我が精神の原点
人間には、その人生における転機とか、何かに気づいた時とか、いうなればその人の原点とでも呼べるような時が、誰にでもあるのかもしれない。 本を読み、人と接して、ある言葉を聞いて、作品を見てなど多くの場合が考えられる。私自身には、そのような事柄は特に思いつかないのだが、たぶんこれこそが、私の精神の原点なのではないかという体験が、ひとつだけある。それも、かなり幼いころの体験である。
ここで「精神」と言うのは、この体験が、人として生きていくうえで、『人間社会には不条理があるのだと、いや社会そのものがまさに不条理なのだ』という思いが、私のものの見方の、すべての基礎になっている様に感じられるからである。
東京で3代目、いわゆる江戸っ子として下町に生まれた私は、3歳のとき父方の実家がある新宿に移り住んだ。まだ新宿は東京でも外れの場所という感覚が残っていたかもしれない頃である。
その体験は、小学校2年生のころだと思う。敗戦からすでに10年以上が過ぎてはいても、まだ貧しさはそこら中に散らばっていた。原っぱのままの空き地はいたるところにあり、舗装された道を一歩はいれば、土ぼこりの舞うでこぼこ道が続いていた。
小学校1-2年のころ、学校から帰ってくると、時々何人かであることをやっていたのを思い出す。いわばバイトである。ひもの先に磁石をつけて、それを地面におき、引きずりながら歩きまわった。当時の道や空き地には多くの釘などが落ちていた。それらを拾い集めていたのだ。小さなバケツいっぱいにたまると、業者に持っていった。10円玉1枚を交換にもらえた。その10円玉をにぎりしめて、パン屋さんに行くと、それがコッペパン一つに化けた。なにもついていない、たった一つのコッペパンをみんなで分けて食べた。そのおいしさは、大人になってから様々な高級料理を口にした後も、やっぱりあのおいしさにはかなわないな、という気持ちは決して失われなかった。
お涙ちょうだいの飢えや貧しさという言葉では片付けられない、何かがそこにはあった。人間同士の結びつきが、確かにあったのだろう。当時は無論考えてもいなかったのだが、いまにしておもえば、実に多くのことがこの話には潜んでいる。
一緒に歩いた仲間に、ある少女がいた。その子は、「バタヤの子」と言われて、今で言ういじめにあっていたようである。元来鈍感なうえに、正義感だけはやたらと強かった私は、周囲など気にすることもなく、その子と一緒に磁石を引きずりながら歩いていた。貧しさでは負けていなかった我が家だが、それでも、釘集めなど私が考え及ぶはずもなく、いま思えば、彼女がこのバイトを教えてくれたのだろう。そしてそれを引き取ってくれたのも、実は彼女の家だったのかもしれない。鉄くずがいくら高くても、ばけつで10円はしなかったのではないだろうか。たまにパン店も、おまけでマーガリンを塗ってくれることがあった。生活は貧しくとも、人々の心はまだ温かだったようである。
蛇足だが、「バタヤ」というのは今で言う差別用語である。特定の職業を意味しているのだが、今これに当たる職業が、辞書には載っているが、少しニュアンスや実体が違うように思われる。いづれにせよ、人類の差別の歴史では職業によるものが多い。「3Kの仕事」と言葉をかえても、そこには、どこか差別的な雰囲気がかもし出されているのも、決して偶然ではあるまい。職業に貴賎はないということこそ、教育が教えるべき大切な項目であろう。
さて、ここまで長々と書いてきたのだが、実はこの体験が私の精神の原点の話ではないのだ。このような社会環境、時代背景の中での話しで有ることを、少しでもわかってもらいたかっただけなのだ。
いま考えてみると、私たちの小学校時代は、なぜか非常に転勤が多かった。去り行く友、新しく加わりすぐまた去っていく級友。サラリーマン社会が拡大・発展していく中で、親の転勤が多かったのかもしれない。あるいは、自分史だけの話なのかもしれないが。
その男の子もまた、新しく来た転校生であった。お互い気が合ったのだろう。
小学校からの帰り道、家によってランドセルを放り出すと、そのまま外で待つ彼と連れ立って歩いていった。中央通りと名づけられた大通りとは言っても、片側1車線の道はさして広くもない。その道を少し行った先を右に折れると、そのまま彼の家へと進んだ。50mも行かないあたりの左手に、原っぱのような空き地が見えてきた。新宿区とは言いながら、まだあちらこちらに戦後の名残ともいうべき空き地が点在し、中には防空壕の跡と思える穴すら残っていた。子供たちは、そこを格好の探検場所にしていたが、実際、中からしゃれこうべが見つかったこともある。
さして広くもない空き地は、雑草が生い茂るままになっていた。その草に隠れるようにして、バラックの家が見えていた。いや、家というよりも、屋根だけを家から下ろして地面に置いた。そんな感じのあばら家であった。自分もそうであったので、貧乏などさして驚くものではなかったが、それでも少しどきどきしたのを覚えている。そんな私を、彼は家の中へと誘(いざな)った。保険の外交員をしているという母との二人暮らしの家には、無論誰もいなかった。
彼はランドセルをそのあたりに置くと、いきなり元気な声でこう言った。
「おなかがすいた。ちょっと待ってて」
屈託のない笑顔で、彼は茶碗と箸を持ち出してきた。
「食べる?」と聞かれたような気もするが、よく覚えていない。
いずれにせよ食の細い虚弱な私は、遠慮したのだろう。
とにかく彼は、なべだか釜だかから、冷たく固まったご飯を茶碗によそった。そして、棚から出してきたものを、いきなりその上にかけた。ソースだった。彼は、それを急いで小さな口にかき込み始めた。
一刻も早く小腹を満たして私と遊ぼうと、無心でお茶碗の中のものを口に運んでいる少年を見ながら、私は、その後の人生でも決して味わうことのない、言葉にならない感情を抱いていた。
『なぜ?どうしてソースなの?どうして、そんなに無心なの?いや、違う。何かが違う。何かが変だ!おかしいのだ』
自分自身でもまったく理解できない、自分の心の奥底に広がる、果てしのない動揺であった。
おかずがなければ、しょうゆでもかけてご飯を食べる、などということはさして珍しいことではなかった時代である。それがしょうゆではなくソースだったという驚きは、子供心に、その違いだけが心象風景の象徴として、記憶に刻まれてしまったのだろう。むろん、しょうゆとかソースとかいう問題などではないのだが。
結局、その後彼となにをして遊んだのか、どうやって別れたのか、私の記憶には残されていない。その夜、脚を縮めて寝る狭い布団のなかで、身体をさらに硬くしながら、昼間の出来事が脳裏から離れなかった。そして、自然と涙があふれてとまらなかった。
1年にも満たない短いつきあいで、彼はまた転校して行った。かろうじて屋根の形をしていたバラックはつぶされて、草だけの空き地が残った。その空き地は、それからずいぶんと長い年月、そのままの状態であった。
この体験は、私にとって相当な衝撃であったらしく、その日家に帰ってから、「ソース飯」の一件を母親に話していた。その後も何年にもわたって、ことあるごとに話をしていたようである。中学くらいになって、大人の精神が固まってきたとき、今度は逆に母からその話を聞かされた。ほんとによく繰り返し話をしていたよと。それが、自身の大人の記憶のなかにも、忘れずに固定され続けることになった理由かもしれない。
正直に言えば、このときに私が受けた衝撃がどんなものだったのか、実は自分でも良くわかってはいない。衝撃の大きさばかりが記憶にあり、いったい何にあれほど心を動かされたのか。後年、心理学を志したいと思ったのも、これがきっかけだったのかもしれない。それでも、いくつかの事は言えるであろうか。
貧しくとも良い。だが、それが世の不条理であってはならない。
なんで、世の中はかくも不条理がまかり通るのだ。
友よ、なぜそんなに君は無心でいられるのか。なぜそんなに清らかなのだ。
もっと怒れ、世を呪え、社会の差別と闘え。
自分はどうなのだ。いったいなにができるというのか。なにをしているのだ。
後付けかもしれない。いやきっとそうなのだろう。ただ、確かにあの時、人間の住む社会には大きな不条理が転がっている。それに対する深い悲しみと怒りとがない交ぜになった感情。加えて、幼き友の無心な純真さ、無垢な心の清らかさに、胸打たれている自分がそこにいる。それだけは、真実であったと思えるのだ。
同時に、どうしても言っておきたいのが、このときの感情には同情心が一切なかったということである。 後に同じ心理学を学ぶクラスメートと、意気投合したことがあった。「同情は、優越の裏返しにすぎない」と。いまでも、そう信じている部分がある。自分が相手との立場の違いをまったく感じていないなら、そこには同情心などという、安っぽい感情は起きないのだと。
他人に対しても、社会に対しても、あらゆるものに醒めた、冷たいまなざしで見つめている自分がいることはわかっていた。そんな私を生みだした体験のひとつこそ、あの幼い日の出来事であったのかもしれない。
平成24年(2012)05月