他人の迷惑を考えろと自殺者を批判する書き込みと、自殺者を産み出している社会を批判しないで、被害者たる自殺者を責めるのはおかしいという擁護の意見が有るようです。両者が対立しているのですが、何故飛び込むのか、その理由を誰もわかっていないようですし、気にしていませんね。
鉄道への飛び込みや繁華街でのビルからの飛び降り自殺については、それまでの人生において誰からも気に掛けてもらえなかったと感じている人が、せめて自らの最後、死んだことぐらいは知って欲しいと思う気持ちが、無意識であっても、心の奥底にあるような気がするのです。
誰にも話せず、誰からも理解されず、自分の存在そのものが社会から忘れられ、見捨てられたように感じる人達がいます。その人達が自殺に走るとき、せめて最後に自分が死んだことぐらい多くの人に知って欲しいと願う事があっても、おかしくないように思うのです。
というのも、個人的には自殺するなら、誰にも見つからず、ひっそりと死んでいきたいと考えていたからです。実際、自宅で人知れず自殺する人も多いですよね。
遙か昔、心理学をまなびながら、常に自殺の事を研究したいと考えていました。当時の心理学コースの学生には、自殺未遂や自殺願望者の割合が、正常な他の集団や分裂病(統合失調症)の患者集団よりも、明らかに有意にその比率が大きかったことを今でも覚えています。今なお自殺大国と言える日本で、自殺をする人の研究はどこまで進んでいるのだろうか?あまり見えてこないのですが。
もうひとつは、非常に難しい問題なのですが、自殺の方法によっては、いかに醜い姿をさらすことになるのか、その感覚が自殺者に希薄すぎるのではないだろうか、と思えるのです。もし飛び込んだら、バラバラの肉体が、ホウキとちりとりでバケツにかき集められ処理される。そんな姿を想像出来ているでしょうか。
日本では絶対に事件・事故の被害者の姿をブルーシートで隠して見せません。その気づかいは良くわかるのですが、逆の効果もあるのではとおもえるのです。例えば暴力事件などでも、犯罪の悲惨さを犯罪予備軍の人間に知らしめることが出来ないのは確かではないでしょうか。むろん、それだけで犯罪が予防されるとは思いませんが、少しでも心のブレーキが聞くのではと思うのです。
自殺に話を戻せば、もしあまりに惨めな死に様ならば、少なくともその方法だけは思いとどまるかもしれません。結果、鉄道への飛び込みだけはすこしでも減少するかもしれません。ですが、その大変に悲惨な現場を公開しろとは、さすがに言えません。自殺志願者に、VRなどで見せる場を作ることも重要なのかもしれないと考えます。むろん、自殺そのものを思いとどまらせる事が最重要なのですが、すでにある敷居を越えた人間には、別の対応も必要になると思えるのです。
なお、自殺ではなく自死というべきとの意見があり、それが広がってきているように感じますが、個人的には絶対に賛成しかねるのです。その理由はすでに述べてきましたので、再度繰り返しません。ただ、不快に感じる方がいれば、あらためてお詫び申し上げます。
令和6年9月21日(土)