三國連太郎が亡くなった

人生は迷路かな⑤ 三國連太郎が亡くなった そして仲間の父も

 私の人生の迷路ついて書いている。だから最新の話題は入れないようにしたいのだが(そのほうが、古くなってもなにしても、時代も分からないし)今回は、それを破ってしまおう。
 俳優の三國連太郎が亡くなった。テレビでも、関連する様々な話題がとりあげられた。その中で、親子関係についての話があった。

 彼のような表現者とでも呼ぶ様な人々や芸術家には、一般の平凡な家庭や人間関係を築けない人も多い。彼もその典型的な一人だったようである。4度の離婚をしたとか、嫁と子供をおいて家を出てしまったとか。この3番目の奥さんとの間に出来たのが、俳優佐藤浩市なのだそうだ。むろん、捨てられた形の佐藤浩市から見れば、とんでもない親父である。はっきりと「ひどい親だ」と発言していた。死んだときにも、涙は出なかったと言う。

 一方で、三國連太郎は、こんな発言をしていた。「良い親とか、祖父とか(でありたいと)いうのは、(親の)私利私欲だ。親は、子に(自分の)生き様をみせるべきだ」と。

 普通の人には、分かりづらい発言なのかもしれない。私のようなひねくれた、変人には良く理解できる。学生時代、クラスの人間とこんな話で意気投合していた。それは、「(他人に対する)同情なんて、しょせん優越感の裏返しだよ」と。ますます、混乱したであろうか?

 私利私欲、我欲、自己中心、なんでもよいのだが、他の人に同情するというのは、心底から人間愛に満ちた崇高なものでは無く、自分が高見から偉そうに言っているだけの、己の優越感を裏に隠した心持ちなのだと。親子愛もまた同じ。良い親でありたいなどというのは、しょせん、親の身勝手、自分勝手な自己中心的な考えで、本当に子供のことを思っているわけではないと。良い親であろうと見せるより、自分の人間としての生き様を見せることこそ、本当の親の愛なのだと、三國連太郎はそう言っているのではないだろうか。


 昔の迷路に戻ろう。この三國連太郎の親子の話を聞いていて、思い出した事がある。先の就職した頃の話につながる話しでも有る。腐りきった会社に長くいたくないと考えた私は、早々と会社を辞めることを考えていた。考えるだけで無く、2年目には上司にその旨を話してしまった。若さという愚かさであろう。次の会社が決まってから言えば良い物を、変な自信もあったのかもしれない。

 だが、人生とはまさに先の分からない迷路。その上司が、実は自分も新しく出来る会社に移るので、良ければいっしょに来ないかと言われたのである。同じ親会社が作る新会社など、どうせろくな物ではないと思いつつ、まったく新しい技術をアメリカから持ってくるという話に興味を引かれてしまった。即決で承諾した。こうして、私の会社を渡り歩く流浪の旅が始まったのである。


 当時、新会社のビジネスの許可が、日本政府からなかなか下りなかった。詳細は省くことにして、とにかくSE(システムエンジニア)の仕事は続き、アメリカに出張して合弁の相手先の会社で、アプリケーションの開発をする事になった。新しく出来る会社の社員と協力会社(ソフトハウス)の社員が、シリコンバレーに乗り込んで,プログラム開発の作業を行ったのである。


 会社近くのモーテル(日本で言う旅館のような安いホテル)に陣取って、毎日仕事に追われていた。ある日の夜、遅い夕食をとるため、いつものようにモーテル内のレストランに、みんな集まっていた。長期滞在で顔見知りとなった我々に、店の女の子も愛想良く声をかけてきた。だが、その夜は少し様子が違っていた。

 直前に、日本から連絡があった。協力会社の一人の親が亡くなったと。その彼は、若いリーダで冷静沈着、悪く言えば冷たい感じのタイプであった。我々発注側にも、遠慮無く意見を言うので、時に煙たがられたりもしていた。

 重苦しい空気が流れる中、型どおりのお悔やみを述べて、早く航空券の予約が取れると良いのにと、話題に詰まりながらも時が流れていった。はじめは、何でもないといつものような態度の彼だったのだが、ぷつんと何かが、彼の中で切れたのであろう。堰を切って、言葉が流れ出た。

 「酒乱でひどい親父だった。自分も母親もどれだけ、苦労させられたか。学校も自分で稼いで卒業した。どれほど憎んだ事か。もう、音信不通になってから長いのだ」と。
 大粒の涙が、彼の両目からあふれ出た。止まらない涙の中で、彼は言葉を続けた。「あれほど憎い、苦しめられた父親なのに。こうして死んだと聞かされたら、やっぱり涙がでる。あんなおやじなのに」と。

 涙ながらに語る彼、そこには仕事の時の厳しい姿はもはやなかった。一刻も早く日本に帰りたいと願う、親を思う子供の姿だけであった。今から40年も前の話しで有る。シリコンバレーなど、日本から遙かに遠い異境の地でもあった。


 血は水よりも濃い。この言葉がまだ生きていた時代なのかもしれない。親殺し、子殺しが当たり前のようになってしまった現代の日本社会。それでも、まだ希望はある。日本人の中に、家族を思う心は生きている。

 父親が死んだときに涙も出なかった佐藤浩市が、身内だけの密やかな告別式の時、涙を浮かべていたという小さな報道があった。三國連太郎なら、良い親を演じるのは、それ程難しくなかったであろう。それでも彼は、そうしなかった。代わりに、憎まれても嫌われても、ひたすら自分の生き様を、己の背中を子供に見せ続けたのである。それが、親なのだと信じて。

(文中敬称略)
平成25年(2013年)4月21日

2013年04月21日|コラム・エッセーのカテゴリー:人生は迷路かな