神ノ道

神ながらの道

オン草紙
第一部 第4章
第4章 神を巡るさまざまな言葉や考え方

 神ノ道における創造


 数多い神ノ道に関わる言葉や概念。そろそろやめておきたいのですが、これらを取り上げないと、叱られそうなので、いくつか簡単に見ておきましょう。

 産霊(むすひ)


 産霊(むすひ)は、実は神道においては重要な概念です。最も重視されているという研究者もいます。創造に関わる概念ですから、当然かも知れません。

 古事記において、高天原に最初に現われた造化三神の中には「むすひ(むすび)」の名が付く二柱の神がおられます。「高御産巣日神(たかみむすびのかみ)」と「神産巣日神(かみむすびのかみ)」です。これらは創造を神格化した神であるとされています。神産巣日神は、生産や生命体の蘇生復活をつかさどり、高御産巣日神は宇宙の生成を掌(つかさど)るとも言われています。いずれにせよ細かいことは別として、万物を生み出す創造性や枯れて衰えた生命体を蘇生させて復活させる力を示しているのでしょう。


 この産霊は、かなりやっかいな概念でもあります。というのも、今日の「縁結び」などの新たなる生命を生むことをさすと同時に、終わりを意味する言葉でもあるからです。前者は、夫婦岩の大注連縄(おおしめなわ)として今に残り、後者は、大相撲での結びの一番などとして今に伝わります。つまりむすひ=むすびは、始まりであり同時に終わりなのです。

 この霊力が衰えさせるモノはなにか、その力を発揮する神はおられるのか、についてはあまり議論が活発では無いようです。

 神ノ道の無常性や自然の理から行けば、生命を生み出す創造神がおられ、それを衰えさす、つまり終焉の神がおられて、また再生する創造神がおられる事になります。真ん中の神とは言い換えれば、自然の理つまりは神ノ道を秩序として保つ神なのかも知れません。

 個人的には、造化三神は、始まりと終わりそしてその全体の調和を、三柱の神として現しているように思えるのです。これらが無いと永遠性をもった無常性は存在し得ないからです。

 もがりの所でも述べたように、知識が進みすぎた現代人は、創造性にばかり視点が行きがちですが、破壊が無くては、それ以上の進展はありません。縄文のご先祖様達は、この「死」あるいは「破壊」の重要性を充分に認識していたのでは無いでしょうか。


 脇道にそれますが、縄文時代の土偶などが破壊されて埋められているものについても、単に『あの世とこの世の逆さま』 という簡単な理由だけでは無く、もっと創造と破壊の関係からも検討しなおす必要があるように感じられます。


 日本人の気質においても、集団農耕型気質の人がこの創造のための破壊を実行できないのに対して、孤高武士型気質の人は、破壊を恐れないと述べました。ここにも、精神性の基盤に神ノ道がどれだけ深くしみこんでいるかの違いが、出ているのかも知れません。

 創造と破壊は、切り離せない物であることをもう一度強調しておきたいと思います。  


 ついでに上げるならば、「生み出された神」と「なる神』という説があります。造化三神は、みな自然に生まれた、成った神なのです。生まれたモノは枯れますが、自然になったものは枯れません。生まれながらの永遠性をもっているのです。その意味でも、これらはじめに自然生成(なる)神は、存在も見えない絶対神に最も近い神だと言えるのかも知れません。

 依り代、ご神体


 絶対神の神はその存在すら人間には感じることが出来ません。それでも、絶対神が生み出したであろう神々や自然の理に中に、人間は神の存在というか、何か神霊や霊的な存在を感じとることが出来ます。この複雑な感覚が、またまた複雑な概念や言葉を生み出しています。正直、依代は、学問的にもさまざまな説が語られており、なかなか理解が進みません。


 日本の知識人にも、小さなほこらや社の御神体(ごしんたい)を見たら、ただの石だったと自慢げに語っている人達がたくさんいました。情けないことに、彼らは日本の神道の知識すら持ち合わせること無く、科学知識万能という世俗宗教に毒されていたのでしょう。

 それはさておき、御神体というときに、モノそのものがカミである場合と、神が物や事象に一時的に宿る依代(よりしろ)とがあります。前者としては、神奈備山(かむなびやま、かんなびやま)と呼ばれる神の鎮座する山や、那智の滝として有名な飛滝(ひろう)神社のご神体の滝があります。あるいは風神雷神のように、自然現象そのモノを、神として扱う事もあります。
 一方で依代として多く祭られるのが、鏡、剣、玉などです。他にも御弊や神像などもあります。

 なお、神体の事を、神社神道では御霊代(みたましろ)と言う場合が多いそうです。


 どちらの場合でも、神それ自体は不可視の存在ですから、具体的事物、事象などと一体化したときだけ、その存在を確認できることになります。そしてそうしたときに神の能力が発揮されるという考え方があります。これは、日本人の感性が弱まり神や霊的存在を感得することが難しくなったことに、起因しているように思えます。なぜなら、神がモノに宿ったときしか能力を発揮しないなどとは思えないからです。


 神の御神体で混乱を招いている原因のひとつとして、考えられることがあります。それは、万物のモノにタマが宿っていると云うことと、神のタマが宿るモノや依り代との混同です。モノに宿るタマも神の一部であり霊的存在であるならば、それは神ともつながる事になります。また、神の力が強力すぎて、その存在による力の影響は周囲全体に及ぶでしょう。その影響を受けたさまざまなモノと神そのものとも、私たちには区別が付きません。


 もう一つ話をややこしくしてしまうのが、人間による神のコントロールです。さすがに神そのものを制御出来るなどと思い上がってはいないのですが、神の持つ力、エネルギーの一部を取り込むという考え方です。たとえば、神を勧請するとか、神社で御霊代(みたましろ)の遷座に神輿(みこし)を用いるとかします。これってよくよく考えると、ずいぶん横暴ともとれる行為です。なにせ、畏れおおくも神を人間が動かそうと云うのですから。日本の神は、人間の行為に非常に寛容ですから、こんな事も許されるのでしょう。ですが、これらの事柄が、御神体とか依代とか云うことをさらに難しい話にしているのは事実かと思います。

 したがって、結局最後は、私たち自身の感性が、何を見、とらえるかと云うことにかかってきます。素直な気持ちで神に向かう心が、さまざまな神の姿や在り方を、私たちに見せてくださるでしょう。

 穢れ・祓い


 これらの言葉も、神道の中心的とも言える重要な概念です。穢れ(けがれ)とは、さまざまな付着物によって本来の純白な姿が隠されてしまった状態を云うとか、ケが枯れた状態つまり、霊力が衰えた状態が原義であるとか云います。いずれにせよ、穢れをとことん嫌う神道の姿は、世界の宗教の中でも特異な物なのかも知れません。


 汚れが付いた状態であれ、霊力が枯れた状態であれ、要するにみずみずしく躍動する姿が失われているという事でしょう。汚れた状態であったり、その付着物を穢れと呼ぶわけです。

 無常性から考えれば、簡単に納得のいくことです。モノが自然の理によってその姿を変えるのであれば、好ましくない状態に見える姿を生じさせるモノも存在するでしょう。それは、当然のごとくタマにとっても好ましくないものと成ります。それが極端に広がったとき、さまざまな人間社会の概念と結び付いてしまったのでしょう。

 本来の神ノ道で行けば、穢れなど存在しないのですから。穢れた姿もまた無常の姿のひとつに過ぎず、仕方の無いことなのです。ですが、もがりでも述べたように、人間の好き嫌いや嫌悪感もまた自然な営みなのでしょうから、避けたいと思うことがあっても仕方がありません。


 穢れを祓うという考え方も、この無常性などの神ノ道によるものから生まれたのでしょう。汚いものを消去したり、きれいにするのでは無く、取り除くだけという考え方は、神ノ道の永遠性や自然の理を考えれば、当然な行為なのです。穢れもまた、存在するモノのひとつなのですから。また創造を神がつかさどるように、完全なる消滅というのも神の領域なのでしょう。

 神道の大祓の祝詞では、種々の穢れを集めて次々と別の神に渡していきます。そして、最後の神が、それらを完全に消し去ってくださるのです。ここに、この穢れや祓いの本質を見ることが出来ます。日本独特の考え方と言えるのでしょうか。

参考資料