18才19才を特別扱いすべきではない

18才19才を特別扱いすべきではない

 少年法の改正内容がようやく決まったようである。18ー19才を少年として扱い、特別な保護を与えるというもの。この年代だけ特別扱いするということには、日本社会の抱える根源的な問題が潜んでいるように思える。

 私の立場は、成人として扱うのならそこで歪んだ特別扱いをするなと言うことである。若者に更生の機会を与えるためとか、わかったようなわからない理屈で自己満足している人間のなんと多いことか。日本人の劣化の一つの証である。


 戦後の憲法と社会におけるありかたで、根本的に誤りだと思う野は、権利と義務の分離である。やれ人権だ、やれ個人の権利だ、やれ犯罪者の人権尊重を..等々、ひたすら権利ばかりが声高に主張されてきた。しかし、人間が形作る社会において、その社会がまともに機能するには、人々に権利と共に義務がなくてはならない。権利と義務は表裏一体であり、別々に扱うことの出来ないものでもある。そのことを忘れて、ひたすら権利だけを主張する。それが、ギスギスした人間関係、悪事を悪いと思わない風潮、自分勝手な行動、他人に対する思いやりの欠如など、様々な問題を生んでしまった。

 選挙権という、国の行く末を決定する権限を与えられたものが、善悪の判断はつかなくてもかまわないという考え方が、空恐ろしい。まるで政治家達が馬鹿な国民を増やそうとしているように思えてしまう。
 憲法改正時には、権利は義務との調和において社会に存在することを明記すべきである。


 この年齢はまだ完全な大人になれないのだから、考慮すべきだという考え方それ自体が、差別である。日本人にはやたらと年齢を気にする国民性がある。初対面でも必ず相手の年齢を気にしてします。これは目上の人への礼儀を守りたいという、礼儀上の要請に過ぎなかったはずなのだが、いつのまにか、個人ではなく年齢で何でも分類しようとする歪んだ社会になってしまった。将棋界のプロ棋士を見てもわかるように、年齢によって人間を判断すること自体が、時に大きな過ちを犯させるのである。十羽一絡げのくくりではなく、個人のありように応じた対応がなされるのが、正しい道であろう。

 犯罪を犯したものが、精神年齢があまりに幼いのであれば、個々の裁判において情状が酌量されれば良いのである。いま、この裁判そのものがこの個別対応の原則を放棄していることこそ問題なのである。


 成人になってもおとなになれないのは、子供達への社会における教育に大きな問題があるのだろう。その論議は全くなされていない。これでは、特定の利権がらみでこんな歪んだことをやっているのだろうと、とられても致し方ないのではないだろうか。ちなみに、日本改革私案のなかで、「成人になる教育-123」の必要性と具体案を述べている。
 犯罪者の更生のまえに、犯罪者を生まない努力について考えるべきである。


 これはかなり物言いを慎重にする必要があるのだが、すべての人間を性善説に基づいて考えるのは、特に犯罪者相手ではあやまりである。これは犯罪心理学や性格心理学などを少しかじればわかることなのだが、それこそ人間性の本質とはという哲学や道徳・倫理の問題にまで及ぶために、なかなか取り上げることさえも難しい。性善説という一方的な価値観で、個人を見ることは過ちを犯すことにもつながると知っておくべきだろう。(日本改革私案「新しい社会の考え方:性善説と性悪説」



 これらの本質的な議論をせずに、いかにも正義や人権尊重を持ち出して、議論さえも封殺しようとする一部の勢力には、むしろ恐ろしさを感じてしまうのは、私だけなのであろうか。

令和3年2月21日(日)

2021年02月21日|分類:オン草紙, 社会