訪朝騒動の隠れた問題

 北朝鮮による日本人拉致問題において、またも外務省が国民から多くの批判を集めている。日朝首脳会談において提示されたいわゆる拉致者に関するリストの情報の一部、死亡年月日を家族にも伝えず、隠蔽していた事実である。機密費の流用をはじめ数多くの問題で逮捕者まで出しながら、その後も中国瀋陽の日本公館への北朝鮮人亡命事件、外務省改革案への横槍、そしてまた今回と、体質の改善はおろか、反省すらまったくしていないようである。しかしこれは外務省だけではなく、政治家を始め国家を預かる多くの人間に共通している致命的な欠陥なのであろう。いわゆる官僚主義が国家をも滅ぼす例を、われわれはすでに戦前の大日本帝国の軍事官僚で眼にしてきている。自己保身や個人的利益のためならば、その所属する組織をも平気でだめにしてはばからない官僚的発想は、文化論にも関係する大きな話になるのでここではたちいらない。ただ、最近の企業の一連の不祥事や犯罪行為も、多くこの問題に根ざしていることだけを指摘しておきたい。
 

 さて、今回の北朝鮮問題である。「北朝鮮」で、自明のものを公式文書でもあるまいに、わざわざ朝鮮民主主義人民共和国などと、毎回ことわらなくてはならない現状もまた不可思議といえる。それはさておき、日朝交渉と呼ぶ一連の動きは、外交交渉と呼ぶには少しお粗末だったとのそしりを受けても、やむを得ないのではないだろうか。伝えられる情報からだけでも、あまりにも多くの問題がある。

 今回のこの時期の訪朝は、相手のたくみな誘惑に乗せられただけではなく、外務省と一部の政治家が自分たちの利益のために、はじめに交渉開始ありきで望んだことは、容易に想像がつく。小泉総理がそれに乗ったのか、それとも自らも得点稼ぎのために、はじめから加担していたのかはわからない。いずれにせよ、外交であれ交渉であれ、一方的に相手の描いたシナリオにのせられて、自主的な判断を放棄するのであれば、やらないほうがましである。

 日本の交渉責任者(総理)がすでに到着して会談をはじめるわずか数時間前に、予想もしない形であらたな情報を出して相手を混乱させ、さらに日本側の要求項目に対して表面的とはいえ、すべて回答をすることで、ボールを日本側に投げて、日本が答えざるを得ないようにする。さらに混乱させるために、会談の合間に、新たな情報を非公式といって提示する。この一連の、用意されたシナリオに対してまったく、なすすべもなく、ただ単に相手のレールの上を走る。これは交渉ではない。もっとも、はじめから相手の言いなりになって、交渉再開の成果という自分の手柄しか考えていなかった官僚たちからすれば、当然であったのだろう。

 かりに百歩譲って、交渉するつもりはあったとしよう。それでも問題はある。日本ほどリスクマネジメントが下手な国はないといえるが、その原因のひとつが、自分の当初描いていたシナリオと現実とが対応しないとき、臨機応変の決断はおろか、その前に必要な情報を集めて現状を分析するという作業ができないことにある。今回もそれが出た。拉致問題への回答だけしか頭になかったために、それをあっさり提示されたとき、そこで思考が停止している。回答があったからそれで終わりではなく、今後のためにより強固な立場を取るべく、せめて相手の回答をてこにしたさらなる要求を、秘密合意でも良いからまとめるべきであったろう。これができなくては、老練な外交交渉のリーダシップなど及びもつかない。

 さらに、会談の合間に渡された情報を翻訳して、総理に提供するのに四(六?)時間もかかったという。まるで真珠湾攻撃の宣戦布告の出来事を髣髴とさせる。外務官僚の責任逃れのうそであってくれたほうがまだましである。これが事実とするならば、危機管理や情報云々以前に、自分たちの仕事の内容すら把握していないことになる。たかだか、人名と死亡年月日の書かれたペーパーを翻訳することのできる人間すら、用意していなかったのか?通訳が受け取ったのならば、少なくとも内容は把握可能であったはずである。それをなぜ、すぐ総理に報告しないのか?国家の外交交渉に臨んで、そのような準備すらしていないのか?それとも、まだ隠していることがあるのか?結局、官僚が自分に都合の悪い情報は、たとえ、国家の損失になろうとも平気で隠す、戦前と同じ過ちである。

 それより何より、政治家たちのリーダシップのなさと、現状認識能力の不足には目を覆うものがある。そもそも、トップ会談であるにもかかわらず、その数時間前にまったく新しい情報を出してきたという時点で、相手の意図とシナリオは明確に把握可能である。にもかかわらず、こちらが強く要求したから、拉致問題への回答を出してきた、すなわち誠意を見せた、などととんでもない事実誤認をしているところから始まる。また、少なくとも調印の前に新たな情報を得たのであるから、調印は別途とする、もしくは、宣言文書の内容を変えるくらいの事はいくらでもできたはずである。にもかかわらず、まったくそのような抵抗をしなかったことは、はじめから交渉する気などなかったいわれても、反論の余地はあるまい。

 帰国後の死亡日隠蔽問題も、外務省が判断したと他人事のように話をする。いま、自国の政治課題のプライオリティはなにかとの認識があれば、自ら先頭にたって指示をすべきかどうかの判断ができたであろう。阪神淡路大震災で、法律がないからと、自衛隊を出動させず、多くの犠牲者を見殺しにした総理大臣がいた。この国の政治家は、リーダシップという意味すら理解していないのだろうか。


 まえおきが長くなった。幾多の細かい話はいろいろと取り上げられているので、そちらに譲るとして、今回の一連の騒ぎの中で、誰も余り触れない、いや触れたがらないのかもしれないが、おおきな問題を指摘しておきたい。それは、『拉致の被害者という小事より、大きな国益のために判断した』と述べていることである。苦渋の決断を政治家として行ったと、本気で総理が思っているふしがある。これはとんでもない話である。
 人の命は、地球より重たいなどと奇麗事で、反駁しているのではない。ここにはふたつの問題点がある。ひとつは、日本の安全保障、平たく言えば防衛の基本的な政策変更が行われたのか、ということ。もうひとつは、国家が守るべきものには、国民の財産、生命とともに、国家の主権があるという事実認識について。


 昭和四十五年(一九七〇)よど号ハイジャック事件が発生した。くしくもこの犯人たちが逃げ込んだ先が北朝鮮であった。この事件で、時の日本政府は、テロや犯罪行為よりも人命を尊重するとして、革命をとなえる犯人の国外逃亡を、超法規的行為なる言葉を持って行っている。つまり、国家の安全よりも、目先の人命を尊重したのである。そのような対応が、世界の中ではきわめてまれであるとしても、その是非はいまここでは問うまい。問題なのは、あの時と比べて、今回は、拉致の小事より日本国の大事を取ったという。いったい、いつから日本は普通の国になったのであろうか?このような重大な政策の転換がいつおこなわれたのか?普通の国になることを望む人々にとっても、「よかった」ですむ問題ではない。
 もし本当に政策変更を行わなければならないほどに、国民全体への安全保障上の問題があるというのならば、その事実をすみやかに国民に開示すべきであろう。勝手に解釈してさしあげれば、テポドンの弾道ミサイル発射実験以後、かの国のミサイル配備が進んでいる事実を言いたいのであろうか?射程一三〇〇㎞のミサイル・ノドンが百基も日本を標的にして配備されている、との話も聞く。ならば、なおさらその具体的な脅威を説明し、それに対して国防上どうするのかが論じられるべきであろう。外務省に「拉致」という言葉すら使わせないできた政治家たちが、本当にこのような大事を秘密裏にでも検討してくれているのだろうか?防衛庁は具体的なミサイル配備の情報を正確に把握し、その迎撃態勢はなされているのであろうか?この問題は、今回の決断程度で済む問題ではないはずである。
 あるときは脅威はないと言い、あるときは国全体の安全を言う、自分たちの都合で国民の安全までも平気で踏みにじる。この国の危うさは、常に内にあるといっても過言ではあるまい。


 もうひとつが、国家の主権ということである。国家の主権など時代錯誤的だというのならば、自国民の安全確保の担保と言い換えてもかまわない。国内で誘拐があれば、その犯人を探して処罰する。それが法治国家である。しかし、それが外国の国家権力であるならば、仕方がないと黙認するのであれば、相手の国は、日本人を一人ずつ誘拐すればよいことになる。いかにばれようとも。気がついたとき日本人は誰もいなくなっている。国民の財産・生命を守るといいながら、これで本当に国民全体の安全を考えたといえるのか?国家の主権とは、国民全体の安全と同じ意味を持つことを自覚すべきである。

 さらには法治国家というのであるならば、いかなる相手に対してもそれを適用しなくてはならず、適用除外を設けることは、自らもまた、相手からの法による保護を放棄し、国内においても、法による統治を放棄したことになる。人命の数ではない、論理的に生存そのものを否定するような論理は、いかなることがあっても、たとえ失った命の数倍の命を失っても、守らねば成らない。それなくして全体の安全などありえないであろう。本当にこのような認識を経たうえで、今回の決断に到達したのであろうか?
 国民感情を逆なぜするから、大事云々が悪いというのではなく、この言葉を軽々に使うその裏に、大きな問題が潜んでいることを理解する必要があるのではないだろうか。


 最後に加えるならば、そもそも、これだけ多くの日本人が拉致されていながら、一件としてそれを阻止したり、認知して公にすることさえもできなかった。自衛隊も、海上保安庁も、警察も公安も、このレベルの能力で本当に国民の安全などが守れるのであろうか。外務官僚と同じような警察官僚などがいることを、なぜ誰もとりあげないのであろうか?なかでももっとも怖いのが、冒頭でも述べた軍事官僚、いまなら自衛隊官僚である。彼らが戦前の軍事官僚とは違うと誰が保証してくれるのであろうか?いくらアメリカから最新の兵器を購入して衣ばかり新しくても、中身の酒が変わらないのでは、国民のひとりとしてはため息がでるばかりである。

 今回の小泉外交によって、日本も外交があることを知っていたのだと、諸外国に知らしめたのが、せめてもの救いであろうか。

以上

平成14年(2002年)9月24日

2002年09月24日|コラム・エッセーのカテゴリー:政治・外交