日本人は自分が日本人だと思うのが日本人

このコラムだけ読むと外国人差別とも取れる表現になっています。ぜひ、日本人の気質本編の第6章感性の文化と両価性文化「日本文化は感性の文化」に「日本人とは自分が日本人だと思う人の集まり」がありますので、そちらをお読みください。詳しくはこちらへ。



 正月の虎ノ門ニュースで、金がアメリカ人は「自分がアメリカ人だと思うのがアメリカ人なのだ」といって、アメリカ人はすばらしいと褒めた。ケントギルバートとフィーフィーも同調。その時、有本香が、日本人も同じだと思うと言ったところ、猛反撃を喰らった。ようするに日本人はもっと偏狭でそんな寛容では無いというのだ。

 私はここでやはり本来の遺伝子が出たなと思わずにはいられなかった。有本の考え方は、決して彼らの言うような特殊な日本人の考え方(有本個人の考え)ではなく、ごく普通の日本人の感性なのである。残念ながら、やはり彼らにはそのようなものが、感覚として身についてはいないのだろう。

 アメリカ人が言う誰でも自分がアメリカ人だと言う人間を受け入れるのは、まさに基になる文化や歴史がない人間達が、唯一の共通項としてのくくりである「アメリカ合衆国の国民」という1点で結ばれているに過ぎない事を意味している。寛容なのではなく、このくくりなしでは、まとまることはできない、代替するくくりがないのである。何かというとUSAと連呼する彼ら、彼女等からUSAのくくりを取っ払ったとき、そこには丸裸の個人がいるだけなのだ。だからこそ、出身母国や宗教さらには新興宗教ともいえるリベラルなどの原理主義で集まるのだ。それがかろうじて彼らや彼女等をつなぎ止めるくくりなのである。
 いいかたをかえれば、彼らのアメリカ人というくくりは、知的概念としてのくくりであり、そこには共通する感性すら持ち得ていない事になるのだろう。だからこそなおさら、アメリカンドリームとか、一見、同一の感性を共有しているかのような物差しに集いたがるのである。


 それに対して有本が言う日本人だと思うのが日本人だというのは、知的概念としてのくくりでは無く、まさに遺伝子が言わせる言葉、感性のくくりについての話なのである。彼女はそこまでの理解をもっていなかったので、話は押し切られてしまった。結局、いくら日本語がうまくても、日本人の遺伝子に組み込まれた感性を、彼ら、彼女等は持たないのではとの疑いがでてしまうのだ。説明しなければわからない、同じ感性を持たないと言うことになる。いちいち話さなければわからないような人は、自分たちのくくりの人間ではないと考え、時に排除する、それが日本人なのである。むろん排除することを是認しているわけではない。日本人という文化集団は、その感性を共有するがゆえに、強固な単一民族と間違われるような民族なのである。言わずもがなとは、共通の感性があって始めて成立する。多くの外国人にはこれがない。

 あれほど、日本の相撲を尊敬していたはずの白鵬が、最後には日本人とは全く異なる遺伝子の感性が露呈してしまった。相撲には、横綱の品性という言葉に込められた日本人共通の美意識や感性がある。力の強いものはなんでもしてよい、許される権利があると結局は考えてしまった白鵬は、日本人の感性を身につけることができなかったのである。浮気にしても、モンゴル人大学生が相手だというあたりにも、同じ感性を持っているもの同士の結びつきを感じてしまう。

 日本に住む外国人でも、気がついたら日本人の感性と同じ感覚を持っていたという人は存在する。そういう人たちは、同じ日本人のくくりに属していながら、ことさらそれを強調したりしない。批判も弁護もしないのだ。あるがままに受け入れている、それが普通の日本人なのだから。

平成30年1月3日(水)  (敬称略無礼)


P.S. 正直、このネット番組のこの回にはさして興味がなく、全部をみていない。たまたまこの場面だけ再生してみたにすぎない。偏見かも知れないのだが、どうも感性のずれを感じて、この種のメンバーは疲れるのだ。

 

2018年01月03日|気質のカテゴリー:外伝