神ノ道

神ながらの道

オン草紙
第一部 第4章
第4章 神を巡るさまざまな言葉や考え方
第4章 神を巡るさまざまな言葉や考え方
 神の本質を踏まえながら、神を巡るさまざまな思考や事柄について、補足的に見ていくことにします。宗教全体はもちろん、神道の概念だけでも実にたくさんあるので、そのすべてを網羅することは出来ません。また必要も無いでしょう。なぜならすでに何度も述べてきたように、知性宗教の教義や考え方は、人間の知性の産物に過ぎないとみるのが、神ノ道(かみながらのみち)だからです。

 神は存在するのか



 キリスト教の絶対神であれ、仏教の仏陀(悟った人)であれ、各宗教ではその存在は自明のこととして話されます。神を宇宙の創造も含めた絶対的な力を持つと考えるのであれば、神は「存在する」ことも「存在しない」事も出来るのでしょう。
 現代科学では、存在しないことを証明することはほとんど不可能であるとされています。したがって現代科学は、神の存在を認めなくても、神が存在しない事もまた語らないのです。なおハイデガーのように哲学的な「存在」論は、ここでは混乱を招くだけでしょう。

 想像を超えるモノの存在



 科学の進歩は、私たちに様々な知識を授けてくれました。しかし同時に、人間には想像することが出来ないモノがある事もまた教えてくれたのです。
 宗教や哲学では、「無」という概念が遙か昔から議論の的でした。「無」は、人間の想像を超えるモノのひとつなのでしょう。「なにもない」といっても、我々が想像できるのは、何も無い空間までです。そこから時間やら空間そのものを消せと言われても、とても出来ません。ま、中には想像できる方がおられるのかも知れませんが。同じように、宇宙には果てがあるとされます。果てとは、境に他なりません。境ならば、その先があるはずです。それを想像するのは不可能です。多次元宇宙だと言われますが、我々の存在する4次元の世界から別の次元に移動した事を、想像することは出来ません。いま、話題の暗黒物質やブラックホールも似たようなモノでしょう。理論による概念を組み立てることは可能でも、想像することはなかなか出来ません。こうなると、存在とはなにかと言うことにも成ってしまいます。

 こうして考えて見ると、あらゆる存在するモノにはタマがあり、その優れたるモノをカミとみる感性が、進歩していない遅れた知性だとはとうてい思えません。すべての科学技術の進歩も、まさにここ「わからない事、知りえないこと」から始まっているのですから。
 神ノ道で言えば、私たちが「神」を感得する、感じる限り、神はそこに存在するのです。例えそれがどのような形であれ。そして、我々は常に神とともに存在するのです。その感覚は、本稿での神ノ道だけでは無く、古神道の神ながらの道でも言われていることなのです。この感覚は日本人の感性を持つ人々には、ごく普通のものです。

 存在を感じることが出来ない『神』



 神話では、はじめに登場した天之御中主神などは皆その存在を見ることが出来ない隠れた神と記述されています。これが日本人の持つ唯一絶対神の存在の姿なのかも知れません。つまり本当の『神』は、その存在を知ることも感得することも出来ないものなのです。ただその『神』が生み出したあらゆる存在、自然もこの世もあの世もありとあらゆるモノには、『神』につながる何かがある。その何かの一部を私たちは感じることが出来るのでしょう。それがタマでありカミであり、霊魂であり神仏なのです。これは、知性による一神教とか多神教とかでは、語ることが出来ないものです。神の存在は見ることも、知ることも出来ないという考え方は、いまも神道をはじめ日本の宗教には受け継がれています。これは人類に本来備わっていた感覚のはずです。

 多神教と「神ノ道」



 唯一絶対の神を信仰する一神教に対して、多くの神々が存在する宗教を多神教と言います。日本は当然のごとく多神教の典型的な民族だと言われています。ですが、一神教と対比的にとらえられる多神教と、神ノ道とは本質が少し異なるような気がします。
 神ノ道における多神教的性格とは何かと言えば、あらゆるモノにタマが宿るという点です。天照大神さらには天之御中主神から村はずれのお地蔵さんまで、日本には実に多くの神仏がおられます。それらすべての神仏は、一神教における絶対神のように思われているのでしょうか?違いますね。
 空海が広めた密教でも、さまざまな仏だけで無く日本の古来の神々までそこに含まれています。また日本神話で誕生した多くの神々は、それぞれの役割、機能を持って誕生しています。それらすべてを日本人は神と認めています。このような感覚は、唯一神しか認めない人々にとっては、理解しがたい感覚なのではないでしょうか。


 豊かな自然を眺めると、山、川、滝、海、空、草木まであらゆるモノに何らかのタマがついており、何らかのカミとしての存在を感じます。それらは決して矛盾した存在でも無く、どれがより優れた存在というわけでも無く、それぞれがそれぞれのあるべき姿で「あるがままに」そこにあるのです。この感覚を唯一絶対神の概念と無理に結びつけるならば、こんな感じなのかも知れません。

 日本では、自然そのもの、もっと言えばこの世もあの世もすべてのものが、神によって作られたモノです。したがって、そこに見いだすことが出来るカミとは、唯一絶対神の一部であり、絶対神そのものでもあるのです。苔むす岩に宿るカミも、世界をあまねく照らす太陽神も同じカミなのです。唯一絶対神は、この世のすべてを生み出しているのですから、小さなカミや自分の分身としてのカミを生み出したとしても何ら不都合はないのです。こうなると理論的な理屈を越えてしまうでしょう。
 キリスト教の教会、イスラム教のモスク、これらは礼拝堂であり、神を拝する場ではあっても、ご神霊を分霊して作られる10万を越える神社とは明らかに異なります。日本の神はいくら分けてもその神威は衰えないのです。神の力のすごさを感じるとともに、究極の平等性もそこに感じるかも知れません。


 日本人にとって、さまざまな神仏は、絶対的なカミの一部であり、カミそのものなのです。日本では死んだ人間を神として祭ることにさしたる抵抗はありません。それは、ヒトにもタマが宿っており、タマはカミの一部だからなのでしょう。すぐれたもの、より大きな力を持つ物であれば、カミになる資格は充分なのです。ここにも、神ノ道の独特な感性が見て取れます。