神ノ道

神ながらの道

オン草紙
第一部 第1章
第1章 神ながらの道とは

  一神教の神の誕生


 宗教史的には、多神教から土着の神などの地域性が失われ、より大きな力を持つ絶対神である一神教が生まれてきたとされます。唯一絶対の力を持つ、万物の創造主としての神の誕生です。このあたりの経緯などは、数多くの書籍もありここで改めて取り上げることも無いでしょう。

 ただ一つ言えることは、風土に根ざした神々の失脚は、人間社会の国家の枠組みへの権力集中と無縁では無いだろうと言うことです。そのことが、その後の宗教同士の争いにも大きく影響を与えていきます。

 自然崇拝では無く「宗教」と呼ばれるためには、教義や教祖などがきちんとそろわねばならないとされています。それは裏を返せば、知性によって作られたさまざまな事柄で、人々を宗教という枠に縛る事でもあります。それはやがて、国家の統治者であれ宗教家であれ一部の権力者にとって都合の良いものになっていきます。この事実を忘れるべきではないでしょう。宗教戦争の名を借りた武力による権力抗争はいまも尚世界中で続いています。それもテロという最悪の形で。



 宗教と呼ばれるものは、人間の進化に伴い知性が生み出したものだと考えられます。だからこそ、同じ知性が生みだした科学(科学技術)と後に対立するようにもなったのでしょうし、「神は死んだ」と人をして言わせしめたのです。

 上図は、そのような宗教にまつわる歴史を大まかにとらえたものです。細かいところの正確さではなく、大きな流れをとらえていただきたいのです。そして、いま世界は、知性による宗教を信じている多くの人々と、無宗教、無信心として神を信じない人々、さらには科学を信奉するあまりに科学教という名の宗教を信仰してしまった人々に分かれます。この分類に属さない人々のいわば代表が、我々日本人です。


  宗教が衝突する理由


 世界における主な宗教といえば、世界三大宗教とされるイスラム教、キリスト教、仏教があり、他にもユダヤ教、東方正教、ヒンズー教、神道などがあります。その歴史は宗教戦争という神の道からは外れたものが長く続いてきました。そしていまもなお、文明の衝突の名の下に宗教観、宗派間の争いが絶えません。本来、人々の心を安定させ平和を願うものである宗教が、なぜかくも醜い争いを繰り広げるのでしょうか?そこには、権力者達による宗教の利用というだけでは済まないものがあります。

  文化と文明


 少し脇道にそれるかも知れませんが、本稿における文化と文明の解釈を述べて起きたいと思います。



 文化に文明が属するのか、文明に文化が含まれるのか、そもそも異なるものなのか、さまざまな意見はあろうかと思います。ここでは、「文化」という大きな枠組みの中に表層文化としての「文明」があると考えます。文明は滅ぶとか新しい文明によってとかいわれますが、文化はそのように言われません。また文明とは、人類が知性によって構築したさまざまな技術や社会制度などを指すと言うことには、大方の共通認識があります。それに対して文化はその文化集団に特有のもので、深くその集団の精神基盤にまで達しています。

  文化と文明の方向性の違い


 同じ大きな枠組みに入りながら、文化と文明はその志向する方向性が異なります。



 文明はより普遍的な拡大を求めていわば侵略的に外へ向かいます。それに対して文化は逆に、そり独自化、土着化を進めてさらに細分化していきます。つまり両者は全く異なる方向性を志向するのです。この違いが、さまざまな衝突や摩擦などを生み出す原因の一つとも成っています。

  宗教対立の宿命


 文化と文明の関係の特徴として、その相反する方向性がわかれば、なぜ宗教が対立するのかも容易に理解可能です。

 では、宗教は文化なのでしょうか、それとも文明なのでしょうか。信仰心は、個人の精神基盤に立脚するものですから当然文化の色彩が濃いものです。しかし、感性の宗教においては寄り深く文化に根ざしていても、やがて教義やら教祖やらさまざまな知的解釈などが持ち込まれ、知性による宗教となったときには、文明に属する部分がより大きくなってしまいます。



 こうして文化と文明が矛盾を内包するように、宗教もまた矛盾を抱え込むのです。世界的な宗教になればなるほど、表層文化(文明)の占める部分が大きい頭でっかちなものになります。一方でそれぞれの文化の深層部に深く根を下ろす信仰心は、文化の持つ細分志向から逃れられなくなります。かくして、他の文明である他宗教と衝突しながら、さらに内部では分裂していく。それがまたそれぞれ大きくなって衝突を繰り返す。このようにとらえれば、世界的な宗教が衝突したり宗派間で激しくいがみ合う理由が、簡単に説明できます。

参考資料
文化と文明 「第2章 文化の発生と変容 −宗教対立の宿命」

  対立の克服は


 この宗教と同じような二つの異なる性質を持つものとしては、他に言語などがあります。このばあい、文明(表層文化)の違いを理解して対応することは、難しいことではありますが知的認識の助けを借りて行うことが可能なものです。しかしながら心的プロセスのパターンまで異なる深層文化の領域での差異を認め合うことは、非常に困難をともないます。肌合いとか、心持とかの感情や感性による差異の確認が、知的な認識の前になされてしまうからです。深層文化の領域の文化的差異は、通常その差異を感得しあうことで、お互いに触れることを避けるのが常で、それは内向きの力の方向性とも合致しています。

 しかし宗教の場合、そこに大きな文明(表層文化)が付随しているために、その集団内にとどまることなく拡大を要求します。他の集団が、ひとたびその拡散的傾向と対峙するとき、自らの帰属する深層文化、それはすなわち自己の存在そのものの意識に他ならないのですが、が侵略される不安と動揺を覚えます。それが、ますますお互いの差異をきわだたせ、感情的な反応を惹起していきます。

 このようにして文明の対立のもっとも尖鋭的な宗教文明の対立が、国家の枠組みや、経済的な充足性の不平等感に後押しされて、最悪の状態を生むことにつながるのです。そのとき、くくりへの撞着の動的再編は極端に機能不全となります。世界的な宗教とされるものは、その存在自身が、宗教対立を生み出す宿命を抱えていると言えます。そして、さらに科学という新しい宗教との対立まで加わり、世界の混沌は続いているのです。

参考資料
日本人の気質 「第4章「くくり」と「撞着」 くくりの動的再編・動的移行」