神ノ道の神(カミ)
神ノ道の神の本質とは何なのでしょうか?それは言葉では言い表せない存在です。存在と言いましたが、存在するかどうかも理解は出来ないのです。ただ私たちは、その存在を感じ取ることが出来ます。これこそが、すべての宗教の大元にある、いや無くては成らないはずの信仰の本質です。
理屈や解釈では無く、むしろそのようなこざかしい人間の知恵を越えた存在が神なのでしょう。本居宣長の神の定義はすでに触れましたが、あらためてもう一度詳しく見てみます。
本居宣長の「神」
正直に言えば、本居宣長の名前を出すだけで拒否反応を示す人は、未だに研究者にもおられるようです。確かにいわば愛国心の塊のような彼の思想は、過激すぎてついて行けない部分も多々あります。後の国家神道などにもその考え方を曲げて利用された部分があります。それでもなお、彼の神という存在に対しての考え方に、多くの日本人が賛同出来るのは、同じ日本人として共通の感性に基づくからなのでしょう。ここで取り上げるのも、彼と私の考え方に同じ部分がいくつもあるからです。ひとつは神という存在、そしてもう一つは「神」も「道」も理屈や言葉で解釈するものでは無く、感じ取るものなのだという点、さらには日本文化史における問題としての外来文明(中華文明)の過剰受容があります。
彼は、古事記伝において神とは何かを述べています。なお、彼も神の語義は不明であるといっていますので、ここは神なるものの持つ性格、特徴とでも言うべきものです。
『さて凡(すべ)て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋(よの)常ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云ふなり。
すぐれたるとは、尊きこと、善きこと、功(いさお)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪(あし)きもの、奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば神と云なり。』
簡単に意訳するならばこんな感じでしょうか。
「すべての神々(迦微)とは、古典(神話等)などに出てくる神々をはじめとして、神社に祭られている神(霊)、さらには人間から自然界のあらゆるもので、秀でた徳があり可畏(かしこ)きものを言う。ここで秀でた徳とは、貴い、善などの優れたものだけでは無く、悪や怪しいものなど、この世の尋常ならざるものすべて含まれる。」
ということで、要するにこの世におけるすべてのもので、貴賤や強弱、善悪などに関わりなく、特別な力を持つものが神なのだというわけです。神道家だけでなく、多くの日本人の共感を呼ぶこの神の定義ですが、ここから何を学び取れば良いのでしょうか。
まず第一は、言うまでも無く唯一神とはかけ離れて見える、多数の神々の存在です。そしてもう一つが、それらの神々が後の宗教で提示されるような優れて正しい神の姿では無いと言うことです。乱暴に言ってしまえば、強い力(エネルギー)を持つものであれば、なんであれ、それは神に属すると言う事です。
こうしてみると先に見た古語の解釈と重なるものがあります。この世のあらゆるモノにはタマがあり、カミもオニも同じモノという考え方に通じます。あらゆる所に神あるいは神に類する霊的存在があるという考え方は、日本人の感性に受け入れられやすい考え方です。もうひとつが、その多くの霊的存在の中で特に強い力(エネルギー)を持つ存在を善悪などにかかわらず、神として認識するというとらえかたです。
これらの基本的な考え方がなければ、菅原道真に代表されるような、死んだ人間で祟りを成すものを神として祭ることは、いかに仏教の思想があろうとも存在し得なかったでしょう。祟りを成すほど強いエネルギーを持つ霊魂は、神となる資格があるのです。そして、その荒ぶる魂を祭ることで、良い方向に働いてくれる善神となるのです。ですから、祭ることを怠れば、たちまち祟り神に戻ることも珍しくはないのです。
可畏(かしこ)きものとは、畏怖の感情を表すのが原義ですが、おそれおおいということであり、日本の神の特徴でもあります。現在の神への畏敬の念(おそれおおいながらもうやまう気持ち)が、古代においては、むしろ畏れの方が大きかったのかもしれません。
なお彼の神の定義には、モノに宿る神霊では無く、物(モノ)そのものが神となるとする考え方があると指摘する研究者もいます。
ちはやぶる神
万葉などの和歌では、神の枕詞として「ちはやぶる」が使われています。『「ち(霊・風・血・乳・道)」と呼ばれるエネルギー(霊威)が、勢いよく(はや)、激しく振動しうごめく(ぶる)さまを言う。つまり神道においては、何事につけ、畏く、凄まじい威力を発揮するものはみな「神」としての特性を持っている』(唐澤太輔)のです。
ここでも、神は特別に強いエネルギーを持つことが強調されているわけです。
HP
今、神道を見直す 唐澤太輔 2014
神ノ道の神の誕生
何の文献も残っていない縄文時代からの先祖の精神史をたどることは、きわめて困難です。ましてや、心の奥底の無意識に近い部分で働く感性によって生み出された信仰心ならば、なおさらです。
それでも、これまでの話を踏まえて、神ノ道の神の本質や性格付けに迫ってみたいと思います。
日本人は感情的な民族だと、欧米人からは良く言われます。その是非はひとまず置いておき、長所としての感性の豊かさや深みについて話をしましょう。
感動の原初
感動とは、「ある物事に深い感銘を受けて強く心を動かされること」です。ですが、感動と呼ぶほどでは無くても、日常のふとした場面や出来事に心が振り向かされることは良くあります。そのようなちょっとした心への働きかけが強くなると、やがて感動になるのでは無いでしょうか。
日本人の繊細な感覚は、自然環境から授けられた部分が大きいことは、言うまでもありません。日常のさりげない多くの場面や事柄などに、心動かされる日本人は、欧米人からは奇異に見られることすらあります。人類全体の中で本当に奇異なのかどうかはわかりませんが、日本が自然の豊かさに恵まれていた事は確かでしょう。その恵まれた環境の中で縄文人たる祖先は、1万年以上も平穏に過ごしてきたのですから、気質や遺伝子がそれに沿うものになったのも当然の話です。
私たち日本人はさまざまなモノに感動します。ちょっとした小さな心の動きから、喜怒哀楽に結びつくような強いモノまで、さまざまな感動の種類があります。その具体例をいくつか見ていきましょう。感動とも呼べないような小さな心の動き、それがすべてのはじまりです。
路傍に咲く小さな名も無き花に目をとめる、頬をなでる風にたちどまる、見上げた空に浮かぶ雲をぼんやりと見つめる、仕事に熱中していたのに風鈴の音にふと気が付く、ほんの些細な出来事や場面、事柄に、ちょっとだけ心を寄せてしまう、それは日本人にとってはとても日常的な物です。大げさに感動などと呼べる物では無いでしょう。でも、心が小さく、小さく揺らぐのです。
感動から霊的存在の意識へ
心の揺らぎの中には、もう少し大きな場合もあります。豪快な滝を見て、心奪われることがあります。山の端に沈む夕日も、海からのぼるご来光も、皆私たちの心を奪います。止めどなく流れゆく川の流れに、何か霊的な存在を感じます。霊的存在という言葉が気に入らなければ、超越的な何かでも、言葉にさしたる意味はありません。そこで私たちが感受するモノ、感受するコトが大事なのです。
やがてその霊的存在の意識は、より強くなり、動物や人間の生死とも絡んでくるようになります。両者の関係はよくわからないまでも、ともに人間の思惑を越えた存在や自然がそこにあると、強く認識するようになります。
神の意識の誕生
さまざまな心の揺らぎをもたらすあらゆるもののなかで、特に強く感動を引き起こす何か、例えば自然がもたらすさまざまな災害時のとてつもなく大きな力に、神の存在を感じることが出来るようになります。大地が揺れる、海が吠える、山が沈む、雷が落ちる等々、計り知れない自然の力の前に、私たちはただ恐れるばかりです。ですが、怖れのなかにも、どこか触れては成らないような存在、神ノ存在を感じて、恐れながらも敬う畏敬の念を持ちます。
もちろん災害をもたらす大きな力だけでは無く、山や森や海の豊穣な恵みに感謝するとともに、その絶え間無く繰り返される営みにも、神の存在を感じるのです。
人智を越えたさまざまな存在の中で、私たちに寄り添ってくれている感覚をもたらすモノ、それもまた日本人が感じる神の感覚の一部です。
私たちを常に見守り暖かく保護してくれる存在、時に及びもつかないさまざまな事を引き起こす大きな力、そのすべてが神そのものなのだという感覚です。
もう一度まとめてみましょう。
自然や動植物の動きなどに、ほんの少し心が揺らぎます。そのなかで、大きな揺らぎをもたらすモノ、すなわち感動を与えてくれるモノがあります。その大きな力に対して、怖れと同時に何か触れてはならない貴い、敬うべき存在を感じ取ります。こうして神が生まれました。それに動物とりわけ人間の生死がからむとき、人間の死後の世界と見えざる神の世界とが、感性のどこかでつながっていきます。やがて、感性の宗教として日本人に共通の精神基盤をなすものが成立します。このように日本の神は生まれながらに、多面性と善悪などを越えた超越性とを持っているのです。
感性の宗教として成立した神ノ道は、やがて外来の思想や哲学、知性宗教の影響を受けるようになります。しかしながら、知識による裏付けをえながらも現在に至るまで、基本は感性である事に何も変わりはありませんでした。ですから、そこに存在する論理的な矛盾などは、日本人にとってさしたる意味は持たないのです。
「愛の宗教」とか「慈悲の宗教」「悟りの宗教」などと言われることがありますが、もし神ノ道を同様にたとえるのならば、「畏敬の宗教」と呼べるかも知れません。怖れながらも同時に敬うのですが、神の大きな力は畏怖の対象でもあります。いっぽうで、常に我々を見守り自然の暖かさを与えてくれるのもまた神なのですから、そこでは敬い尊ぶ気持ちが強くなるのも当然でしょう。くわえて日本人の中では、これらが矛盾したものとして衝突を起こすことは、決して無い事が重要なのです。