日本語が理解出来ない

人生は迷路かな② 日本語が理解出来ない

 2回目にして、早くもシリーズの題名を変えようとしている。もともとは、「私の人生は迷路なり」だったのを、『人生は迷路図かな』に変えたのだが、どうもおさまりが悪いし、言葉としてもきれいではない。で、せめて「図」を外すことにした。あまり変わらんとの声が聞こえてくるが、この際無視しよう。

 この『迷路かな』の「かな」は名詞に続くと疑問を表すのだが、どちらかと言えば、感動・詠嘆を表す助詞とみたほうが、受け取る意味としての収まりは良い。このように、簡単に文法で割り切れないところに日本語のおもしろさがあると思う。

 日本語の話がでたところで、文学少年だった(?)思い出を一つ。
 小学生の頃、やたらとだらだら長い作文を書くのが得意だった私は、いつも原稿用紙5枚以上、多いときは10枚もの長い作文を書いていた。そして、教室の後ろに時々張り出されたもので有る。今にして思えば、中身が良かったのではなく、そのあまりに長い作文にあきれた、いや感心した先生がご褒美に張り出してくれていたのだろう。あるいは、ダメ作文の見本だったのかも。ま、長すぎて、クラスの仲間は誰も私の作文など読んではいなかったのだが。

 中身がなくても長い作文を書けたのは、親に薦められて小学生のうちに読破した、中学生向けの少年少女世界文学全集(なんと全100冊)のおかげだったのかもしれない。読むのだけは、実学年より少し上の本を読んでいたので、ぼんくらな私でも作文が書けていたようである。
 神童も二十歳過ぎるとただの人だという。神童ではなかった私は、中学くらいから凡人以下に成り下がったようである。高校のクラスでは、もっとも成績の悪い人間ばかりが集まるクラスに入れられてしまったこともあった。まあ、黙っていれば、当時の成績表にはクラスでの順位が1番(悪くても2番)と記載されているから、良しとしよう。あ、この事は内緒ですよ。


 さて、今日の話題は何が良いかな。すでに日本語を取り上げたので、そちらの話を少し。

 大学の専攻分野で理系と文系と言う区分がある。当然、理系が賢くて、文系は体育会系に続く凡庸の集まりと言うことに、世間の相場は決まっていた。今はどうなのか、よく知らない。
 論理的思考能力という意味では、この世間相場にそれほどの反論はない。だが、日本語という点ではそうもいかない。

 コンピュータのSEなんぞという職業をやっていたので、部下を持つようになった時、自然と理系の学生が多かった。それに対して一緒に仕事をする営業部門には、文系が多かった。その経験からすると、残念ながら、理系の若手は日本語の理解力、読解力が、文系よりも明らかに劣っていることが多かった。遙か昔の話である。

 コンピュータを相手に、行間を読むような仕事はあり得ない。むしろ邪魔でさえ有る。だが、人間相手ではそうもいかない。相手の言うこと、書類に書かれている日本語を正しく理解できなくては、仕事が進んでいかない。母国語がまともに操れないと、いくら英語での読み書きが出来ても、それだけでは有能な人材とは成らないようである。それは、行間を読むような作業、すなわち、相手の言わんとする意図を正確に把握できる分析力、さらには想像力につながっていくからであろう。当然、想像力は創造力の基になる。創造力欠如の平成時代は、この国語力軽視にも原因があると、密かに納得している。

 いまでは、文系でもなんでも、とにかく日本語を理解できない人間がやたらと増えてしまった。問題発言で職を追われる高給(高級か?)官僚や政治家が後を絶たないのも、その現れの一つであろう。

 かっての演歌、あるいは歌謡曲が廃れた原因のひとつに、私は日本人が日本語を理解できなくなってしまった事が、大きく関係していると思っている。急に話題を変えてしまった。ま、迷路だからいいか。

 あ、もう、書くスペースがないから、この話題はまたそのうちに。(自分のホームページで制限などないだろうに!)【自分で言って自分で突っ込むのは、典型的なおじん症候群である】

平成25年(2013年)1月26日

2013年01月26日|コラム・エッセーのカテゴリー:人生は迷路かな