神ノ道

神ながらの道

オン草紙
第一部 第3章
第3章 日本の神ながらの道

 神ノ道の主要概念


 神ノ道には、他の宗教のように具体的な教義、戒律、教祖、哲学などは存在しません。それこそが、神ノ道の教えそのものなのです。そもそも人間の知識が作り出した思想や考えかたが、その存在すら確認できない神について正確に述べることなど出来るものでしょうか?感性によって生み出される信仰心を土台とする宗教が、いつの間にか教祖とか、教えとか、さまざまに修飾された知性宗教に変じてしまいました。それは、仏教における方便同様に、時には必要な物であったかも知れません。しかし、それは信仰心の本質では無いでしょう。日本において神道に代表されるような神ノ道が、そのようなさまざまな知の修飾を受けながらも、長く本質を保ち続けていられたことは奇跡に近い事かも知れません。あたかも、日本の自然環境が、いくつもの偶然という奇跡によって成立したように。

 それでも、いやそれだからこそ感性に素直に従ったいくつかの重要な概念が、私たちに共通のものとして、その精神基盤に保持され続けています。それを見ていくことにしましょう。

 無常ということ:無常性と永遠性


 これは、日本人のそして神ノ道の根幹を成す概念でしょう。すべての道は「無常に通ず」なのです。およそ、この世であれあの世であれ、あらゆる存在において無常ならざるものはありません。万物は常に動いていて、そのままで永遠なるものはありません。このことを日本人はその自然から感得したのでしょうが、それは現在科学の知識とも合致しています。  宇宙においていかなるものも常に動いており、とどまるものなど存在しないのです。もし存在するとすれば、それはたちまち消滅してしまうのです。

 そもそも宇宙における物質の存在は、不均衡によって生じたとされています。均衡のとれた世界では、すべてが消滅するか、全く動かない世界なのです。不均衡であるがゆえに、均衡を求めて物質は運動を続けます。その結果粒子の渦が出来、やがて集まって物質となり、さらに集まって星が生まれ、そこに生命も誕生したのです。不完全であるが故に存在があるのです。完全無欠であれば、物質すら存在し得ないのです。
 我々のご先祖様が、このような最新の科学知識を持っていたとは言いませんが、感性で感じ取った本質が正しい事に、驚きと誇りを感じます。

 無常という感じ取ったものに、さまざまな概念が付随して生まれていき、いつのまにかそれらはお互いに切り離せない関係を持つ考え方となったのです。


 朝のぼった太陽は夕方には沈み、空ゆく雲は形を変えながら流れ続け、花は咲きやがて枯れていく、川の流れはとどまること無く海へと流れていく。自然が私たちに教えてくれた無常性。私たちは、この無常性を悪しきもの、不快さを感じさせるものととらえているでしょうか?地震や津波や雷や数多くの災害も、ただひたすら怖れおののくだけの対象なのでしょうか?畏怖しながらもその力のすごさに惹かれる。そんな激しい力でさえも、やがては収まり静まっていく。その姿が、無常でなくて何でしょうか。

 常ならざる事は、この世の万物に共通であり、そこに生物とか、無機物などという区別は無いのです。無常である事こそが、存在そのものであり、生きている証でもあるのです。この感覚は、現代の我々にも強く受け継がれています。散りゆく花びらの舞い散る姿から、感じるものは無機質な無常観などでは無いのです。もっと豊かで、自らの存在そのものであり、自然との一体感であり、さまざまな感覚が織りなす微妙なものなのです。この複雑な感性の受容体こそが、日本人の精神基盤の根底を成すのです。

 無常の中の永遠性


 無常とともにある「繰り返し」、繰り返しの中に見いだすのが「永遠性」です。海外では、永遠性を求めて石など堅固なもので構造物を作ります。それに対して伊勢神宮の式年遷宮に代表されるように、大きな神社では、何年か毎にお社を建て替えます。そして、このお社の建て替えの「繰り返し」の中に、多くの日本人が永遠性を感じ取るのです。形あるものはいつかこわれ、なくなります。そこには永遠なるものなど存在しないのです。むしろ、古くなり形崩れ朽ち果てていく、その無常の中にこそ、私たちは永遠性を見つけるのです。止めどなく流れゆく川の流れに、無常を感じながら同時に、そこにこそ永遠なるものを見いだしているのです。

 神ノ道の根幹を成す概念のひとつが、この無常性と永遠性です。ここには明らかに理屈では矛盾した内容が含まれています。しかし、そのような浅薄な知識よりも、心の奥底で感じる鋭い感性こそが重要であり、人間にとっての真実なのです。知識など時代とともに変化します。そうで無ければ進歩は無いのですから。したがって、そのような特定の時期においてのみ真実である事など、どれほどの価値があるのでしょうか。それよりも、人間が人間である証としてのヒトの感性は、永遠なのです。それが永遠でなくなるとき、それは人が人でなくなるか、あるいは滅亡する時なのですから。

 雲は形を変え、花は咲いてやがて散り、高価な食べ物もいずれ腐り、岩も苔むし、山ですらその形を変え、発せられた言葉も消えてゆき、ヒトの心も移ろい、死なない人間などいないのです。移りゆくもの、変わりゆくもの、それがすべてのモノに宿る本質です。永遠は無常の中にのみあるのです。

 仏教の無常観


 無常観は仏教の教えであり、本来楽観的な日本人にはあわなかったが、やがて受け入れたと云うのが専門家の通説だそうです。実際、ネットで公開されている学術論文を検索してみても、無常観は、仏教の導入とともにもたらされたという説に正面から反論を加えている論文がほとんど見当たりません。弥生以来、外来の文化や文明を過剰に受容するクセがついてしまった日本人の多くは、外来のものを過大評価しがちです。たまにそれに異を唱える人物は、いわゆる民族主義とか国学的な思想の持ち主だと一方的にレッテルを貼られてしまいます。このあたりの問題は、日本人の気質で詳しく述べていますので、もう一度立ち入ることはしません。

 ちなみに仏教本来の無常観とは、人間は六道の輪廻転生の繰り返しの中にあって苦悩する、その苦の中から抜けきれない事を云うのです。ここには、人間の心の苦悩という小さな働きしかありません。


 前述の日本人が縄文時代から持ち続けていたであろう無常性について、大方の日本人は賛同してくださるものと考えています。一方で、本来の仏教の無常観は日本人が抱く無常性とは異なります。仏教の無常とは敢えていえば、良くないもの、好ましくないものですが、日本人の無常観はもっと繊細で複雑なものです。好ましくないままの思想を受け入れたのでは無く、むしろ、感性の無常に一部知識の鎧を着せたのです。表面はさておき、根本は変わっていないという事実を、無視しては成らないでしょう。日本の仏教の各祖において、仏教本来の無常観をとなえた宗祖など、いるのでしょうか?彼らは皆、日本的な考え方や古神道の思想を受け入れた独自の教えを見いだしたのではありませんか。


 平安文学には、日本人本来の楽観主義と仏教の無常観とが同居している状態にあるといわれます。果たしてそうでしょうか?徒然草を代表とする無常の文学においても、仏教の無常観だけに染まってなどいないことは、よく読めばすぐに理解出来ます。いや、変に深読みせずに、同じ日本人としてそのまま素直に受け入れれば、奥の深い複雑な感情の綾から成る無常が伝わってくるでしょう。無常性が生み出す感覚は、それほど単純で理解可能なものでは無いのです。


 神ノ道そしてそれは日本人の精神構造の基盤でもありますが、そこでの「無常性」の持つ意味は、計り知れないほど大きなものがあります。間違いなく「無常性」は、良くも悪くも日本人の気質を形成した感覚のひとつでしょう。