「入り口だけ重視」社会を作る気質

『受験なしの有名一貫校卒業者「使い物にならない」マツコ発言に「これは本当」「8割はダメ」同意する声多いが...』(J-CAST)
 太っちょおじおばさん*が、有名私立校の内部進学者は使い物にならないとテレビで発言して話題とか。それを取り上げた記事も、企業の採用現場では一貫校の内部進学者への評価は厳しいと書いている。
 (注*)「太っちょおじおばさん」とは、おじさんなのにおばさんのようであり、その愛らしい体型に目が行ってしまうタレントさんへの愛情を込めて言っているのだが、偏見ととられるかな?ま、心も大きそうだから許してくれるだろう。

 私立大学の内部進学者が受験で受かった人達よりも学業成績などで劣るという実証的なデータを、私は見たことは無い。だが別に反論しようとも思わない程には、事実だと納得している。しかしここでとりあげたいのは、それだけでは無く、もっと日本社会のあらゆるところに根付いている「入り口だけ重視」の気質についてである。

 内部進学者に限らず、有名大学でも一流大学でもそもそも入学すると勉強をしなくなって、卒業に値する学生はほとんどいないのがいまの日本社会である。最近は少子化でそうでも無くなったが、入るのは大変だが入ってしまえば後は楽というのは、何も大学だけの話では無い。似たような話、つまり入り口だけ騒いで後は知らん顔という事が、非常に多い社会だと思うのである。

 役所仕事は一度決めると例えどんなに状況が変化しても、決してやめたり変更する事無く、当初の計画通りに進めようとする。五輪の新国立競技場は途中でやめられた希有な例であろう。多くの公共事業は、当初予算を大幅に上回りもはや必要性すら失せても、それでも尚、工事が続けられる。この異常さは、どこに原因があるのか?多くの国民が騒ぐのは、導入時だけだと(役所側は)わかっていることも、一因なのではないだろうか?

 法律などでも、一度ある方向に舵が切られると、後はなし崩しに際限なく進んでしまう事はよくある。そこで利害関係者は、なんとしても自分たちの有利な方向性への一歩を踏み出させようとするし、反対するものは、ひたすら無条件に絶対反対を唱えることになる。冷静な現状分析や将来像などどこにも無いのだ。騒ぐのは始めだけになる。

 企業犯罪でも、一度小さな不正が行われてしまうと、あとは際限なく拡大して止まらなくなるのも、この気質と無縁ではあるまい。


 一体この「入り口だけ重視」とは何なのであろうか?気質と呼んだが、このような気質因子は常識では考えられないだろう。さまざまな気質や性格傾向が寄り集まって、いつの間にかこのような社会構造が生まれ、気質と呼べるほどに強化されてしまったのである。この元になった気質群を選び出すことは容易ではない。

 日本人は大きな自然災害に遭遇したとき、「どうしようもない、しかたがない」とあきらめて、その事実を受け入れる。災害列島に暮らす人間が、精神の安定を保つひとつの方法である。このような感性が、「入り口だけ重視」の気質の基底に横たわっている気がする。事が起きるまでが問題で、起きてしまえばしかたがない。入るまでが問題で、入ってしまえば後は気にしない。決めるまでが問題で、一度決めれば後はどうでも良い。なんとなく共通したものを感じるのだが。そこに無誤謬性だの、責任逃れだの、他のさまざまな気質要素が加わって、こういう体質にも似た社会ができあがったのであろうか。他にも

 熱しやすく冷めやすい
 決まったことを金科玉条ととらえる
 やり出すと止まらない、柔軟性の欠如
 一度壁を越えると自制心無く進んでしまう、極端に走る

等々、さまざまな性格傾向が、いまの「入り口重視社会」を作り出してしまったのだろう。さまざまな性格傾向が関係してはいるが、やはり集団農耕型気質のなさる業に見える。なぜなら孤高武士型は、入り口以上に出口に関心をもつ。出口とは、結果を含めた責任への姿勢である。常に自分の責任を考えているから、そこからは入り口だけ過ぎれば後はよしとする姿勢は生まれてこないだろう。結局最後を考えない、すなわち責任をとろうとしないところにこそすべての根本原因がある。

 

 

 責任感の強さこそ、両気質を分けている大きな違いのひとつである。集団農耕型が、付和雷同的に多数派におもねるのも、自己決定による責任をとりたくないがためでもある。自らの意見を述べることはそれに責任をとることでもある、だが、多数にのっていれば、例えそれが誤りでも自分だけが責任を追及されることは無い。それどころか、みんなで隠蔽して終わらせられるのである。

 外交において日本の主張を強く打ち出さず、いい加減なところですませて、少しでも波風が立たないようにしようとする傾向は、外務官僚や政治家だけでは無い。多くの集団農耕型人間に共通するものである。孤高武士型教育の武士道において、常に命をかけても責任をとる事を教えるのは、まさにこの事であろう。武士は、自分の行いでなくても、責任者たる立場にあれば、黙って腹を切った。「自律」には「責任」が常に裏表で付いているのだ。

 入り口重視は、当然出口軽視にもつながる。それは次回見ていこう。


平成27年10月29日(木)

2015年10月29日|気質のカテゴリー:補章