とらわれない、こだわらない、執着しない
これまで「あるがままに」という事を、ひたすら肯定的に述べてきました。すでに違和感を覚えられた方もおられるでしょう。そこで、神ノ道においてもう一つの根本的な概念を持ち出すことにしましょう。それが、物事に執着しない、こだわらない、とらわれないという事です。
これもなかなかに手強い概念です。すぐに水に流す、忘れやすい、熱しやすく冷めやすい、などと言われる日本人の特徴ですが、これらをよく見ると、その奥に共通のものが見えてきます。それが物事や事柄にこだわらない、いつまでも執着しないという気質です。
くくりへの撞着(どうちゃく)
日本人の気質で、日本人の多くを占めるのが集団農耕型気質であり、その大きな問題点が「くくりへの撞着」とだと述べました。「撞着」とはここでは「執着」と置き換えていただいても構いません。
くくりへの撞着とは、例えば所属する組織や会社などのくくりに、極端に依存したり、執着したりすることです。その結果、本来の正しい事柄も見えなくなるばかりか、そのくくりの維持のために不正をする事も、あるいはより大きなくくりの利益を損なうことも起こすようになります。会社を守るために不正をして隠蔽したり、学校や教育委員会がいじめの自殺を隠蔽したり嘘をつく、官僚が国益より省益を優先させる、こういう問題はみなくくりへの撞着がなせることなのです。
くくりへの撞着は、執着しない、こだわらないという神ノ道とは正反対のものです。それがなぜ多数派に多いのでしょうか。日本人の気質の基盤をなす気質は、多数派の集団農耕型気質ではなく、少数派の孤高武士型気質です。この気質の人達においては、何ものにもこだわらない、くくりに撞着しない生き方を実践できているのです。武士の潔さなど、理想的人物としてのサムライ像とは、孤高武士型気質を強くもち、行動でもそれを実践できる人です。その精神性の基盤には、物事にこだわらない、執着しない特性があるのです。だからこそ、明治維新をはじめとする大きな改革を恐れること無く実行できるのです。創造(無常性から生まれたものですが後述)のための破壊が出来るのも、物事に執着しない強さがあるからです。
HP
日本人の気質 第4章 「くくり」と「撞着」
神はなぜこだわることを嫌うのか
執着は、神が最も嫌うことです。なぜなら執着とは、よどみであり、そこにとどまることです。それは無常の理から外れるものになります。無常性や永遠性を邪魔することは、神のあるがままの姿に逆らうことでもあります。
大きな事故や自然の災害からも、日本人は不屈の魂でたちあがり、また歩みを続けていきます。それが出来るのも、起きてしまったことにいつまでもこだわらないからです。人の死も哀しむべき出来事です、でも死を逃れる人などいないのです。遅かれ早かれ、死は万人に平等に訪れます。ならば、いつまでもその死に執着することは、良くないことでしょう。ひとしきり哀しんで涙した後は、死んだ人のあの世での幸(冥福)を祈りながら、その人の記憶を心の奥の金庫にしまい、また変わらぬ日常に戻る。それが出来るのも、いたずらに執着をしないからです。
知識や科学技術においても同じ事が言えます。もし、過去や現状の知識・技術にこだわり続けていたならば、それ以上の進歩はあり得ないでしょう。そこで止まってしまうのですから。現在までの常識という枠にとらわれない、執着しない心が、新しい知識や技術を生み出していくのです。「無常性」が人間の心に入り込んだとき、それが「こだわらないという姿」を持つのかも知れません。
物にも物事にも、ありとあらゆる事や物にこだわらない。それもまた日本人にとってのひとつの理想なのです。戦後の日本人は、あまりにもさまざまな原理主義的思考に毒されているように思います。いかなる事柄についても、一方的なあるいは偏った主義主張だけを盲信することは、執着であり、あるがままを受け入れた姿ではありません。中途半端な知性が、このような本来の神ノ道を踏み外させるのです。もっと素直な感性を持った自分に立ち戻るべきなのです。
もちろん人間の社会においてはこだわることが、進歩や発展の原動力とも成っています。その事を低く評価するモノではありません。しかし、いかなるこだわりも、無常の前にははかない命でしか無いのです。その真実を知った上で、さまざまな事柄にこだわることができるからこそ、正しいこだわりとなり得るのです。