第一部では、神ノ道(かみながらのみち)について、いわゆる霊的な現象や作用などの話を排除して、知性による出来る限り合理的な解釈を試みてきました。それだけで充分なのでしょうが、社会全体にはまだまだ理性だけでは納得できない事柄があるために、誤った方向に人々の考えかたが行く事もあるように見えます。
いくらオーム真理教を知識や常識だけで解説しても、高学歴で知識もある彼らがどこで間違ってしまったのか、十分な説明は未だに為されていません。これは、学者や研究者達の怠慢だけでは無く、結局オカルト的な考えを含む彼らの思考方法に、十分な理解が出来なかったからとも言えるでしょう。学者達は、知性にこだわりすぎて、人間全体を見失ったとも言えます。むろん、それを私が説明できるなどと言うつもりは毛頭ありませんが、世の中で人々が道を踏み外す可能性を少しでも減らせるならば、霊的現象やあの世の話を持ち出すことも、意味があるのでは無いかと思うのです。嘘も方便という仏教の教えに従えば、相手が納得できる説明を加えることは、全面的に否定されることでもないと考えます。
すでに述べていますように、私にはいわゆる霊能力はありません。いかなる宗教の勉強も修行もしたことがありません。したがって、とんちんかんで身勝手な屁理屈に過ぎないかも知れません。それでも、軽い気持ちで読み飛ばしていただければ、それで十分です。
第二部では、特に項目や話の内容を整理すること無く、思いつくままに、だらだらといくつかの事柄について述べることにしました。したがって、ここから何か体系的なものを読み取ろうとする事は出来ません。また霊能力者や宗教関係者からは、事実誤認とお叱りを受けるかも知れません。あらかじめご了承ください。
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【魂とは、霊とは】
そもそも、魂とか霊って何でしょうか?正直わかりません。
でも、神の存在同様に感覚的に認識することが出来ます。とりあえずは、それで十分でしょう。宗教的には魂と霊とは区別されるべきなのかも知れませんが、本稿では同じものとして扱います。
ただ、霊的な世界とこの世の我々との関係については、こんな例えが出来るのかも知れません。
この世とは、いわば動物園の檻の中のようなところであり、さまざまな制限に取り囲まれています。しかも、常に周囲から見られています。この檻の外にいるのが、さまざまな魂や霊達なのでしょう。我々は檻の外に出れませんが、彼らは自由に入ることが出来ます。こんな絵を思い浮かべると、関係がよく見えてきます。
肉体の殻を捨てて自由になった魂とは、「思い」の塊のような気がします。実際これから述べていくような、因縁などさまざまな話のほとんどが、人間の「思い」によるものです。憎しみ、恨み、そねみなどの悪い思いに、執着が加わるとき、それが因縁や魔の残留思念へと変貌してしまうのでしょう。それらは、時に「思い」を発した本体を離れて、一人歩きすることもあるようです。「思い」とは、魂が発するエネルギーかもしれません。
ここでひとつだけ魂と霊を区別するならば、魂はこの世の人間にも着いていますが、霊は通常そのようにはならない、死んだ人の魂を指します。
【人の思いは霊障となる】生き霊/死霊/怨霊
人間の思いのエネルギーとは恐ろしい物のようです。そのエネルギーが誤った形で相手に伝わるとき、霊的なさわりや障害となって現れることがあります。それが霊障です。ほんの小さな思いでも、それが数多く集まれば、何らかのさわりとなる事もあります。たとえば、芸能人や有名人は、他人からうらやましいとか、羨望やそねみや憎しみの「思い」を常に受けています。それが多く集まれば、スモッグで空気が汚れるように、その人の魂の周囲は穢れ汚れてしまいます。有名人に様々な問題が起きる理由のひとつには、この多くの人の悪い思いがあるのかも知れません。
有名人だけではありません。部下を持てば部下達から、優秀だと認められれば仲間達から、子供に関わってママ友から、人間は他人(時に家族)から常にマイナスの思いを受けてしまうことが日常です。だからこそ、そういう思いが凝り固まって悪さをしたり霊障とならないように気をつけるべきなのです。
神仏にご加護を願いながら手を合わせつつも、自分の精神を強く持ち、穢れのない心で日々の生活を黙々と送ることです。それで霧が晴れるように、悪い思いは消え、霊障などにつけいられることもないでしょう。ご自分の気持ちと生き様なのです。またご縁のある神社で、お祓いを受けるのは効き目があるように思います。祈祷料もそれほど高い物ではありません。しかし、何でもかんでも霊のせいにするのは考え物です。誰かの思いかと考えすぎることが、かえって心にすきをつくり、関係もない悪い思いを呼びこんでしまうのです。
生き霊(いきりょう)
生き霊とは生きている人が抱いたある思いが強すぎて、その思いが相手に影響を与えるほどのものになることです。必ずしも、恨みなどのマイナスの思いばかりではありません。たとえば相手が好きなのに、それが相手にうまく届かないとき(相手は自分を何とも思わないなど)、その思いが時に生き霊となって相手に伝わります。
特定の人からの強い思いは、時に生き霊となります。ですから、そうならないように日頃から気をつけて日々の生活を過ごしましょう。生き霊がやっかいなのは、本人も気がつかないで強い思いの念を送っている場合が多いと云うことです。恨みなどのマイナスの念が多いのでしょうが、怪談話には愛する思いも良く出てきます。女性の思いは一途過ぎる場合が多いのかも知れません。
ただ、生き霊は必ず自分の元に災いとなって戻ってきます。ですから、どんなことでも極端に執着しないことです。集中したり熱心である事と、執着との間で調和をはかるのが神ノ道です。
死霊(しりょう)
理不尽にも通り魔に突然命を奪われたとき、その怒りや苦しみが死霊となる事もあるのでしょう。生き霊に対して死んだ人の強い思いが死霊です。生きていたときから思い続け、死んでもなお思い続ける。生き霊から死霊にまで成った思いは、因縁として残ってしまいます。そうなると相手だけではなく、本人も地獄で苦しむことになるのです。どちらにとっても不幸な状態を作らないように、時には、水に流してさらりとあきらめたり、忘れることが必要なのです。
怨霊(おんりょう)
菅原道真をはじめ、日本では数多くの怨霊話があります。怨霊とは、この世への祟りをする霊のことですが、どうしてそうなるのでしょうか。無実の罪を着せられてそれを恨み続けながら死んでいった人の魂は、恨みの強い執着を持ち、自然の理に従うことを拒否して、死んでからもその恨みを抱き続けます。そして、この世への復讐を願うのです。怨霊の多くは、生き霊から死霊になったものがほとんどで、生前からの思いが死んでも捨てきれない程に強いのです。
怨霊に成った霊は、死んだという魂の解放を自分から拒否してしまうのです。それだけ、思いが強いという事なのでしょう。したがって、もし本当にそういう霊に狙われたならば、まず逃げることは出来ないでしょう。残念ながら、その時の人生はあきらめるくらいの覚悟が必要です。
怨霊となった人を神として祭るのは、その思いの力が怨霊になるほど大きいからです。エネルギーそのものに善悪はありません。その使われ方が正しい方向に向けば、神として我々を守護してくれるようにもなるのです。それを実現するのが、『祭る』という行為になります。単なる儀式ではなく、その中に込められた多くの人々の思い(祟りから守護へ)が伝わるとき、神霊の強力なエネルギーが正しい方向に向かうのです。
【因縁とは】家系の因縁/色情因縁/恨む側も浮かばれない
因縁とは、死んだ人などの思いが凝り固まって、人に害を与えるものになってしまったその原因を言います。死んだ身内や先祖の因縁などと簡単に話されますが、本当にあるのでしょうか?残念ですが、あるようです。ただ、あまり気を遣いすぎたり、深く関わる事は、得策ではありません。極端にいえば、気にしないで、ただひたすら日々の生活をきちんと送ることです。
家系の因縁
そういいながらも、家(家系)にまつわるいくつかの因縁話をしてみます。本当に「家」にまつわる因縁など存在するのでしょうか?
☆ある知人が自殺をしました。それについて霊能者が、「家の因縁だから仕方が無い」と言ったそうです。その時点では半信半疑だったのですが、数年の後、こんどは妹さんも同じように自ら命を絶ちました。この家の因縁がなにかは知りません。
☆ある家(家系)では、代々長男が幼くして死んでしまいます。その家の先祖が奉行職を務めていたとき、無実の人を何人も罪人として処刑したからだそうです。当時の奉行など、実際に罪人を裁くことなどほとんどありませんでしたが、無実の罪で殺された人達は、責任者である奉行に対して恨みを募らせたのでしょう。それが因縁となって、代々長男が成人になる事無く夭折していたのです。
☆ある家では不幸な事ばかり重なり、いくら働いても貧乏から抜け出すことも出来ませんでした。昔あるサムライが、藩主の命令で軍資金を調達するために諸国を放浪していました。少しでも増やそうとばくちに手を出して、有り金全部を失いました。その時この家の先祖が、刀までとりあげてしまいました。武士の魂たる刀を奪われたその武士のすさまじい恨みによって、子孫の家では不幸が絶えなかったのです。
因縁とは言い換えれば、人の思いです。うらみ、憎しみ、悲しみ、愛情、その中身がなんであれ、その強い思いが執着を生み、特定の相手に向かい仇(アダ)を為すとき、それがいわゆる因縁となるのでしょう。思いが強ければ強いほど、因縁は強固になり解きほぐすことが困難になります。激しい思いの因縁を浄化することなど、修行を積んだ僧侶や神職でも難しいことです。いま以上悪くならないためには、神社などでお祓いをしてもらう事でしょうか。それで、因縁それ自体が浄化(消滅)されることはなかなかないでしょうが、そこから生じたさまざまなさわり、目の前にある障害を取り除くことは出来るかも知れません。
家の因縁が簡単に消えないのは、その因縁によって被害を受けた子孫達の成仏できない霊の思いが、さらに加わってしまうからです。理不尽な死を遂げた魂が納得して自ら成仏することはまれで、むしろ成仏させてくれと生きている子孫達に頼ってくるのです。それがまた、霊障になってしまうのです。霊の成仏は、理屈や善悪で割り切れる物ではないのです。
ですから、気軽に家の因縁を取り除く事が出来ると言う人達は、信用しない方が良いでしょう。家の因縁にまで凝り固まってしまった霊障は、高僧や神官でも簡単に浄化することなど出来ないのです。もしやるとなれば、自らの命をかけることにも成ります。結局は、時間を掛けて薄皮をはがすようにしていく以外に方法はないのです。場合によっては、何代にもわたって続けなければ成らないかも知れません。その覚悟がないのなら、手を出さないことです。「触らぬ神に祟りなし」もご参照ください。
霊能力を使ってちょっとしたことが当たったからと言って、簡単に信じないことです。大きく強固な家の因縁は、それがあるという事ぐらい狸や狢の低俗霊達にもわかります。そういう下級の霊達が、悪の心を持つ人間にとりついて悪さをさせるのです。下等霊ほど人間の愚かな過ちに敏感で、いたずらをしようとするのですから。高次な神ほど何も語ら無いと云うことを、肝に銘じてください。
色情因縁
家系の因縁と並んで大きな因縁が、色情因縁です。いうまでもなく、男女の間の思いが凝り固まって出来たものです。最近のように、同性愛者が増えてくると、男女のもめ事とは限らないのかもしれません。色情因縁がやっかいなのは、その霊障が個人の日常に向かって影響を及ぼしやすいからです。たとえば、何気ない男女関係に因縁が触って、こじらせてしまうのです。あるいは、さして好きでも無いはずなのに執着して心の病になったり、出来心が実際の性的な事件にまで発展してしまったりします。こうして、さらに新たなる色情因縁が重なって増えてしまうのです。異性との間の思いは悪い感情だけで無く、好きだという本来良いはずの感情でも強すぎれば、思いとして凝り固まってしまいます。そこでは善悪は無関係なのです。
恨む側も浮かばれない
この世のことは、離れる時にすべて捨て去っていくのが普通です。それを特定の強い思いだけをあの世にまで持っていくのですから、大変な事です。それは、当事者の魂にとっても同じなのです。こんな話があります。
前の因縁話のなかで、サムライが刀をばくちで取り上げられた例を挙げました。この話には続きがあります。ひどいしうちにあったサムライは、一人では無かったのです。二人なのか三人なのかわかりませんが、同じ目に遭っているのです。当然みな、恨みを抱いて死んだ訳ですが、百年を超える長い時間の後(魂にこの世の時間尺は無関係でしょうが)、サムライの魂の在り方は違ったものになっていたのです。あるサムライは、この世への執着をすて、恨みも忘れて、より高みに行く事が出来ました。つまり成仏したのです。それに対して、あるサムライは、地獄にいるままでした。
成仏したサムライが、地獄のサムライに声を掛けたそうです。「もういい加減で恨みを捨てて、その地獄の苦しみをぬけだして、こちらにきたらどうだ」と。地獄のサムライが答えます。「いやだ。俺はどんなに地獄でもがき苦しんでも、その同じ苦しみを奴らに味合わせてやるのだ。決して許さない」と。
そうです。恨みを抱いたままあの世で安穏とは成らないのです。その恨みの重さにより、自分も地獄へと落ちていくのです。そこから抜け出る道はひとつ。その恨みを捨て去ることです。重りを自ら捨てることなのです。すべては人の思いです。
【霊障はあるが誰にもわからない】霊の力がすべてではない/守護霊の霊障も
霊障とはいうまでもない、霊が人間や社会にもたらす災いや悪行、祟りさらには憑依などの事です。
霊障など一切無いと言えれば、気は楽なのですが、そうもいかないでしょう。しかしその霊障が、どのような形でどこまで影響しているのかいないのか、それを見極めるのは、霊能力者でもほとんど不可能なのです。それほどに霊が関わる種々の事柄には多様なものがあり、しかもその影響度は、受け手の状態や魂の強さ、守護の強さ、環境などと複雑に絡み合って、明確に切り分けることは出来ません。したがって、日常の生活においては、このような霊のさわりについては、あまり考えない方が良いでしょう。
仏や死んだ人の霊が、この世の人間に様々な影響を及ぼすことについては、本稿を読まれるひとすべての人の関心事だと思います。ですから、見聞きしたいくつかの例をお話しますが、申し上げたいのは、とらわれすぎないように注意して欲しいという事です。
霊の力がすべてでは無い
平安時代の怨霊などは、すさまじい力で人々に悪影響を与えると考えられていました。恨む相手にとりついて殺したり、雷を落として火事にしたり、疫病をはやらせて人々を苦しめます。これでは、安倍晴明といえど鎮めるのは大変でしょう。しかし、本当にすべての霊の影響がかくも大きな物なのでしょうか?それほどでは内のが普通のような気がします。では、なぜ、悪影響を及ぼせるのでしょうか。それは受け手の問題です。
良い例えかどうかわかりませんが、駅のホームから人が線路に落ちる場面を考えてください。線路から離れたホームの後ろにいる人をいくら推して線路に落とそうとしても、それは大変な力を必要とします。しかし、もし黄色い線の外に立っているなら、背中を軽く押すだけで落とすことが出来ます。霊が悪影響を及ぼすことができるのも、こういう場面なのです。山道で崖の道を歩いているときなら、少し脚を滑らせる事が出来れば、場合によっては崖に転落します。けがで済めば良いですが、そこが深い谷なら死んでしまいます。どちらも、もしその時危険な場所にいなければ何事も起きなかったわけです。仮に霊に押されても、問題は何も無かったでしょう。
不注意や偶然やさまざまな条件において、たまたま霊が働いたとき、霊障となる事がほとんどなのです。霊はほんの小さなきっかけを為すだけです。その結果がきわめて深刻なとき、人は霊障と考えるわけです。
常に油断無く慎重に人生を生きて、強い精神力を持つ人には、あらかたの霊のいたずらなど意味を成さないのです。昔のサムライは常に刀を携え、寝てるときにも油断をしなかった、そんな強さがあれば、何も怖い物などないでしょう。
守護霊の霊障も
守護霊の霊障というのは少し言葉がおかしいかも知れません。本来その人を守ってくれる霊が、その人に悪影響を及ぼすというのですから。もちろん守護霊や指導霊は、その人のためになる事を色々としてくれます。正しい方向にみちびいたり、才能を伸ばさせたり、悪に染まらないよう戒めたりと、その人を守ってくれています。
それでも、時にはすれ違いも出てくるようです。
ある女性の母親が、若くして無くなりました。残された娘が心配で、いつもあの世から見守っていたのですが、なかなか娘が結婚しないことを心配していました。そこで、親戚で娘も顔見知りの男性と結婚させようと考えたのです。そこで、娘についてその代異性のことを猛烈に好きになるように、仕向けたのです。娘も悪くは思っていなかったのでしょうが、母親の霊の働きでさらに好きだという感情を高ぶらせてゆきました。しkし男性はある事情から、その愛を受けることをしませんでした。いわば振られた形となった女性は、そのショックからか心を病んでしまいました。母の霊もその結婚をあきらめて、娘が元に戻ることを願いました。時間はかかりましたが、女性は病から回復し、その後良き伴侶を見つけて結婚しました。自分がなぜあそこまで夢中になったのか、わからずに終わったのです。
よかれと思う霊などの行為も、いつでも統べtが正しくうまくいくわけではありません。その意味では、生きている人間の環境や状態が、大きく関係してくるのでしょう。そこまであらゆるすべての事を見通すには、神のレベルにまでのぼらなければ見えないのでしょう。
このような話を知っていると、霊障も悪くは無いなと思いますか?
【触らぬ神に祟りなし】
この言葉は、神ノ道において少しやっかいな問題を含んでいます。幽霊が出る場所に出向いたり、オカルトを求めて自ら危険な所に行く人がいます。テレビ番組でも夏場には必ず放送されます。ですが、これほど馬鹿げて愚かな行為はありません。みすみす汚い思念や悪霊がいるところにいって、自らの穢れのない魂を汚し、弱めてしまうのですから。傷ついたり、弱った魂は、その辺を浮遊する多くの未成仏霊や、いたずら好きな低級霊の格好の餌食なのです。危険な地域といわれるスラム街などに着飾って出かけ、犯罪者を多く集めるのとおなじです。触らぬ神に祟りなしです。真に勇気のある人は、むしろ危険な所を避けます。
他にも触らぬ神に祟りなしに属する話があります。それは少しばかり仏の供養をできるようになったときに陥る罠です。たとえば、大きな因縁を抱えて多くの未成仏霊のいる家系があったとします。通り一遍の先祖供養をしている分には、さして問題も無いのですが、先祖の因縁をきれいにしたいと少しばかり力を入れて先祖供養を行ったとします。すると、それまであきらめていた多くの霊が、成仏したくて出てきます。時にその存在を教えるために子孫に悪さをします。悪気はないのですが、自分の事を知ってもらい成仏させて欲しいと思うあまりの行為なのです。こうなると、僧侶になる覚悟でも決めて修行や供養を実行するぐらいでなければ、逆に自分が取り殺されることすらあるのです。寝た子を起こすからには、それなりの覚悟と力が無ければ出来ません。身代(財産)すべてをつぶして子供を亡くし、ようやく供養を成し遂げた家の例もあるのです。
先祖供養はすべきですが、力不足なら深入りはしては成らない、これほど難しい調和があるでしょうか。より強い力で守護していただける神の力を頼るしか無いのかもしれません。でも、凡夫にはそんな難しいことはよくわかりませんしね。
本来は守護霊である先祖でもこの有様です。出来もしないのに、除霊だの供養だのと大げさなことをやろうとすれば、そこら中からとてつもなく多くの悪霊がよってきてしまいます。自ら呼び込んでしまうのです。ですから触らぬ神に祟りなしなのです。いわゆるテレビなどで活躍した霊能者の多くが、その最後が惨めなのは、力があって悪霊をはらえるうちは良いのですが、力が衰えれば必ず負けてしまうのです。なにしろ相手はきりが無いのですから。
とにかく、霊とか因縁とかあまり騒がないことです。浮遊霊などその辺をいくらでも歩いて、いや漂っているのです。霊を気にする、怖がるという思いは、それらと波長をあわせることになり、かえって呼び寄せる事になってしまいます。霊など見えなくて良いのです。見えるなどと騒ぐと、なおさらくだらない低俗な物が寄ってくるのです。そしてあなたの魂が汚され、視界が曇ってしまうのです。自分の魂が清浄で行いも正しければ、見苦しい汚い霊などよってきません。きれいな街にゴミを捨てられないのと同じです。妙に気にしないで、平常心で日々を過ごすことが、最良の生き方であり、神ノ道です。
【前世の影響】
魂の遺伝子という言葉は、私の造語です。本当にあるかどうか知りません。人間は先祖からの遺伝子によって、自分の生物学的特性の大半が決まります。同じように、何度も生まれ変わる魂にとって、以前の生の影響が全く無いというのはむしろ考えづらいのです。
だからといって、それが常に現在の自分に大きな影響を与えるとは限りません。でも、何となく自分の魂の連続性に親しみを覚えませんか?
以前の生において、水の事故で死んだりすると現世では水を怖がったり嫌います。それを無理にさせることは、同じ結果を生むことにも成りかねませんから、気をつけるべきです。
貧しくて、野の山菜ばかりを食べていたために、現世では嫌いなどと云う話を聞いたこともあります。あるいは、前世で17歳で胸を射貫かれた死んだ人が、現世ではその年に同じ場所に大きな病気をしたと聞いたこともあります。
そんなさまざまな前世との関係で気になるのが、殺し殺された関係でしょうか。私は若い頃には、因果応報では、前世で殺した人が現世で殺される役回りになるのではと考えていました。それはすぐに間違いだろうと思い至りました。殺した人は今回もまた、人を殺そうとする場や環境に遭遇するのです。その時、それを思いとどまれるかどうかが、魂の向上やこの世の修行の成果です。そこで再度過ちを犯せば、さらに地獄の底に落ちていきます。でも、そこで踏みとどまれば、魂は少しでも高みに近づけます。
いっぽうで、殺された人は、ほとんど関係が無いようです。偶然やその他種々の条件が重なっていることが多いからです。それでも、自分の不注意で敢えて危険な場所を選びやすいとか、悪霊を呼びやすいことはあり得ますから、気をつけましょう。因果応報と単純に言えるほど、霊の世界は簡単では無いようです。
優れた才能や特殊な専門性は、魂の遺伝子によるものであることも多いようです。自分の可能性は無限ですから、何でも挑戦してみることでしょう。前世の自分の才能を発見したり、先祖の支援があったりするかも知れません。挑戦することは進歩の第一歩であり、神ノ道にそうものです。
【白骨化するとなぜ敬われるのか】海外での戦没者慰霊の在り方
太平洋戦争から七十年以上が経つというのに、未だ海外には多くの日本軍及び関係者の遺骨が、帰国を果たせずに眠っています。アメリカは朝鮮戦争において、アメリカ兵の遺骨収集のために北朝鮮に金を支払ったと言います。その意味では戦後の日本政府も国民も、あまりにも冷淡だったと言えるのかも知れません。そこには、あまりに大きな出来事に対しては、あきらめて受け入れてしまう国民性が関係しているのでやむを得ないかも知れませんが。
ここでは、少し別の話をしてみます。それは、「殯(もがり)」でも詳しく述べましたが、死んだ人間の肉体が朽ち果てる様は、いかに身内であろうとも、決して心地よいものでは無いはずです。正直嫌悪感すら持つと思います。ですが、それが完全に白骨化してしまうと、なぜ、意識が大きく変わるのでしょうか?不完全な死を抱えた状態から、完全な死を迎えた状態になったから、と一応の説明はつきます。ですが、もしそうであれば、すでに魂は肉体から完全に離れているわけで、残った白骨は物質以外の何者でも無いはずです。しかし、戦没者の遺骨だけでは無く、地域によっては近年まで続いていた改葬においても同様に、白骨化した遺骨を大切に扱います。
ここには日本人の複雑な感覚が隠れているように思えます。本来敬うべきは、その人の魂に対してであり、白骨に対してでは無いはずです。でも、多くの人は、その白骨という物体に宿っていた魂に対して、さまざまな思いを持っており、魂のいわば依り代のような感覚で手を合わせるのでしょう。
なぜ、このような話をわざわざ持ち出したのかと言えば、二つほど述べたいことがあるからです。
海外での戦没者慰霊の在り方
ひとつは、海外での戦没者慰霊の在り方です。以前ブログでも書いたことなのですが、遺骨にこだわることよりも、魂の慰霊に力を注ぐべきでは無いかと言うことです。誤った遺骨収集が、金で骨を買うという馬鹿げた遺骨収集方法につながり、あげくに日本人以外の現地の墓が暴かれて骨が持ち出される騒ぎになりました。DNA鑑定の結果日本人ではない遺骨が多数含まれており、さすがにこのやり方は取りやめたようです。これほどの失態を、なぜかほとんど日本のマスコミは取り上げませんでした。これでは、死んだ人達は浮かばれません。
話を戻すならば、天皇陛下は戦没者慰霊の為に多くの国々を訪問されてきました。ならばこれに加えて、より積極的に海外で戦没した方々の魂の帰国をはかるべきだというのが、個人的な意見です。
詳しくは、以前、烈風飛激(日本改革私案)に
「海外での戦没者慰霊案」というのを書きました。そちらをご参照ください。
ここには、個人的な霊的経験とでも呼べる体験も含まれています。
もう一つは、遺骨の手元での長期保管に対するもので、次項目にします。
【遺骨の長期保管は良いことなのだろうか? −納骨の意味−】
幼くしてなくなられたお子様の遺骨を、自宅に長い間置いておかれる事があるようです。不憫で手放せないという事でしょうか。せめて遺骨だけでもそばにいて欲しいという事でしょうか。そのお気持ちは痛いほどわかるつもりです。ですが、死を免れる人間は一人もいません。遅かれ早かれ、万人に死は訪れます。時に親より先の逆さを見ることもあるかも知れません。でも、致し方の無い事です。残された人間の勤めは、死んだ人の魂を成仏させてあげることです。その意味で、理由も無く手元に遺骨を置いておくことは、あまり賛成出来ません。むろんやむをえない事情があれば別でしょうが。
神ノ道で執着が良くない理由については述べましたが、それは霊的な世界においても同じなのです。仏教で49日は納骨の日、神道で50日は神になる日です。それは、死んだ人の魂がこの世からあの世に旅立つ日でもあります。それまでが、現代におけるもがりの期間なのでしょう。どんなに辛くても、哀しくても、この日を境に死んだ人の魂が迷わず成仏するために、その人への過剰な執着を断つべき日なのです。そうでないと、その故人への執着が足かせとなって、魂があの世に行く事を妨げかねないのです。あの世に行く事を邪魔された魂とは、不成仏霊に他なりません。
そうでなくても、不慮の事故や災難、幼い死など、あの世にすんなり行く事を妨げる要素は数多くあります。死んだ人への愛といえば確かに聞こえは良いのですが、霊的に言うならば、死んだ人の魂のことを何も考えない自分勝手な愛、自己中心的な考え方だとさえ言えるかもしれません。(厳しい言い方でごめんなさい)ここでも調和の心がより重要になるのです。強い愛をもちながらも、魂の成仏も願う、相反する思いの調和です。
あなたの執着が日常生活にまで影響を及ぼすとするなら、死んだ人は、それが心配でおちおち死んでもいられなくなるのです。忘れることも、無常性という自然の理なのです。
残された人の死んだ人への愛がわからないほど、魂は愚かではありません。遺骨を手元に置く形にしなくても、あなたの真心は、自然に伝わります。それを信じるべきです。
【地縛霊と災害等の現場保存】原爆ドームの保存
これから書くことは誤解されやすく、非人間的だと非難されるかも知れません。それでも、敢えて個人的な思いを述べてみたいと思います。
地縛霊というのがあります。不慮の事故や自殺、あるいは殺害されるなどしてその場所に魂が残ってしまうことです。ちゃんとあの世に行く事が出来ない不成仏霊です。ま、魂本体が成仏できても、その強い思いだけが思念として残る(残留思念)こともあるようですが。こういう霊達はあの世にも行けず、この世でさまようことになります。
大地震などの自然災害、大事故などが発生した後、最近では必ずと行ってよいほど問題となるのが、その災害や事故事件のあった場所の保存問題です。一体何のための保存なのでしょうか?大きく二つの理由が挙げられています。ひとつは、そこで亡くなった人達への鎮魂、もう一つは出来事を忘れずに後世に伝えるためです。
事件・事故などで突然命を奪われた人の魂は、それで無くても死んだことの自覚が持てなかったりして、その場所への執着と強い思いのむすびが出来てしまいます。残された人の役目は、その場所とのつながりを断ち切り、家に連れて帰り、そして本来行くべきあの世に行かせてあげることです。
それなのに、凄惨な事件や事故のあったところをそのまま保存して、魂をそこに縛り付けるかのような行為は、生きている人間の身勝手以外の何者でもありません。鎮魂といいながら、地縛霊化を進めているようなものです。したがって、鎮魂とか故人を忘れないためという目的の現場保存は、神ノ道で考えれば賛成出来ません。ちなみに鎮魂の碑を立てることは別物です。
もう一つが、後世への教訓としての現場保存でしょう。この事には積極的な反対はしません。ですが、その場合考えなければ成らないことが二つあります。ひとつは、事件や事故の原因追及及び対策問題と、後世への教訓の在り方です。欧米特にアメリカでは、事故などの原因、さらには、勝負事や戦争で自分たちが負けた原因について、しつこいほどに徹底して追求します。時に個人の責任を免除してでも、原因の解明を優先させます。それが、同じ事故の再発を防ぐ対策にもつながっているのです。残念ながら、日本では、この点があまりにもお粗末です。まず、時間がかかりすぎ、責任が発生しないように原因を曖昧にし、結局まともな対策に結びつけません。ここにも、国民性という気質が関係しているのでしょうが、戦後、サムライのように潔く責任をとる人物があまりにもいなくなってしまったことも、一因でしょう。神ノ道から少し外れました。
もう一つが、教訓として後世に伝える手段として現場保存がそれほど有効な手だてなのかという、現実の問題です。一時の感情や、被害者の関係者が生存している間は、それなりの意味があるかも知れません。でも、それが一体どれほど続き、どれほどの効果があるのでしょうか?事故を忘れても、事故が起きない対策がとられることのほうが、はるかに役立つのは言うまでも無いでしょう。それが人間に授けられた知恵であり進歩なのです。
東日本大震災の津波において、現場保存ではなく津波が来た高さを示した柱を立てている自治体があります。これこそ後世への教訓であり具体的な危険の警鐘に役立つ物です。こういう発想が必要なのだと思います。
原爆ドームの保存
それでは、広島の原爆ドームはどうなのでしょうか?基本的な考え方は同じだと信じます。もし、慰霊のためにドームを保存しているのならば、霊的にはあまり感心しません。慰霊や鎮魂はすでに別の施設がありますから、その意味で問題は無いとは思いますが。
では、原爆ドームを保存する意味や意義は何でしょうか。日本が戦争を行った事への反省だけだとするのならば、明らかに間違いです。原爆投下は、大統領ですら良く理解しないまま、アメリカ軍部がその威力を実際に試すために実験として投下したこと、明らかに民間人の無差別大量殺戮という戦争犯罪である事は、心あるアメリカ人も認めています。だからアメリカの責任を追及する道具にしろ、と言っているのでありません。
人類が愚かな戦争や武力衝突を未だにやめられない、止める手段を持たない、武力による権益保持や領土拡大が現実に行われている、正義は力によって保証されている現実、また原子力という科学技術の未熟さ、さまざまな人類の進歩と呼ばれる実態が、いかに未完成で未熟なものかを、全人類に認識させるための貴重な存在なのです。
したがって保存するのであれば、そのまま朽ち果てさせるのでは無く、例えレプリカになろうとも、被害当時のままの状態を固定することが重要なのです。
平和を希求し努力を重ねる事は鎮魂にもつながるでしょう。しかし、自虐的な自己反省だけでは、突然にその命を奪われた十万以上の魂は浮かばれないでしょう。この愚かさが、人類の愚かさである事を全人類に認めさせて、少しでも進歩していくことこそが、現場保存する意義につながるのです。同時に真の鎮魂を行う必要があります。鎮魂に思想や政治的思考や思惑も現場保存も、ほとんど関係ありません。そこを取り違えると、多くの魂が救われません。
突然に、一瞬にしてその命を奪われた魂が、簡単に成仏できるとは思えません。まず、死んでしまったことを理解してもらい、その不条理で理不尽な死への怒りや悲しみを共有しながらも、自然の理としてすでにこの世を離れた魂のあるべき姿に向かえるように、誠心誠意で向かい合うことでしょう。そうしないかぎり、多くの魂が成仏できずに迷い続け、時には地縛霊にも成りかねません。
【神と仏の違い】
第一部でも神と仏の違いについては述べました。もがりが持つ二面性によって生まれた概念かも知れないと。つまり、朽ち果ててゆく肉体と、離れゆく魂が同居している期間がもがりなのでしょう。ここでは、穢れと清浄とが同居しています。ここから同じ魂でも、仏の段階と神にまでのぼった魂とが分かれてくるとの考えが生まれたとしても不思議ではありません。
神ノ道の主要概念と照らして考えるならば、仏の段階の魂とは、よりこの世に近い、悪く言えば何らかの執着をもった魂です。その執着が薄れてゆくに従い神の魂となるのでしょう。人から神にのぼる以外の神は、はじめからこの世の事柄に対する執着とは無縁の存在です。
神としての位は、人間が後からつけたものでしょうが、ここにある種の思考の跡がうかがえます。最高位である天照大神を祭る伊勢神宮の参拝の作法では、個人的な願い事を祈念しては成らないとされています。それはこの神が、この世の個人的な事柄への執着をすでに離れて、より大きな国家や人間社会の安寧を司るからです。つまりこの世の個人的な執着性、それは個人の幸せを願うことなども含めてですが、それから離れた存在だと言うことです。
最も、融通無碍にして物わかりの良い日本の神々は、堅苦しいことは言いません。伊勢神宮でも個人的な事をお願いしたい場合には、別にある荒御霊の社を参拝すれば良いのです。こちらでは、個人的な祈念をしても構わないそうです。この和御霊(にぎみたま)と荒御霊(あらみたま)という考え方も、なかなか奥が深くてやっかいですが、すでに触れました。
いずれにせよ、この世の個人や家族あるいは一族に寄り添う魂があり、そこからこの世の個人的な意識が薄れて、より大きなくくりでの安寧をねがう魂もあるといえます。個人的な関心を離れている魂が、神だと言えるのでしょう。だからこそ、日本では、死んだ人間が仏となり、さらに力の強いエネルギーを待つ魂は、神として祭られることになるのです。
死んだ人間の魂が仏であり、そこには人間以外の魂も存在します。そこから魂がさらに高い所にのぼると、神霊となるわけです。そこにも、人間からのぼった神以外の多くの神々がおられるわけです。仏教で云う仏様達(菩薩等)もこの世界に属すると考えるのが、日本人の一般的な感性ではないでしょうか。
人間以外のタマや霊、神霊の存在が、関係性をややこしくしているようです。
【神々の眷属と神罰】
人間よりはるかに高見にいる優れた神霊の神が、人間に罰を与えることなどあるのでしょうか?この問題に、長い間悩みました。私には神に尋ねてみるような霊力はありませんので、正直結論は出ません。ですが、一応こう考えてみました。
このような話があります。昔ある人物が、ある神社に河川工事成功の願掛けをしました。その結果、それまで何度も失敗を繰り返していた難工事がようやく成功し、その人物は名字帯刀を許されて、武士の身分になれました。しかし、願掛け成就のお礼参りをきちんとしなかったそうです。その結果、その人物の家系、子孫は没落してついには絶えてしまったそうです。それは神罰が下ったのだと噂されたそうです。
約束を守らなかったのだから、その報いを受けるのは当然の自然の理だと考えれば、何も矛盾はありません。ですが、神が人間ごときに罰を与えるのかという疑問がわいたのです。個人的には偉大な神が、そんな小さな事をいちいち斟酌するとは考えづらいのです。伊勢神宮で個人的な願いを述べてはならないという話にもつながります。
また、この世は修行の場であれば、人間の努力によって万事為されるべきで、そこに神仏の手助けがあっては成らないはずでしょう。しかし、子育てにおいて、親は時に手を貸したり、導いたりします。その範囲なら、神仏も同じだろうと考えたりもします。
くどくど書きました。よくわかりませんが、仏の段階にある魂や、偉大なる神の多くの眷属は、この世の人間の願いを聞き届けたり、手を貸してくれると言うことです。なればこそ、それを裏切れば、当然報いが戻ります。それが仏や眷属の意思なのか、もっと大きな自然の理なのかはよくわかりません。ですが、二つほど言いたいことがあります。
むやみに力を持つ神に、願掛けをしては成らないという事です。もししたならば、そのお礼参りと感謝を忘れずにしましょう。神に聞き届けられるほど強い思いや霊力のある人は、特に注意が必要でしょう。では、神社仏閣で、手を合わせて祈るときはどうすれば良いのでしょうか。一般儀礼の願い事を聞いているほど神様も暇ではありませんから、気にしなくても良いでしょう。ですが、まずは日頃の無事の感謝をのべ、その日常の無事や健康をお願いするのであれば、何も問題は無いと思います。それでも、ちょっとしたことをお願いしそれがかなったなら、必ずその事を思い出してお礼参りか、せめて感謝の気持ちを伝えましょう。神棚に手を合わせて感謝を伝えるだけでも、構わないと思います。これに絡んでは低級霊の現世利益で再度述べます。
もう一つは、神は許しても、時にその眷属が、神に対する冒涜として許さないのでは無いかということです。スポーツでもめたとき、監督がなだめても選手が言うことを聞かないような感じでしょうか。こう考えると、以外に納得できてしまいます。こういう可能性も忘れないことです。
あまり細かいことを気にしすぎるのも執着につながりよくないことですが、こと神仏に関わる事は、軽く考えないことが大事です。
【ゾンビ、キョンシー、幽霊、不成仏霊】死んだ人の霊だけが霊障を起こすわけではない
成仏できない霊として、地縛霊を上げました。不成仏霊とは、いかなるもので、どこにいるのでしょうか?私にはわかりません。ですが、漫画、アニメなどで描かれる姿が、それなりの説得性を持つように思えます。
強固な地縛霊とは、その場所から離れられない霊です。この世(のそば)にいながら、家にも帰れず家族にも会えないのでしょう。他の不成仏霊は、特定の場所に縛られてはいなくても、大きくこの世に縛られている霊です。何らかの思いや未練がこの世にある霊です。あるいは突然すぎて、自らの死を受け入れられない霊もいるでしょう。死んだ自覚を持てないのです。他にもこの世に残した子供が心残りとか、やり残した事が心配でおちおち死んでもいられない等々、様々でしょう。でも執着しすぎると、それは永遠の無常性(自然の理)に背くことにもなります。その事を理解させる必要があるのです。
ちなみに、私の母親が自然死で亡くなるとき、祖母が向かえに来てくれたのに、「まだ行かない、いやだ」と言って追い返したと姉に話をしたそうです。つまり、あの世のお迎えがきてくれても、それは強制連行ではなくあくまでも自身の判断を促すだけの物のようです。
死んだ人の霊だけが霊障を起こすわけではない
一方で、死んだ肉体がおかしくなってしまったのが、ゾンビやキョンシーでしょうか。日本のお化けもこの仲間でしょう。これらは不成仏霊とは別の、魔界に近い生き物なのかも知れません。近づかないことですね。それに対して幽霊というのは、不成仏霊のすがたが、この世で見られた物なのでしょうか。日本では、妖怪など数多くの異界の生き物が存在します。それらは時に人間に対して、悪さを仕掛けたりします。こうしてみると、悪さやいたずらをするのは、死んだ人の霊ばかりでは無いようです。
一方で、座敷童のように、かわいくてしかも幸福をもたらしてくれる童までいます。良い霊や悪さをしない異界の住人とだけつきあいたいものですね。
【現世利益】低級霊の現世利益/この世に関われる多くのタマ/守護は利益供与ではない
亡くなった先祖などの仏の霊を慰める、成仏させるためのやり方と、現世での利益や守護を仏からもらうようにするやり方とは、作法・業法が違うという話を聞いたことがあります。ですが、そのような方法論などに頼りすぎると、思わぬ落とし穴に落ちそうです。
低級霊の現世利益
長い間生き続けた狐がついに妖力を得て、九尾の狐となるのは有名な話ですが、狸、狐、かわうそ、ムジナ、カッパ等々、動物にたとえられるレベルの霊は存在するようです。人間の霊でも神霊でもない存在です。彼ら(彼女ら)は、気まぐれで簡単に人間の願いを聞き入れたりします。もちろん、見返りを要求した上でのことが多いのですが。
ちょっとした現世での利益、例えば宝くじが当たるようにと言う願を、小さなほこらなどでしたとします。真にその人を思う神仏は、その人の魂の修行に役立つかどうかの観点から判断して願いを叶えるかどうかを決めます。ですから、およそ簡単に聞き入れることはありません。ですが、そのあたりにいる低級霊は違います。狐は油揚が欲しいので、簡単にその願いを聞き入れてくれたりします。で、その後、お礼の油揚げがたらふく食べられなければ、逆に悪さをします。それも相当にひどいことを。怒りにまかせて、場合によっては、家族の命を奪うことすらやりかねません。そうでなくても、いたずらをするのは彼らの日常です。
この世に関われる多くのタマ
第一部で、この世の多くのモノにはタマが宿ると述べました。狐や狸の霊だけではなく、カッパや、ムジナや妖怪の類いは数多く存在します。不断野われわれに、彼らが直接接触することはほとんど無いのでしょうが、願掛けとか、欲望を募らせるなどしたとき、波長が合ってしまうと、たちまち出現してしまいます。これらの低級、低俗な霊ほど、現世利益をかなえてくれてしまうことを知っておきましょう。それは、非常に危険な事だと言うことも。タマを持つのは死んだ人ばかりではないのです。
守護は利益供与ではない
神仏のご加護や守護というと、ついでにこの世での目に見える利益をもらえるのでは無いかと、考えがちです。それは違います。子供を躾けながら、徐々に自分で行えるように仕向ける。あるいは、勉強の答えをすぐ教えるのでは無く、ヒントなどで考えさせて自分で解答を導き出させる。それが普通ですね。神仏の守護とはそのようなものなのでしょう。簡単に利益を直接渡していたのでは、魂の修行になりません。それどころかむしろ怠惰な魂を作り、高見では無く低いところに落としてしまいます。
守護とは、本当に危険な状態から人知れず救ったり、あやうい場面に遭遇しないように少しだけ仕向ける。そのようなことだと思います。時に不幸のどん底に落とすこともあるかも知れません。その人の魂がすでにそれに耐えられるとみなせば、修行の難易度を進めるわけです。
神仏の加護は、その時の人間にはまずわかりません。無事で安穏な日常のありがたさは、何か大きな災害などがあってようやく自覚するのが人間の常です。
神仏の大きなご加護や守護の在り方と、小さな現世利益とを混同しては成りません。
【地獄にも落ちられない魔】魔にとりつかれるのも自分のせい
殺人など罪を犯したり、他人に迷惑をかけたり、強欲であったり、さまざまな理由によって、人は死んだ後に地獄に落ちることがあります。地獄という場所があるとは思えませんが、成仏してより高みに上り神に近づくのが本来の道であれば、それとは逆の方向に進むことなのでしょう。それでも、地獄に落ちた魂は、芥川龍之介の蜘蛛の糸ではないですが、まだ救われる可能性を秘めています。もう一度修行の場であるこの世に出てこれれば、少しでもやり直せるからです。しかし、悪行や悪い思念で凝り固まり、それがある限度を超えたとき、その魂は地獄に落ちることさえも出来なくなります。どうなるのか、魔界の住民になるのです。
こうなると、もはやこの魂を救うことは神でも出来ません。なぜなら、神が魔の前に姿をあらわしただけで、神の聖とは真逆な悪の魔は、その瞬間に完全に消滅してしまうからです。同じ質量でプラスとマイナスの逆の電化を持つ物質が出会うと消滅してしまうのと同じでしょう。魔になるともはや地獄に落としてやることもかなわず、無常の繰り返しからもはじき出されてしまうのです。
この完全消滅の逸話は、世界中の宗教にありますから、人類に共通の思い、感覚なのでしょう。この魔こそ、この世を大きく乱すさまざまな悪行を為す主犯の一人です。魔になってしまった魂は、もはや救われることがありませんから、あらゆる正しい道からはずれ、魔としての道を歩みます。それは神に見つからないようにしながら、ひたすら魔の仲間を増やそうとする事です。それ以外には、もはやいかなる望みも持ち得ないのですから。「魔が差す」まさにそれを実践するのです。
魔にとりつかれるのも自分のせい
魔が差すとは、ちょっと悪いことを考えたり、小さな悪事を実行している人間の魂の隙につけ込んで、さらなる残虐な殺人などをするように仕向けることです。魔に魅入られた人間はもはや逃れるすべはありません。なぜなら、常に正しい道を歩む魂には、魔はつけいることなど出来ないからです。魔がつけ込むのは、その魂にあってはならない隙があるからに他成りません。その隙を作ったのは自らの行いなのです。そして、魔に憑かれた人間はむろんその事を自覚することが出来ません。
最近、未成年者による、同じ未成年者を集団で暴行して殺してしまう、残忍で悲惨な事件が後を絶ちません。そのすべてに魔が絡んでいるとは言いませんが、おもしろがって後先も考えずに、無抵抗な人間に暴力を振るう事にわずかでも快感を覚えるとき、魔にとってこれほど大きな入りやすい隙は無いでしょう。いわゆるとりついて、殺すまでやり続けさせます。頃好きは無かったとほとんど加害者が逮捕されてから言い訳をします。それは、自分が不利にならないようにと云う計算もあるのでしょうが、はじめはおもしろがって暴力を振るっていただけなのに、そこに悪霊や魔が荷担すると、もはや自分の理性は封じられてしまうのです。きがつけば、魔の思い通り、相手を殺してしまっているのです。いわば、殺す自覚を持たずに殺しているのです。
そんな状況を見て、魔はそれを自らの喜びと感じ、仲間が増えたことに満足して、さっさとそこから逃げてしまいます。指導霊も守護霊も、魂自らが招き寄せた魔を祓う力はほとんどありません。もっと言えば、それ以前に、穢れて言うことを聞かない汚れた魂を守ってはくれません。自己責任なのです。
加害者達は未成年だとして刑務所行きを免れたところで、死後に待っているのは地獄です。さらに殺した相手のすさまじい恨みも受け続けることになります。それは、相手の魂が成仏して許してくれるまで、何度生まれ変わっても消えることはないのです。
戦後、物わかりが良くなりすぎたために、子供に正しい道を叱ってでも教えるおとなが少なくなってしまいました。やれ人権だの権利だのと、幼い未熟な魂を正しく導きもしないで放置した結果が、今のさまざまな悪いことを悪いと思わないゆがんだ社会を生み出してしまったのです。悪の芽は小さなうちにつんでしまえば、大きくならないことは心理学の研究などでも実証されています。躾けを拒否した親や教育者は、汚れた魂、未熟な魂をたくさん作り上げて、ますます魔界の住民の候補者を増やし続けているのです。
神ノ道において、人間に与えられた厳しい自由とは、このような事も含めて考えねば成らないのです。
【感情(思い)を持つことは悪いことなのか】
こうしてみてくると、そもそも様々な感情(思い)を持つことが、問題の始まりのような所があります。人を憎む感情が無ければ、恨みも生まれないのでは、そう考えてしまいます。ですが、それは必ずしも正しくはないでしょう。感情がいけないのでは無く、あるひとつの感情にとらわれる事がいけないのです。
現代社会で、命さえ縮めてしまうストレスは、大きな問題になっています。ですが、ストレスは、人類が太古の昔に肉食獣から逃れるために生み出した必要不可欠の物なのです。問題なのは、それが一瞬のこととして終わらないことなのです。ストレスが生まれてももすぐ消えてしまえば、さして害には成らないのです。現代社会では、ストレスが絶え間なく襲い、長い間持続してしまいます。それがいけないのです。研究では、ストレスがまったくない個体より、ストレスを受けた個体の方が寿命が長いこともわかっています。
ストレスを感情に置き換えて考えれば、執着しなければ感情もむしろ好ましい物だと言うことがわかります。愛があるから、人類はその種を維持できているのです。それが昂じて憎しみに変わり、それでも止まないとき、その思いが生き霊や死霊と化してしまうのです。神ノ道の「執着しない」大切さがここにあります。
(参考資料)日本人の気質
補章 ストレスと日本人
【24時間恨み続けられるなら神になれる】
死んだ人への執着を断つことの重要性を述べました。加えるなら、死んだ人への思いを二十四時間365日保ち続けられるのならば、反対はしません。考えて見て下さい。どんな愛情も、あるいは憎しみや恨みも、人間は二十四時間365日同じ感情を維持し続けることは出来ません。食事をしている時間に、排便の時に、寝ているときに、そのすべてにおいて一瞬の隙も無く同じ感情を持つことなどあり得ないのです。もし、それが出来たなら、その魂は間違いなく神になるでしょう。それほどあり得ないことなのですから。
愛憎は人間の思いのなかでも強力なものなのでしょう。なればこそ、それを制御する自律心(自らを律する心)を強める必要があります。その時、役立つのが、この二十四時間続けられないという事です。忘れている、他のことを思っている、その時間を少しずつ広げていけば良いのです。
誰か異性(同性も)に振られたのなら、その人を恨むのでは無く、さっさと忘れるために、別の人に積極的に近づいて新しい愛を獲得しましょう。たとえ片思いでも良いのです。浮気性と言われても、薄情と言われても良いのです。常に無常を認識しながら、精一杯生きていくことが大切なのですから。そうすれば、精神の病に罹ることも無くなります。
【どの神や仏を信仰すれば良いの?】神仏もご縁/神の勧請
八百万の神々がおられ、仏様も実に数多くおられます。一体どなたを信じて手を合わせればよいのでしょうか?どう考えれば良いのでしょうか?これまた、霊能力のない私にはよくわかりません。勉強した僧侶や神官なら、答えていただけるのでしょうか。
神仏もご縁
けっきょくは、神と人との関係も、ご縁なのだと思います。ご縁のない神仏にいくら手を合わせても、御利益やご加護はいただけないでしょう。畏敬の念を持ってすべての神仏に手を合わせることは、また別の話で、それは是非とも行うべき重要なことです。ここでのご縁とはもう少し下世話な話です。
神道書で神棚に祭る神(お札)の種類について、こう書かれています。自分が信仰崇拝する神、氏神、天照大神のお札をお祭りすべしと。天照大神とは、日本人全体の氏神様とか絶対神に近い神ととらえることが出来るかも知れません。氏神様というのは、その一族の守護神のことで、昔は一族が集まって住んでおり、そこに一族の守り神の社もあったので、地元の神が氏神でもあったのですが、今では別になってしまいました。そして、氏神は神話では高天原から下ってきたあるいは元々地上界にいた神の子孫が人間になった時、その先祖の神を一族の氏神としています。あるいは、一族の先祖で、神になったのが氏神です。
そこで、こんな風に考えています。神棚にどの神を祭るかは別として、自分や家族に関わる神としては、自分が崇拝する神、守護神、地域の神を考えています。いずれもご縁があるからこそ関わっているのでしょうから。氏神は一族の守護神であり、昔は引っ越したときにその神を持っていったので、地域の神でもありました。
自分が崇拝する神は、これこそご縁でしょう。生まれてから物心ついたら、この神様を崇拝していたという神がおられればそれもよし、自分が思うことがあって祈念した神で自分を守護してくれると感じる神でも良いのでしょう。ただ、やたらとあちこちの神社に掛け持ちしない方が良いようです。
守護神は、なかなか難しいと思います。氏神様という形で一族を守護してくれる神は必ずおられるのでしょうが、それとは別に個人を守護してくれる特別な関係性を持った守護神がおられるようです。しかし、それがどなたなのか、残念ながらほとんどの人にはわからないはずです。偶然私は、行者によってその守護神を教えてもらいましたが、なんと三柱の神が次々と変わっていきました。生涯変わらない守護神をもつ場合も、何らかの理由によって守護神が交代される場合もあるようです。ですが基本的には、個人的に関係の深い守護神がどなたかは、知り得ないと考えた方が良さそうです。実際、きちんとしたお祭りが出来なければ、守護神も働けないのですから。
鎮守の森のお社のイメージを持つ地域の氏神様。本来は一族の氏神様だったのでしょうが、現在では、その地域の守り神と考え、そこに住まわせてもらう住民はみな氏子です。10回も引っ越しをしている私ですから、地元の神様と深くつきあうことはありませんが、それでも、年末には感謝の、年明けにはご挨拶の参拝はさせていただいています。それだけでも、誠意は伝わるのではないでしょうか。
神の勧請
勧請(かんじょう)とは、神仏の来臨を願うことや、神仏の分霊を請(しょう)じ向かえることです。ここでは、後者の話です。
小さな社を自宅内に立てたり、神を勧請してきて、盛大に祭る人もおられます。ここで注意が必要なのは、本当に神のお祭り、つまりはお守りをすることが出来るかどうかです。仏教の特定の宗派では、神を法力によって封じるという神の勧請をおこなう宗派もあります。その封じた物を神の依り代あるいは分霊として神棚や社に治めるのです。ここまでした場合、なおさら日々の神を祭る事がきちんとおこなわれなければ、むしろ大変な事になる場合もあり得ます。お守りをするだけの力が無い、あるいはその気が無いのに、やたらと神を勧請する事は避けるべきでしょう。そうではなく、お札をいただいてきて祭り、一年後に古札をお返しする、それで十分でしょう。
もしも勧請した神がある場合には、それをお戻しする事をきちんとやる必要があります。これは勧請を依頼した僧侶や神官なら、行えるはずですから頼みましょう。わたしは、両親の守護神の勧請を解いてもらうとともに、それぞれの神の本社にお礼参りやお札のお返しを致しました。なにごとでも、後始末が大切なのです。ですが、子供達や子孫がそれを知らなければ、神をおろそかに扱うことになって、かえって不敬となり、良いことはありません。ときには、眷属の怒りすらかうかも知れません。気をつけましょう。
では、仏はどうなのでしょうか。日本の仏教は神ノ道にそうものですから、同じように考えて構わないと個人的には思っています。たとえば、仏壇に飾る本尊。宗派毎に異なります。ですが、それもまたご縁のある神(仏)かどうかなのでしょう。縁無き神仏は、通りすがりの神社仏閣に手を合わせるのとさして変わりません。ただ、個人的には、それでも毎日手を合わせていると、その本尊につけられた名前とは別の神仏霊が、そこに入り込んでくるような気がします。先祖霊のひとつなのか、氏神の使いなのか、それとも...わかりません。でも守ってくれるのなら、表面上の名称などどうでも良いというのは、言い過ぎでしょうか。その名前の持つ言霊への崇拝は維持しながらも、そう考えれば、気が楽になると思います。
戦国武将なども、○○天、○○菩薩などとさまざまな仏を信仰していましたが、結局それはみな名前は違えども、ご縁のある神々だったのでしょう。日本人が「仏」と云うとき神と死んだ人の魂の2種類が含まれるわけです。仏教界が、それをどう受け取るかは知りませんが、仏教受容の歴史からもそれは見て取ることができることです。
【神を祭る】
ここで神道の根本とも云える、神を祭る事について触れてみたいと思います。これも学問的な研究などを含めると、1冊の本が出来てしまう内容ですから、全体を見ることは出来ません。それでも、どうしても認識しておくべき事が行くつかるように思えます。
まず、そもそも神を祭るという行為は、何を目的として行われるのかという事があります。祭るという言葉にはいくつかの意味があります。
1)儀式をととのえて神霊をなぐさめたり祈願したりする。
2)神としてあがめ、一定の場所に安置する。
他に人間社会で、人を祭り上げるなどの意味もありますが、ここでは直接関係ありません。2)の神社や神棚に安置するのは、1)の目的のためですから、結局神を祭るとは、神霊をなぐさめたり、あるいは逆に祈願をするために儀式を執り行うことだと云うことに成ります。神社に参拝して、手を合わせ拝礼するのも儀式のひとつです。
縄文のはるか昔から、宗教祭祀と呼ばれるものが存在しています。それほど古い、つまり人間の信仰心の初期の姿だと云えるのでしょう。
畏敬の念を持って接する神という大きな存在と、ちっぽけな人間とをどうやって結びつけるか、どうやって人間の思いをわかってもらうか、それが始まりなのではないでしょうか。万能の神にとって、儀式などを執り行わなくても人間の考えてることや思いを知ることはわかるはずです。それでは、人間側が満足できません。自分たちの神への感謝と安寧の祈願の思いを確実に神につたえるために、真心を尽くす姿、それが儀式なのでしょう。
ここから先は、知性によるさまざまな形や考え方が加わった結果だと思えます。本質は、神と人間との交流の場なのでしょう。かみもまた、それを喜んでいるのです。なぜなら、神はさまざまな魂の進化、向上を願う存在だからです。神々はそれぞれの与えられた役割を持つようですが、共通の役割が、タマ特に人の魂の高見への向上であると思えるのです。
神輿は、神が乗る乗り物だと理解していれば、そこに人間が乗るなどと云う馬鹿げた行為は畏れ多くて出来ないはずです。神ノ魂も衰えるので、それを振る(たまふる)ことで再生を願うという考え方が、学問的には広く普及しているようです。それは、神ノ道の基本である、無常性と永遠性から考え出されたものです。神といえど無常性からは、逃れられないとは思いますが、さりとて人間のように衰えるとも思えません。ただ、神々にすれば、そのようにして思いを伝えてくる人間のことをうれしく感じているのではないでしょうか。
神を祭るとは、神と人とが一体になる場を作り上げる根本が理解出来れば、後は何でも了解できるのではありませんか。単に届く高い柱を立てようが、神輿を海に入れようが、神社の儀式を夜に執り行おうが、神官が祭りの前に禊ぎをする事も、すべてが納得出来るのです。
ひとつだけ気をつけないといけないことがあります。大きな神社などでは、おつとめとして、食事(神饌)を毎日欠かさずにお供えします。これもいわば儀式になりますが、このような日常的なおつとめを欠かさずにやることは、大変です。しかしそれを続けることが、人間の神への思いの表現であるとしたなら、中断する事は、自らの神への思いがそれほどでも無かったことにも成ってしまいます。だからこそ、戦争中でも、絶やすこと無く続けられたのです。継続を止めない覚悟を持つことは、宗教祭祀の重要な点です。
家々の神棚も同様でしょう。どうしようもない場合を除いて、決めたことをサボることは神への冒涜となります。それが続けば、神は離れていきます。神がいなくなってしまえば、そこには、低級な霊が入り込んでしまうこともありますから、要注意なのです。古い家の庭にある社が荒れ放題になっているとき、そこに低俗な霊障の話が物語にも出てきます。これは、そういうことなのです。
【供え物】
さまざまな祭祀の形がありますが、その中で日本人にとって当たり前の行動が、神仏や死んだ人へのお供えでしょうか。これも、人間の畏敬の念の表れなのでしょう。感謝と尊敬の念、祟りなどの怖れの念が混じる複雑な感情がそこにみえます。
それはさておき、神にお供えした食べ物は、下げてから人間がみんなでおいしくいただきます。(直来)神々は、この仲良くおいしい物を食べて喜んでいる姿を見るのが何よりうれしいのです。ですから、お供えする物は、人間にとって最上と考える物で良いのです。人間にとり、珍しい物、おいしい物、旬の新鮮な物、それらが最上の供物です。だからこそ、御神酒が欠かせないものになっているのです。古代において酒は、貴重な物だったのですから。般若湯とか何とか言って、僧侶も酒をたしなみます。神ノ道にかなったもので、批判されるべき物ではありません。
アイヌでは熊を仕留めたとき、その一部を神に捧げます。感謝と、熊が無事にあの世に戻り再びこの世に来てくれることを祈るのだそうですが、供物に忌避すべき物は本来はないのです。ただ、清浄を好まれる日本の神々は、次第に獣の肉や、不浄の血を避けるようになったのかも知れません。
一方で、仏壇で仏に備えた物は、後で川や海に流して供養するのが本来の姿でした。神に供えた物は、神の正のエネルギーがついているのでそれをいただく。逆にまだ成仏できていない仏もいるであろう仏様達へは、供物を完全にあの世へ届けるとともに、汚れているので口にしないという事だったのでしょう。しかし、現代ではそうもいきません。おさげしたら、ありがたく頂戴しましょう。食べ物を粗末にしない事も、神ノ道です。ただ、彼岸やお盆などで長い間上げた物は、別の袋に入れて塩をふり、そのまま燃やす(燃えるゴミに出す)のもよいのではないかと考えています。ようは、それぞれの思いでしょう。
【生きた人間を神のごとく崇拝するのはインチキ宗教】
無宗教だという人が多数派の現在の日本ですが、それでも、実に多くの宗教があり、教団と呼ばれる組織もあります。ちいさなものから、政治を動かすほどの力を持つモノまで実に様々ですが、おかしな宗教や教団も見受けられます。
宗教や信仰の名を借りた詐欺集団も多いので注意が必要です。インチキ宗教である事を見破るには、いくつかの視点があるのでしょうが、基本は神ノ道で示した概念を否定するような集団は、眉唾でしょう。ここで神ノ道を持ち出したから、神を認めない仏教系のすべてがインチキだというのではありません。誤解しないでください。そうではなく、仏教といえど、日本の仏教では、神ノ道の無常性や執着しない、調和が大切という根本概念を否定することはないからです。これは知性宗教以前の信仰心に目指すものです。これを否定する宗教は、知性宗教としては認めても、感性宗教としてはどうなのかという事を理解した上で、その宗教を信仰していただきたいのです。
ですが、もっとインチキ宗教として避けなければ成らないのが、実在する現実の人間などを教祖とか何とか呼んで、崇拝させる宗教です。神が、この世に姿を現していたとしても、自らを崇拝、参拝せよなどと云うことは、まずありえないでしょう。人として尊敬したりする事はあっても、神の代わりに崇拝することなどあり得ないことです。そんな事を強要する宗教は、すべてインチキ宗教ですから、気をつけましょう。
同じように、人間社会の約束事を否定するのもインチキ宗教です。神ノ道の神は、病気なら病院に行けと云います。それが正しい神の教えです。なぜなら、知性を人間に与えたのは神なのですから、それを否定などする事は無いのです。むろん、そのうえで、神仏の力が必要なときも確かにあります。ですが、頭からそれだけを持ち出すのは、どこかおかしいと考えるべきです。この辺の微妙な差を理解するのは難しいかも知れません。まずは、常識で考える事でしょう。霊的なものはその後の話です。真に必要であれば、祈念しなくてもご加護や守護は、為されているのです。それをいちいち人に告げたりなどしません。
インチキ宗教に引っかかることは、正しい神ノ道に外れることですから、むしろ神仏の守護が無くなります。その事を肝に銘じておきましょう。
【何でも運命とか宿命とか云うのは間違い】
あらかじめ生前から決められている事柄が宿命で、この世で変えられるのが運命である。あるいはその逆。などと云われたりします。
因縁だの生前の影響だのと云っておきながら、いまさら、宿命や運命などと云う決められた事柄など無いというのは、少し憚(はばか)られますね。宿命や運命が全く無いとは云いません。ですが、あまりにもそういうことに縛られないで欲しいのです。
生前に決められた約束事(宿命/運命)であっても、必ずしもそうなるとは限らないと云いたいのです。ある知人が、それほどの歳でも無いのに無くなったとき、「まだ寿命はあったのだが、働き過ぎて身体を酷使したために早死にしてしまった」といわれました。いくら寿命があろうとも、肉体というぬいぐるみが先にだめになってしまえば、どうしようも無いわけです。逆に、身体を大事に使えば、寿命を越えて生きることもあるのです。事故や事件に巻き込まれて死んだ場合でも、それが仕方の無い事だった場合と、偶然や不注意だった場合とあるわけです。
もちろん宿命として定められた事から、逃れることが出来ないのも事実でしょう。しかし何でも宿命や運命だと決めつけるのは間違いなのです。宿命ですら変わるのですから、自分の生き方を自分の意思と責任で決めて、精一杯生きていく事が重要なのです。せっかく明るく楽しい人生が運命づけられていたのに、自分の心の迷いが魔を呼び寄せれば、すべては水泡に帰します。
運命だろうが、宿命だろうが、強い意志で変えられるだと信じてください。精一杯に生きてそれでだめなら、後悔も無く、この世への執着も持たずに、あの世へと旅立てます。
【生きる目的 −この世は修行の場−】修行から逃げない/苦しむことだけが修行ではない/修行はだんだん厳しくなる
この世は、魂の修行の場です。したがって、苦しみや悲しみや怒りなどの厳しい生活が待っていても、ある意味では当然のことなのです。それらのさまざまな苦行を乗り越えて、成長していくことこそが、この世に生まれ出る理由です。従って苦労が多いと言うことは、それだけ多くの修行を積んでいることでもあります。
本来の仏教では、この世は苦しみの多い世界で、ここから抜け出すことが仏教修行の目的でした。神ノ道は全く違います。この世でちゃんとした修行がつめれば、あの世に戻ってから、一段高見にのぼることが出来るのです。その繰り返しによって、次第に魂がより高次な段階に達したとき、もはやこの世での修行の必要がなくなる、つまり生まれてこなくなるのです。神道は仏教の思想を取り入れたという人達がいますが、それは全くの誤りでしょう。根本的な輪廻やこの世のとらえ方が違うのです。むしろ、今の日本仏教は、神ノ道の感性を取り入れた物であることは、各派の宗祖の考え方を良くみればわかる事です。彼らは、この世を忌避すべき悪しき場所とは云っていないはずです。
ただ、この世が修行の場であるかはさておいても、苦しみや悲しみの多い場である事は確かなのでしょう。ただそれをどのように自分の生活に活かしていくか、そこが重要なのです。
修行から逃げない
では、この世での修行を逃げたらどうなるのでしょうか。どうも成りません。あの世に戻っても魂は高見にいけないばかりか、場合によっては汚れてしまったその重みで地獄に近づくだけです。ムジナに頼んで宝くじを当てさせ、一生贅沢に暮らして終わる、そんな修行をサボった魂は、下に落ちるだけです。といって、ささやかな楽しみで宝くじを買うことが悪いのではありません。私も時々買います。でも、当たりません。修行の邪魔をしないように、自分には当たらないのだと言い聞かせていますが!
どんな境遇であれ、どんな出来事であれ、そこから逃げないで、一生懸命日々を暮らしていく。それが修行するという事なのです。いわゆる滝業など仏教の修行も修行の一部でしょうが、普通に暮らしていく日常こそが修行です。これを里の修行と呼ぶ人もいるようですが、呼び方などなんでもかまいません。
苦しむことだけが修行ではない
修行というと、苦しいこと、辛いこと、いやなこと、とつい思いがちです。そうではありません。楽しいことも、うれしいことも、さまざまな事を経験して心が豊かになるのも修行です。恋愛を拒否する現在の日本人は、結局、せっかくある恋愛という修行の機会を捨てているのです。愛して、恋して、もだえ苦しんで、切なくて、そして最後に振られてしまうとしても、その経験は魂の経験でもあり、魂がひとつ大人になることを意味します。せっかく与えられたこの世に生きるという機会を、最大限に生かしましょう。
もうひとつは、勉強だって、嫌々やれば苦しみですが、好きな科目を楽しみながらする勉強もあります。修行も同じでしょう。人生という場を楽しみながら、明るく笑いながら過ごす、それも生き様の修行のひとつです。一所懸命に生きる、でもいかなる事にも強く執着しない、それが修行の在り方です。
苦しみもがくことだけの人生よりも、どんな境遇にも喜びを見つけ、明るい明日を目指して生きていく。同じ修行なら、どちらが良いかは言うまでも無いでしょう。ただし、苦しみを逃れるために、己の欲望のままに生きたり、自己の利益だけに執着する事は神ノ道に最も外れることで、修行には全く成らないのです。
修行はだんだん厳しくなる
学校の勉強がだんだん難しくなるように、魂の修行もだんだん厳しくなるようです。何度も生まれてくる内に、修行段階が進むのでしょう。進むか下がるかは、その人のこの世での行いと考え方次第でしょう。金持ちで何の苦労もなさそうな人をうらやむ必要はありません。なぜなら自分よりもはるかに幼い、修行が始まったばかりの魂かも知れないからです。逆に、乞食のような生活をしながら生き生きとして眼が輝いている人は、もう修行も最終段階なのかも知れません。この世の姿などからは、何も推し量ることは出来ないのです。ある人を見て、不幸な一生だったと思うのは人間世界の話で、本人の魂は大満足であの世に帰ったかも知れません。
この世のことは一場の夢と多くの日本人は詠い、そういう話を残します。それは、多くの日本人が、この世の意味をおぼろげながらにも修行の場と感じているからではないでしょうか。
【神はいかなる強制もしない】
神ノ道の難しさは、その自由な意思の尊重にあると言いました。知性宗教の多くが、何らかの戒律や教義や、その他さまざまな制約や約束事を信者に課しています。一見すると厳しい要ですが、人間は決められた枠の中で過ごすのは、それほど苦痛でも大変な事でも無いのです。決められたことだけ守れば良いのですから、しかもそのほとんどが外から見てわかるような行動規制がほとんどです。神ノ道は、人間のそして魂の自由意思を最大限尊重します。基本的には、決して強制はしないのです。
悪事に走ろうが、欲望に溺れようが、人を殺そうが、神は黙って見ています。むろん、関係のある神々や守護霊などの仏達は、何とかしてそれをわからせようと努めます。でも基本的に、力ずくではしないのです。良い方向に向かうのも同じです。しどうし、機会を与え、わからせようとします。でも最後に水を飲むのは本人なのです。それが神ノ道における修行という事なのですから。
神ノ道の厳しさは、この後です。この世での修行結果は、そのままあの世で魂の修行に直結します。いかに魔に仕向けられたとしても、人を殺せば地獄に落ちます。すべて自己責任なのです。無常性と永遠性に基づく自然の理に従いながら、執着をせず、調和のとれた道を一生懸命に歩み続けること、それが神ノ道の求める自由意思、自己選択の自由なのです。ある意味で、世界で最も厳しい宗教の教えでは無いでしょうか。どこにも正解が無いのです。誰も教えてくれないのです、いや知らないのです。
これもすでに述べたことですが、再度付け加えるなら、難しいのは、表面的な行為、行動は、神ノ道の本質においては何ら評価されないという事です。いくら大金を寄付しても、それが自己満足や見栄であるなら、何の意味も持たないと云うことです。ま、かろうじて、それで感謝する人の感謝の念が、蜘蛛の糸ほどの役には立つかも知れませんが。すべては心です。あなたは、純真、純粋な無辜の心を持ち続けていますか?
【自殺は神ノ道に外れる】
年間3万人を越えていた自殺者数が、ようやくここ何年か下回るようになってきました。とはいえ相変わらず、自殺者数は少ない数ではありません。最近は、いじめなどを原因の一つとする子供の自殺が目立っています。感性が豊か、すなわち感受性が鋭いと言うことは、感情的にもなりやすい。そのうえ、日本人全体が物事を悲観的にとらえる気質を持つといわれています。それが、自殺の多い原因の一つなのかも知れません。ですが、もう少し神ノ道を理解出来ていれば、自殺も少なくなるのでは無いかと思うのです。
せっかくこの世に魂の修行に出てきながら、自らそれを放棄してしまうというのは、せっかくの機会を無くしてもったいないだけでは済まないことなのです。与えられた生命を自ら放棄する権利など、いかに神が人に自由を与えていても、許される物ではないからです。自殺した霊は、結局生まれる前よりも深い闇に地獄の側に落ちてしまいます。与えられた境遇で、与えられた寿命をまっとうすることが、まずは第一なのです。どんなにへたくそな芝居でも、芝居を終わりまで務めることが役者の使命です。肉体というぬいぐるみを脱ぐのはその後の話です。
感受性が豊かな他にも、日本人の気質には特性があります。それは強い精神力です。子供の時から、強い精神力を養うことで、その場から逃げる勇気を持って欲しいと思うのです。いじめられたら、そんな学校はやめ、それでもだめなら、どこかに引っ越してしまう。そんな強さを養って欲しいのです。
寿命は決められているから、自殺も寿命なのだと考えるかも知れませんが、それは違います。天から授けられた寿命はまだあるのに、無理して働き身体を酷使したために、寿命よりも早く死んでしまった人の話を書きました。ぎゃくに、寿命を越えて身体の健康を保って生きた人もいます。自殺は、寿命ではありません。自ら寿命を放棄したことなのです。
家系の因縁の項目で、家の因縁で相次ぐ自殺をした姉妹の話を書きました。寿命でもなく、因縁が原因の物も中にはあるでしょう。しかし、それはごくごくまれな事例です。この場合でも、逃れることは出来たかも知れません。この世の出来事は、運命とか、因縁とか、偶然とか、本人の意思とか、実に様々な物が複雑に絡み合って進んでいるのです。何でも霊障としたり、因果応報と考えたりするのは間違いです。神ノ道の調和の難しさは、すでに色々と述べてきました。そう考えるとき、自殺もまた止められるのだと、強く思い、生きたいと念じて欲しいのです。
ここで詳しく述べる力はありませんが、昔の武士が切腹をするのと、自殺とは明らかに違うものです。現在の多くの自殺は、あくまで自己中心的な思考によるものなのです。
【世のため人の為に尽くす】施し過ぎれば修行の邪魔になることも
世のため人の為に尽くすことが、生きている人間の務めだと、多くの日本人は考えています。それは義務などではなく、生きていく意味であり、喜びでもあるのです。科学の進歩は、次第に神ノ道にも迫れるようになりました。最新の脳科学や心理学の研究によれば、人間は自分がお金をもらうよりも、それを他人に分け与えて、相手が喜ぶ姿をみたときのほうが、より大きな喜びを感じるそうです。まさに「情けは人の為ならず」なのでしょう。
神ノ道で考えれば、世のため人の為にという事は、自分だけよければ構わないと考える身勝手さや、自分の欲望にだけ執着しないための防波堤でもあります。この気持ちをはじめから人は与えられているからこそ、魂の修行も楽なのです。もし、この気持ちが全く無かったら、自分の欲望を抑えるのにどれほど苦労するでしょうか。
戦後の焼け跡から企業を興した多くの名経営者は、みな当たり前のように会社は公器であり、社会のためにあるのだと発言していました。心からそう思っていたのです。ですが、バブル期とりわけバブル崩壊後、アメリカ流が正しいというゆがんだグローバリズムがはびこり、会社は株主のものだなどという愚かな経営者が続出しています。ここには、自己中心的な考えだけで、世のため人の為にという当たり前の考えすら存在しなくなっています。魂が、薄汚く汚れきっているのでしょう。これでは、この世に出てきたかいがありません。残念ながら彼ら(彼女ら)は、死んでから後悔するまでは、なかなか気が付かないのでしょう。神ノ道の自由意思による判断とは、かくも厳しい物なのです。
他人に施しをするのは、決して上から人を見下すような行為ではありません。人への施しは、過剰な哀れみや優越感を持って行っては成らないことは言うまでも無いことです。それでは、ますます自分の業(ごう)を増やすだけです。それは小さくても、積もり積もって視界を遮り、正しい思考を妨げてしまいます。汚れた空気が身体を蝕むように、魂を蝕むのです。人への施しは、小さな応援歌であり、それをともに謳うことの喜びの共有です。それが自らの修行にも結びついて魂の浄化ともなるのです。
施し過ぎれば修行の邪魔になることも
相変わらず難しいのが、調和させることです。アフリカなどの発展途上国への援助のありかたが、一時大きな問題となりました。貧しいから食べ物を与える、物がないから与える、そんな援助が人道のかけ声の下に実に長い間続きました。しかし、いくら多額の援助をしても、それらの国々や人々は何も変わらず、常に貧しく、常に物を要求し続けました。結局、人間を家畜のごとく考える援助など、真の援助ではなかったのです。苦しくても、自ら少しずつ働いてお金を稼げるように支援する事こそが、真の自立のための援助だったのです。
新興国だけではなく、今世界の多くの資源大国と呼ばれた国々が、同じ問題に直面しています。このまま資源価格が下落し続けるならば、世界の紛争の大きな火種にもなるでしょう。人類の進歩とは何だったのかが、今問われているのです。資源小国日本は、いずれ自前の資源を手に入れられるようになっても、同じ轍を踏まないためにも、この事は肝に銘じておくべきです。
国際援助の話を持ち出したのも、神ノ道でも同じ事があるからです。たとえば、一人の困っている人を支援し続けることが、本当に正しいのかどうかと言うことです。もしかしたら、その人はこの世の修行の一環で貧乏だったのかも知れません。とすれば、それを助けるのは、せっかくの修行の邪魔をしてしまうことになるのです。目の前の困っている人を助ける、でもやり過ぎない、ここにも調和が要求されるのです。本当に難しいですね。
【見栄や嫌々やるならやらない方が良い】
人への手助けでも、施しでも、神社・仏閣への寄付でも、本当はやりたくないとおもいながら、嫌々やるのであれば、やらない方が良いのです。どんな汚い金でも、金は金で人の役に立つ、と言われることがあります。一部は正論ですが、寄付した側にとっては全く意味の無いことか、むしろ悪い作用しか及ぼしません。
個人的に好きな仏教説話があります。出典は覚えていませんが、こんな話です。
あるところに牛飼いが牛を連れて歩いていました。大きな寺の前で立ち止まると、つぶやきました。「そういえば、ここにいた偉いお坊さん、人の為に尽くしたり、たくさんの施しをしたりしていた。あんな偉いお坊さんは、いまはきっと極楽にいるのだろうな」と。すると天から仏様の声が聞こえてきました。
「坊さんなら、すでに生まれ変わっているよ。お前が今引き連れている牛がそれだよ」と。
びっくりした牛飼いは、「どうしてそんなことに」と尋ねました。
「坊さんが人につくしたり、施したりしたのは、彼の本心からではなく、良く思われたいとか、高僧に見えるという、身勝手な気持ちでしたことだったのだよ」「どんなに善行に見えることであっても、心がきれいで無ければ、それは悪行でしかない」と仏は答えたのです。
やはり昔からこのような説話が書かれるほど、神ノ道は良く理解されていたのでしょう。
特に清浄を好み、穢れを嫌う神は、神社への寄付であっても、穢れたお金を嫌います。いやいやする1億の寄付よりも、純真な心で寄付してくれる子供の10円を尊び、喜ばれるのです。この世の豪勢な社も飾りも、神にとってはどうでも良いものです。それはむしろ、人々が神に対する真心をより強く表したいからこその物なのです。ですから、人間にならまだしも、神に対する行いはよくよく心して行う必要があります。それこそ、神の怒りを買わないように。
【自己中は先祖を軽視する】
身勝手で自己中心的な日本人が、非常に多くなってしまったと感ぜざるを得ない状況です。それと先祖軽視とは話がつながらない方も多いかも知れません。とすれば、それがすでに現代の日本人が、いかに先祖とのつながりを軽んじるようになってしまったかの証かも知れません。
日本全国で墓守をされていない墓がふえて、多くが無縁仏として処置されているようです。一方で、自分らしくとか、生前の個人の希望を尊重してとかいう理由をつけた、さまざまな墓や埋葬方法が話題となっています。墓も埋葬方法も時代によって変化するのは当然であり、それ自体は何も責められることでは無いのですが、その裏に隠れた自己中心的な考え方と先祖軽視があるとすれば、それは当然神ノ道には合っていないのです。
今の日本人を見ていると、まるで自分がおとなの意識を持っていきなり木の股からでも出現したかのような考えや振る舞いが見えています。生まれたばかりで何も出来ない自分を、食事やらなにやらと面倒を見たくれた母をはじめとするおとながいたからこそ、成人するまでになれたのです。仏陀ならいざ知らず、生まれたばかりでいきなりおとなの意識や自我を持って自分の世話を自分でするなどあり得ないことです。ですが、それを平気で忘れています。
自分が生まれてくるには、両親が必要でした。その両親もさらに二組の両親が必要です。こうして10代も遡ったら、云いたいどれほどの人が自分いつながっているのでしょうか。その一人でも欠けていたら、自分は生まれていないのです。人工授精になってもこの事は変わりません。こういうことも平気で無視してしまいます。
墓の放棄も、自分の好きな埋葬も、どちらも同じにおいがします。自己中心的で、自分がいきなりこの世に出現しかのような傲慢な思い上がりです。それが先祖軽視につながっているのです。先祖無くして自分が生まれていないにも関わらずです。これは、神ノ道の無常性/永遠性の理をも無視するものです。男女がいて子供が生まれ、やがて年老いて死んでいく。その繰り返しの無常性が、人間という種の永遠性を保証しているのです。墓を放棄することが、そのまま子孫の事など考えないことにつながっている事が多いのです。自分の好きな埋葬法で、後はどうでも良いと考えるのも全く同じ事なのでしょう。すべてが自分自身だけのことが重要で、先祖も子孫も関係ないのです。
すべての人がそうだというのではありませんが、このような誤った考え方や意識を持つ人が、多くなったように思えます。
霊的に云えば、先祖無視とは、自分を守護したり指導してくれる先祖霊の存在を自分から放棄することです。誰もあなたを守りません。それで構わないという人に限って死後、地獄に落ち太助を求めるのです。でも、子孫を顧みようともしなかったあなたを成仏させようと考えてくれる子孫達はいないのです。不成仏霊に成り下がりこの世のそばを俳諧するのが関の山でしょう。さらに、神ノ道を否定するのですから、なにか罰がまっているかも知れません。
何度も繰り返し述べてきた、神ノ道における自由意思の厳しさでもあります。その自由を自己中や利己主義とはき違えると大変です。くれぐれも気をつけましょう。
【肉体はぬいぐるみ】
神ノ道で言えば、この世は魂が修行のために来る場所です。修行の場ですから、それは一時的なものであり、必ずこの世を離れる(あの世に帰る)事になります。その短い期間だけ、魂が身にまとう物が肉体です。いわば、役者がぬいぐるみを着て舞台に上がるのと同じです。生物学的に、動物の種においては、必ず正常でない個体が発生する確率があります。それはいわば、少しほころびていたり、穴が開いているぬいぐるみです。肉体上のさまざまな障害とは、その程度のものです。そのために不自由であるからと言って、中の魂が障害を持つわけではありません。肉体が障害の有無に依らず平等であると言うのには無理があります。明らかに違うのですから。しかし、それが一時的なぬいぐるみだと知っていれば、そこに差別感も生まれては来ないでしょう。もちろんここで言う平等とは、平等な感覚のことであり、社会的な権利や人権における平等性を意味するのでないことは、言うまでも無いでしょう。
ややこしくなりますが、このぬいぐるみのほころびなどが、必ずしも偶然の確率だけに依るものではないので、話を混乱させます。霊的な影響がある場合も、現実には確かにあるのです。
【才能もぬいぐるみの一部で魂の価値とは無関係】
肉体とは、魂がこの世で身につけるぬいぐるみのような物だと述べました。では、才能は何なのでしょうか?基本的には、才能もぬいぐるみに付いた多くのポケットなのだろうと思います。その意味では、さまざまな才能があっても、それがその人の魂の価値とは直接結びつかないように思えます。ただ、その才能が世のため人の為に役立つ事が大切なのでしょう。そうすることで、それは魂の向上にも役立ちます。
日本人はとかくひとつの才能と、その人の全人格とを混同しがちです。スポーツでも音楽でも、ひとつの才能があるからといって、その人の人格がまともだとは限らないことを、さまざまな犯罪を通して知っているのですが、つい混同しがちです。それは日本では、人格形成の方法のひとつとしてひとつの才能を突き詰める方法論が、広く普及しているからでしょう。いわゆる○○道と呼ばれる物です。リオオリンピックでは、アメリカの金メダリストが、強盗に会ったと嘘をついて物議を醸しました。これが彼らの本当の姿だったのです。たまたま人より優れた才能があったとしても、それは人間の全人格とは無関係です。もちろん、魂とも。
地位や、名誉や、財産が魂に何の価値もないように、才能も魂には無価値です。ですが、その才能を生かして魂にとって良い方向に向かう契機となるかどうかは、すべてその人の考えと行動次第でしょう。どう活かせるかですべて決まるのです。
余談ですが、神はこの世の中をあかるくしたり、進歩させるために、ある才能を持った人をこの世に送り出すこともあるようです。そういう人は、その役目を終えるとたいていすぐに、あの世に戻るようですが。
【神ノ道の理想的な生き様:馬鹿になれ】善意のすれ違い
善意のすれ違い
ベランダの避難梯子(はしご)を点検に来たとき、それは起きました。点検の人がベランダに出たので、私はちょっと席を外してすぐに戻ってきました。するとベランダのガラス戸が閉まっていました。きっとわざわざ外から閉めたのだろう、そんなに『気を使わなくても良いのに』と思ったのです。そこで、窓をあけに行きました。すかさず声が飛んできました。「虫が入るといけないので」。彼にすれば、親切で閉めたのを私が理解せずに、『よけいな事して何で閉めるんだ』と思ったのかもしれません。むろん私も気を利かせて、『そんな気を利かせてくれなくても良いですよ、開けといて構いませんから』という気持ちでしたのですが。黙って窓を開けることで、それが『正しく伝わらなかったのか』と思い、少し後悔をしたのでした。
両者の善意が行き違った、典型的な例ですね。どちらも悪くないのに、少し戸惑ってしまうような、ささいな行き違いやすれ違いは、実はよく起きていることなのでしょう。でも、そのすれ違いに気がつくことは、むしろまれです。善意が、悪意ともとられることすらあるのですから。会社で部下を持つと、よくこの手の経験をします。だからこそ、神ノ道では、人からの敵意や悪しき思いを受け取らないためにも、歯牙にも掛けられない人間、馬鹿にされて相手にされない人間の方が、尊い存在になるのです。
この世でもあの世でも最も怖いのは、いや影響が大きいのは、人間の思いです。これがすべての事柄に影響を及ぼしていると言っても過言ではないでしょう。たとえ誤解であろうと逆恨みであろうとも、人の恨みや嫌悪の思いは、相手に悪影響を及ぼします。それが様々な問題を引き起こすことすらありますから、むしろ他人からは、相手にされない位がちょうど良いのです。だから、『雨にも負けず』の馬鹿にされ、相手にもされない生き様こそが最高の生き方なのです。
学生の時、級友達と「最後はルンペンにでも成って、誰にも相手にされず、社会の片隅でひっそりと生きたい」などと良く話をしたものです。多くの日本人には、神ノ道が精神の基盤にしみこんでいるのでしょう。
【絶対神はなぜ不完全なモノを創造するのか】
この宇宙だけでは無く、天界も神々すらも生み出した絶対神の存在は、普通の神々のように人間が感性によって感じることも出来ません。それほど大きな存在、いや存在することも存在しないことも出来るのですから、当然なのでしょう。
この絶対神は、なぜ人間のように不完全なものを作るのか考えてきましたが、私なりの結論はこうです。絶対神ならば、完全なるモノを創造することも可能でしょう。しかしそれは、みずからの完全なる存在の分身、コピーに過ぎません。それを作ることに喜びがあるでしょうか?また完全無欠であれば、宇宙においては何も動きの無い静寂の世界でもあります。これでは意味が無いでしょう。
ですから、絶対神は、不完全な存在世界を創造し、そこに不完全なるモノをつくり、それらが完全なる存在に一歩でも近づく、その過程に喜びを見いだしているのです。大きすぎる宇宙も、人類以外のタマを持つ存在をばらまいているからかも知れません。ひとつのタマ集団が失敗したら、また次のタマ集団を創造すれば良いのです。それこそ永遠の喜びを味わうことが出来るでしょう。
このような考え方は、あまりにも滑稽な考えでしょうか?どう考えるかも、あなたに与えられた自由です。