日本とスウェーデンの無常観は同じか?

 この題だけでは、何のことやらおわかりいただけないでしょう。言い換えるならば、コロナ禍にみるスウェーデン人と日本人の気質の違いは何か、とでもなるのでしょうか。実際、かなり前提の説明が必要な話です。

 日本をはじめとして、世界各国が新型コロナウイルス対策として打ち出していた、外出制限などの行動規制の緩和が進んでいます。だからといって決して世界的な流行が治まったわけではなく、日々犠牲者は出ています。世界の感染者数は960万9844人、亡くなった人は48万9318人にもなります。(6月26日現在)

 このような状況の中、世界各国の取り組みや現状などがよく報道されています。中でもアメリカの深刻な感染拡大と同時に、取り上げられているのがスウェーデンの対策です。ほとんどの先進国が、感染拡大のために、都市封鎖など何らかの行動制限をかけているのに対して、スウェーデンは全く別の対策をとったからです。それは集団免疫戦略と呼ばれるものです。感染症ですから、みんなが感染してその抗体を維持するようになれば、それ以上の感染拡大はおこらずに済むというものです。つまりみんな一度かかってしまえば、あとは大丈夫だよ、という考え方です。ですからマスクなどしません。

 この集団免疫の考え方そのものが、今回の新型コロナウイルスに対しては有効ではないのではないか、という研究がいくつも出てきています。例えば、一度免疫ができたはずなのにもう一度症状が出るとか、免疫の有効性が短くかつ低下していくという研究結果もあります。

 いずれにしても今ここで話題にしたいのは、スウェーデンが採用したこの政策の裏には、スウェーデン人の気質、国民性があるということで、対策の是非そのものでは有りません。

 実際この集団免疫戦略をとった結果、感染率や死亡率でアメリカと並ぶ世界最悪レベルになってしまいました。ところが、この政府の政策に対して日本とは全く逆に、批判するどころか支持する人が半数を超えているのです。日本人にはなかなか理解しづらいところでしょう。



 スウェーデンは福祉国家としてつとに有名ですが、人口当たりの病院のペット数や集中治療室の数は、日本よりも少ないのです。一方で、いわゆる寝たきり老人のような人はほとんどいません。これらの裏にはやはりスウェーデン人の民族気質が関係しています。

 スウェーデンでは今回のコロナ感染症に対してだけではなく、平時においても、医者によるトリアージは普通に行われています。医者はその患者を治療するかどうかを判断する権限を与えられているのです。コロナでは高齢者の死亡が目立ちますが、その理由の一つとして、高齢で回復の見込みのない患者は集中治療室での治療を行なわないことがあります。コロナ以外でも、助かる見込のない患者を治療することはないのです。
 一方日本では、近年患者側による医者に対する訴訟騒ぎが多発して、社会問題になったりもしました。日本では助からないとわかっている患者であっても、医者が治療を施さないことは許されないのです。法的な問題だけではなく、日本人の気質として、たとえダメとわかっていても最後まで最善を尽くすことが、当たり前になっているからです。


 寝たきり老人についても、あるいは末期の患者に対する治療にしても、欧米、特に北欧などでは、日本とは対応が根本的に異なります。それは一言で言えば合理主義と呼べるものなのかもしれません。確かに見込みのない患者に治療を施したり薬を投与したりするのは、明らかに無駄であると考えるのが合理的です。しかし日本では、このような合理主義は社会で受け入れられていません。



 もう一つ個人主義の問題が挙げられます。アメリカ以上に北欧においては、個人主義が強いとされています。個人的には、それはもはや利己主義や個人原理主義とでも呼べるものではないかと思うのですが。いずれにせよこの個人主義が良いということが国民全体に浸透しています。その結果、「すべては個人の責任である」ということも普通に言われるのです。これを極端に言うならば、病気にかかって死ぬのも個人の責任であるということになります。
 実際北欧では、かなり以前から子供を産まない自由を保障するということが掲げられています。子供を生まないのは個人の自由なのです。確かにそのとおりでしょう。ですがそれが、個人原理主義に基づくものであるとしたならば、本当に望ましいものなのでしょうか。個人の快楽追求に子供は邪魔だというのですから。
 そのために、生まれた子供を国が面倒を見る高福祉にもかかわらず少子化は深刻であり、スウェーデンはもちろんのこと、一時出生率が高かったフィンランドなどでも、出生率は日本を下回ってしまっています。それに加えて、子供は生まなくてよいと考える人が 10年前よりも何倍も増えているのです。このあたりは拙著「歪んだ人達」で詳しく触れました。少し話しがそれましたので戻しましょう。


 いずれにしても、合理主義や個人主義の浸透だけで、集団免疫戦略を採用することにつながるわけではないと思います。その奥には、彼らの死生観があります。それは「人は必ず死ぬものである」との考え方です。人はいずれ死ぬものという考え方は日本人にとってもごく当たり前の考え方です。言い方を変えれば、まさに無常観ではないでしょうか。永遠なるものなどは存在しない、人の命もまた同じことです、この無常感は日本文化の基盤をなす感性でもあります。とするとスウェーデン人の気質には、日本人と同じようなものがあるのでしょうか。

 書籍「ヨーロッパ各国気質」(片野優、須貝典子)によれば、『スウェーデン人は一見クールでスマートだが、実のところシャイで人見知り、「北欧の日本人」といわれることもある』と書かれています。日本人同様に几帳面なので、高福祉高負担の社会も成り立っているのかもしれません。その意味からも、日本人の死生観と共通的な部分があるというのは、おかしなことではないのかもしれません。ですが同じ気質を持ちながら、そこから生まれた文化は、まったく異なるもののように見えます。個人的にも、何度か仕事で訪問したこともありますが、正直彼らの死生観まではわかりませんでした。唯どんよりとした天候が、アメリカの西海岸の明るさと対照的だったのは印象深く残っています。


 仮に助からないとわかっていても最後まで最善を尽くすのが日本人、無駄なことはせずに淡々と死を迎えさせるのがスウェーデン人です。むろん冷たい言い方をすれば、もしもこれをやらなければ日本と同じように高齢者による医療や介護のコストが膨大なものとなり、国家財政が破綻してしまうかも知れません。
 実際日本の老人介護や医療のありかたは、やはり行き過ぎていて歪んでいると言わざるを得ません。昔の殿様ではあるまいし、自ら動くことも食べることすら出来ない人に対して、何人もの人間がかかりっきりで、24時間面倒を見続けるなどということが、社会として成り立つはずはないのです。このような延命のための延命治療や介護に力を注ぐのではなく、健康なまま寿命を伸ばしそのまま最期を迎えることができる、そんな社会を構築すべきなのです。ですが既得権者達や一部の人権原理主義者たちの行動によって、世界最悪の借金大国だけが残っているのです。

 今回のコロナ騒ぎは、世界各国が抱える問題点を見えるものにする役目を果たしました。スウェーデンや日本も例外ではありません。極端に走ることなく、冷静に見極めながら、真にあるべき姿とは何なのか、それぞれの気質と照らし合わせながら、もう一度考えてみることが必要なのではないでしょうか。ここにもそれぞれの民族気質を知ることの重要性が現れているのです。

令和2年6月27日(土)

 

2020年06月27日|気質のカテゴリー:外伝, 外国人気質