無常観で成立する花見
梅から始まって桜の花見で、春の訪れを肌で感じる日本人は多い。花見は日本人の文化の象徴でもある。最近は、この花見を目的として来日する外国人も増えてきている。とくにアジアの人々は、日本人と同じように花見を楽しもうとしている。また、ワシントンが有名であるが、日本から送った桜で花見を楽しむところも増えてきている。これこそ文明の侵略では無く、他国への文化の浸透であろう。
花見のマナーの悪さは、中国人だけではなく日本人にも見られるのは哀しいことであるが、この花見ブーム、一過性で終わるのかどうか、今後を注視したいものである。と言うのも、来日した外国人が花見で感じているものが、日本人のそれと同じには思えないからである。
相変わらず、自国優位主義の狭い視野から抜けられない中国と韓国の一部の人々は、桜や花見は自国発祥だと騒いでいる。すでに花見という自然を愛でることとおよそかけ離れたこの姿勢には、議論に加わる気にもなれない。本当にそれぞれの国の文化として花見が生まれるのであれば、なぜ、それが日本でだけ現在まで生き続けてきたのか、民族の感性の違いにもっと目を向けるべきであろうと思うのだが。
花見と云えば桜であるが、桜の前は梅を愛でていたらしい。そのさらに前もある。日本人が愛でていた最も古い植物は、日本原産種の橘であるという。歴史的に見てわかっているのが橘までなのであり、それ以前にも日本人が愛でていた花や木は、間違いなく存在していたであろう。はるか縄文時代まで遡ったとき、野にある草花や木々をみて感動していたご先祖達は、その感動をごく当たり前の事として受け止めていたために、それを自ら増やしたり、記録に残すようなことが無かったのでは無いかと考えられる。
時代が下がり、天皇が花見という形式を作り、江戸時代にはより日本人好みのソメイヨシノを人工的に作り出したうえで、将軍が花見を庶民の娯楽として認める政策を行った。それが現在の花見にまで続いているのであって、桜の原産地や花見の起源など、あまり本質に関わる事柄ではないだろう。
もっと本質的な事は何かと云えば、桜に代表される自然に対する向き合い方や感じ方、感性の問題である。これは、日本人の根源的な気質とも強く結びついており、必ずしも外国人が理解出来るとは限らない。虫の音を心地よいものと感じる日本人に対して、西洋人には雑音としか聞こえないように、咲き誇る桜を美しいと思うことはあっても、花冷えや舞い散る花びら、散りゆく桜にまで感動する感性は、日本人独特の物であろう。これは言うまでも無い、日本人の精神性の根本的なところにある無常観と関係している。
長くて2週間程度しか楽しめない桜を、なぜ大事に維持し続けるのであろうか。もっと長い期間楽しめる植物にすれば良さそうな物である。実際、季節を終わった桜ほど惨めな姿もあるまい。それでも尚日本人は、巡り来る季節を大切にし、舞い散る花びらに無常を感じながら、それ自体に美を見いだすのである。これも滅びの美学なのだとするならば、滅び行く美とは無常の美であり、移りゆく永遠性の美でも有る。
虫の音同様に、散った花びらはゴミにしか見えない人々にとって、花見の美しさの理解や受け取る事の出来る感動は、間違いなく半減されてしまうのである。水面をぎっしりと埋め尽くした桜の花びらを、かき分けて泳ぐ白い鳥の写真がニュースで使われる。強風でせっかくの桜が散ってしまったにもかかわらず、それを嘆きながらも、その無常を楽しんでしまう。心のゆとりが無くては出来ない反応であろう。大切にしたいものである。
はかないものに心を寄せる事が多い日本人の感性は、無常感により支えられている。花見もまた、そのひとつの例に過ぎないのである。
平成28年4月11日(月)
参考資料
「香り選書9 橘の香り」吉武 利文 フレグランスジャーナル社 2008年