教師としての適性

 子供の自殺がなくならない中、指導死成る言葉まで生まれてしまった。これは教師による指導の後で生徒が自殺をしてしまう事例である。新たに言葉が生まれるほど深刻で、文科省もようやく調査に乗り出した。
 教師の過剰労働など教師の置かれた立場にたって問題提起することは良く行われている。だが、性犯罪を犯した教師が他の学校に勤めてしまうなど、教師の側の問題についてより深く追求した話はあまり聞かない。暴力教師、セクハラ教師、パワハラ教師、指導死、教え方の下手な教師など、教師側にも多くの問題がある。それは一言で言えば、教師としての適性の問題である。

 いまの教師採用試験において、教師の適性、つまり性格や指導の優劣がどこまで確認されているのだろうか。単なるペーパーテストで終わっていないだろうか。一番の問題は、子供が好きだの、教えるのが好きだの、ではなく、自分が一人の人間の一生を左右してしまうかもしれないと言う恐れと緊張感をどれだけもっているかなのだ。

 私は、教職家庭を敢えてとらなかった。自分の経験からしても、教師がどれほど生徒の人生に大きな影響を与えるか、下手をすれば人生をだめにするかもしれないのである。実際指導死などその典型例であろう。とかく集団に接するときには、一人や二人おかしいのがいると考えがちである。教師から見れば、クラス40人の中で一人かもしれないが、本人にとってはかけがえのない自分なのである。そこに確率論的な話が入りこむ余地などあり得ないのだ。その恐ろしさから、決して教師になろうと考えなかったのである。実際、デモシカ教師と呼ばれていた。この言葉が今なお存在するという殊に恐ろしさを覚えてしまう。教師でもなるか、教師にしか成れない、そんな教師が採用されることが本来おかしいのである。

 どこかで、教師の真の適性を図る基準を決めないといけなくなっているのだろう。生徒に道徳を教える前に、教師に教えるべきである。

令和5年7月4日(火)

 

2023年07月04日|分類:社会