またも冤罪!?

 逮捕から5年も経つ事件で、またも無罪判決(大阪地裁)が出ました。6年前に生後2ヶ月の子を揺らして、脳に障害を負わせたとして逮捕された父親に、無罪判決が出たのです。弁護側の調査で明らかになった、子供の先天性疾患が原因と認められたのでした。真実であれば、またも冤罪だったわけです。

 無罪判決後の父親のコメントでは、次のように訴えているそうです。
『虐待の疑いをかけられ、生後4カ月の息子は児相に拉致されるように連れ去られ、1年5カ月も私たち家族から引き離されました。そのおよそ1年後に今度は私が逮捕、勾留されました。…勾留後も保釈はなかなか認められず、三度目の保釈請求がようやく認められたときには勾留から5カ月が経っていました。しかし、その後も確たる理由もなく妻に会うことを禁止するという接見禁止が2年も続きました。これは司法による人権侵害としか思えません。私たち家族はバラバラに引き裂かれたのです。それはとても長く辛い日々でした。・・・・』
 
 虐待であった場合を考えれば、やむを得ない処置だったのだろうとも思えるのですが、無罪であることからすれば、あまりにもひどい、人権無視と言わざるを得ない経緯です。この問題自体が、非常に難しい事件だとはおもいますが、それでもこの国の抱える課題として言われ続けながら、一向に改善されない問題がここにはあります。ここでもう一度それをとりあげてみましょう。

警察・検察の無謬性

 テレビドラマでも良く出てきます。「警察は国民の信頼を確保するために決して誤りがあってはならないのだ」という台詞。ようするに警察・検察の無謬性神話とでも呼ぶものです。しかしこれほど国民を馬鹿にした話はありません。すでにこれだけドラマにまで取り上げられるようになっているのは、警察や検察が完全無欠の正義だなどとは、もはや誰も思っていないということです。したがって、安全神話と同じで、これも警察や検察内部ではびこる自己保身の為の、身内の論理にすぎないのです。
 むしろ、誤りをすぐに認めて、襟を正すことを繰り返すことの方が、よほど国民から信頼されるはずです。それをやらないのは、単なる役人の自己保身、組織内隠蔽体質にすぎません。

 これを本気で改善するには、内部の監督部門の切り離しなども必要でしょう。原発事故で、規制委員会が経産省から消費者庁に移されたような形です。無論根本は、組織内の人間とくに上級官僚の意識改革でしょう。採用以前から、この分野での官僚への教育が成されるべきです。官僚機構の問題点は、世界共通の課題でもあるのですから、基から変えない限り変わりません。

筋書き行政から科学行政へ

 無謬性とも関係しますが、警察・検察・裁判所は、決められた筋書きのまま突っ走る事を改めるべきでしょう。一度ある筋書きをたてると、そこに疑問をはさむことなく、その筋書きに合わせて物事をみてしまうのです。そこでは、科学的な分析や疑問が、口出しできなくなっているのでしょう。検察は自分で事件の内容を、再捜査することは人数的にも不可能ですし、司法もまた警察や検察に代わって再捜査することは事実上出来ません。そのために、与えられた証拠などからしか判断出来ません。ならば、なおさら筋書きではなく、科学的捜査の考え方をきちんと取り入れるべきです。
 アメリカのFBI(連邦捜査局)が各地のずさんな事件捜査に代わって信頼されたのも、この科学的捜査をいち早く取り入れたからでした。犯人特定に役だったわけです。日本においても、今では科学捜査は、犯人検挙におおきく貢献しています。ならば、もう一歩すすめて、真実を見極めることにも活用すべきでしょう。

 これは結局は、関係する人の意識の問題ですから、学校教育においておこなうべきです。特に法学関連では、授業の中にこの意識を育てるようなカリキュラムを必須とすべきです。

長すぎる裁判

 日本の裁判の長さは先進国の中でも異常なようです。慎重にと言うのは無論重要なのですが、あまりにも長すぎます。仮に免罪の場合には、それ自体が無実の人への拷問とも言えます。この異常な裁判の遅さは、大きく二つの原因があるように思います。一つは裁判官の少なさ、もう一つが制度の構造的な問題です。
 司法試験に受かっても、裁判官を希望する人は少ないようです。ですが、待遇改善などで、もう少し増やすことは可能なはずです。じつは、一部裁判官が増員に反対とも聞きます。
 もう一つの構造上の問題は、あまりにお役所仕事にすぎる手続きの簡略化、迅速化の他に、簡易裁判所など役割の大幅な見直しなどが考えられます。世の中が変わっているのに、変わらない日本の行政や司法のやり方は、それ自体が関係者の怠慢と言えるのでしょう。


 これまでにも何度も取り上げてきた事柄ですが、残念なことに社会での変化は、ほとんど見受けられません。もうこの手の話を取り上げないで済む社会が来ることを心から願っています。

令和5年3月17日(金)

2023年03月17日|コラム・エッセーのカテゴリー:社会