日本人の道徳心喪失の奥底にあるものは?

 職業倫理はおろか人間としての最低限の道徳心すら失っている日本人、そう断ぜざるを得ない犯罪などが目にあまる。

 もはや日本では職業倫理など死語なのであろうか。救急車で搬送中の患者から財布を盗む、後見人の弁護士が依頼者の財産を横領する、警察が犯罪を隠蔽したり警察官自ら犯罪を犯す、医者が交通違反で患者の名前を使って逃れようとする、教師が教え子に性的な行為を強要する、産廃業者が産廃の食べ物を横流しする、大企業でも経営者が何代にもわたり不正会計をしたり、悪事を隠蔽する、教師が教え子を自殺に追いやる等々。あきれるとしか言いようが無い。

 刑法犯は年々減少しているなどと言って済まされる状態ではあるまい。これまで社会的に信用があるとされた職業人がすべて総崩れの状態にある。こんな社会が、まともで犯罪の少ない社会だなどと胸を張れるのだろうか?隣国で腐った食品を使用した事件を、もはやひどい国民性だと非難することなど出来ない状態にある。

 同じような事件が繰りかえされるたびに、同じような問題点が指摘されても、一向に改まらないばかりか、当事者達は変わらず同じ事を繰り返している。いじめによる自殺における学校や教育委員のごまかし、隠蔽、ひどい時は保護者への脅しもどきまで、何も改善されていない。実の親が子供を虐待して死なせた事件では、警察や自治体関係者が問題ありと知っていながら、結局何も対策を取らず死なせてしまう事の繰り返し。企業の不正が摘発されても、有効な手立ては講じられず、何度でも同じ不正が繰り返される。政治家も官僚も責任を取らず、自己保身だけを考えている。


 この国、いや日本人はどこまで腐ってしまったのだろうか?日本人の多くが人間としての最低限の道徳心まで失っていることに、強い衝撃を覚えるのにはそれなりの理由がある。倫理観とか道徳心とか呼ばれるものは、後天的な教育によって身につけるものと思われてきた。だから教育がきちんとしていない社会では犯罪が多発し、教育が行き渡れば道徳心も身につくものと考えられてきた。だが、日本社会の現状を見てもわかるように、とてもそんな単純な話ではなさそうである。悪事を平気で行う企業関係者などの多くは、高学歴の一流大学出身者達である。義務教育が普及している日本では、最低限の教育は多くの国民に与えられている。

 それは教育において道徳教育がきちんと成されていないからだと、道徳教育の充実が叫ばれている。教育の場において人間形成を課題としてこなかったのは事実であり、道徳などを戦前教育と結びつけて不等に扱ってきたのも事実であろう。さらには、家族を崩壊させたことで、家庭でのしつけが全くと言って良いほど、行われなくなってしまったのもまた事実であろう。それでもまだ、疑念は完全には晴れていかない。


 最新の科学的な知見は、時に思いもかけない事を教えてくれる。人間の持つ道徳心や倫理観もそのひとつである。これまでの西欧的な考え方に依れば、道徳(モラル)とは、理性が感情の暴走を抑えるきわめて知的な存在であるとされてきた。だがこれまで後天的あるいは社会的教育などによって道徳心などが生まれるものと思われていた事が、必ずしもそうでは無い事がわかってきたのだ。幼い子供は、躾けや教育を十分に身につけていないのだから、本来であれば道徳的な善悪を見極める力は無いはずである。ところが、教えていないにもかかわらず、子供は生まれながらにして道徳的な善悪を判断できているというのだ。

 就学前幼児は教室で食べるのは良くないと知っているのは、先生が駄目と言うからだ。もし先生が食べても良いと言えば幼児は喜んで食べ始める。このことは、モラルが教育によるとする証明になるのだろう。しかし先生が他の子供を椅子から落としても良いと言ったら子供は躊躇する。さらには、「先生、それは駄目だ」と子供達は言う。目上の者が黙認しても実行出来ない、これこそが単なる社会の約束と道徳との違いであり、子供達は生まれながらにして感じていると言う。

 「道徳心理学」という分野があるくらいで、道徳心や倫理観については、さまざまな研究や理論、立場がある。そこではさまざまな実験もあるが、悪いことをさせようとしても子供が自らそれを拒否するという実験結果であろう。

 さらに道徳的判断には情動が深く関与しているという感情主義のような研究もある。最近の脳科学の知見によれば、道徳は知性に関わる領域では無く、むしろより根源的な情動に関与しているという。情動とは感情と思ってもらえれば良く、そのさらに根源的な働きは、人がそれを快と思うか不快に思うか、から発しているとされる。道徳的な事柄は快であり、悪は不快だと云うことになる。極端にいえば、道徳的な判断は、究極的には好きか嫌いかの選択でもあるということになり、それは本文で述べている文化形成の根源である感性とつながってくる。
 進化論的に云えば、人類は道徳を持つことが生存に優位であったが故に、それを獲得して遺伝子に刻み込まれたと言うことであろうか。


 なにが言いたいのかと言えば、いまの一部の日本人の道徳心や倫理観の欠如は、教育などの後天的なものの不足ではなく、もっと深く遺伝にまで根ざすようなものの変質では無いのかという、疑問というより恐れである。エピジェネティクスの研究成果などにより、これまでは否定されていた、環境による影響が遺伝することも、かなり認識されるようになってきた。とすれば、このような道徳心を欠く社会が続くと、本来の人間に備わっている道徳的価値観そのものまでもが、変容してしまう可能性すら考えられることになる。

 戦後、道徳を軽視してきたツケは大きく思い。そのためか、道徳を教える学校の教え方においても、首をかしげることがある。その辺は「常識の毒」ででも述べることにしよう。

平成28年3月16日(水)

 

2016年03月16日|気質のカテゴリー:外伝