羽生弦生 武士(さむらい)として成長中

「日本人の気質」の外伝と言うからには、取り上げないわけにはいかないだろう。本文の「はじめに」でも武士(さむらい)の一人として取り上げている。そう、フィギュアスケートの羽生弦生である。もう一度その部分を抜き出してみよう。

 『平成26年(2014年)ソチで行われた冬季オリンピックで唯一金メダルを獲得したのは、19歳の若きサムライ、羽生弦生であった。まるで女性のようなしなやかさと対照的な強い意志。東日本大震災の被災地出身で、競技をあきらめかけたこともあり、周囲への感謝を常に忘れず、いつも冷静な受け応えとさわやかな態度。一方で文部科学大臣に、スケートリンクの不足を指摘して、そのために自分は日本を離れてカナダに行かざるを得なくなったと、いわば直訴をした胆力。さらに報奨金を被災地に寄付するという。まさに、日本人が理想とする「武士(さむらい)」にふさわしいだろう。』

 彼が、今年(2015年)も大きく躍進した。一度負けて挫折を味わうと、そこから不死鳥のようによみがえってきた。長いあいだ一流選手の誰も越えることの出来なかった、300点という高得点の壁。それをいきなり20点以上も上回って突破、さらにそれからわずか2週間後には、さらに点数を上乗せして330点を越える高得点をたたき出した。それでもまだ自身では満足せずに、さらなる高みを目指すという。彼自身が述べているように点数とか優勝とかでは無く、自分が思う最高の演技を目指して。

 孤高武士型質の典型例として、彼の行動や考え方を勝手に解説してみたいと思う。

 日本の気質とは

 はじめに、本文を読んでいない人、読むのが面倒な人などのために、日本人の気質のごくごく基本部分だけ、もう一度おさらいしてみたい。すでにご存じのかたや興味ない人は、読み飛ばしていただいて結構。

 日本人には大きく二つの気質傾向を持つ人がいる。それを孤高武士型(孤高自律型)気質と集団農耕型(集団依存型)気質と名付けた。二つの気質といいながら、感性から行動まで個人の全体的な構造をよく見ると、多重構造なのである。

 武士とか農耕とか付いてはいるが、身分や職業としての武士や農民ででないことはいうまでもない。ただイメージが浮かびやすいように単語を拝借しただけである。それでも昔の武士階級の教育が、孤高武士型気質の特長(あるいは特徴も)を強めたことは確かであろう。

 サムライの行動にあこがれはしても、なかなか自分では実践出来ないと言うのが大方の日本人である。それでも共感できると言うことは、同じ気質の基盤を持つことを意味している。だが行動まで孤高武士型気質の人は、やはり少数派であろう。とりわけ明治維新によって武士というエリート教育から、一般庶民の大衆教育に力を入れすぎたこと、前後のさまざまなゆがんだ教育とも相まって、極端に孤高武士型気質の持ち主を減少させてしまったようである。


 おなじ気質からでていながら、どうして異なる気質に分かれてしまうのか、そんな事があり得るのかという疑問がわくだろう。簡単に言えば、感性から行動に至る途中の違いにあると言えよう。だからこそ、教育によって少しは結果が異なると言う事が可能にもなる。

 散る花をきれいだと感じる感性のレベルまでは共通である。その上に載る知的なレベルでは、情報や知識の量による「知能」重視なのか、それともさらに思考、内省、理解力などの「知性」が重視されるかで、分かれてしまう。さらに、行動や行為を規定するイシにおいても差が見られる。考えや重いと「意思」のレベルでとどまるか、強固な成し遂げようとする心を持つ「意志」にまで高められるかである。こうして、自律的すなわち自ら考え、自らの力によって行動を成す孤高武士型と、周囲を見ながら同調的な行動に走りやすい集団農耕型とに分かれてしまう。

 

武士や武士道など新しく作られた概念だという話

 「武士道などという言葉は、明治期までどこにも無かった」と、したり顔の発言もよく耳にする。それへの批判はさておき、ここではそのような単語の誕生話や言葉の解釈遊びをするつもりは無いのだ。「武士」とか「サムライ」とかというのは、孤高武士型気質の特徴をより強く持った人物を意味し、「武士道」とは、多くの日本人が人間の理想的な姿、生き様、有りようをあこがれを持ってまとめた言葉に過ぎない。

 集団農耕型気質の人までもが、「サムライ」を認めるのは、彼らのなかにそのような生き方としての武士道を、望ましい物、快なるものとして受け止めているからに他ならないだろう。本当に大きく異なる気質であれば、理解したり賛美したりなどしないものである。そこには、日本人という文化集団に共通の感性が、保持されていると見ることが出来よう。

 羽生弦生に見る孤高武士型気質(サムライ)の姿

 孤高武士型気質の大きな特徴としては、精神力、自律心、行動力があげられる。それらが強い精神力、高い自律心、迅速な行動力として、武士の特長を現すことになる。

 

 

 

 彼は、現在はカナダでトレーニングを続け、また外国人コーチについている。グローバル化の潮流に合わせているアスリートは日本でもたくさんいるが、彼もその中の一人であろう。だからといって、欧米崇拝的な卑屈なところはみじんも無い。武士というと極端なゆがんだ愛国主義と思う人が未だにいるようであるが、もはやそれは過去の話。真の孤高武士型気質の人間は、あたらしいもの、より良い物ならば、国や人種に依らず正しく評価して認める柔軟な心を持っている。いっぽうで、白人には劣るというような卑屈さもまた持ってはいない。

   彼の最後には自分だけが相手という意識は、まるで剣豪の宮本武蔵が到達した境地のようである。敵とか価値の対象が外(めだる、点数、ライバル)にあるのではなく、自己の内部に存在している。己の敵は己自身なのである。これを実践するには、冷静に自分を評価しながら、自らを制御し続ける強固な自律心と精神力とが必要である。
 持続し続けられる精神とは、常に高い視座を持つことでもある。そこには、人間を越えた神や自然などの超越性を持つ存在への畏敬の念があるのだろう。そういう物が自己満足や傲慢に成る心を抑えてくれる。

 理想と現実という言葉で言い換えるならば、孤高武士型は理想主義者であり、集団農耕型は現実主義者である。現実主義者は、自分が満足のいく地位にのぼりつめれば、そこで十分になり、後はひたすらそれを守ろうとする。既得権益への強い執着として社会の改革を阻む物にもなる。だが、孤高武士型の追い求める理想は、まさにりそうであって、決して実現することはないのである。だからこそ、たゆまぬ努力と、謙虚さとが生まれてくる。世の中を変えていく新しい力は、ここからしか生まれてこないのだろう。

 そして最後に戻ってくるのが、強烈な日本人としての意識であろう。常に日本人である事を意識して海外で闘いながら、最後には「和」の表現に入っていく。それは、単にオリエンタル的な物を表現として利用するということではなく、もっと自己の内面から出てくる要求に依るものであろう。つまり自己のアイデンティテイ、自我の存在としての有りようが、自らの日本人という文化集団の中にある事にきずき、それを表現したいと強く感じるからに他ならない。いいかえれば、自我の再確認を自ら成したいのである。


 こうして若きサムライは、今日も世界でその活躍の翼を広げている。現在はより多くの孤高武士型人間が、生まれてきているように感じる。あとは、その活躍でいまの閉塞した集団農耕型社会が打ち破られるのを待つだけである。早くこないかな~!

参考資料

本文の第10章新しい時代へ 「武士(サムライ)の誕生」「孤高武士型の自律心」等

平成27年12月20日(日)

 

2015年12月20日|気質のカテゴリー:外伝