。神の眼の代わりと言っても良いのかもしれない。

 

 こうして「恥」の概念がそれぞれの気質と結びつくとき、異なる反応を示すことになる。それが外国人から見たときには、日本人理解を妨げるばかりで無く、日本人自身でもよくわからない状況が生まれてしまうのであろう。

 サムライは恥を嫌い、辱めを受けるくらいならば死を選ぶ。これが孤高武士型気質の反応である。それに対して、組織や集団など周囲の人との調和を気にする集団農耕型気質は、自らの死よりも周囲とうまくやることに腐心する反応をとる。同じ日本人なのだから当然なのだが、元になるものは同じでありながら、社会的な反応の仕方、行動が異なるものになる。これが日本の「恥の文化」の本質であろう。

 サムライは、自らの死をも覚悟するが、逆に言えば周囲の思惑にはあまり関わらないことにも成る。神の眼そしてそれは時に内省する自己の眼でもあるが、それを極端に気にして、恥じることのない行為を求める。それがかなわないときには、潔く死をも覚悟してしまう。絶対的な価値観の存在とも言える。
 それに対して、周囲からの他人の目を意識することは、目に見えない神の眼よりも物理的な他人の眼を気にすることである。組織や社会のくくりを乱すことを避けようとする。それがさらに進んで、周囲の人に迷惑を掛けたりいやな思いをさせることも、恥ずべき行為として捉える方向につながっていく。これによって集団がうまく機能していくのだが、行き過ぎると付和雷同や横並びの弊害になる。

 「清貧」と「恥の文化」

 日本文化にある大きな特徴として、「清貧」の美化がある。むろん貧困が美しいわけでは無く、汗を流さず大した苦労もしないでお金を得ることは「恥ずべき行為」であり、それより貧しいことが美しく見えるという価値観である。どうして楽して儲けることが恥なのか、簡単には答えられない。言えることは「きよらかさ」という自然感に根ざしているので、なかなか変わらないということだけだ。

 これが日本の経済活動にも、大きな影響を与えている現実がある。投資がなかなか活発にならない、金融に関わる市場が育たない、金融・投資市場での金儲けをどこか後ろめたく感じてしまう。「ものづくり」が強調されるのも、この裏返しである事は間違い有るまい。金儲けが下手なのは、武士だけでは無く日本人全体の気質に依るところが大きい。
 中国の驚異的な経済成長の裏には、多くの国民が少しでも金を儲けようと、投資する事を嫌わない国民性がある。知人の中国人に、天安門事件でアメリカに逃れた人がいた。非常に優秀で、外資系企業の副社長になったが、民主化されない限り中国には戻らないと常々言っていた。だが時々中国に行って、土地や住宅など投資物件を購入していたのである。金儲けのためなら、いやな母国も関係ないという、この割り切り方は、多くの日本人にはとうていまね出来ないだろう。 経済活動も気質や国民性と深く関わっている。それを無視した経済政策は、うまく機能しない。

 「恥」を忘れた現在の日本人

 恥の文化が死語になり忘れられたように、現在の日本社会では、自分勝手で周りのことを気にせず、法律に触れなければ何をやってもよいと考えている人が増えたように思える。恥を忘れるとは、すなわち越えては成らない善悪の境や、有るべき規範・基準などを持たないと言うことである。神の眼も他人の眼も気にしないかわりに、自己中心的な眼、欲望の眼を持つようになったのだろうか。
 その意味で、もはや日本は恥の文化では無いといわれるのは、あまりにも哀しいことである。

平成27年11月2日(月)

 

 

 

2015年11月02日|気質のカテゴリー:補章