神ノ道

神ながらの道

オン草紙
第一部 第5章
第5章 知性宗教から人類の信仰心へ

 世界の宗教別人口では現在キリスト教徒が最大勢力ですが、2070年にはイスラム教徒とキリスト教徒がほぼ同数になり、2100年になるとイスラム教徒が最大勢力になるとの予測(米調査機関ピュー・リサーチ・センター)もあるそうです。この事は言い方を変えれば、百年たっても現在の知性宗教は衰退しないか、変わらないと云うことになります。現在のような強固な国家の枠組みから民族などの文化集団の枠組みに世界が変わって行くには、まだ百年はかかると思いますが、同様に知性宗教の強固な枠が緩むにも、相当な時間が必要なようです。ですから、この章はかなり注意して書かないと、世界中から誤解されそうです。

 知性宗教を批判的にとらえるからといって、それぞれの宗教を否定するものでも、ましてや人間の信仰心を否定するものではありません。むしろ逆で、もっと人間本来の信仰心に基づく宗教で世界がまとまっていくことを願っているのです。ただし、この時の宗教はもはや知性宗教の色彩が強いものでは無く、感性宗教に近いものであると信じているのです。

 知性宗教の限界


 これは知性が生んだ宗教の限界ということですが、現実的には世界宗教たる一神教の限界と云うことでもあります。

 共産党一党独裁国家の中国において、弾圧の対象たる宗教が民衆の間に広まっているそうです。ここでの話は、中国国内の少数民族や非漢民族のすでに宗教を強く保持している人々(仏教のチベット、イスラムのウイグル等)の話では無く、無宗教を進められてきた漢民族内での話です。中でも仏教とキリスト教の普及がめざましいそうですが、中国共産党は、最近それらに異なる政策をとるようになってきました。これまでは宗教は、非共産主義に結びつくものとして、すべてが弾圧対象でした。それが、最近ではむしろ仏教を積極的に保護するように変わったそうです。一方で、キリスト教への弾圧は、変わらず強く行われています。

 これは何を意味するのでしょうか?単に中国が元々仏教国に近かったからと云うだけではないでしょう。結局それぞれの宗教の排他性や性格によるのだと思われます。一神教は、他の神を認めないその教えからして、どうしても排他的になります。同じ世界宗教と言われながらも仏教が、排他的でないのは、その教えの違いにあるのでしょう。仏教は、いわば外に神があるのではなく、自らも仏陀という悟りを開いた人になれるという究極の多神教でもあるからです。むろん、教義としては神の代わりに「法」などの概念を持って説明していますが、やはり感性が他の一神教の宗教とは異なります。


 いずれにせよ、世界宗教をはじめとする現在の宗教の多くは、人間の知性が関与したさまざまな思考・思想によって構築されたものになっています。それゆえに、それぞれの宗教や宗派が生まれた時代背景やそれを生み出した集団の置かれた風土や社会的環境などによって、多大の影響を受けたものになっています。いうなれば、信仰心という清心に根ざした文化と云うよりは、知識や技術など文明に属する部分から成っているのです。文明は常に進歩していくので、古い文明は必ず滅びます。なら、知性宗教においても、文明の部分は新しく変化していかねば成らないはずです。ですが、なぜか宗教や信仰に関わる事は、技術のようには新しくなっていきません。

 これが、時代にそぐわなかったり、他の文明に属するような他宗教との間の軋轢を生じさせてしまうのです。それぞれの知性宗教が、その文明に関わる部分が常に新しいものになっていれば、時代の文明や他の文化とも大きな衝突をする事も無いでしょう。


 やはり寛容性の欠如が、現在の知性宗教の最大の問題点でしょう。それは、他の宗教や宗派に対してだけでは無く、時代の進歩に合わせるという意味においてもです。教義や戒律が生まれた時代や社会の背景を歴史として正しく認識することすら許さない不寛容さは、宗教が本来持つ神の愛や寛容さとは相容れません。

 現状にしがみつくのでは無く、もう一歩踏み出して、考えて見ることが必要なのではないでしょうか。その意味で、宗教と教育をお互いに隔離しては成らないと思うのです。

 人類共通の「神」


 世界宗教が説く神の概念は、微妙に異なるもののようです。ですが、すべての宗教の大元は信仰心のはずです。信仰心とは、言語による説明が不可能な見えざる存在に対する人間の心のありようです。

 そのような見えざる存在を自然の中に見つけたものが、アニミズムや自然崇拝だと説明されています。そしてそれは知性がまだ十分でなかった時代の考えなのだと。果たしてそうなのでしょうか?現在では、科学が進歩することで、むしろこのような考え方が的外れなのだと理解されるようになりました。

 神という言葉を避けてSomething Great(偉大なる何か)という言葉を使う人もいます。しかし、結局は同じ事でしょう。言葉では説明つかない何かが存在するという感覚は、人類に共通であり、信仰心を生み出した元でもあります。その存在を強く感じ取ることが出来る特定の場所という意味で、パワースポットなるものが流行しました。霊感の全く無い私は、いくらそのような場所に出かけてみても、何かを感じることはまれです。ですが、ふと見上げた山々や沈みゆく夕日に何かを感じることは、良くある事です。


 日本人に同化したとしか思えないラフカディオ・ハーン (小泉八雲)は、出雲大社を参拝した折に、宍道湖を船で渡りながら、湖水と周囲の山並みとを見ながらこう述べたそうです。

There seems to be a sense of divine magic in the very atmosphere, through all the luminous day, brooding over the vapory land, over the ghostly blue of the flood, ―― a sense of Shinto. (Hearn 1894:174)

まさにその空気の中に神聖で魅惑的な感覚があるようだ。――その全ての神々しい光を通して、畏れ多くその霞たなびく土地、その幻めいた青い湖水を覆う空気の中に――神道の感覚があるようだ。(唐澤 訳)


 また、アーノルド・トインビーが伊勢神宮を訪れたときに次のように記帳したそうです。

Here, in this holy place, I feel the underlying unity of all religions.

 「私はこの聖地において、あらゆる宗教の根底をなす統一的なものを感じる」というように訳されていますが、それをもう少し深く読んでみると、『ここ、この聖なる地において、あらゆる宗教のおおもとに流れる同じひとつのものを感じるのです』と解せます。


 どちらもすでに取り上げた西行の和歌と同じ内容ですね。このような人類に共通の感覚を遅れたものととらえることこそ、西洋近代主義につかりすぎて、素直な人間としての感性を失っているためと言えるのでは無いでしょうか。

 人類の共通の信仰心、それを(感性)宗教にまで高めた、いやそのまま維持してきたのが神ノ道なのです。

 神ノ道の普遍性


 神の道は、もっぱら日本人の長い歴史において培われた感性によって完成したものです。それはややもすると、良い方向であれ悪い方向であれ、日本人特異論とつながるような感想を持たれるかも知れません。日本列島の1万5千年を超える長い歴史と自然環境の中で、同じ感性を維持する事が出来たのは、奇跡にも近い事なのかも知れません。しかし、一度西欧近代科学的な視点を離れて、もう一度世界の人々や文化集団を見るとき、我々日本人が決して特異な民族では無い事がわかるでしょう。
 日本の神道が、外来の儒教や仏教など多くの思想や哲学によって影響を受けたことは確かです。しかし、だからといって、それらの概念が初めて日本人にもたらされた物で、それまでは存在していないと述べる研究者や専門家の立場には、とうてい賛成出来ません。火という言葉があろうが無かろうが、火は存在していたのです。だからこそ、火という言葉や概念を受け入れることが出来たのであって、言葉が出来てから物が生まれたわけでは無いでしょう。
 神ノ道も、それが感性でしか説明がつかないからといって、すべてが外来思想や宗教によって成立したというのは、知性宗教としての神道の特定部分については認めることがあっても、本質論としては全く的外れな議論と言わざるを得ません。
 この前提の上に立って、神ノ道は人類の信仰心としてあるいは宗教としての普遍性を有していると信じています。近代科学の進歩の歴史においては、一時期、古い習俗や言い伝えをすべて非科学的なものとして否定する時期がありました。特に戦後の日本においてはそれが顕著でした。ですが、その後のめざましい科学の進歩によって、迷信とか非科学的と言われていた事柄の中には、むしろ科学がその本質や真実を見る力が不足していたことが、明らかとなっています。
 簡単な例を挙げるならば、雷はなぜ稲妻(いなずま)と呼ばれるのか、雷が落ちるとイネが良く育つので、イネの妻と呼ばれたのだという言い伝えがありました。全く非科学的でばかげた迷信とされていましたが、その後、雷が落下した土壌にはさまざまな栄養素が含まれる事になり、作物が良く育つことが判明しました。この言い伝えは正しかったのです。このような例は数多く存在しています。やがて、極端な科学万能論や礼賛論は姿を消していきました。
 神ノ道が古くからあるからといって、それが人類の普遍性とは合致しない、民俗宗教としての自然崇拝のひとつに過ぎないと決めつけるのは、いささか偏狭に思えます。

参考資料
HP 今、神道を見直す 唐澤太輔 2014

 人類にとって共通の新しい宗教とは


 こうしてみてくれば、これからの人類にとっての新しい宗教の姿も自ずから見えてくるのです。簡単な図にすれば下図のような感じでしょうか。



 人類が共通で持っている、神なる存在への畏敬の念、信仰心を大切にしながら、大きくなりすぎた文明部分をそぎ落として、それぞれの文化においても争うことのない共通の文化・文明として、人類共通の宗教心を構築していきます。大元の感性が人類共通であるならば、そこから生まれた文化に依存した各宗教は、他集団の文化を尊重するように、尊重する事が出来るはずです。

 その手近な見本となるかも知れないのが、神ノ道です。それは、神ノ道を無理矢理に他民族に押しつけることでは無く、知性による部分がほとんど無い宗教でも、人々の心に深く組み込まれて、敬虔な信仰心を保ち続けることが出来る見本だと言いたいのです。


 今急いで人類共通の宗教を確立する必要があるとは言いません。ですが、それぞれの宗派に凝り固まった偏った思考は、何も考えていないのと同じ事です。極端な無神論に走るのでは無く、すこしでも現在の進行する中京の在り方について、自問自答しながら少しづつあらためるところがあれば、正していく。その地道な努力の積み重ねが、人類共通の宗教を生み出す確実な歩みなのだと思います。神ノ道は、その参考になるものだと確信しています。