演歌が滅べば日本も滅ぶ

 演歌、艶歌、あるいは歌謡曲といってもよいのであろうか、1960年代(昭和30年代後半から40年代)にかけて全盛を極めた歌のジャンルである。「日本人の心の歌」とまで形容された演歌が、流行の表舞台から姿を消してしまったのも、表層文化の変遷から見れば当然のことなのかもしれない。演歌の衰退は、歌詞が貧乏くさくて時代にあわなくなった、カラオケ用にメロディを簡単にしすぎた、4・7抜き短音階ばかり多用しすぎたなど多くのことが語られているが、それらはいずれもみな一面の真理なのであろう。ただこれをもう少し深層文化の領域に広げてみると、異なるものがみえてくる。


 演歌の時代にも、フォークやグループサウンド(GS)など、その時代の年配者からは眉をひそめられる楽曲が、いくつも生まれていた。そうしてみればいまの若者たちに、昔の楽曲が受けないのは当然であろう。反面、現在のミリオンセラーになった歌の歌詞を読むと、その内容は恋愛を中心に、昔のものとそれほど大きく変わっているようには思われない。ただ、決定的に違うのは、その歌詞が文章として訴えかけたり、和歌のような場面描写からの感情の誘導といった類のものは少ないように思われる。言い換えるならば、ある情景の物語的な描写よりも、直接的な単語の反復による訴求法を用いているように見える。さらに、速いテンポのメロディなど楽曲が、歌詞よりも優先されているようである。
 このことは、いくつかの事柄を示唆している。ひとつは刺激への反応ということである。人間はある刺激になれると、より強い刺激でないと反応できなくなり、刺激量が増大していく。GSもそうであったが、大音響へとエスカレートして結局それが、終焉の引きがねともなった。現在のように、早いテンポ、大きな音、絶叫、文章のぶつ切り、イントネーションの無視など、歌詞が聞き取りづらいなかでは、言葉はますます切れ切れの単語となり、しまいには意味をもたない単なる記号と化す。

 歌謡曲の歌詞を心理学的に分析した研究もいくつかあるが、分析しようとする内容とここでの趣旨とは必ずしも合致しないので、あえて触れない。酒、涙、女、別れ、波止場、雪、雨、風、等々、演歌で使われる言葉の多くは、感情を直接表現するよりも、ある情景を詠む単語が多い。わずか3分のなかに、ある情景を歌い、そこに何がしかの情感をこめて、聞き手の感性に訴えかける。これが成立するためには、いくつもの要素が必要であろう。まず、文章の意味の理解が大前提になる。文章読解力や語彙力が不足していては、まずここでつまずく。大ヒットするような曲の歌詞は、このあたりをよく考えていて、わかりやすい言葉が選ばれていることが多いのだが。むろんここでの理解とは、文章や単語の意味の理解だけではなく、その言葉が背後に背負ってきた情感を含めてであることは、いうまでもない。次に、情景に付随して共感を求めている感情への共鳴である。提示された「悲しみ」を「悲しみ」として受け取れなければ、その後の共鳴や共感はありえない。ここに、共通の感性認識が必要となってくる。演歌衰退の一因は、この感性の共有が行われなくなってしまったことにあるのかもしれない。とすれば、その原因が作り手の側にあるのか、それとも日本人に共通の感性そのものの変貌なのか、単なる受容の感覚器官の衰退なのかは、深層文化ともかかわる問題である。
 

 演歌全盛の時代でも、演歌嫌いの人は多数存在した。20代までは嫌いだったのに、30代になったら聞くようになったという人もいる。調査もなしで述べるのは少しはばかられるのではあるが、経験則によれば、あまり苦労を知らない人に演歌嫌いが多かったように思う。このことを少し心理的に見るならば、それは感情的な自己内省経験の違いとして述べられよう。一般的に「喜怒哀楽」と表現される「感情」も、心理学的にはまだよくわかっていないことの多い分野である。そのため基本感情と呼ばれるものでさえ、説が分かれるほどである。ただ感情といえども「経験」とは無縁ではないであろう。そして、その経験は、「体験」という自己学習(自分自身が直接的に学んだという意味で)によってより豊富になるのも異論はないだろう。自分が様々な感情のパターンを学習していればこそ、他人の苦労話を聞いたとき、その人の感情をよりよく理解することができる、ひいては共鳴・共感できることになる。その共感が、経験として蓄積されることでその人に新たな感性のパターンが増えていく。また、自らのことに置き換えて考え、自分を振り返るなどの内省を深化させることにつながる。苦労を知らないというのは、この感情的な自己内省経験が少ないということになる。知的経験としての理解は可能ではあっても、感情的な経験としての理解は希薄となる。そして、感情的な知覚を伴わない刺激から快感を得ることもまた少ない。つまり、苦労を知らない人は、演歌を聞いても、そこに提示される情感への感情移入や自己の持つ感性パターンへの訴求に乏しく、演歌を聴いてもおもしろくない、ということになる。こう考えてみると、豊かな時代の進展とともに演歌が廃れていったというのも、あながち無関係な話ではないのであろう。


 演歌の衰退が、豊かさの表れや、新しい楽曲の流行など表層文化に属するものであれば、それはそれでやむをえないことであるが、もし、感受性の鈍化や、感性パターンそのものの変化によるとするならば、深層文化の領域にもかかわることになる。これまで、1万年以上にわたって築き上げてきた日本人の感性そのものが変容することは、必ずしも誤ったことでも、悪いことでもない。ただ、本来もっていた感性の豊富な認識パターンを、過去のものとして一方的に切り捨て、貧弱で底の浅い感受性にしがみついているとしたならば、悲しむべきことといえるであろう。日本文化の大きな特徴のひとつが、感性の文化にあるのならば、共有できる感性の変貌は日本文化の変容であり、感性の衰退は日本文化の衰退でもある。

 視覚、聴覚、触覚、臭覚、味覚の五感の感覚器官への刺激を感性情報と呼ぶならば、それは、シンボリックなものとノンシンボリックなものに分けることができる。シンボリックな感性情報はさらに、大きく言語的なものと非言語的なもの(絵、表情、動作などであらわされるもの)に分けられる。
 たとえば、小説を読むということは、シンボリックで言語的な感性情報の受容を意味する。音楽を聴くのは、ノンシンボリックな感性情報の受容になる。それでは、演歌を聴くと言うことはどういうことなのであろうか?楽曲だけであれば、ノンシンボリックな感性情報であるが、歌詞を聞くことで、言語シンボリックの感性情報をも受け入れていることになる。そして、より具体的な感情を呼び起こすには、ノンシンボリックよりはシンボリックなものの方が訴求力は強いとすれば、歌詞の内容を理解できるほうが、より強い刺激として受容される。いいかえれば、歌詞を知らないカラオケの曲を聞くよりも、歌詞のある歌を聴いたほうが、より豊かな感受性が発揮されることになる。クラシックは、人の心を和ませたり、奮い立たせたり、言うなれば基本感情へは大きく働きかけるが、より複雑な感性の反応パターンを惹起する力については、演歌のような歌詞のある曲の方がより強いといえるのだろう。日本文化の繊細な感性とは、言い換えれば、複雑、多様な感性パターンの認識とわずかの感性情報の入力でも反応する鋭敏な感性処理機構に他ならない。

平成18年(2006年)03月10日

 

2006年03月10日|コラム・エッセーのカテゴリー:社会