破壊の決意:西郷隆盛

 権力・組織構造など政治・経済・社会のあらゆる面で抜本的な変革が行われたという点で、明治維新が、革命であったことは紛れもない事実であろう。世界史的に見ても、稀有な成功例ということができる。その革命の真っ只中にいた人物の一人が、西郷隆盛である。

 その彼が、革命のための破壊についてどう考えたのか、「破壊と創造」にてらして想像してみた。西郷の話をしだすと、島津斉彬についても語りたくなってしまうのだが、我慢しよう。西郷の「古き時代の破壊」についてである。


 

 明治維新が、幕藩体制に象徴される古い封建制を破壊したことは間違いがない。が、あそこまで徹底した破壊をなすことができたのは、西郷の倒幕の決意がなければ、起こりえなかったのではないだろうか。江戸幕府側の政治的思惑と坂本竜馬らの進言などによって、大政奉還・恭順による、いわば和解工作は、それなりにうまく動いていたのだから。

 武力行使は辞さないとはいえ、決して好戦家ではない西郷が、あえて、武力による幕府討伐を決意したのには、並々ならぬものがあったことだろう。当時の戦闘力比較で言えば、必ずしも薩長側が優位だったわけでもない。とすれば、相手が降参しているものを追い詰めて、無理に犠牲を引き出すことはないし、またその機に外国勢力の介入を招く恐れもある。そんなことぐらい、彼は十分に理解していたことだろう。

 それでもなお、彼が、武力討伐を決心したのは、「破壊と創造」でも書いた破壊の大きさに応じた変革が待っている、そして、時代を変えねばならないほどの革命においては、なおさらだと考えたのではないだろうか?
 たとえ徳川幕府を倒しても、そのあとの政治体制が、封建制から抜け切れない体制であったり、旧勢力が力を維持したままの体制では、変革など及びもつかないことになる。大局的に物事を見ることができた彼は、そのことを、早々と感じ取ってしまったのだろう。実際、京都の公家や大名、旧幕臣の動きを見ていれば、そう感じ取ったはずである。



 事実、彼の懸念は、明治維新成立後、直ちに現実化した。表向きの名称とは異なり、実態はこれまでどおり各藩が、地域ごとに実権を握って、脆弱な中央政府との二重権力構造になっていたのである。さらに、明治維新の新政府の腐敗振りは、目を覆うものがあり、大久保らは西郷の力(人望と実行力)なくして、この局面は乗り越えられないと判断し、故郷に戻っていた西郷に再度上京を願ったのである。

   江戸幕府を倒した西郷は、次に藩体制という封建制を破壊するために、廃藩置県を断行した。このとき、維新政府は、武力的な備えを整えたうえで、これを断行した。そのために、藩という地方政治から中央集権政治へと体制を大きく変えることができたのである。いまでは、この中央集権の弊害ばかりが叫ばれるのだが、このとき、この破壊が行われていなければ、その後の明治維新が成功裏に続いていたかどうか危ういものである。
 余談ではあるが、西郷といえども、このとき島津斉彬が生きていたならば、大恩ある主君を引きずりおろすようなことができたかどうか。もっとも、聡明な斉彬なら、十分に大局を理解して、自ら身を引いたかもしれないが。



 西郷が、この2度にわたる大きな根源的な破壊を実行したからこそ、新しい時代が開けたのである。そして、彼は最期に、さらに決定的な破壊を己の命と引き換えに実行することになる。

 東京での権力闘争に嫌気がさした西郷は、またも鹿児島に戻っていた。そして、文武両道に優れた新しい時代の人材を育てるべく、不穏な行動をとりかねない不満士族の子弟などを集めて、私学校を創設した。新しい時代の激流は、そんな西郷のささやかな願いさえも押し流してしまう。


 不平士族を恐れ、鹿児島の勢力拡大を快く思わない新政府の謀略に乗って、若き私学生が暴発をしてしまった。それを聞いた西郷は、「これもまた天命でごわす」と言ったという。

 私学校で育った人材による更なる変革を期待していた西郷が、その私学生によって窮地に追い込まれたとき、彼は次の、そして最期の破壊を決意したのだろう。それは、いうまでもない、各地に残る旧勢力、不平士族の一掃である。

 総大将に担がれながらも、彼は東京への進軍において、一切指揮も作戦も取らなかったという。もし、それほどの抵抗なく東京に進軍できるならばそれもよし。そのときは、もう一度改革を政府の側で行う。だが、この部隊は新政府軍に勝ってはならないのだ。そんなことが起きれば、せっかくの新政府の土台が揺らいでしまう。それは避けねばならない。彼はそう思っていたであろう。

 それに追い討ちをかけたのが、熊本城に立てこもる新政府軍の抵抗であった。わざわざ熊本城の攻略などにこだわったことが、西南戦争の敗北の原因だといわれる。
 所詮、大局を見ることができない大方の人間の考えそうなことである。西郷は勝ってはならないことを自覚していたのだ。勝てば、全国の不平不満分子がたちあがり、内乱に戻ってしまう。それは決してあってはならないのだ。それに、熊本城の新政府軍が西郷を恐れずに抗戦してきたことは、ある意味、西郷にとってうれしかっただろう。これなら、新政府軍も大丈夫だろうと。
 そこに、新しい時代の鼓動を感じたのではないだろうか。いま、自分にできることは、旧勢力を破壊し、新しい時代の礎を磐石なものにすることだと。それが天命であると。

   「晋どん、もうここらでよか」

 西郷隆盛最期の言葉とされる。「ここらで」そう、ここまで己の私心も命までも投げ出して、国の将来のために生きてきた。もう十分生きただろう、もう天も許してくれるだろう。そんな万感の思いがこの一言に。



 武士(さむらい)は、己の立場に殉じて生きるのだが、大局を正しく見ることができる武士は、そのとき大局を揺るがすことよりも、その死を選ぶ。それが武士である。西郷だけではない、幕府側にもそのような多くの武士がいた。だからこそ、死んでも国を外国に売るような行為が生まれなかったのである。

 だが、このとき多くの武士を失ったことが、その後の昭和のおろかな戦争を招く遠因ともなってしまった。国を滅ぼしてまで、己や組織の保身・維持だけを図ったおろかな日本人。それが今の時代には、さらに多くなってしまった。だからこそ、もはや破壊なき新時代などありえないのだ。

 武力による破壊を起こさないためにも、まず、日本人すべてが、己のうちにある自己中心的で、欲望一辺倒の心を破壊しなくてはならない。いま、すぐに。

平成24年(2012)05月

 

2012年05月01日|気質のカテゴリー:外伝