「民主主義」は使用禁止:行き過ぎた言葉狩りは問題の隠蔽を加速する傾向を持つ

 G7では、グローバルサウスとか民主主義とか言う言葉の使用を避けようとしているという。理由は、いうまでもない、それらの言葉に反感や反発を覚える多くの国があるからだ。後進国から発展途上国に、さらにグローバルサウスと変わってきたのだが、逆にそれらの国々が経済力を持ち、国際的な発言力も増大するにつれて、「グローバルサウス」というのは、上から目線の言葉だという反発が出てきたのである。それに配慮すると言うのだ。

 それにしても、「民主主義という価値観を共有する国々」と言っていたのに、その民主主義という言葉まで使わないというのは、民主主義の価値観の限界を認めたと言うことになる。もちろん、民主主義体制には多くの問題があり、むしろ経済的な効率から言えば、他の権威主義や共産主義が勝っている部分があるのは事実である。しかしだからといって、民主主義に変わる新たなる価値観も生み出せていない現状で、そこまでやるのは、行き過ぎのような気がする。最近日本だけでなく、欧米諸国も、極端に走る傾向がより強まっているような気がして成らない。


 不快を相手に与えるであろう言葉の使用をやめることは正しいことで有り、のぞましいことである。しかし現実世界はそう単純ではない。悪いことをする奴は、法律に触れないように常に新しいやり方を考えて実行に移す。悪事と取り締まりが、いたちごっこになるのはその為である。そして、言葉の場合にはもっと複雑である。言葉の裏には文化や気質が張り付いているのだから。表面的な言葉を換えたところで、それを使う人間の意識がかわるだけでなく、その言葉が生まれた背景や問題点が解決されない限り、真の解決とは成らないからである。

 それよりも、まずは、不快さを取り除きながら、対象を明確化する新たな言葉を考える方が良いだろう。たとえば、グローバルサウスが差別的なのであれば、むしろこの言葉で言いたい各国の国力や国際的影響力などの標準的な尺度をつくって、その尺度のどこに相当する国々かと話をする方法である。むろん、これまでこの尺度なるものが、一部の欧米先進国によるかなり偏見に満ちたものであったことはいうまでもない。したがって、どうやって真に公平な尺度を作るのか、まずそこから議論しなくてはならない。こうした努力を積み重ねることによって、世界に蔓延している欧米先進国とその取り巻きと、それに対峙する国々との不毛な争いや、偏見、感情的軋轢は薄まっていくことだろう。
 そもそも、G7とかG20も経済力に偏った尺度に基づく言葉で、おかしいともいえるのだが。やり過ぎると言葉が意味を失っていく。

 東洋や日本には、和や中道など、極端に走らないでより良い道を求める考え方が昔からある。西欧の価値観から、東洋の価値観への転換期に入ったと見るべきなのかもしれない。

令和5年5月12日(金)

 

2023年05月12日|分類:政治, 社会