平成27年9月25日(金)
フォルクスワーゲン問題と「くくり」
「好事魔多し」であろうか。トヨタを抜いて世界一となったドイツ自動車メーカーのフォルクスワーゲン(VW)だが、そのニュースをたちまち蹴散らして、会社の存続まで危惧されるほどの不祥事が起きてしまった。
排気ガスの規制に適応させるため、不正なソフトを使用したとされるもの。規制を満たしているかどうかを測定する試験時には排ガス浄化機能をフル稼働させ、実際の走行時には稼働させず、燃費向上のために有害物質をまき散らす(基準の40倍とも)というもの。環境保護と燃費を両立させる手段として実に安易な方法を選んでしまったことになる。悪質だとしてアメリカでは課徴金(要するに罰金)が2兆円を越えるかもしれないと言われている。
この問題、多すぎて書き切れない程、実にたくさんのブログネタを提供してくれる。
・アメリカでよくこういう不正が明らかになるが、日本ではなぜそういう社会体制にならないのか?
・日本ではなぜ企業不正に対する課徴金が甘いのか?
・日本では外資企業への監視がなぜ緩いのか?
・東芝の不祥事といい、世界を代表する企業で不正が行われるのは、人類の劣化なのか?
・あるいは、資本主義の構造的問題がそこにあるのか?
・国毎に環境規制の数値も方法も異なる。各国の産業との関係もあるのだが、世界中で同じものを販売する時には、ソフトで対応するのが手っ取り早くなる。もう少しどうにかならないのだろうか?
・これだけの事を現場の一存でできるのか?東芝同様の上からの無言の圧力は無かったのか?
・8年前から不正を行い、1年前にアメリカで明らかになりながら、なぜ傷口を放置していたのか?
・該当のディーゼル車は1100万台に上るという。だが、アメリカでの販売はわずかに6年間で48万台。不正をしなくては成らない台数ではあるまい。面倒だからそのままアメリカ市場にも出してしまったのか?それとも?
・日本と並ぶドイツのものづくり。時代の転換期なのは明らかだろうが、さて、どう行けば良いのか?
・ソフトが生み出す情報(IT)文明の光と影。
きりがなさそうなのでこれくらいにしておこう。今回は、日本人の気質で取り上げた
「くくり」と「撞着」が、日本だけでは無く、世界中のさまざまな事柄においても適用できることを示してみよう。
自動車専門家によるコラムにおもしろい指摘が載っていた。私の言葉より信用されるかもしれないので、利用させてもらおう。「
VWのディーゼル排ガス事件がこじ開けた巨大な闇」(鶴原 吉郎)
『実は、今回のVWの事件に限らず、実走行時の排ガスに含まれる有害物質が排ガス基準値を超えているというのは、自動車関係者にとっては半ば「常識」である』
なぜ常識なのか。測定試験時の環境と実際の使用環境とは大きな差があり、有害物質排出量が異なるのは当然だと、自動車関係の技術者なら誰でもわかっているという事なのだろう。
また、『排ガス測定試験の条件に外れた領域での有害物質の排出状況がどうなっているのかについては、ある意味メーカーの良識に任されている部分がある』、『多くのメーカーが「この程度なら許容されるだろう」と考えていることを示している』とも。
日本人の気質でくくりの概念を理解していただいた読者には、ここまでの話でも十分かと思う。
コラムニストは無意識のうちに、くくりと撞着で述べたさまざまな事柄を書き出している。
自動車業界というくくりや、その中の開発技術者というくくりが、強固なくくりをつくりあげていること。それはくくり内部の独自の世界を認めることであり、外部の常識は通用しなくなる。
他の人間には細かな違いなどの技術的な理解が出来ない、逆に言えば自分たちは特別な存在であると錯覚する人々。
ソフトの利用がエンジンの保護やスタート時には許されるのならば、他の条件においても許されて当然であろうという、自分たちだけの価値観。この程度は許容範囲だと勝手に考えるくくり内の共通意識や価値観。
くくり内部では常識であると言うのは、くくりの外部との遮断性が強まったときの常套句でもある。くくり内の常識は、くくり外部の非常識である。
どれもみな、くくりへの撞着がもたらす弊害として指摘したものばかりである。
なまじ仲間意識や集団行動性が高い気質の人達は、それと異なる気質の人が存在しない状況が長く続いてしまうような、大手企業や古参企業において、くくりへの撞着が起きやすいことは、日本だけでは無く世界中に共通することなのであろう。日本の集団農耕型気質に近いものが、ドイツの国民性には強くあるのかもしれないが、人類共通の気質でもあろう。その意味では、企業の産業競争力を維持しながら、同時に起きる気質のわなをどう逃れていくか、これから世界の人々が考えなくては成らない時に来ているのだろう。