デジタル教科書問題への疑問

デジタル教科書問題への疑問

 デジタル教科書の使用時間を制限していた基準の撤廃を文科省が決定した。なかなかわかりづらい話題である。これまでの紙の教科書をデジタルに置き換えて使うのだが、これまでは授業時間でそのデジタル教科書を使う時間に制限(授業時間の1/2未満)を設けていた。それをやめて、すべての授業時間でデジタル教科書を使えるようにするということのようである。

 これに対して、父兄や教育関係者から不安の声が上がっているという。その大きな理由が、一つは児童の目の健康問題で、もう一つが家庭での学習問題だという。健康問題は誰も異論が無いと思う。ここでは、この批判の中で、個人的に事実関係がよくわからないことを取り上げてみたい。

 家庭での学習問題とは、金銭的負担の問題と通信環境整備の問題だという。通信環境の整備にも通信費にもお金がかかり、家庭によって教育環境に差が生じてしまうと言うのが言い分なのだが。これが個人的には全く意味というか、現状がわからないのである。タブレットなどの端末のなかにデジタルデータとしてすべての教科書が入っていないのだろうか?なぜ、わざわざネットに接続しないと、デジタル教科書が使えないのだろうか?この根本がわからない。

 もし、デジタル教科書なるものがいわゆるサーバー側(クラウドと言っても同じ事)に置かれていて、いちいちアクセスしないと見れないのだとしたら、あり得ないことである。システムが腐っている。もちろん、デジタル化の利便性のひとつは、様々な関連情報を気軽にみれることにある。したがって、教科書内から関係するより詳しい参考書などにアクセスするには、ネット(通信)が必要な場合も出てくるかもしれない。だが、それは、紙の教科書のデジタルデータ化そのものとは関係がない話である。タブレット内にすべての教科書を入れておけば、通信など使う必要は無いのだから。


 いつも思うのだが、今の日本社会においては、賛成反対どちらも極端に走り、真に望ましい姿の追求がなされていない。

 反対派の言うように、なぜ制限撤廃にこだわるのかよくわからない。官僚・政治家・既得権者の三位一体が、裏でうごめいているとしか思えない。新しい環境を準備するには必ず何らかの製品やサービスが必要になり、そこでもうける業者がたくさん出てくる。
 一方で、デジタル化の推進に反対する教師なども、結局は既得権者の自己保身にしか聞こえない。本当に児童にとって望ましい教育環境のあり方、デジタル化のもたらす害悪(健康、費用等)の最小化をなぜ考えないのだろうか。

 教科書そのもののあり方も、考え直す時期に来ている。大きな教育改革の中でそれは行われるべきなので、烈風飛檄(日本改革私案)の教育・食育改革で述べることしよう。


令和2年12月23日(水)

 

2020年12月23日|ブログのカテゴリー:shakai