輪廻転生の違い
仏教において、人間は六道の間を繰り返し生まれ変わる輪廻転生の考え方があります。それに対して、縄文時代の日本人が、人間の生まれ変わりをどう思っていたのか、良くはわかりません。ですが、自然界のあらゆるものが繰り返されることは、強く意識していたでしょう。夕方に沈む太陽も、翌朝になればまた昇ってきます。咲いた花はやがて枯れますが、翌年にはまた咲いています。人間もまた必ず死を迎えますが、新たな誕生もあります。この万物の流転というか、繰り返しは同じものですが、そこから先が仏教の考え方とは全く異なります。
仏教においては、まさにこの輪廻転生こそが苦しみの源泉なのです。この繰り返しからいかに逃れるか、それが仏教の最大の関心であり、さまざまな方法が編み出されるもとでもありました。離脱とか悟りとは、この繰り返しからの脱却の事です。しかし、日本人は、自然界の繰り返しを輪廻転生ととらえようとも、それを苦しみだとはとらえていません。それは現在の私たちも同じです。いやなのは、畜生道や餓鬼道などの人と異なる世界に生まれ変わるのがいやなのであり、繰り返しそのものを苦しみととらえて、忌避しようとはあまり考えていないのです。「生まれ変わっても、いまの奥さん(旦那さん)と結ばれたいですか」などという質問を抵抗なく口に出来るのも、そのひとつの現れかも知れません。
いずれにしても、繰り返しという『無常性』は、神ノ道、日本人の精神の根本を成す概念であり、あらゆる他の考えの基にもなっています。輪廻転生もその視点を加味して見ることが必要でしょう。
キリスト教の輪廻転生
他国の宗教に立ち入ることは、無益な争いを生じさせかねません。本稿でも日本化した仏教以外の宗教を取り上げていません。ですが、あえてキリスト教と輪廻転生を取り上げます。言論や思想の自由が確保されている国においては、キリスト教徒にとってタブーとも言える、過去の数多くの過ちを知ることが出来ます。その中のひとつに、本来は認めていた輪廻転生を教会が否定してしまった事があげられます。宗教会議で聖書からも削除したとされています。詳細は、ネットでも簡単に検索が可能ですので、ここでは触れずにおきましょう。
申し上げたいのは、信仰心から成る素朴な宗教が権力と結んだり、聖職者達が権力の権化と化したとき、知性宗教は必ず堕落すると言うことです。またギリシャ哲学においては、霊魂不滅と輪廻転生が唱えられていました。いわばそれに対するキリスト教による対抗措置でも合ったのかも知れません。時代や聖教者達の都合で変わる教義が、本当に神の教えなのでしょうか。
いずれにしても、その結果生まれた政教分離の考え方は、権力と宗教の癒着を防ぐひとつの方法論に過ぎず、本当であれば、むしろ優れた宗教家がその宗教にとらわれずに行う善政が望ましいのです。ですが、それは理想に過ぎないがゆえ、いまもなお政教分離が国際政治の課題になります。このような現状もまた、いつの日か「無常」となる事を願ってやみません。