神ノ道

神ながらの道

オン草紙
第一部 第4章
第4章 神を巡るさまざまな言葉や考え方

 神の多面性と二面性



 人間は特別な存在では無く神の手になる自然の一部


 教義や教祖を持たない神ノ道は、人間そのものの存在を神の創造した自然の一部と見なします。それ故に、人間をはじめから超越して丸々受け入れているがゆえに、人間の知性が作り出した他の宗教も科学もすべて認めることになるのです。創造主たる神が人間を作ったという理屈は同じでも、その受け取りかたが明らかに異なります。

 人間だけを特別に神が作ったのでは無く、自然そのものを創造し、その一部としての人間がそこにいる(作ったと言っても構わない)、その違いです。したがって、人間が他の動物よりも優れているとか、選ばれた種という論も、人間が他の自然を自由にして良いという論も、生まれる余地はないのです。

 欧米などでは、「神>人>自然」の関係で見るそうですが、日本は当然「神>自然>=人」の関係でしょう。自然を大切にといっても、それが生物多様性維持のためとか、環境維持のためとかすべてが人間の利益中心で考えられるのと、対等であるが故に大切にするというのは、根本的な部分が異なるのです。現在の日本人は、この事をすっかり忘れて、ひたすら西欧思想の崇拝を続けているのでしょう。


 日本列島は、いわば災害列島でもあります。豊かな自然は同時に様々な災害の源でもあります。その自然の前に人間の力など微々たる物であることを、常に認識させられてきた日本人の風土が生み出した神観とも言えるでしょう。ですから、西欧的な思想も、大きな災害が起きるとたちまち、本来の感性にしたがった自然観がよみがえるのです。東日本大震災後、多くの日本人の意識が変わったと言われますが、変わったのでは無く、本来の意識・姿を取り戻しただけでしょう。

 神と仏の違い


 日本人は感覚においては、神と仏は別の存在としてとらえています。なぜでしょうか。仏とは人間に近い所にいる魂なのです。したがって、穢れとなる肉体をもっていた存在ですから、この世に近く、神よりは下位に位置する存在なのです。これも、殯(もがり)の持つ両面性から生まれたものでしょう。仏教で○○菩薩、○○観音などと呼ばれる存在は仏ではなく、日本人にとっては神に属するのです。この事は第2章ですでに論じました。

 仏から、あらゆる執着を離れ、より高みに上った魂が神霊であり神なのです。感性では納得しているこの違いを、宗教学や知性宗教は知性で納得できないのです。ここに、無益な議論・論争が起こります。その意味でも、殯の持つ重要性はもっと認識されるべきでしょう。

 これ以上の話は、第二部の内容になるので、そちらにゆずります。

 神と人との関係が近くて遠い


 人間の価値判断と自然の理は一致しない


 神が生み出した自然は、人間が考える善悪や価値や好き嫌いの尺度を超えて、自然の法則のままに振る舞います。自然の一部である人間はこの自然の理から逃れる物ではありません。このような意識を日本人に植え付けたのは、いうまでもなく、日本の自然の力の極端な姿でしょう。豊かな恵みや心の安らぎを与えてくれると同時に、前触れも無く襲い来るさまざまな自然災害。そのどちらも神の仕業ならば、神に対しては人間の価値判断など通用しないのだと言うことを、身体で感じ取ります。

 この日本の自然の持つ両極性が、神の二面性ともなり、日本人の重なる二つの気質となり、両価性文化の社会となるのです。

 その意味で、神を感じさせてくれるモノは、私たちの身近に常にあります。その一方で、絶対的な存在の神の考えなど、人間などには思いも寄らないことなのです。存在すら感じ取れない絶対神について、人間がちっぽけな知識で語るなど、傲慢以外の何者でもありません。この差が、他の知性宗教と神ノ道が根本的に異なる部分です。

 あらたま(新魂)


 年があらたまって、初日に手を合わせる。今も変わらぬ日本の風景であり、日本人あらば特に抵抗もなく行う行為です。太陽も、歳もあらゆるものが「あらたまる」つまり、新しく生まれ変わるのは無常性の感覚からは当然の事でもあります。一度朽ち果てたり、弱まったり、死んだりしたさまざまなモノのタマが、もう一度新しいタマを獲得する事なのでしょう。新しく蘇った魂なのです。

 神社のお札も毎年新しいお札に交換します。それも、古くなって衰えた神の力をもう一度蘇らせることでもあります。式年遷宮も同様であり、そこに無常性とともに永遠性が姿を見せているのです。常にみずみずしく躍動している万物の姿こそ、神が好む姿なのでしょう。


 むろん高位あるいは強い神が衰えるという考え方は、なかなか馴染まない部分もあります。ですが八百万の神々や、自然界の至る所に神の姿を見いだす日本人にとっては、さしておかしな事とは感じていないのが、本当の所です。ま、何でも新鮮なものはそれだけでみずみずしく美しいのですから、あらたまを拒む必要もないのでしょう。日本人の新しもの好きは、こんな所からも出ているのでしょうか。何でも新しければ良いわけでは無く、賞味期限にこだわりすぎると無駄な食品ロスが増えて、調和を欠くことになりますので、ご用心ご用心。


 またこの概念に絡んでは、衰えた魂の霊力を高めるための「霊振り」などの言葉が生まれています。でそれは、鎮魂の原義である「みたましずめ」にもつながるそうです。さらには、柏手などの参拝の儀式もまた霊振りと関わるなどとも言われています。このように神道に関わる言葉は、その元が古いこともあり、さまざまな言葉や解釈とつながって、際限なく広がります。

 和御魂(にぎみたま)と荒御魂(あらみたま)


 和魂(にきたま(にぎたま)、にきみたま(にぎみたま))と荒魂(あらたま、あらみたま)は、神の持つ二面性を現す言葉です。神霊(神の魂)もまた和魂と荒魂に分けて考えます。前者は、人間に無償の恩恵をあたえてくれる神の優しい側面です。後者は、天変地異や病の流行などをもたらし、時に祟りを成す神の側面です。制御された力と、制御不能な爆発的な力の違いととらえることも出来るでしょう。

 荒々しいが大きなエネルギーを持つ荒魂は、前述の新魂ともつながるとも言いますが、単に発音が同じに過ぎないのか、概念において重なるところがあるのか、なかなか難しいところです。なぜならば、新魂は、繰り返しの性質を持ちますが、荒魂にはそのような性質はあまり見られないからです。むろん自然の長いスパンで見れば、台風も地震も繰り返されてはいますが...。


 和魂はさらに幸魂(さきたま、さきみたま、さちみたま)と奇魂(くしたま、くしみたま)に分けられるそうで、これが古神道の一霊四魂説につながっていきます。直霊(なおひ)は、これら四つの魂を制御しながら天とつながっているそうです。神と人とを直接つなぐものとも言えます。これらの概念もまたとても奥が深そうなので、立ち入らないことにしましょう。(すでに少し入ってしまいました!)


 最後に付け加えるならば、神がすべて善では無いという考え方は、キリスト教におけるサターンにもみられるものです。人間は神の持つ偉大な力の前では、ただただ恐れ入るだけなのは人類共通なのでしょう。


 いずれにせよ強力な力を人間にとって良い方向性に向けていただければ、鬼子母神のようにオニもまた善神となり得るのです。それには、神に対する供物や祭祀が必要となるのです。