神ノ道

神ながらの道

オン草紙
第一部 第3章
第3章 日本の神ながらの道
第3章 日本の神ながらの道
 さて、いよいよ本題の「神ノ道」の中身の話になります。神ながらの道とは、カミであるがままに、カミそのものの道、つまり人の心や行為・行動のすべてが「神本来の道」にかなうものであると述べました。神ノ道とは、神に対する信仰心の在り方とも言えるでしょう。神を心で感じ、その理に沿って正しい道を歩む、それが神ノ道の信仰でしょう。

 世界宗教と呼ばれる三大宗教(仏教、キリスト教、イスラム教)などには、教祖などが存在し戒律や教義などがあります。教えとされるさまざまな思想や考え方、行動規範などが、それぞれに語られています。神ノ道は、そのような人間の知性によって語られる知性宗教とは、一線を画すものです。なぜなら、言葉にする事が困難な感性によって成立しているからです。したがって、これから述べる内容も、かなり個人的な物であって、賛同いただけないものもあるかも知れません。それでも文化集団としての日本人の感性が、その遺伝子の奥深くにおいて共通の物がある限り、肯定していただける部分もあるのでは無いかと考えています。

 繰り返しになりますが、知性宗教としての神道には神ノ道の事柄が多く含まれているという事であり、神道を神ノ道と同一視しているわけではありません。しかし、一方で通じるものの多い神道を、日本の民俗宗教と呼ぶのは間違いであると強調して、中世以前の神道は別の呼び方をするような極端な論にもくみすることは出来ません。

 神とは何か



 神ながらの道の、「神」についてはこれまで触れて来ませんでした。信仰心の基になる漠然とした「神」という存在、その存在に対するとらえ方の違いもまた神ノ道独特のものなのかも知れません。

 言葉の意味



 神とは何か、多くの専門家がこの課題に挑戦してきましたし、いまもなお続けられています。しかし本稿の趣旨に沿えば、感性による神ノ道と、知性によって作られた宗教としての神道や他の宗教とを、同じ尺度や同じ前提において論じる限り、反論や異論が次々と出てきて、話が収斂することは無いのでしょう。その事はさておき、少しだけ研究の成果を参考にさせていただきながら話を進めていきます。ただ宗教学でも日本の古代語の研究でも、欧米の研究を土台にして構築された理論も多く、学会の常識的な説でも素直にうなずけない部分があります。特に日本語の古代言語でありながら、西欧の宗教民族学に引きづられる説には、首をかしげる部分があります。それらを踏まえた上で話を進めることにしましょう。



 漢字の「神」と「カミ」



 漢字の「神」の語義に関しては、それなりの研究が行われており、祭祀及び祭祀の対象たる神霊の類を指すとされています。祭祀は神とは切っても切れない関係なのでしょう。しかし、その大元であるカミについては、本来がどのような意味であったのか、その語源ははっきりとわかっていません。正直にいえば、お手上げなのです。
 それでも、古代語の研究に依れば、「カミ」に類似した古代*における霊的存在を示す言葉としては、「タマ」「モノ」「オニ」などの言葉があるそうです。「タマ」は霊魂を指す言葉で、あらゆる「モノ」に「タマ」は内在すると考えられていました。このあらゆる「モノ」とは人や動物はもちろん、植物・鉱物からさらには土地や言葉にまで及びます。そして、「モノ」とは、タマを持つ霊的存在を名指しすることを憚(はばか)って、物体全体である「モノ」と呼んだそうです。

(*)ここで言う古代とは、縄文にまで遡る時代では無く、文献に見ることが出来る時代の少し前頃という事です。専門分野によって意味するところが異なることに注意が必要です。ただし、古語の研究が進めば、これらの言葉も縄文語として明確に認められるかも知れません。


 もう一度簡単に説明してみます。この世のあらゆるモノ、動植物などの生命体も、自然を形作る山や川、石などの鉱物から、水、空気、風、火などあらゆるモノ、さらには人が発する言葉にまで、何らかの霊的な存在がついていると考えます。その霊的な存在を、「タマ」と呼びます。霊魂と呼ばれるモノの元でしょう。そのタマと同じ仲間の言葉として、カミやオニがあります。
 ではなぜ、カミとタマに分かれたのか、現在ではほとんどその理由を確認することは出来ません。あまりにも、その後の長い期間における知性によるさまざまな修飾や解釈が加えられすぎてしまったからです。現在の私たちには、生命体が持つタマと、超越的なタマであるカミというとらえ方が染みついてしまいました。霊魂を持つ人間が死んで、その魂がさらに高みにのぼると神となる考え方に、カミとタマの関係性の名残が見られるのかも知れません。

 さらに、言葉というモノにもタマが宿るというのが、言霊であることは言うまでも無いでしょう。またそのように言葉には強い霊力があるので、他の人を指し示す名前を直接呼ぶことを避けたという事です。名前を呼ぶということは、その言霊で相手を動かすことになるからです。前述の、名前を呼ぶことを憚ってモノと呼んだとはそういう意味です。天皇家に姓が無い、会社で役職名で呼ぶなどというのも、皆このあたりと関係があるのかも知れません。こうしてみると、先祖の感性は、いまも私たちにつながっているようです。

 一方、古代語研究には、モノとカミの同質性というか、重なる部分がある事を強調する説もあります。下世話に言えば、カミには良いカミと悪いカミがいて、祟りを成すような悪いカミは、カミでは無くモノだというのです。オニとは、この悪いカミを指す言葉です。これ以上踏み込むと、言語の迷路に迷い込みますのでやめておきますが、日本人の祖先は、さまざまなモノ(カミやオニを含めて)にさまざまな思いを持っていたのであろう事は、良く理解出来ます。やまとことばよりも古い縄文語では、モノに宿るさまざまな異なるタマを認識することが出来ていたのかも知れません。日本人の繊細さの大元は、このモノの微妙な違いを感じ取れる感性にあるのかも知れません。これが多神教と呼ばれる世界にもつながっていきます。

 さらに古代の霊的存在に関わる言葉として、根本的な霊格観念として「タマ」「カミ」の他に「チ」を加える研究者もいます。これも混乱するばかりなので、ここでは立ち入らないことにしますが、チは神秘的な力能、タマは霊魂、カミはその発展系というとらえ方は、これまでの説明と大きく矛盾する物ではありません。

参考資料
HP モノ学の構築-もののあはれから貫流する日本文明のモノ的創造力と感覚価値を検証する 鎌田東二他 2009