もうひとつのITバブル

 使われすぎて磨り減ってしまった感のある、「バブル」という言葉であるが、この動きの激しい時代において、十年と言う気の遠くなるような長い時間を経ながら、いまだに解消のめども立っていない現状は目を覆うばかりである。
 しかし、どうみても、不動産と株の異様な高騰というバブルははじけても、その構造を生み出した、人々の心に巣くったバブルは必ずしも解消されて、健全なものになったとはいえないような気がする。特に、バブルに直接関係した企業や官僚・政治家などはもちろん、バブルを経験した多くの人々の心の奥底に、バブルを現出せしめた、赤貧とは縁のないどす黒いものが残っている。それがバブルの真の解消を妨げている遠因のひとつかもしれない。ここではそのことには直接関係のない、しかし、奥底の水脈ではつながっている、別のバブルについて取り上げてみたい。

 別のバブル、それはITに関わる人材バブルとでも呼ぶべき、日本の現代社会のインターネットを中心としたIT新技術への誤った認識についてである。この分野もアメリカによらず、日本でもITバブルを意識しないうちに、風船がしぼむように縮小を余儀なくされている。そんな中でひとり、IT関係の技術者採用における人材獲得バブルが大きくならないことを願いたい。

 構造改革の名のもとに中高年のリストラが流行となった観があるが、その陰で別の動きがみられる。大企業がリストラを行う理由の一つに、新時代、特にITに対応できる人材が社内に少ない、これを外部から補うためにもリストラをやらざるを得ないという論がある。特に大手企業では、人材の硬直化がみられ社内の人材で新しいことをやるのは難しく、さりとて、新規に人を採用する余裕はない。そこで、まずリストラで余裕を生み出して、新しい対応が出来る人材を採用しようというわけである。
 アメリカなどでは、古くなり、いらなくなった事業の人員を削減し、同時期に重点事業や新規事業のための採用を行うのは、極めてあたりまえのことである。社会全体の仕組がそのように成っている。当然IT関連の事業でも同じである。しかしながら、日本では社会全体の体制がそのような仕組みになっていないのに、ここだけを真似しようとするところに危うさが見られる。いや、社会をそのような仕組みに早く変更する、その一歩がリストラである、との声が聞こえてきそうであるが、それは詭弁であろう。ここでも、これ以上深く追求することはやめよう。ここで言いたいのは、その実効性である。

 中途採用者の年収データによれば、四十五歳を境に、それまでの年収と新会社の年収とが逆転すると言う。四十五歳までは転職によって給与が上るが、四十五歳以上では逆に下がっていく。その差は百万円以上にもなり、年齢が上る毎に乖離の幅が広がっていく。この現象を助長している理由に、「若ければ良い」という思い込みがあるように思う。とくに、新しいインターネットを中心としたIT関連では、若い人材でないと理解することすら難しいとの思い込みが有る。
 その結果、若くかつインターネット関係の経験があると言うだけで、高給での採用がなされている。もちろん、最近では逆に、採用したけど期待したほどの力がない人材が多くて困っていると言う話を、その分野での先進的な企業から耳にするようになった。いずれにせよ、まだこの部分がバブルと言うのは大げさにしても、費用対効果から見たら、他の人材採用とは明らかに異なる様相を呈しているようである。

 ここでこの分野の置かれている特別な環境を少し理解しておく必要が有る。まず、第一はこの分野の人材が絶対数で限られていることがある。それは勢い、同じ人間が似たような会社をぐるぐる渡り歩くと言う現象を生む。よくかわされる会話に、「業界がせまいので、またどこで会うかわからないから、けんかができない。」という言葉がある。実際、競合会社に転籍したら、元の会社と合併したなどという、笑い話にしてもあまりおもしろくない話が現実にある。
 これに拍車をかけているのが、外資系と呼ばれる存在である。欧米のベンチャー企業が数多く日本に進出してきては、会社を設立する。現地人たる日本人の採用が行われるが、当然、語学の問題があり、それをクリアしてなおかつ専門の経験があるとなると、これまでは人材が限られていた。したがって、同じ人間があちこちの外資系企業を渡り歩く。いまは、もう死語で有ろうから、あえて書けば、そのような一群を「外資ゴロ」と称した。また、外資のベンチャーは日本でのブランド名が確立してないので、人集めのためにおのずと給与が高めと成る。今では、世界的なITバブルの崩壊により、このような状況はかなり変わってきているが、これらの要因が、これまで一部の給与を高めに誘導してきたのは間違いない。
 勝手の外資系ベンチャーの採用が、技術力よりも語学力を評価してしまったのはわかる気がする。しかし、それは、日本において、IT技術者の力を正当に評価できるマネージャーがいないのと奇しくも軸を同じにする。評価する能力不足という点において。
 
 即効性という観点から、まったく経験のない人を雇うよりは経験者を採用したほうが効率の良いことはあまり異論がないであろう。しかしここで、この分野のことをもう少し理解する必要がある。それは技術の幅、広がりと革新スピードである。端的にいえば、単純にITまたはインターネット技術といっても、詳細に入るとその幅は広く、いったいどのような分野の人材が必要なのか、採用する側が真に理解できているのか疑問なことが有る。簡単なホームページを作ることと大規模なアクセスが予想されるポータルサイトを立ち上げることは違うし、1台のPCでホームページ(サーバ)を立ち上げるのと、ブロードバンドのデータセンターを構築するのに必要な技術は当然違っている。そんな大げさな話をしなくても、Perlという言語をできる人間が、Javaという言語をできるとは限らないし、JavaとJavaScript両方をできる人も少ないのである。JavaとJavaScriptこの違いさえ良く知らない、というのが採用する多くの会社の本当のところであろう。そこにデータベースが出てきて、さらにネットワークがからみ、セキュリテイが重くのしかかる。いま、サーバとネットワーク両方の知識を持つ技術者はほとんどいない。しかし、今後しばらく技術の流れは、webサービスで代表されるように、サーバとネットワークが融合したものにむかっていく。これらすべてをわかる技術者などほとんどいないし、これだけの経験をつむには若くては無理だということにもなる。実際すでにインターネットが出現してからすでに十年が経過しているのである。即効性という名の場当たり対応は、バブルの後始末の先延ばしと同根ではないのだろうか。

 少し専門的な話になるが、もうひとつ厄介な問題が、業務システムを、Webベースで開発するときにおきてくる。それは、インターネット技術、もっと言えば、ホームページ作成から入った技術者は、これまでのメインフレーム型コンピュータの技術をまったくといっていいほどに理解していない点にある。理解していなくても、誰にでもできるから新技術なのだろう、と言う声が聞こえてくる。言いたいのは、小さな閉じたホームページのレベルならそれで問題はないが、課金とか顧客データベースとか、多くの社内システムのWebシステム化においては、アプリケーションの開発を知らないと手におえないこと多い。過去のコンピュータ開発に携わった人は、新しいインターネット技術への置き換えが技術的に理解不足、インターネットから入った人は、開発手順や業務アプリケーションへの理解が少ないのである。新しい技術の出現時には、多かれ少なかれ、新旧技術のギャップはこれまでにもあった。しかし、インターネットの技術があまりにも誰にでも習得可能な利便性を有していたために、かえって、「自分はできる。」という誤った意識を持った技術者が多いことを指摘しておきたい。

 さらにあげれば、技術革新のスピードであろう。三ヶ月がこれまでの一年相当であるという、いわゆるドックイヤーが、現在の革新スピードの感覚として、普通に受け入れられるようになった。しかし、その意味することに気づいていないことが有る。それは、すでに述べたこととまったく逆になるのではあるが、わずか三ヶ月で新しい技術が出現するのである。どこにその経験者がいるのであろうか?この簡単な理屈すら、どこかに飛んでしまっている。

 残念ながら人には技術者向きと不向きの人がいる。本来それほどの素質があるわけではないのに、インターネットから入ったがゆえに技術者と思い込んでいる人材よりは、もともと素質がある人に新しい技術を学ばせるほうが、結果として良い結果が得られることが多い。インターネットを知らなくても、素質があれば、半年で充分に追いつくということを知って欲しい。新しい技術に対しては誰でもが同じスタートラインに立つのであるから、経験ではなく、素質と新技術への取り組みの意識が重要になる。
 技術がすぐに陳腐化するとしたら、いま経験者として採用した技術者の技術もその運命にある。いま、積極的にそれらの技術者を大量採用している企業は、五年後にそれらの技術者をどうするつもりなのであろうか?アメリカ流の考えであれば、ついて来られない人間は止めてもらって、また新しい人材を採用するという事である。日本も本当にそうなるのであろうか?
今最新の技術者は、数年後にお払い箱となる。そのとき、陳腐化した技術しか持たない、つまり有効な経験すらない多くの人の群れが、社会にあふれる。そのとき企業は?国は?

 終身雇用が遠い夢となった今、企業がそれを前提とした教育をやらないからといって責められはしないのであろうが、としたら、誰が即戦力の技術者を生む教育をおこなうのであろうか?終身雇用を放棄したがっている日本を尻目に、アメリカでは逆に技術者の人材確保のための施策が先進企業で始まっている。無論終身雇用を保証したものではないが、リストラで全面的に解雇するのではなく、給与の20%を支払って休職させ、ボランティアなど一時的に他のことをさせるが社員にとどめておく、などの新しい関係が生まれつつある。これは、ITのように長期では成長が見込まれるが、過程で小さな変動がある業界では、完全に解雇して再度採用するよりは、優秀な人材をつなぎとめておき、次の採用時にスムーズに受け入れようとする試みである。この事象ひとつを見ても、哲学を失った日本企業がアメリカに再度追いつくのは至難の業であろう。


 他にもこの論の趣旨からは若干離れてしまうが、若者達の凶悪犯罪に見られるようないわば人の質の低下は、ここでも確実に見うけられる。二十代の殺人犯が大きく減少してきているからといって、残酷な、眼をそむけるような犯罪が増えているのは事実であろう。我侭な権利の主張ばかりが目立つ自己中心的な体質と、能力の低下は目を覆うものがある。もっとも最近では、IQではなくEQが、声だかに言われているようであるが。ここでは個人的な個々の特性ではなくもう少し社会的な現象として述べてみたい。

 人材の質の低下がここ十年特に顕著なのは、やはりバブルの後遺症と無縁ではないのではないだろうか?つまるところ、バブルを引き起こした戦後日本人の体質のようなものは、バブル崩壊ぐらいでは亡くならなかったのではないだろうか。  
 バブル期には、経済界だけではなく、社会全体がバブルの渦のなかにあり、大学とて例外ではなかったように思う。大学は出てあたりまえとなり、膨大な学生が押し寄せた。ここで、質が低下したこともさりながら、バブル後にもその後遺症が残った。それは、一転して就職難となり、就職できない多くの学生がそのまま留年し、あるいは大学院に残った。本来勉強を高度化させるための大学院が、就職浪人の一時退避所と成ってしまったのである。これは特に理工系学生の質を大きく低下させた。それまで、教授の下に数名であった院生が、多いところでは三十~四十名などと信じられない数に上るところすら出てきた。受け入れ側もそれを受け入れたのは、バブル期の夢が完全には消えていなかったのかもしれないし、バブルで教育(人材育成)への熱意がねじれていたのかもしれない。こうして、彼らが世の中に出たとき、修士と言うそれまでの水準はまったく有名無実となってしまった。

 日本におけるバブルの問題はその渦中よりも、崩壊後であろう。だれも責任を取らず、一攫千金や楽をして儲けることしか考えなくなってしまった親や社会に育てられた人間が、社会に出たからといって、急に自ら聖人君子になるはずもあるまい。
 また、努力することよりも楽することを権利と勘違いした人たちが、まともな勉強などしてようはずもない。すべてとはいわないが、個々に能力もなく利己主義な人種が、平成という世の中に、十年間にも渡って排出されることとなったのである。このような人たちが、これまでとは異なる社会的態度にもかかわらず、めだたなかったのも、このインターネット技術が関係している。これまで初期のインターネット技術は、誰でもがとりくめる手軽さと、個人一人程度であるまとまったホームページを作成できるなど、その規模においても比較的小さなものであった。そのため、自分の好きなように、技術力が足らない部分は省いて、取り繕うことができた。そして、それを評価するマネジメントも不足していた。このことが、本来なら技術者のプロとは呼べない人たちをあたかも技術者として、優遇することになった。素人がやることを悪いとか、あるいは未経験者が多く参加することが間違っているなどとは、断じていっていない。ただ、IT技術者として通用している人の多くに、今後も新技術についていけるのか怪しむべき人が多く見られる。
 技術の進歩はすさまじく、かつて「インターネットの父」と呼ばれたビント・サーフ氏によって、宇宙インターネットのプロトコールさえ開発されつつある。音声のデータとしての取り込み、個人間(P2P)のやり取りの仕組みの充実、セマンティックwebによる検索技術の向上、ebXMLによる企業間電子商取引など、あげればきりがない。

 
 いっぽうで平成不況の嵐が強くなる中で、「雇い主と労働者」と言うような古びた言い回しが復活しそうな就職状況がみられ、なんとも不快な感じがする。
 たとえば、ずるがしこいという形容を使いたくなるような企業がある。それは三十五歳以下は正式採用するが、それ以上の人間はすべて三年とか五年の契約社員にするという会社である。
 また、とある会社の女性が、まったく有給休暇もとらず残業を続けて疲れはてて、上司に休暇願いを申し出たところ、「もうじきリストラがあるんだぞ。」と脅され、休みを取れなかったと言う。あるいは、有る大手メーカに勤めていた人が来年で定年なのに、肩たたきをされて退職した、などと時代の恥部が物陰に見え隠れする。
 昭和の大恐慌ではあるまいに、時代錯誤もはなはだしいと言わざるを得ない。

 その一方でもうひとつ考えなくてはならない現象が有る。それは頭脳の流入である。日本からの頭脳流出は散々騒がれていながら、いまだ収まったとはいえないが、もはや人々が語らなくなってしまった。実はその反対の現象がひそかに、しかし確実におきている。それも特にIT関連で。
 製造メーカが安い労働力を求めて、アジアとりわけいまは、なだれを打つかのごとく中国への進出を決めている。そこに安くて質の高い労働力があるからである。ハードを作るメーカだけではなくて、ソフト、それもいわゆるコンピュータを動かすためのシステム、プログラミングで、同じように、中国、インドに進出が試みられている。この進出がアメリカほど騒がれていないのは、日本の大手企業が直接現地に出ているケースもないではないが、現地の会社を活用するコーディネーションタイプの会社が多いからであろうか。いずれにせよ、ソフトウェア作成を国内ではなく海外に開発委託するのは、珍しくなくなりつつある。そんななかで、仕事を現地にもっていくのではなく、現地から人が日本に来る方式が、静かに広がろうとしている。
 これはインターネットの技術で必ずしも日本が劣ることを意味しているわけではないが、これまで見てきたように、日本ではこの分野の人材が不足しており勢い人件費も高い。それに比べて同じ能力ならば、韓国の技術者でさえまだ低賃金で有る。そのため、海外でプログラム開発を行うのではなく、海外からできる人材を日本につれてくる人材派遣会社が目立ち始めている。
逆に最近では、製造メーカのもっとも基盤の金型職人などが、日本でリストラされたために、中国などに就職する例も多くなっている。これら、人材という観点からの戦略を、個々の企業が放棄した観がある。これでアメリカのように新しい産業などおこせるのであろうか?


 最後につけくわえたいのは、創造的技術者への対応の仕方である。
インターネットの新技術や新しいアイデアなどをやろうとする人間の多くは、既存のいわゆる旧式な組織のマネジメントにはなじまないものが多い。しかし、この旧マネジメントになじまない人間が、新しい技術への対応力があるかと言えば、必ずしも逆はまた真なりとはならない。さらには、新技術への対応と創造性とは明確に分けて考える必要がある。これを混同している向きも見受けられる。採用する側も、される側も誤解している場合がある。
 採用側の問題は、自分達が新しいことをわからないから、少しインターネットのことを知っているかのフリをされるとそれを鵜呑みにしてしまい、採用される側は自らの技術を過信して、創造性ありと思うことになる。
 さらに付け加えるなら、創造的なことを生み出すような人材において、マネジメントとか、上司の指導教育などと言う話は通用しないと気づくべきである。そこでは、プロジェクトのリーダは存在しえても、管理のためのマネージャーは不要である。それを必要とするような構成メンバーであれば、それはもともと、新しい物を生み出すような人間達ではない、ということである。そこでは、人生の先輩・後輩はあっても、上司と部下ではなく、みな同じ対等な仲間で有る。従って、上司を必要とするような人達には、新しいものの創造の力は弱いと思うべきである。乱暴に言えば、ほっといてもいっしょにやっていく集まりでなければ、そのチームから創造的な仕事は生まれない。
 労働者の流動性と採用側の要求とされる側のスキルのミスマッチなど、多くの問題があるなかで、ITに関わる人材にも多くの課題があることを理解し、短期ではなく、もう少し長期で冷静に見極めていくことが必要となる。


 一流といわれる大手家電、コンピュータメーカーですら、大幅なリストラの影で、IT技術者のスカウト・採用を積極的に、しかしひそかに行っている。これを当然とみる現在の多く論者は、IT技術者の現状と、ITとはなにかという根本的な問題を正しく理解していないように思われてならない。
 現在のような経済環境の中で、いつまでもIT技術者バブルが続くとは考えられないが、大手企業を中心に吹き荒れるリストラの嵐が今後も続き、結果として、新たなるITバブルの出現を押しとどめることになるとしたら、この皮肉な現状は、笑うには深刻すぎるものを含んでいる。

                    以上

平成14年(2002年)9月27日

2002年09月27日|コラム・エッセーのカテゴリー:IT・科学技術, 社会