新国立競技場からみる西洋と日本人の感性

 日本人は特異な民族であるかのように欧米では流布されているが、多くはいわゆる西洋人と東洋人の違いである事も多い。では西洋人と東洋人とは誰なのかと言うことになると、これが意外と難しい。とりあえず、一般に意識される欧米人とアジアそれも東アジア人としておこう。

 いずれにせよ、民族の優生論的な考え方では無く、科学的な研究によっても、両者には違いのあることが明らかになってきている。特に感性の違いや自我や自己という意識のとらえ方では、その差が目立つようである。ここでは、もめにもめた新国立競技場の選考を題材にして、その当たりをみてみたい。

 イギリス在住のイラン人(国籍はどうなのか知らない)が応募した新国立競技場のデザイン案が、その後大きすぎるとか、建設コストが見積もりの倍以上の額になるとか、さまざまな問題が吹き出して、結局白紙撤回された。その後、再度条件を絞った公募が行われ二つのグループ案が発表された。
 個人攻撃は好まないのだが、この新しいデザイン案に対して、かのイラン人建築家から批判するコメントがわざわざ出された。日本人の感覚からすれば、「しつこい」「往生際が悪い」と言うことになろう。潔さが美徳の民族は案外世界ではまれなのかも知れない。が、むろん彼女らはそのような事を意識しているはずも無い。ここにも感性の違いが見受けられるようなのだが。


上から目線と下から目線


 新国立の新旧デザインを比べると、明らかに視線の違いを感じ取ることが出来る。そしてこれはデザインをした建築家だけでは無く、それを選んだ選者達にも同じ物を感じる。はじめのキールアーチを中心に据えたデザインは、確かにその奇抜さを上から見ている分にはかっこいいのかも知れない。だが、実際に利用する人達の視線からすると、眼に入るのは唯々巨大な壁だけである。そこに、人間の下からの視線への配慮が感じられないのである。新デザインでは2案とも、観客から見てどのように見えるのか、むしろ下からの視線が強調されている。

 この違いは日本の多くの建築物でも見て取ることが出来る。個人的には新宿の東京都庁・議会の建物が嫌いである。テレビ番組などでも、この建物を上空から映した画はよく使われている。確かにそれなりに「絵になる」デザインだろう。だが、訪れた人なら誰でも感じたのでは無いだろうか。訪問者に対してあれほど冷たく無機質で、しかもせせこましい建物はあまりない。特に新宿駅から地下道を通っていくと、どこが入り口なのかすらわからない。訪問者、使う人間の立場に立った視線が欠けているように私には思える。

 日本は土地がせまく、さらに東京では地価が高いので、そうなるのだという言い訳は、いやしくも1流の建築デザイナーが決して言っては成らない言葉であろう。与えられた条件を克服するデザインこそ優れたデザインなのだから。やはりどうしても、そこには上から見た場合のデザインしか考えられてないように思う。
 新国立競技場の初期案を選択した多くの専門家がすべてそうだとは言わないが、西洋的なデザインを優れた物として選んだ選者達もまた、上から目線の持ち主なのであろう事は想像に難くない。

 独裁者の代表のように言われる、織田信長の築いた安土城がある。残念な事に焼失して残っていないのだが、最新の科学技術や地道な発掘調査等により、その全容が見えてきた。人を驚かす天守閣が単に上から見下ろすためだけに作られのでは無く、安土城の山全体が城下町からどのように見えるかを計算して作られていることがわかってきた。城を築いた山の細部にわたるまで、大規模なテーマパーク構造物であり、そのあらゆる場所で城下や訪問者からどのように見えるのかが考えられている。信長は、多くの人々の下からの視線を十分すぎるほどに理解していたのである。大仏や五重塔なども、参拝者が下から見上げたときの視線を考えて作られている。これは日本人の本能的な感性なのだろう。


個(人)の立ち位置と視点


 遠近法で書かれた絵を見せられたとき、自分の側に視点のある西洋人は離れていくと見、対象の側から自分を見る東洋人は近づいてきているとみる。個の中心点のとらえ方の違いは、先の「上から目線」ともつながるところがあるのかもしれない。
 建物そのもの(自分の側)により強い視点があるとき、建物のデザインが重要で周辺との調和は無視される。周辺の全体に視点があると、建物のデザインは自ずから調和を求めるものになる。

 大きなビルが建てられる時、最近でもその真ん中を吹き抜けにするデザインが多い。陽光を大事にするというよりも、これも視線が建物そのものにあるからでは無いのだろうか。京都の古い建物では、窓や縁側から外の自然と一体化して境界線の無いデザインをした物がある。建物と周囲の自然との境界線を敢えて明確にしない事で広がりを持たせている。遠くの山を組み込んだ日本庭園などもその典型である。

 都市全体の景観を考えないで、野放しに勝手な建物を作らせた結果、およそ見栄えの悪い東京の景観が出来てしまった。それをごちゃごちゃした、にぎやかな下町の風情と混同して評価する人がいるが、それはやはり日本人の感性への考察不足や感性の錯誤なのだろう。

 砂漠のような何も無いところであれば、個々のデザインだけ考えれば良い。むしろ奇抜な方が砂漠に負けないだろう。だが、日本のように山々が連なりすぐ水辺(川や海)がある風景では、調和をさせないデザインは個別のデザインとしていかに優れていようとも違和感を生み、見る人の心をいらだたせてしまう。
 新しい新国立競技場のデザインに応募したのは、二人とも日本の著名な建築家だという。そして、若い頃はかなり奇抜なデザインをて手がけたそうである。それがいつの間にか、そこから抜け出して和の大家とよばれたり、調和を重んじるデザインに変化したという。

 中心の視点がどこにあるかということが、西洋の個人主義、東洋の集団主義と呼ばれる事にもつながっているのかも知れない。



自然と人間の分離


 自然は人間が克服すべき物と考える西洋人と、自然の中に自分や人間が溶け込むという意識が強い日本人とでは、さまざまな感性の違いが生まれるのだろう。

 ヨーロッパで、同じ色の同じような大きさの家が整然と並ぶ街並みがある。これだけ見ると、日本同様の調和を感じさせるのだが、これも街全体を人間の作った建造物として考えた末なのでは無いだろうか。明治神宮の豊かな自然は、実は人工的に作られた物である。だが苗木は植えても、そこから100年以上掛けて自然に育つようにそれ以上人間の手を加えなかった。同じ自然との調和でもどこか異なる部分が見えてくる。


   今回の騒動の裏には、西洋と日本人との感性の違いが底流にあるような気がする。日本人はいま、あまりにも欧米流の個々の建造物や個人だけを強調する社会から、もう一度豊かな自然の中で心安まる暖かな環境を求めだしたのでは無いだろうか。


【参考】
日本人の気質  【外伝】新国立騒動にも見られる振り子型変容
        【外伝】五輪騒動に見る日本人の感性の劣化


平成27年12月19日(土)

2015年12月19日|気質のカテゴリー:外国人気質