続発する不規則発言の裏に見えるのは

 防衛省の局長が、不規則発言で更迭された。環境評価書の提出時期を聞かれて『犯す前にこれから犯しますというやつはいない』と発言したとか。

 これまでにも、TVカメラの前で、『ここからはオフレコだ。いいか、もっと早く来い 云々』と言ったり、記者達に『(放射能)つけちゃうぞ』などと発言して、辞任した大臣など、いわゆる不規則発言が原因の辞任や更迭が後を絶たない。
 そもそも、「不規則発言」こんな言い方、最近になってだけど。どうしてこんな言い方をしだしたのかな?以前から「問題発言」はあったのに。これも謎だが、ここでは横に置いておこう。

 オフレコと断った場での発言を公にして追求するなど、今のマスコミ、メディアの人間は自分たちが何でも出来ると勘違いしているのではないか、との指摘や、発言者をかばう論調も良く見受けられる。これらの問題も、ひとまずここでは触れない。


 では、何を問題だと思うのか。結局それは、これまで色々と取り上げてきた戦後の日本人の質の劣化に帰結してしまうのだが、二つほど取り上げてみたい。

 ひとつは、自分の立場という場、置かれた状況の場など、今現在の自分のいる『場』を正しく認識出来ない人間が多すぎると言うことである。会社勤めをしていると、飲み会などで上の偉い人間がよく「今日は無礼講だ」と発言する。それを真に受けて、酔っ払った勢いもあって、批判したり絡んだりしたならば、後でとんでもないしっぺ返しが待っている事は良くある話。

 オフレコだろうが公的な場であろうが、自分が局長や大臣などの公の立場にあり、今その立場の人間として発言しているのだという認識が、明らかに欠落している。こんな官僚や政治家に、まともな政策の立案や実行など望むべくもないことは明白である。いかに普段人が良かろうがわるかろうが、現状認識が出来ない人間を評価してはならないのだ。

 もう一点は、国語力の問題であろう。日本人のくせに日本語をまともに操れないのである。2代続いた理系の総理は、理系だから賢いと本気で思っていたようであるが、私の経験によれば、理系ではおよそまともな日本語読解力を持たない人間が数多くいる。最近では、文系まで同じなのだから始末が悪い。

 「つけちゃうぞー」などというのは、昔の子供が「エンガチョー」と言っていたのと同じ類であり、幼児語から抜け出ていないのだ。
 書類の提出時期をはぐらかす例えとして、わざわざ「犯すまえに」などという下品な言葉しか思い浮かばないその低俗な日本語力には、唯々あきれるばかりである。


 使われた言葉そのものも問題であるが、自分の立場もいまいる場も認識出来ず、まともな日本語すら話せない人間が、社会を動かす立場に多くいる。なんとも、哀れな国になってしまったもので有る。

平成23年(2011年)11月30日

2011年11月30日|コラム・エッセーのカテゴリー:政治・外交, 社会