日本人気質一覧

人生やり直し症候群

(追)このコラムは今から10年も前のものであるが、平成から令和に、安倍総理から菅総理に、そしてコロナ前からコロナ後に、今まさに同じ状況にあるといえるのではないだろうか。未だ色あせぬ内容であることは、むしろ悲しいのだが。 2020.09


 

 話題を決めて話をしたり俳句を作ったり、人気タレントと小学生が、いろいろなことをやるテレビの人気番組がある。このまえ、「大人のここが理解できない」というテーマについて子供たちの意見を聞いたところ、小学生の女の子が、40過ぎの女性が若い人のようなミニスカートの派手な格好をしていたが似合わない、「どうしてあんな服を着るのだろうか、もっと会ったものを着れば良いのに」と発言していた。服装が似合う、似合わないは必ずしも年齢とは関係しないので、一概にはそう決め付けられないのだが、そういわれてみればたしかに最近その手の人を見かけるようになった気がする。そしてこれが必ずしも若づくりと言うことだけではなさそうに思われる。

 一部のデパートなどでは、中年以上の女性を対象とした新しい試みとして、色柄やデザインは若い女性向けとおなじで、サイズだけ中年向けの服を取り揃えたコーナーを開設したところ、評判も上々だそうである。この狙いは、最近の中年やシニア世代に、『もう一度人生をやり直したい』と言う願望が多く見られるようになった、それに基づく戦略だとインタビューでデパート側が答えていた。この手の市場は今後個人消費の中でも拡大をして、個人消費全体の1/6を占めるまでになるそうである。そうしてみると、先ほどのちょっと似合っていない服装の人が増えたのもうなずけることなのかも知れない。


 この『人生をもう一度やり直したい』と言う願望は女性だけではなく、いわゆるサラリーマン層に、広く深く広がっているような気がする。現在不況の真っ只中、それも雇用と言う点では、深刻な状況に入っている今の世相からして、好まずともリストラなどによって新しい人生を歩まざるを得なくなった人も多いと思う。こういう人たちまでひっくるめて、人生のやり直し願望組と決め付けるわけにはいかないかもしれないが、もう一度別の人生に挑戦してみようと言う気持ちで、早期退職制度を活用した人も多いのではないだろうか。私はこれを「人生やり直し症候群」とひそかに呼んでいる。

 「人生やり直し症候群」の年代は何歳ぐらいなのであろうか?昭和20年の敗戦後に生まれた団塊の世代と呼ばれる人達から始まり、10年一区切りと考えれば、20年代に生まれた、45歳から55歳位の間の人々を指すことになる。この世代もさらにいくつかに別れるような気がするが、他の世代とは異なる精神構造の基盤を有するように思う。戦後民主主義の恩恵を受けて、と言えば聞こえは良いが、これまでの価値観を根底から破壊され自己を喪失せざるを得なかった親に育てられた最初の世代である。したがって、価値の大転換を目の当たりにして、一種の軽い虚無観、ニヒリズムを受け入れやすい、それでいて、そのような主義思想そのものを信じることができない世代である。いわゆる進歩的教育者と言う名の教師達にゆがんだ教育を押し付けられながら、戦前までの日本人としてのアイデンティティを持った親の躾がわずかではあったがまだ残っていた世代と、反動で自由と言う名の放任主義で育てられた世代とに別れるのだが。それでもなお、この世代にはいくばくかの救いがあるのは、貧しさをおぼろげながらも知っていることであろうか。いわゆるコッペパンの味を知っているのもこの世代だけであろう。戦後の日本人が、高度成長の経済的な恩恵をこうむるようになるにはもう少し時間がかかったのである。このことが、それ以後の世代との大きな違いを生むことになったのではないだろうか。


 なぜ症候群なのかと言えば、その原因が多岐に渡るにもかかわらず、症状としての目に見える行為(現象)はみな同じだからである。

 ひとつは過去を水に流して清算し、もう一度ゼロから始めたい、ふたつ目は、服装などに現れているように、年齢とか既成の概念にとらわれず、自分が良いと思うものを選択し、良いと思うことを自由に行いたいというもの。

 そして、これは、そうあって欲しいとの願望も含まれているのでははあるが、単純な成長主義、金権主義から距離を置くことになる。かつてこの世代は、ヒッピーと呼ばれる反体制の人々を生み出している。しかし、日本でこれがあまり受け入れられなかったのは、単純な反対のための反対を好まなかったのと、より良い暮らし、言い換えれば成長や進歩そのものを悪とはしない考え方によったのだろう。症候群はこのような精神性の土壌から生まれているのではないだろうか?海外での老後なども、日本より生活がすごしやすく、環境も良いことを前提としての話であり、決して田舎の隠遁生活と軸を同じくするものではない。


 では、人生のやり直し、すなわちもう一度というのは、バブルの夢よもう一度、ということなのであろうか?そういう人たちも一部にはいるであろう。だが、そういう人たちはなかなか人生やり直し症候群にはかからないようである。むしろ、バブルガンの末期症状であろう。大多数の人の思いはそうではあるまい。

 これまで家庭も顧みずモーレツ社員として、会社や社会の一歯車として自分を犠牲にしながら、すくなくともそう感じるよう自分に言い聞かせながら、全速でここまで時代をかけ抜けてきた。そして、それが多少なりとも豊かな老後の夢を描いてくれるのならばまだしも、そんな自分の生き様とその価値観を否定され、あとにはずたずたに引き裂かれた自己だけが残された。これまでのがんばりが無駄な徒労だったとしたのならば、いったい自分の人生は、自分自身は何だったのだろうかと思い悩んでも不思議は無い。そのやりきれない思いが、もう一度やり直したいとの気持ちをさらに強くする。

 すべての過去を水にながして、やり直したいというのが大方の偽らざる気持ちではないだろうか。成功もあったかもしれない、人並みの生活や幸せも有ったかもしれない、だが、それすらいまとなっては遠い夢、見果てぬ夢だったとしたら。そんな人々に残された夢は、もう一度全てをやり直すことなのかもしれない。

 精神的にも、さらにひどければ、経済的にも満たされない状況にある自分を振り返るとき、人生のページをめくって、白いキャンパスからもう一度始めたいと思うのである。


 日本人が「すべてを水に流す」と言うと、反省していないとか、過去の教訓が生かされていないなどと批判されることがある。それは一面の真理ではあろうが、我々日本人にとっては別の意味がある。欧米人にとってはもう一度やり直すと言うことは、悪かった点、改善の余地のある点を正して、元の正しい道にもどす、という意味合いが強いのではないだろうか?それにたいして、日本人は、良かったことも、悪かったことも同じように忘れて、まったく白紙の状態から始めたいとする心の動きがある。新年にはまったく新しい再生された魂になることを願う根源的な民族の精神構造があるように思う。

 疲弊し、行き場を失い、汚れた魂を抱えてもがき苦しむ今の日本人が、もう一度再生し生まれ変わっていく。『人生やり直し症候群』が、そんな姿の第一歩であることを願わずにはいられない。無論、自分自身のこともそのなかに含めて。

平成13年12月

2001年12月18日気質のカテゴリー:補章

天才と赤穂義士

【追】これもかなり以前のコラムなのですが、中身の言いたい部分は今も通用するように思うので、掲載しておきます。 2020.12

 


 

 有る著名な作曲家が、赤穂義士のミュージカルをやると、テレビで話しているところを偶然みかけた。そこで、彼は、赤穂義士の行動は日本人として非常にまれなものである。事実、江戸時代に多くの大名が改易、取り潰しとなったが、あのようなあだ討ちを行ったのは彼らだけである。と言うような趣旨を話していた。ほんの一瞬だけ小耳にはさんだので、もしかすると違っているかもしれない。が、とりあえず、そんな話だったとして続けたい。

 赤穂義士のあだ討ちが日本においてまれな行動であったかどうかは首を傾げないでもないが、問題にしたいのは、そのようにまれな行動をなぜ多くの日本人が、是として、あるいは美として受け入れてきたのか、そしてまた我々の琴線に響くものがあるのかと、言う点である。 いかにまれな行為とはいえ、それを受け入れる多くの人々がいなくては赤穂義士の話は成立しまい。


 官僚の不祥事が相変わらず止まらない。また、その無責任な言動がこの国を動かしているのかと思うと、「この国をいつでも逃げ出せる準備をしている」、との知人の言葉にうなずきたくもなる。むろん、いまこの国の病んでいる現状は、官僚だけの問題ではないであろう。しかし、官僚機構が国の命運を左右することがあることを思わずにはいられない。

 私は常々、大日本帝国陸軍が、(無論海軍も含めてだが)なぜ、この国を人類史上まれに見る無謀かつ悲惨な状況に陥れたのか、その最大の理由の一つは日本陸軍における『軍人官僚』の存在によるものであろうと思っている。 およそ官僚的な発想をする利己主義的な人間達に共通の思考回路が二つ有る。ひとつは、「うぬぼれ」であり、もうひとつは「自己保身」である。この二つの相乗効果はすさまじく、ついには己のためならばその所属している組織を滅ぼしても良い、というところに行き着く。
 幸か不幸か、私自身そんな人間たちを現実の社会の中で見てきた。彼らは日常、自分は選ばれた優秀な人間であり、その判断は常に正しく、同じ選ばれた人間以外は自分よりも劣ると本気で思っている節が有る。従って、上の人間には面従腹背でへつらい、下のものには傲慢である。それだけならまだしも、利己主義は責任逃れのためなら何でもやることになる。

 実際、自分の責任を他人になすりつけるために、上司にその人間の陰口を言ったり、組織そのものに責任を押し付けたりもする。外資系では、海外からきている上の立場の外人が、自分の成績のために現地の会社を陥れるようなことを平気でやる。むろん、責任は自分にないことを力説しながらであるが。この場合、その人間はいずれ本国に戻るのであるからまだわからないでもないが、理解不能なのが、自分の所属する組織についても同じことをやる、日本の官僚的人種の思考回路である。自分の責任を逃れるためなら、自分の所属組織をつぶすようなことを平気で行う。自己保身のためなら国でも売る、その結果が帝国陸軍の所業なのであろう。頭ではわかっていても、まさかそのようなことを本当にやる人種が存在するなどとは、官僚のように優秀な頭脳を持たない私には縁なき世界で、信じられなかった。


 小役人から高級官僚にいたるまで、このような体質は日本においてかなり古くからあり、連綿としていまも続いている。それでもこの国が滅びなかったのは、そのような人間とは対極の人々がいたからであろう。時々思い出したように歴史にあらわれる、清廉潔白、あるいは、組織や国のために自己犠牲をいとわない人々である。

 赤穂義士の取った行動は、再就職活動のデモンストレーションであるとか、大局的に物事を見えない人間などと、批判的に片付けることは簡単である。だが逆に、何年もの赤貧に耐え命をかけて、ある目的だけに傾倒することはそんなに容易なことなのであろうか。そうでないことをよく理解していればこそ、多くの日本人がその行動を是とするのであろう。しかし、いま赤穂浪士など見向きもしない、自己犠牲など論外とする風潮が蔓延し、赤穂義士なども省みられなくなっている。これは、わずかに残る精神性への歯止めすらもなくなることを意味する。 

 欧米社会での官僚的な人々の倫理的、道徳的規律を成立せしめているのは無論、キリスト教的宗教観が大きいのであろうが、もうひとつの要素として、特に近代以降は、「天才」の存在があげられるのではないかと考えている。学歴的優秀性は官僚的思考者の持つ大きな特徴であり、それが方向性を失った時に、傲慢で私利私欲におぼれた者を生み出すことになる。しかし学歴的優秀性は、破天荒な天才の前には意味をなさない。ペーパテストの知識人がもっともにがてとすることは、創造性であろう。逆に天才の構成要因の大きな一つは創造性に有る。欧米での官僚的人種に取っての天敵的な存在は、時々出現して時代を変えていく「天才」ではないのだろうか。これが彼らにとっての精神的な歯止めの存在となる。 欧米では天才、日本では赤穂義士が官僚的志向人種の暴走に対する、精神的な歯止めの機能を果たすとするならば、今我々は、その歯止めすら失おうとしているのかもしれない。


 NHKの人気番組に「プロジェクトX」という日本人のさまざまな挑戦のドラマをロマンチック、センチメンタリズムたっぷりに描いた番組がある。この番組について製作者の一人が、「中年向けのお涙頂戴」をテーマにした番組ならそれなりの視聴率が取れるのはわかっていたが、まさかここまで取れるとは思わなかった」ということを話していた。 番組の内容に関しては、成し遂げる経緯にばかり光をあて、その結果についての冷静な判断を提示していない、との批判も聞かれる。番組の趣旨が違うのだから、この批判も的外れのような気もするが、それより赤穂義士が受け入れられ続ける日本人の精神基盤に目を向けるなら、この番組が受け入れられ続けることにこそ注意を喚起すべきであろう。
 赤穂義士はさておき、『天才』は少々強引であったかもしれないが、要は、道徳や倫理と呼ばれた(いまや過去形で書きたくなるのが問題だが)ものがもつ、自律すなわち、「自我の欲望の発散が人間だけでなく環境も含めた他者に対してして与える悪影響をどれだけ自己規制できるか」が、今この国の抱えている大きな問題のひとつである。ならばタリバンの支配時に犯罪が少なかったと言われるように、強圧的な政治体制によって道徳が実現されるより、赤穂義士をたたえるほうがはるかに健全であると思うのだが。このような日本人の精神的構造の根底に流れる受容機能が、消え去らないように願わずにはいられない。


平成13年12月

2001年12月17日気質のカテゴリー:外伝

奴隷制と気質

【本稿は、「移民の受け入れと気質」に書かれた内容と一部重複しているが、移民の歴史的背景の部分を詳しく取り上げるために、改めて書いてみたものである。】



-移民受け入れ政策の奥にある奴隷制の積極的受け入れを許した体質とは-

 フランスのパリで起きたイスラム過激派ISによる同時多発テロ(2015年)が、世界の国々とりわけ欧米を震撼させた。テロの実行犯に移民の子孫でフランスやベルギー国籍を持つ人物がいたり、難民に紛れてテロリストが入り込んだことから、移民や難民の受け入れにも影響を与えることになった。折しもシリアを中心とした大量の難民が欧州に押し寄せているさなかでもあり波紋が大きかった。
 事件に絡んで、なぜフランスで起きたのかとの問いから、各国の移民の受け入れ姿勢の違いもテレビの解説などで取り上げられることになった。フランス同様に移民を大量に受け入れてきた国は、イギリスを始め他にもある。その中フランスが狙われたのは、移民受け入れ政策の違いが影響したのでは無いかという話である。

 フランスでの移民の受け入れは、フランスへの同化が基本である。フランス語を話し、フランスの文化に溶け込むことが求められる。とりわけ世俗主義の受け入れが大きな柱になる。世俗主義とは簡単に言えば政教分離である。政治に特定の宗教を持ち込んではならない。これはイスラム教徒にとっては、なかなか受け入れがたい事だという。なぜならイスラム文化は、政治や社会もまたイスラムの教えに従って行われることが基本だからである。女性が髪を隠すブルカの禁止法や学校でスカーフをつけられないのは、イスラム教徒にとっては精神的な圧迫を感じるのだろう。

 フランスが世俗主義を強く求めるのは、国の成り立ちに理由がある。フランスの自由・平等・博愛の精神とは、それまでの国王や貴族による統治を一般民衆が武力で打倒したことにより成立した建国理念である。その打倒すべき勢力には、当時のキリスト教の教会勢力も含まれていた。このことから、どんな宗教であれ、宗教が政治に絡むことを許さないのが国是となっている。

 同化を求められながらも、目に見えない差別が厳然として存在するのが欧米である。国籍は同じでも同じ国民として扱われず、なおかつ個人的な信仰である宗教の行為にまで制限が加えられる、そんな反発がイスラム教徒の移民に多く生まれるのは無理からぬ事なのかも知れない。たとえばフランス全体での失業率が10%なのに、イスラム移民が多く暮らす地域では17%である。ここにも見えない差別が、現れている。


 移民に同化を求めるのはフランスだけではない。ドイツもドイツ語を話し、ドイツに溶け込むことを強く要求する。それに対して、イギリスは、フランスとはすこし違うとされる。専門家は、フランスが同化を求めるのに対して、イギリスはコミュニティを別々にして関わりを避けるのだという。だが特定地域に同じ出身民族があつまるのは、世界共通である。ベルギーでテロの巣窟とさえ呼ばれる地域の存在は、その典型例であろう。フランスでも同じであり、結局は隔離政策かどうかでは無く、生み出される差別感への反発の度合いが問題なのだ。イギリス流は、強く同化を求めるのでは無く、悪く言えば従属を求めるのだろう。そのことは、イギリス内での地域差別感を当のイギリス人が語ることからも明らかである。国内ではじめから民族対立問題を抱えた国は、極端な同化政策はとらない、いやとれないことになる。だからといって差別がないわけではない。


 さて、気質の話である。民族の優越論や反欧米主義と取られかねないので、言葉を慎重に選ぶ必要はあるのだが、これら一連の移民に対する欧米の国々の接し方を見ていると、どうしても気質や体質の影を感じてしまう。



奴隷制と移民の関係


 移民と奴隷制と何の関係があるのかと言われるだろう。西欧の歴史において両者にはつながりがあり、そして奴隷制への態度に、体質や気質を感じるからである。

 少し遠回りだが、奴隷制から簡単に見ていこう。奴隷制には大きく三つのタイプがあるという。①戦争捕虜など力の差による奴隷化、②宗教が容認する奴隷制、③労働力・金儲けのための奴隷制である。①の奴隷は、人類の文明の始まりと共に始まったとされる程に、古くから世界中で普遍的に行われていた。ここで問題とするのは主に欧米で近世以降に大規模に行われた奴隷制度であり、その気質や体質である。

 奴隷制度の底にある差別意識は、人類の普遍的な心情であろう。だが、それが歴史の表舞台で大きな特徴となる国(文明とも言えるだろう)とそうで無い国とがあるのもまた事実なのだ。ここには、それぞれの民族の体質が影響しているように思えてならない。

 宗教の教義が許す奴隷は、より罪深いかも知れない。なぜなら、奴隷制への罪の意識を軽くしたり、口実を与えるのだから。
 最も強固に思えるのが、インドのカースト制であろうか。専門家に依れば、この制度は欧米の奴隷制とは異なり、より複雑なものだという。だが、民主主義国家の一員と言われ、憲法でカースト制を禁止していながら、社会の中に歴然として残る階級制の差別感。近年問題となっている数多くのレイプ事件の原因のひとつには、この差別意識があると言う。なにせ、奴隷よりも下にダリット(不可触民)と呼ばれるカースト制からも外れる人々を規定しており、文字通り人として認めていなかったのである。これほど強固な階級制を維持し続けてきたと言うことは、もはや驚異ですらある。
 日本でも江戸時代には厳密な士農工商の別と、さらに人以下のエタ・非人をもうけていた。それが後に根強くのこる差別にもつながるが、現在をくらべてみれば、日本では階級制による差別はかなり小さくなっているように思う。そこには、やはり元々の気質が関係しているのであろう。それは必ずしも「差別意識」が強い気質、弱い気質だというのではない。そうではなく、宗教感(観)そのものの違いとか、新しい概念を受け入れる気質、制度を存続させてしまう方向に働く諸々の意識のことである。

 イスラム教にも奴隷容認の教えがあり、現在のテロリストが女性や子供を奴隷として誘拐する口実にも使われている。この基本は、本来①のタイプであったものが、いつの間にかテロリストにより③の色彩が強まっている。

 キリスト教でも教えに奴隷制を容認する記述があるとされて、それが近世以降の大規模な③の奴隷制をキリスト教会や牧師が容認する事にもつながっていったのだろう。

 一方仏教にそのような奴隷を容認する教えはないし、神道には元々教義などはない。結局、国家的な大規模な奴隷制度が行われた欧米諸国とそうでない国々とでは、それぞれの人々の意識、もっと言えば気質や体質との関係があると言えるだろう。


 力こそ正義であり、人道よりも自国の利益が欧米の本質である。そこには、自らの命と引き替えても他人の人権を守るような意識は、いがいに希薄である。あくまで、自己がありその上での他人なので有る。これが個人主義の基本でもある。また、同じ人間をモノや家畜として見ることが出来ると言う感覚は、日本人には受け入れがたいところがある。この気質の違いは大きい。

 奴隷制をそのまま移民政策と直結させることには無理があるが、底流でつながる体質・気質の部分の存在や、どちらも金儲け・自分が楽をする事が目的である点は共通している。それは認めても良いであろう。

建て前と本音


   人権を尊重し、非人権的な行為を厳しく糾弾する欧州が、むしろアメリカよりも人種差別が根強いことは、欧米の知識人が書いているのだから確かであろう。実際、海外での経験のあるひとは、日本人への差別感を肌で感じる人も多く、平等をうるさく言う欧州でむしろ差別感が強いことも実感している。この隠れた強固な差別は、体質として彼らにしみこんだものなのであろう。何かきっかけがあると底に沈んでいたものが、ふつふつとわき上がってくる。だが、表面上は抑えられるので、かえって陰湿な根深いものになる。建前と本音を日本人にだけ当てはめたがる欧米人は、逆に自分たちの建前と本音を知り、仲間いや批判する相手を欲しているのだろう。欧州の見えざる根強い差別意識については、私や日本人だけでは無く、当の欧米知識人が述べているのだから間違いは無いだろう。



奴隷制度から移民受け入れに


 欧米における世界的な奴隷制度は、西欧から廃止されていった。金儲けを目的とした大規模な奴隷制度を西欧が廃止したのは、人権的な思想の高まりによると善意に解釈したがるのは、戦後の日本人くらいかも知れない。人権意識、平等意識が無かったというのは言い過ぎであろうが、欲に目のくらんだ多くの人間が、そう簡単に人権などには目覚めないのは、いまも変わらずぬ発展途上国での労働者搾取を見ればよくわかる。ではなぜ廃止の方向に向かったのか。経済的に見て割に合わなくなった、よりよい別の方策が見つかったからに他ならない。
 奴隷を捕まえてきて労働力とする方法では、もはや産業革命以降の工業化による社会の変化や、供給力過剰に対応できなかったのである。奴隷の代わりに、一般大衆に消費させる事で供給過多を減らし、さらには賃金労働者にすることで、奴隷よりもはるかに効率の良い労働力も手に入る。

 こうして奴隷制度は廃止されていったが、富を蓄えた西欧は植民地支配という形で、覇権を世界に広げていった。そこでは安い労働力が提供され、支配国による搾取が横行していた。その甘い汁も時代の流れには勝てず、次々と独立運動が起き植民地支配も潰えていった。つぎには、勝手の植民地から宗主国に移民の形で労働者が流入することになった。受け入れ側も、安価で同じ言語を話せる使いやすい移民を受け入れていった。単純労働力としての移民受け入れは、当時の西欧の成長に寄与したのだが、そのつけが、いま2世や3世によるテロの形でもどってきているのだろう。

 奴隷も移民もその本質は、労働力と金儲けであるならば、相違点はその人々への扱いの違いと言うことになる。徹底的に人格まで否定されてモノや家畜扱いされた奴隷に比べれば、移民ははるかに人権が尊重されている。それでも、そもそも自分たちがいやがる単純労働、3k労働や召使いなどの上下関係でしたの扱いをする職業に尽かせることが目的で有る限り、そこには明らかな差別意識がある。それが無意識だとするとなおさら始末が悪い。
 最近では、単純労働者の移民を排斥し、高度な技術や高学歴の移民を受け入れる政策をとる国が目立つようになってきた。日本のマスコミが正しく報道しないだけで、シンガポールやカナダなどその数は多い。だが、これらの国はもともとは単純労働者の移民を受け入れていた国が多い。つまりどこまで行っても、選別すること自体、自国の利益が目的であり、人類普遍の平等性を保証しているわけではない。そこでは差別の体質が色濃く残ってしまうことになる。制度上の問題ではないのだ。



意識の底にある差別の心情の強さ


 こうして歴史を振り返るとき、自分たちの利益のために移民を受け入れたに過ぎない欧米の多くの国々では、国内に同化せざる民を生み出し、絶えざる紛争や衝突の遠因とも成っている。真に人類はひとつであると言う理想による移民の受け入れでなければ、当然そこには差別的な心情が存在する。そもそも自分たちがいやな仕事をやらせたり、安い労働力の担い手と見なすこと自体、すでに差別によるものである。少子化におびえる日本において、移民受け入れの大合唱が始まらんとしている。それがいかに身勝手な差別感に基づくものであるか、なぜかほとんど指摘されないでいる。このような現状での移民受け入れは、西欧の移民受け入れ意識と同じで、せっかく平等意識の高かった日本人の感性を自ら破壊するものに他ならない。金儲けのために魂まで売ることになる。戦前、植民地支配という欧米のまねをして失敗したように、移民を受け入れて失敗を繰り返すのであろうか。

 しかもこれまで多くの移民を受け入れてきた国では、受け入れる移民を変え始めている。これまでの単純労働の移民から、高学歴、高い技術を持った知的な移民と金持ちだけを受け入れようとしている。時代の流れはすでに、次の段階に入っている。移民として受け入れる人を選別する意識の底に、差別意識がついて回ることは否めないだろう。


   いま難民といいながら実体は豊かさを求める移民が大量にドイツを目指している。当初は、過去の成功を繰りかえそうとした勢力によって、受け入れを歓迎していたのだが、そのあまりの多さに受け入れに急ブレーキがかかっている。これまで移民や難民を積極的に受け入れてきたスウェーデンなども、見直しを行った。難民でも一時的な滞在しか認めない、すでに永住権をもっていても家族を呼び寄せることは許可しない、難民でもUC出之割当数以上は受け入れない当である。 さらに今回のパリのテロは、おとなしくしていた差別感情を揺り動かしておこしてしまった。もはや先進国といえども、遅れた文明の国々の人々を自由に制御できるなどと言うのは、幻想にすぎないのである。自ら仕掛けたグローバル化、IT化が、それを後押ししているのは皮肉だが。  これら欧米の人々が、自分たちの内にある差別的な心情の強さをより自覚し、世界にはより差別感情の少ない人々もいることに気が付いて欲しいと思う。体質は世代を超えないと難しいが、気質は変えられることがわかっている。気質を変えるためには、第一に気がつくことである。逆に、せっかくましな気質を、わざわざ悪く変えてしまう愚かさだけは御免被りたいものである。



 テロに対するヒステリックな反応も、奴隷の氾濫を鎮圧する意識とは全く違うと本当に言い切れるのであろうか?爆撃や、テロ対策を理由とした多くの軍事関連予算が、欧米で組まれている。イギリスの核を積んだ原子力潜水艦の更新には6兆円以上かかるという。ロシアが陸上部隊をだせば、アメリカの疲弊同様に、ロシア自体がつぶれかねないとも言われている。それほどの巨額の金を、なぜ大元のシリアとイラクの内戦停止策につぎ込めないのであろうか?大きな理由のひとつは、第二次大戦後に作り上げた現在の国境線をなんとしても維持したい戦勝国の意識がある。むろん、それに乗じて覇権を拡大しようとするのは、ロシアと中国だけではないだろう。だが、これらの国は、直接的な領土的野心を隠さない所に深刻さがある。



 個人的には必ずしも、移民政策の違いが今回のテロの直接的な引きがねというよりも、さまざまな条件が重なったのだろうと考える。たとえば、フランス人は割に忘れやすいのか、治安がすぐ緩くなるという。警察などの警戒も、すぐにルーズになるとか。テロ対策などへの緩さでは、今回のテロで武器調達など重要な役割を果たした国、ベルギーも同じだと言われている。ドイツや、イギリスよりもテロ対応が甘いということである。また、パリのテロの直前には、エジプト発のロシア機が墜落したが、これもテロによる爆発が原因だと、英米に続いて当事国のロシアも認めた。したがって、必ずしもフランスだけが標的だったのではないかもしれない。だが各国の政策の違いや国民性の違いなどを知っておくことは、日本にとっても無駄にはならないだろう。

平成27年11月26日(木)

2015年11月26日気質のカテゴリー:外国人気質

はじめに

 最近の報道やコラムなどを読むと、外国の国民性や気質について触れたものが目に付くようになってきた。ある出来事を説明する上で、国民性、民族の気質などに触れざるを得ない、そうしないとうまく説明がつかないことが、ようやく理解されてきたのかもしれない。気質などというと、いかにも非科学的だと思う風潮がジャーナリストなどの一部にあったが、それが是正されてきたのかもしれない。

 日本人の気質の「外伝」やブログで取り上げていたのだが、数が増えてくれば、「外国人の気質」として別に取り出しても良いのかもしれないと感じるようになった。むろん、私自身の経験程度では、とても他国や他民族の気質を解説することは不可能なので、もっと軽くどんな風に取り上げられているのかなどを集めてみることにしよう。

 どこまで続くかは、ネット次第かな! 

平成27年10月15日(木)

2015年10月15日気質のカテゴリー:外国人気質

移民の受け入れと気質

 フランスのパリで起きたイスラム過激派ISによる同時多発テロ(2015年)が、世界の国々とりわけ欧米を震撼させた。テロの実行犯に移民の子孫でフランスやベルギー国籍を持つ人物がいたり、難民に紛れてテロリストが入り込んだことから、移民や難民の受け入れにも影響を与えることになった。折しもシリアを中心とした大量の難民が欧州に押し寄せているさなかでもあり波紋が大きかった。

 事件に絡んで、なぜフランスで起きたのかとの問いから、各国の移民の受け入れ姿勢の違いもテレビの解説などで取り上げられることになった。フランス同様に移民を大量に受け入れてきた国は、イギリスを始め他にもある。その中フランスが狙われたのは、移民受け入れ政策の違いが影響したのでは無いかという話である。

 フランスでの移民の受け入れは、フランスへの同化が基本である。フランス語を話し、フランスの文化に溶け込むことが求められる。とりわけ世俗主義の受け入れが大きな柱になる。世俗主義とは簡単に言えば政教分離である。政治に特定の宗教を持ち込んではならない。これはイスラム教徒にとっては、なかなか受け入れがたい事だという。なぜならイスラム文化は、政治や社会もまたイスラムの教えに従って行われることが基本だからである。女性が髪を隠すブルカの禁止法や学校でスカーフをつけられないのは、イスラム教徒にとっては精神的な圧迫を感じるのだろう。

 フランスが世俗主義を強く求めるのは、国の成り立ちに理由がある。フランスの自由・平等・博愛の精神とは、それまでの国王や貴族による統治を一般民衆が武力で打倒したことにより成立した建国理念である。その打倒すべき勢力には、当時のキリスト教の教会勢力も含まれていた。このことから、どんな宗教であれ、宗教が政治に絡むことを許さないのが国是となっている。

 同化を求めながらも、目に見えない差別が厳然として存在するのが欧米である。国籍は同じでも同じ国民として扱われず、なおかつ個人的な信仰である宗教の行為にまで制限が加えられる、そんな反発がイスラム教徒の移民に多く生まれるのは無理からぬ事なのかも知れない。たとえばフランス全体での失業率が10%なのに、イスラム移民が多く暮らす地域では17%である。ここにも見えない差別が現れている。


 移民に同化を求めるのはフランスだけではない。ドイツもドイツ語を話し、ドイツに溶け込むことを強く要求する。それに対してイギリスは、フランスとはすこし違うとされる。専門家は、フランスが同化を求めるのに対して、イギリスはコミュニティを別々にして関わりを避けるのだという。だが特定地域に同じ出身民族があつまるのは、世界共通である。ベルギーでテロの巣窟とさえ呼ばれる地域の存在は、その典型例であろう。フランスでも同じであり、結局は隔離政策かどうかでは無く、生み出される差別感への反発の度合いが問題なのだ。イギリス流は、強く同化を求めるのでは無く、悪く言えば従属を求めるのだろう。そのことはイギリス内での地域差別の存在を、当のイギリス人が語ることからも明らかである。国内に民族対立問題を抱えた国は、極端な同化政策はとらない、いやとれないことになる。だからといって差別がないわけではない。



 さて、気質の話である。民族の優越論や反欧米主義と取られかねないので、言葉を慎重に選ぶ必要はあるのだが、これら一連の移民に対する欧米の国々の接し方を見ていると、どうしても気質や体質の影を感じてしまう。

 移民と奴隷制と何の関係があるのかと言われるかもしれない。が、西欧の歴史において両者にはつながりがあり、そして奴隷制への態度には、体質や気質を感じるのである。奴隷制度の底にある差別意識は、人類の普遍的な心情であろう。だが、それが歴史の表舞台で大きな特徴となる国(文明とも)とそうで無い国とがあるのもまた事実なのだ。ここには、それぞれの民族の体質が影響しているように思えてならない。

 古くから有る奴隷制度であるが、ここで注目したいのは、近世以降の欧米による大規模な奴隷制度のことである。これらの目的は、安価な労働力すなわち経済的利益(金儲け)である。それだけのために、同じ人間をモノや家畜と見なすことが出来る感覚は、正直日本人には理解不能である。戦争捕虜とか、借金の形とか、宗教的な違いとか、およそ理由らしきものがみじんもないのだから。

 奴隷にされた数は延べ1000万人以上にのぼるとも言われる奴隷制度がようやく崩壊した後に、出現したのが帝国主義による植民地支配である。欧米は世界中にその植民地を拡大し、同じように経済的利益を享受した。安価な労働力と共に、幾ばくかの消費市場と豊かな資源を独占したのである。さらにこれも崩壊した後に、生まれたのが移民である。支配していた国から大量の移民を受け入れて、単純労働や3k労働に従事させた。元宗主国という強みで、言語を理解し文化もある程度わかっている労働者は、使い勝手も良かっただろう。

 難民受け入れも決して人道的な立場だけからでは無く、自国の利益を考えてのことである。いま難民といいながら実体は豊かさを求める移民が大量にドイツを目指している。当初は、過去の成功例を繰りかえそうとした勢力によって、受け入れを歓迎していたのだが、そのあまりの多さに受け入れに急ブレーキがかかっている。これまで移民や難民を積極的に受け入れてきたスウェーデンなども見直しを行ない、難民でも一時的な滞在しか認めない、すでに永住権をもっていても家族を呼び寄せることは許可しない、難民でもEUでの各国に割当てられた数以上は受け入れないなどとした。ドイツも難民以外の早期帰国、国境の管理強化、認定条件の強化などを直ちに実施している。

 力こそ正義であり、人道よりも自国の利益が欧米の本質である。そこには、自らの命と引き替えても他人の人権を守るような意識は、いがいに希薄である。あくまで、自己がありその上での他人なので有る。これは個人主義の基本でもある。だが同じ人間をモノや家畜として見ることが出来ると言う感覚は、日本人には受け入れがたいところがある。この気質の違いは大きいだろう。

 人権を尊重し、非人道的な行為を厳しく糾弾する欧州が、むしろアメリカよりも人種差別が根強いことは、一部ではよく知られている。実際、海外での経験のある人は、日本人への差別感を肌で感じる人も多く、平等をうるさく言う欧州でむしろ差別感が強いことも実感している。この隠れた強固な差別は、体質として彼らにしみこんだものなのであろう。何かきっかけがあると底に沈んでいたものが、ふつふつとわき上がってくる。だが、表面上は抑えられるので、かえって陰湿な根深いものになる。建前と本音を日本人にだけ当てはめたがる欧米人は、逆に自分たちの建前と本音を知るがゆえに、批判する相手を欲しているのだとも言えよう。欧州の見えざる根強い差別意識については、私や日本人だけでは無く、当の欧米の知識人が述べているのだから間違いは無いだろう。



 こうして歴史を振り返るとき、自分たちの利益のために移民を受け入れたに過ぎない欧米の多くの国々では、国内に同化せざる民を生み出し、絶えざる紛争や衝突の遠因とも成っている。真に人類はひとつであると言う理想による移民の受け入れでなければ、当然そこには差別的な心情が存在する。そもそも自分たちがいやな仕事をやらせたり、安い労働力の担い手と見なすこと自体、すでに差別によるものである。少子化におびえる日本において、移民受け入れの大合唱が始まらんとしている。それがいかに身勝手な差別感に基づくものであるか、なぜかほとんど指摘されないでいる。このような現状での移民受け入れは、西欧の移民受け入れ意識と同じで、せっかく平等意識の高かった日本人の感性を自ら破壊するものに他ならない。金儲けのために魂まで売ることになる。戦前、植民地支配という欧米のまねをして失敗したように、移民を受け入れてまたも失敗を繰り返すのであろうか。

 最近では単純労働者の移民を排斥し、高度な技術や高学歴あるいは金持ちの移民を受け入れる政策をとる国が目立つようになってきた。日本のマスコミが報道しないだけで、シンガポールやカナダなどその数は多い。これらの国は、もともと単純労働者の移民を受け入れていた国が大半である。つまりどこまで行っても、選別すること自体、自国の利益が目的であり人類普遍の平等性を保証しているわけではない。そこでは差別の体質が色濃く残ってしまうことになる。制度上の問題ではないのだ。時代の流れはすでに、次の段階に入っている。それでもこのように移民として受け入れる人を選別する意識の底に、差別意識がついて回ることは否めないだろう。

 真に民族のくくりが薄められて、人類平等の理想としての人々の移動が当たり前になるには、まだまだ相当に長い時間が必要である。EUの混乱がそれを示している。

平成27年11月25日(水)

2015年11月25日気質のカテゴリー:外国人気質

新国立競技場からみる西洋と日本人の感性

 日本人は特異な民族であるかのように欧米では流布されているが、多くはいわゆる西洋人と東洋人の違いである事も多い。では西洋人と東洋人とは誰なのかと言うことになると、これが意外と難しい。とりあえず、一般に意識される欧米人とアジアそれも東アジア人としておこう。

 いずれにせよ、民族の優生論的な考え方では無く、科学的な研究によっても、両者には違いのあることが明らかになってきている。特に感性の違いや自我や自己という意識のとらえ方では、その差が目立つようである。ここでは、もめにもめた新国立競技場の選考を題材にして、その当たりをみてみたい。

 イギリス在住のイラン人(国籍はどうなのか知らない)が応募した新国立競技場のデザイン案が、その後大きすぎるとか、建設コストが見積もりの倍以上の額になるとか、さまざまな問題が吹き出して、結局白紙撤回された。その後、再度条件を絞った公募が行われ二つのグループ案が発表された。
 個人攻撃は好まないのだが、この新しいデザイン案に対して、かのイラン人建築家から批判するコメントがわざわざ出された。日本人の感覚からすれば、「しつこい」「往生際が悪い」と言うことになろう。潔さが美徳の民族は案外世界ではまれなのかも知れない。が、むろん彼女らはそのような事を意識しているはずも無い。ここにも感性の違いが見受けられるようなのだが。


上から目線と下から目線


 新国立の新旧デザインを比べると、明らかに視線の違いを感じ取ることが出来る。そしてこれはデザインをした建築家だけでは無く、それを選んだ選者達にも同じ物を感じる。はじめのキールアーチを中心に据えたデザインは、確かにその奇抜さを上から見ている分にはかっこいいのかも知れない。だが、実際に利用する人達の視線からすると、眼に入るのは唯々巨大な壁だけである。そこに、人間の下からの視線への配慮が感じられないのである。新デザインでは2案とも、観客から見てどのように見えるのか、むしろ下からの視線が強調されている。

 この違いは日本の多くの建築物でも見て取ることが出来る。個人的には新宿の東京都庁・議会の建物が嫌いである。テレビ番組などでも、この建物を上空から映した画はよく使われている。確かにそれなりに「絵になる」デザインだろう。だが、訪れた人なら誰でも感じたのでは無いだろうか。訪問者に対してあれほど冷たく無機質で、しかもせせこましい建物はあまりない。特に新宿駅から地下道を通っていくと、どこが入り口なのかすらわからない。訪問者、使う人間の立場に立った視線が欠けているように私には思える。

 日本は土地がせまく、さらに東京では地価が高いので、そうなるのだという言い訳は、いやしくも1流の建築デザイナーが決して言っては成らない言葉であろう。与えられた条件を克服するデザインこそ優れたデザインなのだから。やはりどうしても、そこには上から見た場合のデザインしか考えられてないように思う。
 新国立競技場の初期案を選択した多くの専門家がすべてそうだとは言わないが、西洋的なデザインを優れた物として選んだ選者達もまた、上から目線の持ち主なのであろう事は想像に難くない。

 独裁者の代表のように言われる、織田信長の築いた安土城がある。残念な事に焼失して残っていないのだが、最新の科学技術や地道な発掘調査等により、その全容が見えてきた。人を驚かす天守閣が単に上から見下ろすためだけに作られのでは無く、安土城の山全体が城下町からどのように見えるかを計算して作られていることがわかってきた。城を築いた山の細部にわたるまで、大規模なテーマパーク構造物であり、そのあらゆる場所で城下や訪問者からどのように見えるのかが考えられている。信長は、多くの人々の下からの視線を十分すぎるほどに理解していたのである。大仏や五重塔なども、参拝者が下から見上げたときの視線を考えて作られている。これは日本人の本能的な感性なのだろう。


個(人)の立ち位置と視点


 遠近法で書かれた絵を見せられたとき、自分の側に視点のある西洋人は離れていくと見、対象の側から自分を見る東洋人は近づいてきているとみる。個の中心点のとらえ方の違いは、先の「上から目線」ともつながるところがあるのかもしれない。
 建物そのもの(自分の側)により強い視点があるとき、建物のデザインが重要で周辺との調和は無視される。周辺の全体に視点があると、建物のデザインは自ずから調和を求めるものになる。

 大きなビルが建てられる時、最近でもその真ん中を吹き抜けにするデザインが多い。陽光を大事にするというよりも、これも視線が建物そのものにあるからでは無いのだろうか。京都の古い建物では、窓や縁側から外の自然と一体化して境界線の無いデザインをした物がある。建物と周囲の自然との境界線を敢えて明確にしない事で広がりを持たせている。遠くの山を組み込んだ日本庭園などもその典型である。

 都市全体の景観を考えないで、野放しに勝手な建物を作らせた結果、およそ見栄えの悪い東京の景観が出来てしまった。それをごちゃごちゃした、にぎやかな下町の風情と混同して評価する人がいるが、それはやはり日本人の感性への考察不足や感性の錯誤なのだろう。

 砂漠のような何も無いところであれば、個々のデザインだけ考えれば良い。むしろ奇抜な方が砂漠に負けないだろう。だが、日本のように山々が連なりすぐ水辺(川や海)がある風景では、調和をさせないデザインは個別のデザインとしていかに優れていようとも違和感を生み、見る人の心をいらだたせてしまう。
 新しい新国立競技場のデザインに応募したのは、二人とも日本の著名な建築家だという。そして、若い頃はかなり奇抜なデザインをて手がけたそうである。それがいつの間にか、そこから抜け出して和の大家とよばれたり、調和を重んじるデザインに変化したという。

 中心の視点がどこにあるかということが、西洋の個人主義、東洋の集団主義と呼ばれる事にもつながっているのかも知れない。



自然と人間の分離


 自然は人間が克服すべき物と考える西洋人と、自然の中に自分や人間が溶け込むという意識が強い日本人とでは、さまざまな感性の違いが生まれるのだろう。

 ヨーロッパで、同じ色の同じような大きさの家が整然と並ぶ街並みがある。これだけ見ると、日本同様の調和を感じさせるのだが、これも街全体を人間の作った建造物として考えた末なのでは無いだろうか。明治神宮の豊かな自然は、実は人工的に作られた物である。だが苗木は植えても、そこから100年以上掛けて自然に育つようにそれ以上人間の手を加えなかった。同じ自然との調和でもどこか異なる部分が見えてくる。


   今回の騒動の裏には、西洋と日本人との感性の違いが底流にあるような気がする。日本人はいま、あまりにも欧米流の個々の建造物や個人だけを強調する社会から、もう一度豊かな自然の中で心安まる暖かな環境を求めだしたのでは無いだろうか。


【参考】
日本人の気質  【外伝】新国立騒動にも見られる振り子型変容
        【外伝】五輪騒動に見る日本人の感性の劣化


平成27年12月19日(土)

2015年12月19日気質のカテゴリー:外国人気質

アメリカ人気質の一面:力が正義

日米安保の実効性を破壊しているのは日本人自身とトランプの豹変


 私は「常識の毒」のなかで、アメリカが日本を本当に守るのかという疑問を提示した。欧米人やアメリカをよく知る人達の中には、私と同じような考え方の人もいるだろう。だが、ほとんどの日本人はそれを頭では理解できても、感覚で賛同出来る人は少ないだろう。欧米人と一緒に仕事をしたり、色々とつきあってみて始めて肌感覚は生まれるのだろうから。  トランプが正体を見せ始めたとでも言うか、安倍総理との仲も急速に冷え込んでいるようである。次の記事の中で述べられている、G7でのトランプの反日的な言動は、フェークニュースなのであろうか?  真実、偽のいずれに依らず、このように重大な事を取り上げてきちんとその意味を解説しようとしないメディア、これこそが日本を破滅に導く先導役を果たしているのだが、自分の頭で考える事をしなくなった、いや出来なくなった多くの日本人は、その危機的な状況すらも認識できないでいる。



【正論】「日本に何ができるのか。アメリカを前面に立たせて日本は後ろにいるつもりか」 トランプ米大統領のいらだちが問うもの

 『5月26日、先進7カ国(G7)首脳会議直前に行われた日米首脳会談の場で、北朝鮮と中国の関係に話題が及ぶや、トランプ大統領が態度を一変させた。関係者の話を総合するとこうなる。

 中国はよくやっていると語るトランプ氏に対し、安倍晋三首相はその不十分である旨を説いた。正しい指摘である。ところがトランプ氏は、いらだちもあらわに、居丈高に言い放つ。

 では、日本は一体何ができるのか。もし北朝鮮と軍事衝突になった場合、アメリカを前面に立たせて後ろにいるつもりか。ミサイル防衛に力を入れると言うが、自分を守るだけの話じゃないか。』



 反安倍、反保守のメディアなら、むしろ日米安保不要論に結びつけられる絶好のネタである。だが、沈黙している。保守や右よりとされる言論人でも、欧米人の気質を知った上で、この内容を正しく説明できる人はほんのわずかである。

 長くなりすぎるので解説は省くが、私の言いたいことは要するにこういうことになる。

 欧米人とりわけアメリカ人(白人だけで無いところがややこしい。オバマなど典型なのだから)のほとんどは、力が正義だと信じている。それゆえに、力の無いものを認めることはしない。例え悪であろうが何であろうが、相手が力をもっていれば、その対象をまともな交渉相手と見なすのである。中国やロシアがこれにあたる。
 力なき者は、踏みつぶすか奴隷化することを基本としている。日本とはまさにそのような存在である。

 アメリカ人は歴史を持たないが故に、歴史を顧みない。前述のような日本を作ったのは、間違いなく戦後のアメリカ占領軍であるにもかかわらず、状況が変わるとそんな事は全く意に返さない。今の相手しか見ないのだ。その事も、日本人は全く理解出来ないでいる。

 信義とか友情などと云うものは、アメリカ人は同じアングロサクソンにしか持つことは無い。個人的にいかに仲良くなっても、国益がからめば豹変するし、白人優位主義が頭をもたげる。これは理屈では無く、大多数のアメリカ人の遺伝子に刻まれた気質なのだ。

 一部のアメリカ人は、日本から利益を吸い上げるために歪んだままの、日米安保の存在を認めている。だが、そのような利益から離れたトランプのような一般のアメリカ人は、アメリカが日本を守り、日本はアメリカを守らない、そんな馬鹿げた話は、理屈の上でも、感情的にも認めることはあり得ないのである。

 トランプをアメリカ人の異端児のごとく言うが、それは嘘である。『中国は北朝鮮に対してアメリカのために力を行使してくれている、日本は文句を言うだけで何もしていないだろうが』このトランプの考え方はアメリカ人一般のごく普通の、つまり大多数の考え方なのだ。この事(中国の対北朝鮮)が真実かどうかなどは、単純なアメリカ人にはどうでも良いのである。はっきり言えば、馬鹿力だけのアメリカの本性なのである。



 なら、日本は真にアメリカから独立して自らの国を自ら守るにはどうしたらよいのか、真剣に考えなくてはならないはず。しかしそれを邪魔しているのが、他成らぬ多数の日本人なのだから始末が悪い。
 核兵器は持ちたくないが、自国は自分の手で守りたい、いや守るしか無いとき、どうしたらよいのか。自分の頭で考えるか、考えられないのなら、少なくとも馬鹿げた、日米安保強化や逆の平和原理主義、九条擁護の誤った考え方に、簡単に賛成したり踊らされたりしないことである。

 安全保障は何かあってからでは遅いのである。もはや、トランプは日本や安倍総理など軽蔑の対象でしか見ていないと知るべきである。

平成29年6月7日(水)

2017年06月07日気質のカテゴリー:外国人気質

暴力と気質の関わり

「日本人の気質」ではさまざまな日本人の特徴を取り上げているが、あまり触れなかった項目がいくつかある。その一つが、『暴力』である。
 暴力もまた、専門的にはさまざまな種類があり、その原因とされるものも多種多様である。ここでは詳細に立ち入ること無く、一般に広く言われる「暴力」と気質との関係について見てみたい。

 本稿を書くきっかけは、大相撲人気が復活してきたというのに、またまた親方による付け人への暴行騒ぎが報道された事にある。できが悪い、言うことを聞かないということから、金属バット果ては金槌まで使って暴行を加え、傷害を負わせたというものだが、「またか」「まだこんなこと」というのが大方の反応である。

 警察、自衛隊、スポーツ界、企業といわゆる主従関係や上下関係などが厳しい中で繰り返される暴力は、未だに後を絶たない。これとは異なるがいじめの集団暴行、近親者暴力(DV)のニュースを聞かない日はないほど、いまの日本社会に暴力ははびこっている。暴力事件は加害者の気質等個人的な要因が大きいのだが、これだけ同じような事件が繰り返されると、やはり社会的な問題としてとらえる必要も出てこよう。
 また、身体的な暴力以外にも言葉によるものなど実に多くのものが、広義の暴力とされている。ここでは、比較的目に見える物理的な暴力の一部について述べることにして、暴力全般と気質の複雑な関係には立ち入らない。

 日本人の気質において重要な因子として「くくり」の概念を提案した。個人的な暴力も、さまざまな例を分類して見ると、いずれもくくりと関わっていることがわかる。

 

 

 

 いくつかのくくりの例を図にあげてみた。相撲をはじめとする各種スポーツ等の組織、警察・自衛隊・消防等の実力行使組織などは、くくりが強固で比較的外部からは閉鎖された集団である。またグループ内での特定個人への暴力が殺人にまで発展する例も多く社会問題になっているが、これもグループのくくりは強固で他と隔絶されている。オヤジ狩りをするような数人の集まりも意識としてはかなり強固なくくりとみることができるし、近親者暴力(DV)などは非常に小さな集団であるが、逆に他人が入り込めない強固なくくりである。

 つまり、暴力事件を起こすようなくくりは非常に強固で、構成員がそのくくりに対して強固な撞着を起こしやすい、くくりのなかである人間がくくりの私物感・所有感をもつことで暴力などの独善に走りやすい、被害者がくくりから抜けだしづらいなどの特徴が見えてくる。
 暴力を振るう人間は、本来自己防衛機構が強く、それが時に暴力として発現しやすい性格を持つこと人間も多い。そういう人間は、自分が閉じこもれるくくりがあれば、なおさらそのくくりを利用して、自己防衛を強めようとする。やくざが組を抜けるものを許さないように、時にはくくりからの離脱者を、拡張自我と見なすくくりの防衛のために暴力で押さえつけたり、殺して排除しようとする。

 こうして本来個人的な暴力という問題も、社会的もっと言えば集団農耕型の気質の問題としてとらえ直すことが出来る。いずれにせよ、このくくりと暴力者との関係をみれば、いくつかの対応策も考えられるだろう。

閉鎖的なくくりを作らせないこと

  縦割り行政で有名なように、日本人はとかくくくりを閉鎖的にしたがる傾向を持つ。したがって、暴力者と被害者のくくりが成立しないように、常に周囲からくくりを壊す作業を行うことが有益である。クラブの監督が暴力者であれば、クラブのその他の人間が、常にクラブ内に出入りするとか、監督を複数にするとかである。自衛隊であれば、暴力者の上官が、前触れ無く見回ることでも抑止力となる。

被害者のくくりからの脱却を支援する


  暴力の被害者は、いつか暴力者に精神的にも支配されて、そのくくりから抜けられない状態になる例が多い。くくり概念で言えば、くくりの動的再編・動的移行が行われるようにすることである。警察組織で暴力上司がいるなら、簡単にやめて別の企業や組織に移る事を考える事である。暴力者のくくりへの撞着を強化させないのと同様に、被害者のくくりへの撞着をより柔軟に他のくくりに意識を変える動的移行を行わせる事である。いくつものくくりに寄って人間は生きている。それをもう少し考えれば、会社人間が企業のために悪事をしたり、暴力で言うことを聞かせるような事も無くなるだろう。




 くくりの概念以上に重要な因子は、やはり自律と精神力であろうか。孤高武士型、特に理想像としてのサムライが、集団農耕型の人間と大きく異なる点は、3つの特長を持つことにある。

 

 

 加害者に暴力などを自制する自律の心があれば、被害者がくくりから抜け出す強い精神力と行動力があれば、暴力行為がもう少し社会的な問題では無くなるのだろう。結局、最後の結論はいつも行き過ぎた集団農耕型から孤高武士型に気質、性格、心のあり方を変えていく事になる。が、言うは易く行うは難しでもある。せめて、暴力問題に、このような視点を加えてもらいたいと思うのだが。

 参考までに付け加えるなら、ここで言う精神力とは心が持つエネルギーの量と質の総体である。戦後とりわけバブル崩壊後、この力が日本社会全体で弱まってしまった。そのことが、少し前なら考えられないような不祥事や問題発生の遠因となっていることは疑いの余地もない。日本人の歴史を見ると、この精神力は、自然災害でも社会的な問題でも、何か大きな困難に遭遇すると強化されるという事が繰り返されてきた。いまもまた、そういう時代に入りつつあると言うのが、個人的な見解である。是非そうなってほしい。

 

 

 さらにもう一つ付け加えるならば、脳科学の分野においても「暴力」の研究は進歩してきている。男性が攻撃的で女性はそうではない(最近怪しいニュースも多いけど)と言うことは、よく知られている。この事とも絡んで、日本の研究者が興味深い発見を行った。

 脳の深部にある視床下部からは生殖腺刺激ホルモン放出ホルモン(GnRH)が分泌されている。筒井和義らは2000年に、生殖腺刺激ホルモンの放出を抑制する別の脳ホルモン(GnIH)を視床下部から発見した。いわばGnRHがアクセル、GnIHがブレーキである。このGnIHに動物の攻撃性を抑制するという新しい機能のある事がわかり、これをうまく使えば暴力的な人間の暴力を押さえる薬が開発されるかもしれないのである。
 だがすべての事柄や存在は、何らかの調和によって保たれている。それを一方的に壊すようなものが、どのような結果を招くのかはよくわからない。病気の治療も大切であるが、社会の病気は、出来るだけ教育によって改善していくべきであると信じている。


参考資料

日本人の気質 第4章「くくり」と「撞着」
       第5章 くくりへの病的撞着がもたらす社会病理

平成27年9月5日(土)

 

2015年09月05日気質のカテゴリー:補章

「入り口だけ重視」社会を作る気質

『受験なしの有名一貫校卒業者「使い物にならない」マツコ発言に「これは本当」「8割はダメ」同意する声多いが...』(J-CAST)
 太っちょおじおばさん*が、有名私立校の内部進学者は使い物にならないとテレビで発言して話題とか。それを取り上げた記事も、企業の採用現場では一貫校の内部進学者への評価は厳しいと書いている。
 (注*)「太っちょおじおばさん」とは、おじさんなのにおばさんのようであり、その愛らしい体型に目が行ってしまうタレントさんへの愛情を込めて言っているのだが、偏見ととられるかな?ま、心も大きそうだから許してくれるだろう。

 私立大学の内部進学者が受験で受かった人達よりも学業成績などで劣るという実証的なデータを、私は見たことは無い。だが別に反論しようとも思わない程には、事実だと納得している。しかしここでとりあげたいのは、それだけでは無く、もっと日本社会のあらゆるところに根付いている「入り口だけ重視」の気質についてである。

 内部進学者に限らず、有名大学でも一流大学でもそもそも入学すると勉強をしなくなって、卒業に値する学生はほとんどいないのがいまの日本社会である。最近は少子化でそうでも無くなったが、入るのは大変だが入ってしまえば後は楽というのは、何も大学だけの話では無い。似たような話、つまり入り口だけ騒いで後は知らん顔という事が、非常に多い社会だと思うのである。

 役所仕事は一度決めると例えどんなに状況が変化しても、決してやめたり変更する事無く、当初の計画通りに進めようとする。五輪の新国立競技場は途中でやめられた希有な例であろう。多くの公共事業は、当初予算を大幅に上回りもはや必要性すら失せても、それでも尚、工事が続けられる。この異常さは、どこに原因があるのか?多くの国民が騒ぐのは、導入時だけだと(役所側は)わかっていることも、一因なのではないだろうか?

 法律などでも、一度ある方向に舵が切られると、後はなし崩しに際限なく進んでしまう事はよくある。そこで利害関係者は、なんとしても自分たちの有利な方向性への一歩を踏み出させようとするし、反対するものは、ひたすら無条件に絶対反対を唱えることになる。冷静な現状分析や将来像などどこにも無いのだ。騒ぐのは始めだけになる。

 企業犯罪でも、一度小さな不正が行われてしまうと、あとは際限なく拡大して止まらなくなるのも、この気質と無縁ではあるまい。


 一体この「入り口だけ重視」とは何なのであろうか?気質と呼んだが、このような気質因子は常識では考えられないだろう。さまざまな気質や性格傾向が寄り集まって、いつの間にかこのような社会構造が生まれ、気質と呼べるほどに強化されてしまったのである。この元になった気質群を選び出すことは容易ではない。

 日本人は大きな自然災害に遭遇したとき、「どうしようもない、しかたがない」とあきらめて、その事実を受け入れる。災害列島に暮らす人間が、精神の安定を保つひとつの方法である。このような感性が、「入り口だけ重視」の気質の基底に横たわっている気がする。事が起きるまでが問題で、起きてしまえばしかたがない。入るまでが問題で、入ってしまえば後は気にしない。決めるまでが問題で、一度決めれば後はどうでも良い。なんとなく共通したものを感じるのだが。そこに無誤謬性だの、責任逃れだの、他のさまざまな気質要素が加わって、こういう体質にも似た社会ができあがったのであろうか。他にも

 熱しやすく冷めやすい
 決まったことを金科玉条ととらえる
 やり出すと止まらない、柔軟性の欠如
 一度壁を越えると自制心無く進んでしまう、極端に走る

等々、さまざまな性格傾向が、いまの「入り口重視社会」を作り出してしまったのだろう。さまざまな性格傾向が関係してはいるが、やはり集団農耕型気質のなさる業に見える。なぜなら孤高武士型は、入り口以上に出口に関心をもつ。出口とは、結果を含めた責任への姿勢である。常に自分の責任を考えているから、そこからは入り口だけ過ぎれば後はよしとする姿勢は生まれてこないだろう。結局最後を考えない、すなわち責任をとろうとしないところにこそすべての根本原因がある。

 

 

 責任感の強さこそ、両気質を分けている大きな違いのひとつである。集団農耕型が、付和雷同的に多数派におもねるのも、自己決定による責任をとりたくないがためでもある。自らの意見を述べることはそれに責任をとることでもある、だが、多数にのっていれば、例えそれが誤りでも自分だけが責任を追及されることは無い。それどころか、みんなで隠蔽して終わらせられるのである。

 外交において日本の主張を強く打ち出さず、いい加減なところですませて、少しでも波風が立たないようにしようとする傾向は、外務官僚や政治家だけでは無い。多くの集団農耕型人間に共通するものである。孤高武士型教育の武士道において、常に命をかけても責任をとる事を教えるのは、まさにこの事であろう。武士は、自分の行いでなくても、責任者たる立場にあれば、黙って腹を切った。「自律」には「責任」が常に裏表で付いているのだ。

 入り口重視は、当然出口軽視にもつながる。それは次回見ていこう。


平成27年10月29日(木)

2015年10月29日気質のカテゴリー:補章

後始末が苦手な気質

 集団農耕型気質が、入り口だけ重視する社会を形成していると述べた。入り口重視とは、出口軽視だとも。その派生的な事柄として、何か事が起きたときに総括をしない、いわば後始末が苦手という傾向が見て取れるだろう。

 そこには誰も責任をとらない、いやとらせない集団農耕型の体質があるが、無責任体質だけでは無く、後始末自体が苦手な気質が見えてくる。災害列島の日本において多くの人々が体験したであろう自然災害は、その原因など問うこと自体が、遙か昔には意味の無いことであった。大きな自然災害の後には、一刻も早く元のように復旧させること、二度と起きないよう神に祈ることであった。むろん経験として、危険な場所を避けるという事は学習として次の世代に伝えていたであろうが。この長い時代の遺伝子が、起きたことの原因を考えても仕方が無いという「あきらめ」と「切り替えの早さ」「潔さ」をもたらした。大きな災害や戦争などの後、立ち直りが非常に早いと言われるのもこの気質と経験に無縁ではあるまい。

 戦国武将たちは治水事業に力をそそいだが、一般農民は自らそれを成そうとはほとんどしなかった。できなかったというよりも、あきらめが強く、ひたすら元への復旧を願う気持ちが強かったのであろう。これはいまも続いている。大きな自然災害において、復旧と復興と口では言うのだが、ほとんどは復旧を望み、これを機会として全く新しく挑戦することを、被災者も自治体や国も良しとはしない風潮がある。孤高武士型人間ならば、これぞチャンスとばかりに、出来なかった大きな工事や土地利用の大幅な変更を行うことを考える。だが、それを許さない空気がいまの日本にはある。


 太平洋戦争について日本人による日本としての総括が成されていない、企業の不正が発覚したときにその原因追及などがきちんと成されない、公害のように官僚や政治家の無作為が糾弾されることも無く見過ごされるなど、後始末がきちんと出来ない社会であることを示す例は数多くある。結局誰も原因と責任を追求をしないのである。和をもってと言う波風を立てたがらない集団農耕型気質に依るものもあるかもしれない。だが、結局それは責任の所在をあきらかにしない、すなわち自分もまた責任をきちんととろうとしない体質に他ならない。原因に対する対策も講じないから、何度でも繰り返される。

 

 

 特にひどいのが、本来監視役をすべき組織や仕組みが全く機能していない事である。数多くの外部監査機関や、数多くの法律、自治体や国の審査・監督等、監視したりチェックする機構や仕組みはいやになるほど用意されている。だが、およそそれらが正常に機能して不正などが発覚した例はほとんど無い。しかも恐ろしいのは、それがほとんど追求されないことである。

 旭化成建材のくい打ちデータの不正事件(2015年)では、建設業界の構造的問題のひとつとして、度重なる建築基準法の改悪により業界が疲弊してしまったと指摘する声がある。うなずけるような気がする。役人は自分たちの責任を棚に上げて、何が問題が発生するとそれを逆手にとり自分たちの権限を拡大させていく。いわゆる焼け太りである。こういう責任をとらせられる事の無い組織の暴走が重なるとき、社会の構造そのものが制度疲労をおこしてしまう。日本社会は、いままさにそのような状態にあると言える。国滅びて役人残る、状態である。むろん、役人だけを責めているのでは無い。このような集団農耕型の体質のゆがみを正す方策をとらない限り、この手の問題は決して無くならない事を指摘しているのだ。


 本質的には、この集団農耕型の行き過ぎたゆがみを正す教育をするしか無いのだが、対処療法的に出来る事もまだある。それは、あらゆる監査・管理・審査等の組織や個人に、不正発覚時には不正実行者と同じ罰を科すことである。オリンパス、東芝等の不正においても監査法人の責任は、ほとんどメディアでも取り上げられていない。これでは、形ばかりの監査だと言うことを、社会が認めたことになってしまう。過去に不正事件の結果、監査法人が実質つぶれた例はあるが、およそまれな事例である。

 気質などをよく理解して、それに対応した社会の仕組みや体制を作ることが求められている。

平成27年10月30日(金)

2015年10月30日気質のカテゴリー:補章

同化する気質と日系人

 「文化と文明」を書いている途中で、サミュエル・ハンチントン著「文明の衝突と21世紀の日本」を本棚から出してパラパラしていたら、次の一文が目に付いた。

 『他のすべての主要な文明には、複数の国が含まれる。日本が特異なのは、日本文明が日本という国と一致していることである。日本には、他の国には存在する国外離散者(ディアスポラ)さえ存在しない。ディアスポラとは、祖国を離れて移住しているが、元の共同体の感覚をもちつづけ、祖国と文化的な接触を維持している人びとの事である。(ページ46)』

 この内容には事実誤認があるとしか思えないのだが、その話は別の機会にしよう。ここでは、日本人の気質として、ディアスポラがいないというのはどういうことなのか、少し考えてみたい。

 海外に移住しても母国の意向に沿って行動すると言えば、すぐに思い浮かぶのが、米国などでの韓国系移民の反日活動であろう。慰安婦での反日活動があまりに理不尽なため、日系アメリカ人もようやく反対活動を行うようになってきた。これは要するに「同化」の問題である。

 ディアスポラとは、結局、移り住んだ先において、その国や民族に同化しない人びとである。日本以外の外国人は、この傾向が強いと言うことであろう。これは民族の気質の問題になる。移民と現地の人々との衝突は、「同化せざる民」を生むことになり、いっぽう日本では、逆に同化しすぎる「くくりへの撞着」問題を生み出すことになる。日本人が自分がいる場の集団(くくり)に同化しやすい気質を持つ事を理解すると、集団主義と言われる原因が見えたり、外国の国々とのつきあい方、進出先の現地人とのつきあい方など、いろいろな事柄への対応がいまよりうまくいくようになるだろう。


 日本人の同化しやすい気質は、日本人誕生と関わるのだろう。元々別の文化集団であった縄文以前の人々が、この日本列島においてひとつにまとまり、ひとつの縄文文化を作り上げた。しかも、有る集団が他の集団を力によって征服するのでは無く、お互いに協力をしあってまとまった。こうした経緯が、日本人の遺伝子に、同化しやすい気質を育み、植え付けたと思われる。

 海外に出かけた日本人の多くは、同化しやすい遺伝子により、現地に溶け込む努力を自然とするようになった。そのために、母国の文化を大切にしながらも、現地への同化が進んで、溶け込んでしまった。中華街とか、コリアンタウンとか、同化するよりも、自分たちだけ集まって同化せずに、自文化をかたくなに維持し続ける人々との違いがそこにある。

 

 

 山田長政で有名なタイの日本人街など、アジアに進出した日本人は大勢いる。だが、いまではその痕跡がほとんど見られないのは、多くの人が現地に同化して溶け込んでしまったからであろう。かって、古代の日本に来た大陸などからの渡来人は、同様に日本への同化をはたして来たが、近代以降では、日本に同化しない外国人も多くなってきた。日本に骨を埋めようと考えるほど日本文化を愛する外国人は、たいてい日本人の感性に近いモノを持っている。特異だと言われる日本文化への同化は、理屈や知識だけでは困難であろう。気が付いたら日本人と同じ感性を持っていたという外国人の話は、誇張ではないのだと思う。


 世界遺産のなかで言ってみたい第一位が、ペルーのマチュピチュ遺跡であるとか。最近世界中からのラブコールを蹴って、日本の村と友好都市を結んだと話題になったが、それには理由があった。マチュピチュをいまのように世界に開かれた遺跡にした功労者は、実はペルーに移民した日本人だったのである。彼は現地の女性と結婚し、マチュピチュ村の村長になって、村の発展のためにそれを成し遂げたのである。このように多くの日本人は、現地に同化しようと努める気質を持っている。

 アメリカやブラジルで日系人がかなりの数いるはずなのに、日系としてのまとまりが今ひとつ強く感じられないのは、もはやそれぞれの集団(国家なのか民族なのか、地域なのか)に同化して溶け込んでいるからだろう。日系アメリカ人なのに、反日の代表格のような変な議員がいる。考えようによっては、彼が日本人の遺伝子を色濃く持っているからかもしれない。同化しようとする無意識の働きが、先祖の母国である日本よりも、どこか日本人を理解不能と考えている一般的なアメリカ人のリベラルへの同調を導いたのだろう。彼が嫌う日本は、彼のなかにある日本人の遺伝子がそうさせているとしたら、皮肉な話である。


 同化しやすい体質は、本論で取り上げた重要な概念「くくりへの撞着」を病的なものにまで進めてしまう原因の一つなのかもしれない。そこだけはよく自省する必要が、いまの日本人にもあるだろう。

平成27年11月7日(土)

 

2015年11月07日気質のカテゴリー:補章

パーソナル・スペースと気質

パーソナル・スペースとは


 パーソナル・スペース(personal space)は、 パーソナル・エリアとも呼ばれ、コミュニケーションをとる相手が自分に近づくことを許せる、自分の周囲の空間(心理的な縄張り)を指します。

 縄張りですから、ここに他人が侵入してくると、人は不快感や嫌悪感を感じます。防衛本能が働いている状態になるのです。しかし、逆に親しい相手や好意を寄せている相手であれば、容易に受け入れることが出来ます。 一般に、欧米人は日本人よりも、女性は男性よりもパーソナルス・ペースは狭いとされています


 1966年、アメリカの文化人類学者のエドワード・ホールは、パーソナルスペースを4つのゾーンに大別し、それらをさらに近接相と遠方相の2つに分類しました。その空間は、概ね次のとおりです。

密接距離…ごく親しい人に許される空間
  近接相(0~15cm) 抱きしめられる距離
  遠方相(15~45cm) 頭や腰、脚が簡単に触れ合うことはないが、手で相手に触れる
   くらいの距離

個体距離…相手の表情が読み取れる空間
  近接相(45~75cm) 相手を捕まえられる距離
  遠方相(75~120cm)両方が手を伸ばせば指先が触れあうことができる距離

離社会距離…相手に手は届きづらいが、容易に会話ができる空間
  近接相(1.2~2m) 知らない人同士が会話をしたり、商談をする場合に用いられる距離
  遠方相(2~3.5m) 公式な商談で用いられる距離

公共距離…複数の相手が見渡せる空間
  近接相(3.5~7m) 二者の関係が個人的なものではなく、講演者と聴衆と言うような
   場合の距離
  遠方相(7m以上) 一般人が社会的な要職にある人物と面会するような場合におかれる
   距離



パーソナル・スペースと気質


 欧米人のほうが日本人よりもパーソナルスペースは狭いということで、欧米の握手と日本のお辞儀の違いなどが思いつきます。しかし日本人の中でも、この距離感はかなり個人差、いや集団差があるように思えるのです。

 外資系にいたときの飲み会では、各個人の距離は近いとはいっても、ごく普通のものでしたが、純国内メーカーやキャリアと呼ばれる高級官僚出身者が大手を振っていた国内の会社では、様相が少し違いました。歓迎会ですら異常に馴れ馴れしいというか、べたべたとしてくるのです。しかも、そこにも違いがあります。本当に親しさを現そうとする純国産(昔からのという意味です)企業にたいして、キャリアの官僚系企業は、そもそも飲みに誘うことがありません。まずは、どの派閥に属するのか、相手を値踏みする所から始めます。出身大学はどこか、どんな考え方なのか、どの派閥に入ろうとしているのか、まるで漫画の世界そのままです。そこで、その値踏みのために、まず一人が近づいてきます。この時のパーソナル・スペースが、異常に狭いのです。これは心的縄張りというよりも、下心がある人物のモミ手と同じものなのでしょう。


 パーソナル・スペースという非常に個人的なものまで、日本においてはくくりの集団によって形態がほぼ定まってくるということを述べているのです。このように全体のやり方や、しぐさまで同調しやすいのが、集団農耕型であることは言うまでもありません。孤高武士型は、常に人との距離を保ちます。それが、時には恋人にまで誤解を生じさせるのかもしれません。


 集団農耕型の人は、親しさのレベルというものを勘違いしやすいでしょう。外国人との付き合いに、それが端的に表れてしまいます。外人とのつきあいでも、日本人と同じ親密さが必要だと勘違いします。しかし海外での人との関わり合いは、日本人が思うよりもはるかに軽い、表面的なものです。そのお互いの誤解が、日本人は情的、外人はビジネスライクと言われることにもなるのでしょうか。

 欧米人のパーソナル・スペースが日本人より狭いというのは、逆に、心理的な距離の遠さを物理的な距離で埋めようとするものにも見えます。そのことは頭の片隅においておくべきでしょう。 。

 アメリカで、親しくなった相手の会社の人間とその彼女と3人でドライブをしたことがあります。その時、二人はなにかといえば、人の目もはばからずキスをしていました。あまり激しいので、私は冗談に、君たちは何回もキスしてるけど俺は0回だとと言ったのです。そしたら、お前もやればと彼が言い、彼女が私にキスをしてくれました。彼らの身体接触をあまり良い方にとらえすぎて、勘違いしないほうがよいでしょう。



パーソナル・スペースへの侵入とその受容


 集団農耕型の人は、孤高武士型に比べて、パーソナル・スペースへの寛容度が高いようです。スペースが小さい、近いと言っているのではありません。縄張りへの他者の受け入れ度です。容易に受け入れるし、他者のスペースへ簡単に侵入しようともします。一方、孤高武士型は、自分のスペースを犯されることを嫌いますし、他人のそれも犯しません。これは自我の確立度と関係が有るのかも知れません。外資系企業での飲み会では、各自がそれなりの間隔を開けて座りたがりますが、純国産企業それもメーカーでの飲み会では、めったやたらと近付いてきて、身体に触れてくる傾向がありました。集団農耕型の人は、異性に対する態度でも同様の事がみられますので、セクハラと間違われないように注意が必要でしょう。

 パーソナル・スペースのような精神的な空間と、物理的な接触度は本来別のもので、混同してはいけないのかもしれません。しかし時に、それが相互作用を及ぼしていることも事実でしょう。
 くくりとの関係で言えば、典型的な日本企業では、よく会社の仲間と毎日飲みに行きます。くくりと自我の一体化が進んでいる証拠なのですが、それはパーソナル・スペースでいえば、もはやスペースが無い状態とも言えるでしょう。そのことがますます一心同体のようになって、いつもいっしょにいたがり、社会的規範をやぶることでも、いっしょならばと不正行為に及んでしまうのです。


 心理学的には、子供のパーソナル・スペースと親の愛情には密接な関係があり、その後の発育にも影響を及ぼすものですが、ここでは取り上げないで起きましょう。



平成27年11月10日

2015年11月10日気質のカテゴリー:補章

感動のツボ -なぜ「はやぶさ」に感動するのか-

 2015年は、「あかつき」が5年ぶりで金星の軌道に投入成功、「はやぶさ2」のスイングバイが成功して小惑星「Ryugu」への軌道に入った、「中年の星」の油井宇宙飛行士の帰還など、宇宙での明るい話題が続いた。さまざまなドラマの中で、我々に強い感動と記憶を残したものと言えば、やはり小惑星探査機「はやぶさ」の帰還であったろう。2003年に打ち上げられたはやぶさは、危機の故障や一時行方不明となるなど数々の困難に見舞われたが、2010年ようやく地球に帰還しカプセルを地上に届けると本体は大気圏に突入して燃え尽きた。7年にも及ぶ苦難の旅路の末、ようやく地球に戻りながら最後は火の玉と成って燃え尽きる姿に、涙さえ禁じ得ないほどの感動を覚えたものである。
 その感動は私一人だけの物では無く、多くの日本人が感動し、ついには映画まで制作された。それにしても、命を持たない物体に対して日本人はなぜこれほどまでに感動を覚える、いや覚えることが出来るのであろうか。

 日本人が感情豊かで、アニメやキャラクターから果ては無機質なモノにまで感情を移入することはよく知られている。それが、アニメやコミックの盛んな文化にもつながっており、その文化がいまや世界の若者にまで伝播している。だが、「はやぶさ」に覚えた感動は、モノへの感情移入という通り一遍の説明で済む話なのであろうか?どうもそうでは無いように思える。感動を覚える同じ遺伝子が、「それは違うだろ」と語りかけてくるのだ。

 感情移入に関わるような心理学的用語は、共感とか共鳴とかたくさんある。だがその基本は人間の自我や経験と密接に関係してはいるが、外界の対象物との関係性はどうしても人間主体の考え方である。アニメやキャラクターも擬人化された人間もどきが、対象になると考えられている。これでは、はやぶさへの感動や「刀は武士の魂」だという事をうまく説明することは出来ないだろう。



感動のツボ


 日本人の自然物、人工物を問わずあらゆるものに感動を覚えるのは、もっと大きなそして根源的な精神性が、日本人の遺伝子に組み込まれているからであろう。
 「笑いのツボ」と言う言葉がある。脳科学の進歩により笑いは人間にとって重要であることがわかってきたのだが、ここではその話では無く、「つぼ」のほうである。ツボとは、急所とか、ある特定の場所とか言う意味で、「笑いのツボ」なら必ず笑ってしまう話や事柄ということになる。そんな事は説明しなくてもわかっていると怒らないでいただきたい。

 実は笑い同様に、日本人には「感動のツボ」があるのでは無いかと言いたいのである。それも日本人なら誰でも持っているような普遍的で本質的なものが。本文でも取り上げた、アニメ「フランダースの犬」で涙するのは日本人だけという話も、感動のツボが違う、あるいは日本人にだけ強く存在すると考えれば容易に説明が付く。
 笑いのツボに個人差があるように、感動のツボにも個人差はあるのだろう。だが、その差が日本人と外国人との間ほどではないから、日本中で同じ出来事に感動の嵐が巻き起こる。例えそれが商業主義による演出され宣伝された物であったとしても、もともとの感動する主体が無ければ、そのような事も起きないだろう。

 では感動のツボという急所というか、ある空間を形成しているのは何であろうか?それには次のような三つの要素が関係しているのでは無いかと思う。
神との関係から生まれたもの
生き様の理想像としての「さむらい」
自己の投影や自我のくくりの拡大



神との関係から生まれたもの


 日本人は古代のアニミズム(この世のあらゆるものに霊魂・霊が宿るとの考え方)を未だに引きずる民族であるかのように表現されることがある。日本人が無宗教なのは、アニミズムからより高次の宗教に進歩していないとの誤解や偏見から出た考え方である。偏見はさておき、日本人の心の中には、この世の生物・無機物を問わずあらゆるものに超越的な存在(神と呼んでも霊魂と呼んでも構わない)が宿る事を、無理に否定しない意識が存在しているのは確かである。
 ここからは、依り代、霊代(たましろ)、形代(かたしろ)、人形(ひとがた)、身代わり、土偶などの言葉が生まれてた。それぞれの言葉の意味や解釈などを詳しく述べるつもりは無いが、神や霊魂がモノに宿ったり、降臨する場(道具や場所)で会ったりする事を意味している。さらにそこから転じて、人間の身代わりや人間の持つ罪・汚れをモノに移すという考え方が出来てきた。
 いずれにせよ、そこには生命体と無機物との明確な区分は存在しない。そのことが重要である。そしてさらには、何よりも神の持つ永遠性が深い意味をもつのだろう。


 なお、土偶を加えたのは、日本人の精神を形成したであろう縄文時代の精神性を現すものとして語られるからである。土偶については実に多くの遺物が発見されながら、その種類や扱われ方もさまざまで、未だにその存在意義がよくわかっていない。ここでは、土偶に多く見られる妊婦像がわざわざ壊されている事に注目したい。縄文時代においては妊娠・出産は、生命の神秘を感じさせる霊的な物であると同時に、医学の未発達な時代においては非常に危険をともなう物でもあった。そこで、妊婦の身代わりとして土偶を制作し、それを敢えて壊すことで実際の妊婦の健康を願ったのであろう。少なくとも、そういう土偶の使われ方が存在したように想えて成らない。

 少し蛇足の話になるかも知れないが。神が宿ると言うとき、元々それに神の心霊の一部が宿っている意味と、有るときだけ神がそこに降臨してくると言う意味がある。それら自然に神が宿る考え方と、罪汚れを流す形代などの考えとの中間に、土偶のような存在が有ったのでは無いかと考えている。時代の流れからしても、土偶は仏教と比較される宗教としての神道が成立する以前のものであるのだから。そして、個人的にはすでにこのような原初的な神観を「神道(かみながらのみち)」と呼ぶことにしている。


生き様の理想像としての「さむらい」


 二つ目が、日本人の好きな「武士(さむらい)」である。いうまでもなく「さむらい」とは、日本人が理想として考える生き様を持った理想像の事である。清廉潔白、恥じることを知り、困難に果敢に立ち向かう、そして滅びの美学と呼ばれるほどの潔い引き際をもつ、そんな数々の理想的な生き様を体現する物である。
 日本人はさむらいと言うだけで心が奮い立ち、感動を覚える。すばらしいと思いながらも、自分ではなかなか実行できないことが、さむらい実践者をさらに賛美することにつながる。
 さむらいは神でも無くヒトでも無い。男でも無く、女でも無い。精神に宿る最上の生き様を持つ虚像だと言えるかも知れない。このように理想を体現したものへの感動は、人間だけでは無くモノにも拡大される。刀は武士の魂とされるが、それは刀が理想像たるさむらいを体現し象徴する物だからであろう。刀の美しさは、さむらいの汚れの無い純粋性を象徴してもいる。
 このさむらい魂の根源には、日本人の精神基盤である無常観がある事は言うまでも無い。


自己の投影や自我のくくりの拡大


 三つ目の要素が、自我のくくりの拡大である。人間はさまざまなくくりの中に存在しているが、自己とか自我のくくりはそれ以上分解できないが故に、非常に強固なくくりでもある。職人が自分の作ったモノに強い思い入れを抱き、子供が長く一緒にいるぬいぐるみなどに特別な感情を抱く。そこには、自己のくくりの中にそれらが組み込まれていることでもある。自己のくくりの拡大とも、自我の投影とも言えるだろう。
 こうなるとモノではなく、自分の一部である。そこにはヒトとモノの区別をもたない関係性が生まれる。

   また自己の投影あるいは自我の一部と言うことは、身代わりや人形と言った考え方にもつながっていく。


感動のツボに落ちるモノは何か?


 これら三つの要素はお互い複雑に絡み合っているのだが、それらがある特別な空間を日本人の精神の中に作り出す。それこそが感動のツボ(場)である。

 

 

 では、このツボに落ちる、うまく当てはまるものは何であろうか?それは、はやぶさでよくわかるように、さまざまな苦労を乗り越えて使命を果たしながら、最後にはその命を燃やし尽くすという物語を羽織った、あるいは背負ったモノである。とりわけその物語が汚れの無い純粋性を持ち、なおかつ悲劇的とも言える滅びを見せるとき、涙が止まらないほどの感動のツボにはまってしまう。

 モノへの感情移入とか、モノの擬人化というだけでは説明が付かない多くの感動物語は、三つの要素を併せ持ちながら無常観を漂わせている。



 これだけ複雑な情動を惹起する精神構造が作られるには、長い時間が必要であったろう。縄文から続く長い期間、日本文化を継続させてくれた環境がそれを可能にしてくれた。そのことに感謝しながら、他文化の集団にはなかなか理解されなくても、この感動のツボを大事に持ち続けていきたいと思う。

平成28年1月7日(木)

 

2016年01月07日気質のカテゴリー:補章

ストレスと日本人

 最近の脳科学の発達により、ストレスというこれまではとらえどころの無かったものも、そのメカニズムが次第に判明してきた。ストレスによって血圧が高くなったり、心臓の脈拍が高くなるのは、人類が太古の昔に獲得した身体の防衛機構であるという。肉食獣などの襲来に素早く反応して危険から逃れるために、そのような反応をする身体を作り上げたのである。そのストレス(危険)に素早く反応するのが、脳の扁桃体である。扁桃体は腎臓に指令して、そこからストレスホルモンを排出させることでそれぞれの臓器に働きかける。

 このようなストレス反応は、一過性であれば特に問題は無いのだが、現代では、ストレスがすぐに無くならずむしろ継続してしまう。そうなると、コルチゾールなどのストレスホルモンが、脳の海馬にダメージを与える。海馬は、記憶の他に感情を司るので、鬱などの心の病を発症することにつながっていく。

 ストレスには、頑張ることのストレスと、我慢するストレスがある。前者は、身体の反応を引き起こすアドレナリンを出し、後者は、心の反応を引き起こすコルチゾールを排出させる。

 これらストレスの耐性には、遺伝・体質などの個人差があるのも事実である。くわえて幼児期に育った環境が、大人になって大きく影響をしてくる。子供の時のストレスが強い環境で育つと、扁桃体が大きくなって、大人になったときに、ストレスへの反応が過剰になりやすい。ストレスが、脳内の物理的な変化を生んでしまう事がわかってきたのである。家庭環境を軽視して、経済的合理性ばかりを追求してきた戦後の日本社会は、自らストレス社会を増大させてきたのであろう。


 このようなストレスの仕組みを研究すると、現状に満足していられる人ほど、ストレスには強い事がわかってきた。

マインドワンダリング

 マインドワンダリングとは、認知科学や心理学で、思考のさまよい状態を指す言葉である。いわゆる「心ここにあらず」という事なのだが、人間は目の前にある事柄とは無関係のことを考えている状態がかなりの時間を占めているという。これまでこの状態は、自分の心のコントロール不足などとして否定的にとらえられていたが、最近の研究では、この一見無駄に思える状態と創造性と関係があるのではと研究が進められている。ただ、ここではストレスとの関係で否定的に扱われている話題を取り上げた。

 調査に依れば、人間は直接のストレス以外に、過去のストレスを思い返したり、過去の経験から未来のストレスを予想したりするのだが、これら「いま」以外のストレスが占める割合が40%以上と高い。つまり目の前の事に追われている方が、マインドワンダリングが少なく、ストレスも少ないことになる。過去や未来の余分なストレスを考えている状態を、マインドワンダリングとした場合の話ではあるが。

 いずれにせよ、いまをあるがままに精一杯生きるという日本人の生き様(神ながらの道)は、まさに脳科学的にも、ストレスを生まない優れた生活態度なのだと言える。


ストレス解消法

 ストレスを解消する方法がいくつも考え出されている。ひとつが、コーピングと呼ばれる「気晴らし」を自分で見つけておいて、ストレスを感じた際に適当な気晴らしを実行することで、気が紛れてストレスを解消できるというもの。100ぐらいの気晴らしを用意しておくことが、コーピングの第一歩だとか。100個書き出すのにストレスを感じそうだが、1回だけだからよしとしよう。

マインド・フルネス

 もう一つが、マインド・フルネスと呼ばれる瞑想のようなもの。瞑想から宗教的なものを除いたというアメリカの発案者の説明は、瞑想を正しく理解出来ていないように思えるのだが。日本において、瞑想を宗教的なものと考える人は少ないだろう。座禅なども宗教的であっても、自己の精神のコントロール方法なのだと感じているのだから。

 マインドワンダリングを起こさせないために、目をつぶって自分の呼吸さらには身体の動きにだけ意識・注意を向ける。すると雑念が出てきても、いまの身体の動きに注意を向けることで、そのような雑念から逃れられるようになる。こうして、マインドワンダリングをなくす方法を実践すると、前頭葉の働きが強化される。前頭葉は、扁桃体の反応を抑制する働きを持つので、ストレスへの過剰な反応をしなくなる。

 この「いま」に着目する方法は、日本の文化では昔から存在している。○○道と呼ばれるものがそれである。決められた型や形、仕草をとることに集中させる事は、ほとんどすべての○○道で、当たり前のように行われている。つまり日本文化の利点を理解してそれを実践していれば、いまのように多くの人が心の病に罹ることもなかったのかもしれない。各種の研究を含めて、自文化をもっと肯定的にとらえる社会になる必要があるのだろう。


 武士道教育で強い精神を作り、子供の時から我慢したり耐えることを学ぶことで、ストレス耐性が出来てきて、その結果、ゆがんだ心にならないのであれば、これらを教育に取り入れる価値は十分にあるだろう。


参考資料
神ながらの道 「第3章 神ノ道の主要概念」
文化と文明 「第3章 日本文化 -気質と日本文化」


平成28年8月30日(火)

2016年08月30日気質のカテゴリー:補章

気質が生み出す自縄自縛

 自縄自縛(じじょうじばく)とはいうまでもなく、自分の言動が自分を束縛して、自由に振る舞えなくなることである。日本社会や日本人を見ていると、どうもこのような傾向が強いのではないかと思うことが多い。自分で自分の首を絞めるような愚かなことがなぜ起きるのか、そこにも日本人の気質が見え隠れする。

馬鹿正直、横並びが生み出す自縄自縛

 争いごとを好まないのは良いのだが、商業上や外交上の交渉においても、相手に強く出られるとすぐに引いてしまうのが集団農耕型の弱点である。目の前の問題を逃れるため、保身のため、くくりへの撞着のため、もめてることを隠すために、より大きなことや将来を考えなくなる。そして非常に不利な自縄自縛の宣言や約束事・契約をしてしまう。しかも、愚かにも一度決めるとそこから抜け出せなくなる馬鹿正直さがあり、さらに横並びで現状を変えようとしない性格がそれを強化する。結果、海外との様々な不平等を放置する外交、政治的、経済的な諸問題を引き起こしている。


 ブログでもかなり以前に中国のカントリーリスクを考えるべきだと繰り返し述べてきたが、日本企業は全く何も考えずに、目先の欲と横並び意識で進出を進めてきた。結果、技術どころか財産まで奪われる事態が起きてしまった。松下電器(パナソニック)が裏切られたのは有名な話である。この状況はその後も続いた。
 そしてリーマンショック後に、中国では長期採用の義務化や経済保証金という強制的退職金の制度を作った。これら一連の動きにカントリーリスクが高まったと判断した欧米は、中国からの撤退、投資の引き上げなどを開始したにもかかわらず、日本だけが異常に進出を加速、投資を増加させた。横並び気質でも、なぜか海外勢を見ずに日本の仲間だけを見る奇妙な横並びなのだが。その挙句が、反日デモ、暴動、不買、経済制裁という憂き目にあっている。こういう気質が見透かされるから、反日にも利用されてしまうのである。


 問題点を直視するより他のまねをしていれば、同じなんだから大丈夫だろうとの楽観主義的横並びが、現状に眼をつぶる考え方を加速する。さらに状況の変化に迅速な対応が取れない、一度はじめるとなかなかやめない執着性が、傷口を広げてしまう。農業のようなものであれば、どんなに進んでも1年の失敗で、自然がそこで押しとどめてくれる役割をはたしてくれる。同じ意識のまま経済活動を継続すればどうなるか。出遅れて環境がかわっても、もうとまらないという悪循環に陥ってしまう。ここ20年ほどの日本の大手企業、とりわけ製造業はこのわなから抜けきれないでいる。

 自縄自縛の例はいくらでもあげることが出来る。外国との各種契約、領土問題での曖昧な約束や言い回し、日米安保に代表される不平等条約などきりがない。日米半導体摩擦時、アメリカとの約束で韓国に技術を譲渡することになり、それをいつまでも馬鹿正直に守って悲惨な結果を招いている。スポーツでも、日本人選手が活躍すると欧米がルールを勝手に変えてしまうが、なぜか反発すらしない。様々な気質が悪い方向に寄せ集まってしまうのが、集団農耕型の最大の問題なのかもしれない。

 自虐的な自縄自縛とは、自分さえよければそれで良いという、自己中のもつある一面なのだろう。

平成30年7月17日(火)



 本編「日本人の気質と歪んだ社会」では省略した項目にひとつにこれがある。ネット公開時(平成27年)のままであるが、再掲する。

2018年07月17日気質のカテゴリー:補章

教育と日本人の気質


 教育を最重要と考える日本人の気質


 教育と気質とはその関係が必ずしも明確ではないかもしれない。だが、教育に対する考え方は、間違いなくその文化集団(民族)の気質に根ざしている。そのことを理解していない人が今の日本には多すぎるようである。

 日本文化の歴史を眺めながら、日本の社会を見てみると、教育の重要性と公平性は、日本人の大元の気質に備わっていると確信できる。

 教育にまつわる様々な逸話があり、また、時代をさきがけた多くの先駆者や改革者はみな教育の重要性を誰よりも認識し、自らもまた実践していた。吉田松陰が自由を奪われてからも唯一取り組んだ、そして取り組むことが許されたのは教育であった。すべての官職を投げ出し、明治維新政府から去った西郷隆盛が、最後の仕事としたのもまた若者の教育であった。江戸時代、幕府に負けず多くの藩が藩校を開き教育を実践していった。そのことが、世界を見る開かれた眼を持つ多くの有能な人材を輩出し、明治維新に貢献したことは疑いの余地がない。


 この教育の基本、教えること、人を育てること、教わること、これらの基は、一万年以上も前に遡ることが出来る。日本全国に見られる縄文土器は、決して特定の地域の特定の人によってのみ作られたものではない。だから全国に広く流布したのである。教育して育てるという事が行われていた証は、9千年前の漆の工芸品からも読み解くことが出来る。子供から孫へと知識と技術を伝えることで初めて漆文化は成立する。何世代かにわたる漆の栽培を必要とする漆文化は、教える人と教わる人がいなければ存在していなかったのである。【第3章日本人と日本文化の成立「漆文化は総合的な文化」参照】

 これが教育の原型でなくて何であろうか。縄文土器もそのようにして、伝えられたのであろう。それも男女の別なく。食糧確保に忙しかった男性よりも、定住場所で仕事をすることの多い女性が土器をつくらない理由など探す方が難しいであろう。妊婦像でもある土偶は、男性視線の生命の誕生すなわち食料の豊穣を祈るものとされるが、同時に、女性による妊娠への喜びや無事な出産の祈念として作られたと考えるのは、それほどおかしい考え方ではなかろう。

 男女平等の意識が、日本人本来の感性であることは、太陽神が女性であったり、紫式部や清少納言が優れた文芸作品を残していることからもうかがうことが出来る。世界では、女性への教育が否定される国の存在が問題となっているが、日本が本当に同じような差別感を気質として持っていたなら、このような事例が発生することすらなかったであろう。中国文明さらには明治維新の西欧文明の受容によって、男尊女卑的な考え方が強められたのであり、気質や感性としての本質では、日本人は公平性を尊び、当たり前のことと感じていた民族なのである。寺子屋で武士階級以外の多くの子供たちが学んでいたことも、教育の公平性の証である。

 ただ公平性は、時に個性をつぶす方向に働くことがある。たとえば創造性に乏しく、横並びの割には小さな差別化を図ろうとする傾向が強くなる。これは集団内での個性重視、独立心の現れでもあるので、これをうまく活かす教育をすれば創造性も生まれてくるだろう。

 このようにさまざまな気質を理解したうえで、教育もまた行われることが必要である。気質の持つ弱点を助長することなく是正しつつ、長所を伸ばしていく教育内容を考え無くてはならない。

 教育にまつわる逸話から学ぶこと


米百俵

 教育にまつわる逸話として有名なものは「米百俵」であろう。幕末の北越戦争(戊辰戦争)で敗れた新潟の長岡藩は、6割も減知(収入減)されて、家臣は困窮の極にあった。【寄り道小径】見かねた親戚の藩が、米百俵を贈った。その時、大参事の職にあった小林虎三郎は、その米を家臣に分配せず売却して金に換えた。そしてその金で藩校をたてたのである。多くの批判に対して「米は食べてしまえばただなくなるが、教育に投資すれば1万、百万俵になって戻ってくる」と彼は答えたという。

 日本の改革の多くが、上からの改革であったのだが、これもその一例かもしれない。同時に、自らの身を削ってでも将来の子供たちに託す心意気は、典型的な孤高武士型気質である。

禁酒の石碑

 もう一つの逸話は、テレビで取り上げられたこともあるが、それほど人口に膾炙しているものではない。石川県津幡町には、禁酒と書かれた石碑が今も残るという。これは大正時代に、古くなった小学校を建て替えようとしたが、村が貧しくその費用が工面できなかった。そこで住民1500人が、5年もの間禁酒してそのお金を集めたという話である。(今の金で4億円とも)そのために、村の酒屋が8軒も廃業、それも自主廃業してしまったという。

 いまならどうであろうか。学校をつくるのは自治体や国の役目だから、金よこせの大合唱。個人の権利を侵害する強制は憲法違反だと住民。酒屋は、営業妨害で裁判所に提訴。こうなっても不思議ではないだろう。

 何度も述べているように孤高武士型気質は、武士階級を意味するものでなく日本人本来の気質だという事が、この逸話からもよくわかる。また自らを滅ぼしてまで、公(社会)に貢献する強い気概と意志とを持つ人々が、数多くいたことの証でもある。『親はわが子のために自らの食を減らす事もいとわない。村の子供はみな我が子である。』そんな言葉が聞こえてくるようである。


 教育改革の内容に触れることは本稿の主題ではない。ただ、教育を重視する考え方を大切に守りながら、教育改革においては、日本人の気質をよく見極めたものにする必要性を強調しておきたい。そして何より重要なのが、教育改革とは、学校を作り無償化することだけではない。大切なのは、真剣に貪欲に学ぼうとする子供たちを育てることである。そのための躾を家庭も社会も行わなくてはならない。それを怠るから、知識偏重の人間や小学生の能力もない大学生が多く輩出する、現在のような事態を招くことになる。

平成30年7月18日(水)


【寄り道小径】

 長岡藩によらず、多くの藩が転封と共に減封されてきた。上杉も長州も会津も同じ目にあっている。そして多くの藩では、石高を減らされたにもかかわらず、家臣団をそのまま引き連れていった。ついていったというほうが正確かも。いずれにせよ、それでなくてもさして裕福ではない武士(家臣団)たちの困窮はすさまじいものがあった。それでもなお、武士階級の人々はその境遇に耐えてきた。
 それは江戸時代の武士階級も同じである。インフレ率は知らないが、270年の間、武士の俸禄(給与)は上がらなかったのである。


 武士道教育による辛抱強さなどがなければ、とてもただでは済まなかったことだろう。武士としての誇りが、貧しい暮らしに耐えさせたのである。であればこそ、武士階級で行われていた武士道教育に、孤高武士型人間を育てる基があったと言えるのである。

 武士道教育のすべてを賛美する気などは毛頭ない。しかし、精神的な耐性、くくりの動的転移、強靭な精神、公(社会全体)への視点などを育んだ部分は、素直に長所として認め、活用できる部分は、現在の教育にも活かすべきなのである。


 


(注)本編「日本人の気質と歪んだ社会」では省略した項目のひとつにこれがある。ネット公開時(平成27年)のままであるが、再掲する。

 


 

2018年07月18日気質のカテゴリー:補章

自虐的日本人が生まれた理由

遺伝と環境のどちらが性格に影響するのか、つまり性格を決めるのは氏(遺伝)か育ち(環境)かという昔からある話しになる。現在の心理学では、遺伝と環境の性格に与える影響は、ほぼ同じ位だと考えられているが、同時に因子毎に影響度に差がある事もわかってきた。つまり遺伝の影響が強い項目と、生まれた後の環境の影響が強い項目とがあるということになる。(*)

性格を現すさまざまな因子のひとつに「自尊感情」というのがある。自分をどれだけ尊敬できるか、自分をどれだけ肯定的に捉えて好きかという感情である。この自尊感情、戦後の日本の子供の自尊感情が世界的に見ても極端に悪いことが、専門家の間では問題となってきた。自分に自信がもてない、自分を卑下する、自己否定的な感情を持つ日本人の子供が多いという意味である。

いっぽうで、この「自尊感情」は、他の項目と比較して、最も遺伝の影響が少ない因子のひとつと考えられている。遺伝的な影響は30%程度で、後は生まれてからの環境によって作られると言うことになる。

「自尊感情」は遺伝よりも環境によって影響を受けやすいのだが、環境とは家庭環境や社会環境を意味する。とりわけ社会環境の中では、教育の果たす役割は大きいのだろう。戦後のアメリカによる思考操作、とりわけ日本という国を否定し、日本人を否定する自虐思考の教育と洗脳(正確にはマインドコントロール)が行われたのは、もはや誰も否定しない事実である。それまで社会の中枢にいた人を追い出して、かわりに思想犯として刑務所にいたような人物をその職につかせたり、それまでの書籍を発禁・焼却し、娯楽においても日本人をたたえるものは全て禁止され、メディアにもまさに言論統制がひかれた。

だが問題はそれだけでは無い。真の問題は独立を回復した後のことである。このように歪んだ教育はそのまま正されず、メディア等による思想コントロールも、独立後も延延と続けられたのである。さらに自虐教育を受けた人々がおとなになって、そのまま政治家、官僚、メディアなどとして、自国を貶める自虐的な社会環境を形成してきたのである。これこそ、まさに集団農耕気質の持つ気質の欠陥によるものであるが、詳細は本文に譲ることにしたい。

なんにせよ、これらの事が、戦後の日本の子供達や日本人全体の異常な自尊感情の低さにつながっているとみることは、それほど無理な話では無いだろう。戦後の日本人が正そうとしなかった自虐思考が、自虐史観を生んだのである。


つまり他国と比べて非常に自尊心が低い今の日本人は、戦後の教育やメディアにより作られた社会環境が、日本人の性格に影響を及ぼした結果なのである。もしも自尊感情が、環境よりも遺伝による影響が大きい因子であれば、ここまで自虐的な性格、国民性にはならなかったであろう。

こういう裏付けの有る事柄を元にして、まずは現在の歪んだ学校教育を正していくことを、日本人全体が考え無くてはならないのだ。時間はかかるだろうが、「自尊感情」は環境で変えられるのだから。


(*)性格に関わる本や論文を読めば、必ずと言うほどに記述されているので、敢えて出典は書きません。

令和元年9月29日(日)

 

2019年09月29日気質のカテゴリー:補章

少数意見に引きずられてしまう理由

 日本社会を見ていると、なぜこんな少数であるはずの意見が大手を振って我が物顔でまかり通るのか、という思いをすることがよくあります。特定のイデオロギー的な主張に全体が引きずられてしまう各種の組織、声の大きな発言者の意見ばかりが通る会社の会議など、多くの人が経験しているのではないでしょうか。

 日本人の大半を占める集団農耕型社会や集団組織においては、最初に強く発言した人物の意見がそのまま通ることが多いのではないでしょうか。理由として、同調する気質がよく言われます。それは確かですが、同調するからというのは、ある意味では結果論でもあります。

 大勢の人の前で、すでに声高に叫ばれた意見に反対を唱えることは、非常に勇気と力が要ることです。そのために、賛成ではなくても、仕方が無いかと同調してしまうことも多いわけです。容認は必ずしも賛成ではないと知るべきでしょう。

 このことが、戦後日本社会が左傾化したまま元に戻らないことの理由のひとつで有り、改革が叫ばれながら旧態依然とした企業や役所が減らない理由なのです。

 現状を変えさせるには、その場の同調者の空気も含めて破壊するだけの、強い力が必要になります。破壊をする事が出来ない集団農耕型の気質では、なかなか難しい事です。ですから、破壊を恐れない孤高武士型気質の人物に強硬な発言をさせて、その場の空気を変えてしまう必要があります。一度場を壊せば、さしもの集団農耕型気質の人達も、少しは自らの考え方に従うようになります。そうなれば、偏ったイデオロギー主張には反発も生まれますし、改革の必要性も強く感じるようになります。そして、新しいやり方が自然と選択されるようになります。

 大きな声には、大きな声で対抗する、時にはそういうやり方が有効なのです。

令和2年(2020)6月22日(月)

2020年06月22日気質のカテゴリー:補章

恥と気質

 最近ではあまり使われることのなくなった感がある「恥」という言葉。まして、「恥の文化」なる言葉は死語に近いのかもしれない。それでもこれらの言葉には、未だに多くの誤解や混乱がまとわりついているように思える。

 その元凶は、ルース・ベネディクトの著した「菊と刀」にあると言っても過言では無いかもしれない。実際に書かれている内容を読まずに誤解している人々と、それを批判的に見ている人々が存在するが、そのどちらも混乱していることに変わりは無い。その状況こそが、毒された混乱状況である。え、ますます混乱した?

 少しずつ解きほぐしていこう。

 さすがに欧米でも今どき「菊と刀」が持ち出されることは無いだろうと思う。専門論文を検索しても、ほとんど出てこない。それほど過去の遺物である。ただ作者が意識していたかどうかは別にして、白人もしくは欧米優位主義的な雰囲気が根底に流れている著作である事は間違いなかろう。そう思わせるに充分な内容である。本人の自覚はさておき、いまも欧米の一部にはこのような無自覚の思考があり、時々それが顔を覘かせる。とりわけリベラルと称される人々にもかなりあることは、承知しておいても損は無いだろう。

 批判的に取り上げた理由は言うまでもない。日本人や日本文化に対する考察自体が、明らかに間違っているからである。本棚にはほこりをかぶった本があるのだが、もう一度取り出して読む気にはならない。従って認識違いを犯すかもしれないが、このまま続けてしまおう。

 「菊と刀」は一言でいえば、比較文化論的な著作で、欧米は「罪の文化」そして日本は「恥の文化」と両者を対比させている。ここからが、首をかしげてしまう内容となる。罪の文化とは、神を常に意識して、倫理的に正しい行いをしようとする文化である。恥の文化は、そのような規範は無く、ただ他人の眼を気にして、自分の行った悪行がばれないようにする。もし知られてしまうと、それは非常に恥ずかしいことであり、恥ずかしさのために死ぬことも厭わない文化である。つまり、悪行が恥なのでは無く、知られたことだけが恥なのだと言わんばかりでなのである。

 こうして解説してくると、多くの人が著作の内容を誤解していたことがわかるであろう。また逆に内容を理解した人は、内容を否定するあまりに、日本文化は恥の文化などでは無いと言い出すことになる。

 現在の心理学的な言葉で言えば、罪悪感と羞恥心であろうか。が、これらが対立する文化圏という、捉えられ方をする事はまず無い。さらにいえば、個人志向性と社会志向性、あるいは内的適応(心理的適応)と外的適応(社会的・文化的適応)の対比にも成るのかもしれない。これらの概念が、後述の神の眼と他人の眼に関わる事は、改めて言うまでもないだろうが、ここでは立ち入らないことにしたい。いずれにせよ日本文化における「恥」という概念は、日本人の二つの気質とも絡んでおり、簡単に説明ができるようなものではないだろう。「日本人の気質」においては「言語」など一部の項目に深入りしなかったが、「恥」もまた同様である。


 恥とは何か

 せっかくここまで取り上げたので、気質と絡め少しだけ深入りしてみよう。

 恒例のいいまわしだが、そもそも「恥」とはなんであろうか?

1 恥じること。自分の欠点・失敗などを恥ずかしく思うこと。
2 それによって名誉や面目が損なわれる行為・事柄。【デジタル大辞泉】
とネットにはある。ここでの議論には、次の説明の方がわかりやすそうである。

1.世間体を意識したときに、馬鹿にして笑われるのではないかと思われるような欠点・失敗・敗北・言動など(を自省する気持ち)
2.自ら・人間として(道徳的に)未熟な所が有るのを反省する・こと(気持ち)【新明解国語辞典】

 要するに規範や基準からの何らかのずれを、自分自身が良くないものと思う気持ち、感情が「恥ずかしい」ということである。だが「恥」という名詞では、この感情を生じさせた原因や、結果としての感情そのものを指し示しているわけではない。ネット辞典では、「気持ち」と「原因」の両方をあげている。つまり、「恥」だけでは、正しく意味が伝わらないのである。「恥をかく」とか「恥ずかしい」とか、「辱めを受ける」とかということで、ようやく言葉の意味が伝わってくる。本稿でも、「恥ずかしい」と言う感情の表出と、感じさせた理由・原因になった行為等の両方を含むと捉えておこう。

 国語辞典の解説では、「恥」の持つさらに別の側面がよく言い表されている。恥ずかしいと思う相手、あるいは恥ずかしいと思わせた相手は誰かという問題である。世間体という「他人の眼」と、道徳という「神の眼」の二つの側面が述べられている。神の眼というのは、言うまでも無く道徳とか倫理と呼ばれる、人類が普遍的に持つ基本的な価値観である。人間が自己内部(心)に抱える規範や基準と言い換えても良いだろう。

 

 

 もう一度まとめてみると、恥というのは自己の内面にある道徳とか倫理と呼ばれる規範や基準と、自己の行為などが一致しないと自覚するときに生じる感情である。内なる規範が無ければ、不一致の自覚が無ければ、恥ずかしい感情は生まれてこない。すべては自己の内側にあると言える。
 となれば、比較すべき基準が必要になる。それらは一般的には、道徳心とか倫理観、正義感、公共心などと呼ばれるものである。これらは人類が普遍的に持つとされるのだが、大元は神観、自然観、超越した存在などにつながる意識である。ただ最新の研究では、数パーセントの人間は悪事に対して罪悪感を持たないという。規範そのものが壊れているのである。興味ある話だが、例外としてここでの話からは除いておこう。

 他人(ひと)の眼は、神の眼の具体化したものとも捉えられるが、内なる規範が、一部は外側にも存在することになる。つまり、周囲の人間の行為などとのズレを自覚する時、それは周囲の人々の尺度を基準とした事にもなるからである。

 また恥ずかしいと思う感情は、必ずしも不正などの負の原因によって生じるものだけでは無く、種々のものがある。すてきな異性に見つめられたら、何となく(気)恥ずかしくなる。大勢の人の前で自分を紹介をされたとき、少し恥ずかしくなる。
 好ましく思う異性に見つめられて、気恥ずかしくなるのも、常の状態からズレた状態である事を、無意識に自覚するからなのかもしれない。こういう恥ずかしいという感情は、「恥」で感じる感情と基本的には同じ感情なのであろうが、話を混ぜてしまうとややこしくなってしまう。そこで、ここでの「恥」とは、自分の「行った言動(思考レベルも含まれる)が自己の持つ正の規範からずれていること」を恥ずかしく思う気持ちに限定しておきたい。

 日本の恥の文化

 少し古い映画などでは、江戸っ子の台詞に「おてんとうさまは見ているんだ」「お天道様に恥ずかしくないのか」などと出てくる。おてんとうさまこそ、神すなわち超自然の存在であり、それは各個人の内面における規範・基準となるものである。日本ほど、この神の眼を意識する民族は他にいないのでは無いだろうか。欧米の特定宗教における契約をする神とは、根本的な違いを持つのがここで言う日本の神(の眼)である。不正や悪事などをはたらくときだけではなく、いついかなる時にも、その眼は存在しており、内省する自己の眼でもある。

 この神の眼が常に意識されているとき、そこから様々なものが生まれてくる。孤高武士型気質の人間に強く見られる「自律心」は、この神の眼に裏打ちされた価値観である。一方、集団農耕型気質の人間が、神の眼をより具体的に意識するのが、周囲の人間(他人)の眼である。神の眼の代わりと言っても良いのかもしれない。

 

 こうして「恥」の概念がそれぞれの気質と結びつくとき、異なる反応を示すことになる。それが外国人から見たときには、日本人理解を妨げるばかりで無く、日本人自身でもよくわからない状況が生まれてしまうのであろう。

 サムライは恥を嫌い、辱めを受けるくらいならば死を選ぶ。これが孤高武士型気質の反応である。それに対して、組織や集団など周囲の人との調和を気にする集団農耕型気質は、自らの死よりも周囲とうまくやることに腐心する反応をとる。同じ日本人なのだから当然なのだが、元になるものは同じでありながら、社会的な反応の仕方、行動が異なるものになる。これが日本の「恥の文化」の本質であろう。

 サムライは、自らの死をも覚悟するが、逆に言えば周囲の思惑にはあまり関わらないことにも成る。神の眼そしてそれは時に内省する自己の眼でもあるが、それを極端に気にして、恥じることのない行為を求める。それがかなわないときには、潔く死をも覚悟してしまう。絶対的な価値観の存在とも言える。
 それに対して、周囲からの他人の目を意識することは、目に見えない神の眼よりも物理的な他人の眼を気にすることである。組織や社会のくくりを乱すことを避けようとする。それがさらに進んで、周囲の人に迷惑を掛けたりいやな思いをさせることも、恥ずべき行為として捉える方向につながっていく。これによって集団がうまく機能していくのだが、行き過ぎると付和雷同や横並びの弊害になる。

 「清貧」と「恥の文化」

 日本文化にある大きな特徴として、「清貧」の美化がある。むろん貧困が美しいわけでは無く、汗を流さず大した苦労もしないでお金を得ることは「恥ずべき行為」であり、それより貧しいことが美しく見えるという価値観である。どうして楽して儲けることが恥なのか、簡単には答えられない。言えることは「きよらかさ」という自然感に根ざしているので、なかなか変わらないということだけだ。

 これが日本の経済活動にも、大きな影響を与えている現実がある。投資がなかなか活発にならない、金融に関わる市場が育たない、金融・投資市場での金儲けをどこか後ろめたく感じてしまう。「ものづくり」が強調されるのも、この裏返しである事は間違い有るまい。金儲けが下手なのは、武士だけでは無く日本人全体の気質に依るところが大きい。
 中国の驚異的な経済成長の裏には、多くの国民が少しでも金を儲けようと、投資する事を嫌わない国民性がある。知人の中国人に、天安門事件でアメリカに逃れた人がいた。非常に優秀で、外資系企業の副社長になったが、民主化されない限り中国には戻らないと常々言っていた。だが時々中国に行って、土地や住宅など投資物件を購入していたのである。金儲けのためなら、いやな母国も関係ないという、この割り切り方は、多くの日本人にはとうていまね出来ないだろう。 経済活動も気質や国民性と深く関わっている。それを無視した経済政策は、うまく機能しない。

 「恥」を忘れた現在の日本人

 恥の文化が死語になり忘れられたように、現在の日本社会では、自分勝手で周りのことを気にせず、法律に触れなければ何をやってもよいと考えている人が増えたように思える。恥を忘れるとは、すなわち越えては成らない善悪の境や、有るべき規範・基準などを持たないと言うことである。神の眼も他人の眼も気にしないかわりに、自己中心的な眼、欲望の眼を持つようになったのだろうか。
 その意味で、もはや日本は恥の文化では無いといわれるのは、あまりにも哀しいことである。

平成27年11月2日(月)

 

 

 

2015年11月02日気質のカテゴリー:補章

破壊の決意:西郷隆盛

 権力・組織構造など政治・経済・社会のあらゆる面で抜本的な変革が行われたという点で、明治維新が、革命であったことは紛れもない事実であろう。世界史的に見ても、稀有な成功例ということができる。その革命の真っ只中にいた人物の一人が、西郷隆盛である。

 その彼が、革命のための破壊についてどう考えたのか、「破壊と創造」にてらして想像してみた。西郷の話をしだすと、島津斉彬についても語りたくなってしまうのだが、我慢しよう。西郷の「古き時代の破壊」についてである。


 

 明治維新が、幕藩体制に象徴される古い封建制を破壊したことは間違いがない。が、あそこまで徹底した破壊をなすことができたのは、西郷の倒幕の決意がなければ、起こりえなかったのではないだろうか。江戸幕府側の政治的思惑と坂本竜馬らの進言などによって、大政奉還・恭順による、いわば和解工作は、それなりにうまく動いていたのだから。

 武力行使は辞さないとはいえ、決して好戦家ではない西郷が、あえて、武力による幕府討伐を決意したのには、並々ならぬものがあったことだろう。当時の戦闘力比較で言えば、必ずしも薩長側が優位だったわけでもない。とすれば、相手が降参しているものを追い詰めて、無理に犠牲を引き出すことはないし、またその機に外国勢力の介入を招く恐れもある。そんなことぐらい、彼は十分に理解していたことだろう。

 それでもなお、彼が、武力討伐を決心したのは、「破壊と創造」でも書いた破壊の大きさに応じた変革が待っている、そして、時代を変えねばならないほどの革命においては、なおさらだと考えたのではないだろうか?
 たとえ徳川幕府を倒しても、そのあとの政治体制が、封建制から抜け切れない体制であったり、旧勢力が力を維持したままの体制では、変革など及びもつかないことになる。大局的に物事を見ることができた彼は、そのことを、早々と感じ取ってしまったのだろう。実際、京都の公家や大名、旧幕臣の動きを見ていれば、そう感じ取ったはずである。



 事実、彼の懸念は、明治維新成立後、直ちに現実化した。表向きの名称とは異なり、実態はこれまでどおり各藩が、地域ごとに実権を握って、脆弱な中央政府との二重権力構造になっていたのである。さらに、明治維新の新政府の腐敗振りは、目を覆うものがあり、大久保らは西郷の力(人望と実行力)なくして、この局面は乗り越えられないと判断し、故郷に戻っていた西郷に再度上京を願ったのである。

   江戸幕府を倒した西郷は、次に藩体制という封建制を破壊するために、廃藩置県を断行した。このとき、維新政府は、武力的な備えを整えたうえで、これを断行した。そのために、藩という地方政治から中央集権政治へと体制を大きく変えることができたのである。いまでは、この中央集権の弊害ばかりが叫ばれるのだが、このとき、この破壊が行われていなければ、その後の明治維新が成功裏に続いていたかどうか危ういものである。
 余談ではあるが、西郷といえども、このとき島津斉彬が生きていたならば、大恩ある主君を引きずりおろすようなことができたかどうか。もっとも、聡明な斉彬なら、十分に大局を理解して、自ら身を引いたかもしれないが。



 西郷が、この2度にわたる大きな根源的な破壊を実行したからこそ、新しい時代が開けたのである。そして、彼は最期に、さらに決定的な破壊を己の命と引き換えに実行することになる。

 東京での権力闘争に嫌気がさした西郷は、またも鹿児島に戻っていた。そして、文武両道に優れた新しい時代の人材を育てるべく、不穏な行動をとりかねない不満士族の子弟などを集めて、私学校を創設した。新しい時代の激流は、そんな西郷のささやかな願いさえも押し流してしまう。


 不平士族を恐れ、鹿児島の勢力拡大を快く思わない新政府の謀略に乗って、若き私学生が暴発をしてしまった。それを聞いた西郷は、「これもまた天命でごわす」と言ったという。

 私学校で育った人材による更なる変革を期待していた西郷が、その私学生によって窮地に追い込まれたとき、彼は次の、そして最期の破壊を決意したのだろう。それは、いうまでもない、各地に残る旧勢力、不平士族の一掃である。

 総大将に担がれながらも、彼は東京への進軍において、一切指揮も作戦も取らなかったという。もし、それほどの抵抗なく東京に進軍できるならばそれもよし。そのときは、もう一度改革を政府の側で行う。だが、この部隊は新政府軍に勝ってはならないのだ。そんなことが起きれば、せっかくの新政府の土台が揺らいでしまう。それは避けねばならない。彼はそう思っていたであろう。

 それに追い討ちをかけたのが、熊本城に立てこもる新政府軍の抵抗であった。わざわざ熊本城の攻略などにこだわったことが、西南戦争の敗北の原因だといわれる。
 所詮、大局を見ることができない大方の人間の考えそうなことである。西郷は勝ってはならないことを自覚していたのだ。勝てば、全国の不平不満分子がたちあがり、内乱に戻ってしまう。それは決してあってはならないのだ。それに、熊本城の新政府軍が西郷を恐れずに抗戦してきたことは、ある意味、西郷にとってうれしかっただろう。これなら、新政府軍も大丈夫だろうと。
 そこに、新しい時代の鼓動を感じたのではないだろうか。いま、自分にできることは、旧勢力を破壊し、新しい時代の礎を磐石なものにすることだと。それが天命であると。

   「晋どん、もうここらでよか」

 西郷隆盛最期の言葉とされる。「ここらで」そう、ここまで己の私心も命までも投げ出して、国の将来のために生きてきた。もう十分生きただろう、もう天も許してくれるだろう。そんな万感の思いがこの一言に。



 武士(さむらい)は、己の立場に殉じて生きるのだが、大局を正しく見ることができる武士は、そのとき大局を揺るがすことよりも、その死を選ぶ。それが武士である。西郷だけではない、幕府側にもそのような多くの武士がいた。だからこそ、死んでも国を外国に売るような行為が生まれなかったのである。

 だが、このとき多くの武士を失ったことが、その後の昭和のおろかな戦争を招く遠因ともなってしまった。国を滅ぼしてまで、己や組織の保身・維持だけを図ったおろかな日本人。それが今の時代には、さらに多くなってしまった。だからこそ、もはや破壊なき新時代などありえないのだ。

 武力による破壊を起こさないためにも、まず、日本人すべてが、己のうちにある自己中心的で、欲望一辺倒の心を破壊しなくてはならない。いま、すぐに。

平成24年(2012)05月

 

2012年05月01日気質のカテゴリー:外伝

五輪騒動に共通する外来崇拝

 新国立競技場、五輪エンブレムと次々出てくる騒動。前回の東京オリンピックと比べてみると、これは偶然ではあるまい。一言で言えば日本人の劣化であり、裏側には官僚とそのお仲間の外来崇拝思考が見えてくる。

 前回の東京オリンピックでは、日本中が心を一つにして成功させようという気概にあふれていた。学校で無理矢理に五輪音頭を踊らせたのは、少々行き過ぎだと思うが。新国立競技場建設では、能力・経験がない文科省にやらせたのが間違いだという話がある。それは必ずしも正しくないだろう。前回の国立競技場も文部省の役人が担当し、わずか1年半でオリンピックに間に合わせたのである。おまけにその後長い間、スポーツの中心としての役割も立派に果たしてきた。ある省がだめなのではなく関係者全体の問題なのだ。
 JOCや文科省の役人たちに共通の無責任。群がる企業や関係組織の自己中心的な思考。前回の東京オリンピックとの違いは、まさにこの日本人の質の違いにある。

 ここではそのさまざまな問題の中から、集団農耕型気質が陥りやすい外来崇拝を取り上げてみよう。(「日本人の気質 第6章文明の受容-今なお続く文明の過剰受容と外来崇拝思考」参照)

 新国立競技場でも、五輪エンブレムでもその発端はデザインである。しかも、どちらも日本人の感性に合うとは思えないデザイン。新国立では、建築界では問題ありと言う評判のデザイナーのデザインをわざわざ選び、さらに問題を大きくしてしまった。建築デザインに関わる業界内の派閥や人間関係が、デザイン選定の人選やデザインの選出そのものにも大きく影響を与えていたことも、明らかになっている。

 それにしても、日本人デザイナーによる周囲と調和したデザインを無視して、はじめから場所にも収まらないほど巨大なものを、いかにデザインだけで選んだからと言って選ぶものであろうか?常識から大きくずれている。ここに、選者たちの外来崇拝が透けて見える。西洋至上主義的な感覚、これこそ外来崇拝であるが、日本的でないもの、外人によるものというゆがんだ選択を後押ししている。むろん本人たちは、その意識すら希薄だったのかもしれないが。

 五輪エンブレムでも全く同じ事が見て取れる。大手広告代理店との癒着やデザイナー間での争いという土俵のうえで、新国立デザイン同様に、日本的でないもの、西洋的なものがかっこよく進んでいるという外来崇拝が、あのように「出来損ないのピカソ」にしか見えないものを選ばせることになる。また、だからこそ海外デザインの盗作問題まで引き起こしているのである。あれが招致ロゴのような純和風のデザインであれば、盗作問題も起きなかったであろう。


 この外来崇拝というのは、言葉を換えると他文明の過剰受容ということである。それが明治維新以降未だに、欧米という他文明こそ進歩の証であり、それを取り入れられる自分たちこそ進んだ人間なのだと思い込む性格が日本人の一部にある。とくに官僚、役人や大きな組織、国家権力に連なると考えている組織似属する人ほど、この外来崇拝思考が強い。ある程度の地位や名誉を持ち、実権を握っていると勘違いした傲慢な人間たちが、とりわけ陥りやすい罠なのである。




 外来崇拝思考は、無責任とも絡んでよりいっそう問題を複雑化させて、そこに外来崇拝が潜んでいることを覆い隠す。

 エンブレムって何だ?次々氾濫するカタカナ言葉。その発信源の多くが官僚とマスメディアである。日本文化を大事にと空々しいことを言う(最近はこれすら言わないが)NHKが、日本語を使えと裁判を起こされるような現状にある。このことも、実は外来崇拝の意識が裏側にくっついている五輪騒動と同じ体質なのである。

 エンブレムの説明でも、やたらと横文字が氾濫し、わかったようなわからない説明が成されていた。くどくどと説明しなくてはわからないデザインなど、すでにはじめから失敗であろうに。一目見てわからせるのが、デザイン力である。にもかかわらず、くどくどぐたぐたと説明する姿。まさに役人が責任逃れで行う弁解と全く同じ姿である。下々や遅れたものにはわからないだろうから、よく聞け。そんな傲慢な態度がにじみ出ているのだが、本人たちは一向に気づいていない。


 新国立のデザインでも、訳のわからない条件が付いている。それは、特定の受賞実績である。本当にデザインだけの審査なのならば、なぜ受賞実績がいるのだ?それでは、真に斬新なデザインでも、新人は応募できない。もし、設計から施工までの条件も含めるためだったというのなら、なおさらデザイン受賞歴など無関係であろう?なぜこの事にこだわるのかと言えば、官僚や大手企業の担当者が何かやるときに、まず自分の責任を回避するための防御を考えると言うことがある。それがここに現れている。


 実績ある人(もの)を選んだと上司に言うのは、官僚的担当者の常套手段である。この事は、サラリーマン生活においていやと言うほど経験してきた。はっきりいえば、担当者は成功しようがしまいが一向にかまわないのだ。自分に責任が来なければ。むろん、うまくいけば手柄は当然自分のものにするが。この無責任さと外来崇拝が相まって、NHKや役人のカタカナ語の氾濫や五輪の無責任デザイン選定へとつながったのである。

 建築・設計会社などの関係者たちも同じである。前回は、みんなで協力しようという意識が強く感じられたが、今回は、いかに国の金をふんだくるか、いかにぼろもうけをするか、そんな事ばかりが見えてしまう。純粋であるはずのスポーツ界も残念ながら同じである。ひたすら自分たちの競技の条件ばかり強引に押しつけ、次々と要求を出して、ついには新国立競技場に出された要望が120を越えている。こんなばけものみたいな競技場、どうやって作るというのだろうか。

 ひどすぎる日本人の劣化。思いとどまらせる国民の意思が存在していたことが、まだせめてもの救いである。

平成27年8月20日(木)

 

2015年08月20日気質のカテゴリー:外伝

五輪騒動に見る日本人の感性の劣化

(以下、敬称略)

 2020年の東京オリンピックについては、けちの付き通しである。新国立競技場のごたごた、そして五輪エンブレムの盗用騒ぎと、せっかくの招致成功も台無しである。
 各関係業界内での派閥力学、敵対関係とでも言うのか、そんな内部事情も大きく関係しているようであるが、それはとりもなおさず前回1964年(昭和39年)の東京オリンピックで見せた、日本人が一丸となって開催に力を合わせた姿とは真逆とも言えるものである。大きくいえば、これも日本人のここ20年に及ぶ劣化の現れなのかもしれない。ブラジルのメディアは、ここぞとばかりに「日本はデザイン力も(建築の)技術力も無い」と酷評したようだが、とんだ赤っ恥である。

 この二つの騒動に共通する日本人気質の問題点として「外来崇拝」を指摘した。(「【外伝】五輪騒動に共通する外来崇拝)この時は、個人攻撃になるような事については深く立ち入らなかったのだが、ここに改めて取り上げてみたいと思う。二つの問題は、ともにデザインが絡んでいる。それは指摘した外来崇拝の気質よりも、より深いところの感性の問題でもある。それだけ深刻な問題だとも言えるだろう。



 あらためて騒動と気質について書く気になったのは、いくつかのコラムや報道がきっかけである。順に見ていこう。
 一つ目は、英国在住イラク人建築家ザハ・ハディッド(ザハ・ハディドとも表記)がデザインした新国立競技場について、建築ジャーナリストが書いたコラムである。(*1)題名からもその立場がよくわかるので、その内容をどこまで信頼するかはさておき、東大の派閥争いを中心に詳細に書かれている。そこにさして興味はなく、注目したのはザハ案支持派の変節について書かれた部分である。長いので、結論部分だけを取り出すことにしよう。

 『安藤忠雄氏を分析すると、自分がつくった2016年オリンピック案の環境重視ポリシーとザハ案は真逆です。また鈴木博之氏を分析すると、自らのライフワークである地霊(ゲニウス・ロキ)尊重というコンセプトとザハ案は真逆です。次に内藤廣氏を分析すると、自身の出発点になり、その後も貫いてきた「海の博物館」の穏やかさとザハ案は真逆です。まさに論理の破綻、総崩れとしかいいようがありません。』

 鈴木、内藤両はともに東京大学名誉教授で、新国立競技場国際デザインコンペの審査委員である。審査委員長でザハ案を決定した当事者の安藤忠雄については、『逃げる建築家』で遅すぎた釈明会見ではさらにゼネコンに責任を転嫁するかの発言に、
『自分が責任を取るのではなく、逆にゼネコンに押しつけようとした安藤忠雄氏の言動にふさわしいのは、「東京大学反面教師」という称号ではないでしょうか。』
とまで書いている。ま、これはあまりここでの論議には関わりがない。強いて言えば、サムライとはかけ離れた卑怯未練な気質とデザインなどの才能とは、関係が無いと言うことを端的に証明してくれたと言うことであろう。(「日本人の気質 第7章日本社会の特徴や問題の裏にある気質 能力と人格の混同」参照)

 このコラムから見えてくる寒々とした風景は、選者達の自らの主張を曲げてまで外来デザインを推そうとするくくりへの病的撞着と、日本人が当たり前に持っている景観との調和の重視という感性が失われている事によるのだろう。

 新国立競技場についての一般国民からの強い批判は、単にコストが高い、やり方がいい加減だからというだけではあるまい。そんな事は公共事業でいやと言うほど経験しており、さして盛り上がるものでは無い。やはり東京オリンピックという日本全体、日本人全体の関わる出来事にケチが付きすぎていること、そしてザハ案が景観を損ない、神宮の森を破壊するとんでもないものだと言うことが、次第にわかってきたからであろう。
 IT技術の進歩のおかげで、発表された建物だけの図では無くて、それを実際の地形の上に重ねた図、周辺近くから見た図などが簡単にネットで見られるようになった。何も無い砂漠の真ん中にあの巨大な建物だけがあるのならば、それはかっこよくすばらしいものかもしれない。(**)だが、日本の狭くて足の踏み場も無いようなところに、巨大で周囲と全く調和しないグロテスクなものが、周辺の緑を壊してふんぞり返る。そんな光景は、日本人の感性には全く合わないものである。それが、ようやく理解されたのだろう。

 それにしても、はじめから敷地に収まらず(公募条件を逸脱しているとの指摘もある)、周辺の道路や緑を破壊しなくてはならないようなものを、どうして審査員や関係者は選んだのであろうか?「デザインのコンペで建築費は知らない」といっていたが、大きさはいくら何でもデザイン以前の問題であろう。それを無視するという感覚は、いかに高名な先生方や優秀な官僚達でもあまりに不自然である。はじめからこれを選択したい別の理由があったのか、それとも本当に、基本の基本も忘れるほど老化していたのであろうか?

 

<寄り道小道>  -JSCの隠蔽工作?


 いずれにせよ、指摘したいのは、コンペの審査に関わりザハ案を推した専門家、JOC、JSCなど関係者、文科省官僚は、神宮の森の環境下ではいかにグロテスクであるかという事を感じる日本人としての感性を失っているのでは無いかという点である。
 建築家やデザイナーと呼ばれる専門家の視線が常に上からの視線では無いのかについては別途書きたい。



 つぎは、五輪エンブレムのデザイナーについて、騒動の原因を指摘するコラムである。(*2)

 『結論を先に述べると、いまだに騒ぎが収まりそうにない今回の騒動の本質は、パクリではなく、佐野研二郎というクリエイターの本質と、日本社会の伝統的な美意識の「対立」なのではないかということである。つまり、多くの人が考える「日本人のクリエイティビティに対する感覚」というものに対して、「佐野氏のクリエイターとしての感覚」が真っ向対立しているところに、今回の騒動の根本的原因があると思われるのだ。こんな人間が日本を代表するクリエイターだと評価させていいのか――。執拗に佐野作品の疑惑を追及する人たちの本当に怒りはそこにあると思う。』
 前述コラム同様に、書かれている内容そのものにはさして興味は無いのだが、彼らが知らず知らずに述べている日本人の感性に関わる事が気になるのである。

 最後は、今頃になってエンブレムの審査委員代表を務めたグラフィックデザイナーの永井一正が「原案はベルギーの劇場ロゴとは似ていなかったが、その原案を修正していまのデザインにした」という証言をした事である。単に自分たちが選出したデザインの書き手を擁護したかっただけなのであろうが、ここでも感性に関わる本質が見えてくる。なおその後、原案と言うのが発表されたが、各部品の配置だけで、本質は何も変わっていない。



 新国立競技場では、実際の現地に構造物をおいてみるととんでもないものである事が、視覚的に理解できた。同じように、五輪のロゴは、前回の東京オリンピックのロゴや今回の東京招致用ロゴなどという、具体的に比較可能なものがある。そうして、それらを比較したとき、今回の五輪エンブレムが日本人の持つ美意識に合っていないことがさらに強調されてしまったのである。好きか嫌いかと言えば、好きでは無いと言う部類に属すると多くの日本人が感じたのである。

 

 

 特定のデザイナー一人の事であれば、外来崇拝思考のなせる業で済んだかもしれないが、このロゴを選んだ専門家達は、さらに修正を加えたという。その時に、誰も日本人の美意識が働かなかったのであろうか?

 もう一度まとめるならば、今回の騒動においては、日本人の感性が大きく作用している。競技場であれ、ロゴであれ、どうして日本人の美意識にそぐわないものを、(ザハは日本人では無いからそれを求めないが)わざわざ選び、作成し、そして多くの専門家達がそんな作品を選んだのかという素朴な疑問である。結局、専門家と呼ばれるような人々のほうが、むしろ一般の日本人よりも日本人の感性を失っているように見える。そのことが恐ろしいのだ。
 さらに騒ぎが大きくなった理由のひとつには、純粋性や清らかなものを求めたいとする気持ちが、けちの付いたものを何とか排除したいという無意識につながったのであろう。これも感性が生んだ文化である。

 「日本人の気質」を書き上げた動機のひとつとして、日本人の感性がおかしくなり始めているのでは無いかという自分なりの危機感があったのだが、残念ながらそれが現実のものになりつつある事を示しているようで気分が重いのだ。

平成27年8月28日(金)



参考資料

(**)

砂漠にあればかっこいいかな!?


(*1)「東大教授の正統性をかけた安藤忠雄「ザハ案」と槇文彦「良識案」の闘い」建築&住宅ジャーナリスト 

    細野透 2015年8月25日
(*2)「しくじり佐野研二郎氏に足りない「リスペクト」と「許される力」」ソーシャルビジネス・プランナー 

    竹井善昭 2015年8月25日

 


 


<寄り道小道>  -JSCの隠蔽工作?

 日本スポーツ振興センター(JSC)が、新国立競技場デザインコンペの結果を発表したホームページがある。それを見ても奇妙なことがあるのだ。

 残り二つの案では、しっかりと周辺施設の中での図をあげているにもかかわらず、なぜかザハ案については、周囲との関係を示すような図が含まれていないのだ。さらに問題の公募条件違反と言われる、長く伸びた部分の側の図もない。上段の大きな全体図も他のより小さくし下段との間に隙間が出来てしまっている。
 こうしてみると、このホームページを作成(内容を考えた)した人達は、はじめからこの作品に問題があることを承知していたのでは無いだろうか?それをごまかすために、色々と細工をしたと思うのは穿ち過ぎであろうか。

ザハ(最優秀賞)  で、真ん中の隙間はなにかな?なぜ、他と同じにしないのかな?

 

リチャードソン(優秀賞)

 

妹島(入選)


 本題からは外れるのだが。
 騒ぎになったから、私もこれを見たが、普通一般の人はわざわざ見ないだろう。しかし「公開」されているのである。つまりこれに異論が無ければ認めたということにもなる。ネット時代の情報公開の盲点というか、恐ろしさでもある。

 


 

2015年08月28日気質のカテゴリー:外伝

志摩市の海女の萌えキャラと「おとなげない」

 個人や特定の集団を批判することが目的では無いが、外伝では個別具体的な事柄を取り上げるので、どうしてもそのように受け取られがちだということは充分認識している。と、今回も言い訳から始めてしまった。

 たわいないことを大仰に騒ぎ立てるのは少し『おとなげない』のでは無いか、そんな気持ちから筆を起こした。もちろんその大人気無い行為の裏に、いまの日本人の「精神性の幼稚さ」というのは言い過ぎなら、「精神の弱さ」を認めるからであるが。

 2016年(平成28年)の主要国首脳会議(サミット)は、三重県の伊勢・志摩で行われることになった。それを機に志摩市では観光事業の拡大を目指して、海女さんのキャラクターを作ることにした。実は、すでに志摩のキャラクターとしては、海女ゆるキャラクター『しまこさん』が存在していたのだが、若者と海外観光客向けの新しい海女萌えキャラクター『碧志摩メグちゃん』を作成したという。

   まずは、実際のイラストを個別に見ながら、両陣営いや多くの人に考えてもらおう。

 

 まずは「しまこさん」。それなりにかわいいが、見方によっては顔が不気味に見えるし、そもそも口紅など海女さんの実態に合っていないのでは?なぜ、反対が起きなかったのかな? 露骨にいえば、さして印象が強いわけでもないので、どうでも良かったのでは。だから、宣伝キャラとしてはイマイチなのだろう。
 ところで両目の下にある「ぽっち」は何なのだろうか?済みません、海女に詳しくなくて。

 とにかく誰も反対はなさそうである。

 問題の「碧志摩(あおしま)メグ」である。とりあえず黙って見てみよう。

(1) セクシーキャラより、かわいいキャラ優先ではいけなかったのかな?明らかにバランスは良くない。

(2) この女忍者、卑猥じゃ無いですかね?考えすぎかな?忍者に見えづらいし。

 

 

(3) クリアファイルは、批判されるイラストと言えなくもないが。

 

 

(4) 女忍者が主役のイラストだが、こちらの巨乳こそ...。

 

(5) かわいいと個人的には思うのだが。

(6) アニメやキャラ好きの私には、とてもありふれたかわいいキャラとしか見えないのだが。逆にキャラの絵だけで海女だとわかるのは、少しきついかも。

 

 一連のイラストを見てくると、性的嫌悪感を生じさせるとするものは、二つ考えられる。ひとつは強調しすぎた胸(乳房)、もう一つは短く、はだけすぎた着物。これはもう少し書き換えてもさほど問題はあるまいとも思う。

 個人的には、メグと共演している(?それともこれもメグ?)女忍者の方がはるかに「やらしく」感じるのだが。巨乳強調(4)と恥部強調(2)があくどすぎないかなと。でも、反対署名は伊賀から起きてないようである。なぜ?


 最後に、すてきなコラボ図で、仲よくしよう。

 

 コラボ図でも、ミニが少々お気に召さないないかもしれないが、全体としてセクシーが強調されすぎているとか、性的嫌悪感を著しく惹起するようにはみえないというのが、個人的感想である。みなさんは、いかに。



 前置きが長くなりすぎた。ここからようやく本題に入れる。

 お互い相手の事に対する知識が不足しているのも、確かなのでは無いだろうか?海女という職業の置かれている現状や少々差別的な歴史などを知らない人も多いだろう。一方、萌キャラなる言葉の意味すら知らないし、ましてアニメ等オタクのお約束ごと(この言葉すら知らないであろうが、ようは暗黙のルールと見て良い)など、全く知らない世界の話である。本当を言えば、それら両者の異なる世界をつなぐ役割を、志摩市の観光担当者達がこの萌キャラを作る上で果たさねばならなかったのである。「はやりだから乗った」では、あまりにお粗末だと思うのだが。
 究極は、お互いに好きか嫌いかという事になってしまうのだが、そればかりを他人に押しつけるのでは、あまりにもおとなげないのでは無いだろうか。

 自分の職業に関わる話題にはつい敏感になってしまうのは、私も含めて当たり前の話である。だが、7000人もの署名を集めて、「海女を正しく伝えていない上に侮辱しているからキャラをやめろ(正確には、公認撤回のようだが)」というのは行き過ぎだと思う。

 どうすれば良かったのか。『イラストの内何点かは、セクシーさを強調しすぎているように思えるので、考慮してほしい。萌キャラは萌えキャラとして、同時に常に海女の現実の姿を伝える努力を並行で行ってほしい。そして好き嫌いで言えば、このキャラを嫌いだと思う人々の存在に、十分な配慮をしてほしい。』こんな要望書ではいけなかったのであろうか?

 一方、『「表現手法に対する無理解と差別にもとづく偏見」「表現活動や出版等が萎縮するきっかけを作らないよう」』という、公認撤回署名への反対署名というのも、あまりに大げさで大人げない。

 『萌えキャラという特殊な分野への一般的な理解は、まだ不十分かもしれませんが、若者や世界の中ではそれなりの文化として認められていることをご理解ください。萌えキャラには、当たり前のようにお約束と呼ばれる暗黙のルールができあがっています。そのひとつに、「セクシーである」「実際を忠実に再現するのでは無く、かわいいイメージを膨らませる」という事があります。その上で、あまりにも一般の方々の嫌悪感を生じさせるようなものについては、最大限の配慮を私たちも求めます。この事に賛同している人も少なくないことをわかっていただくために署名を集めました』
 このくらいのことがなぜ言えないのだろうか? 権利だの何だの偉そうに、だから嫌われる。

 そう、両者とも大げさで大人気無いのである。そこでは、戦後日本人の精神性が極端に弱まって、少々の事を多めに見る寛容さが失われているようである。
 精神性の弱さとは、少しくらいのことを大目に見る精神的なゆとりや、そういうものに影響されない精神の耐性などのことである。こんな事で「表現が萎縮する」とよく言うのだが、そんなレベルの甘いふ抜けた「表現」ならやめた方が良かろうと思う。


 それに加えて、やたらに権利や人権などを大上段に振りかぶり、要求する事が当たり前という社会的な風潮が、拍車をかけている。権利や自己主張ばかりのぎすぎすした社会は、本来の日本的な社会のあり方からは大きく外れているもの。それをそう感じなくなってしまった感性の劣化こそが恐ろしい。何事も極端に行き過ぎたものは、決してよりよい結果を生み出さないだろう。こんなところにも、いまの日本文化・日本社会が抱える日本人気質の問題点がかいま見えるのである。


平成27年8月30日(日)

参考資料
 なお、ここに使用したイラスト類は、下記のサイトから借用したものです。使用条件(個人のブログ等)には合致しているので問題ないと考えます。
  碧志摩メグ公式サイト
  「しまこさん」のプロフィール・サイト

 

 

 

 

2015年08月30日気質のカテゴリー:外伝

大事なときに勝てないスポーツ選手と気質

 すでにブログでもたびたび書いたが、どうも大事なときにその実力が発揮できないスポーツ界。

 8連勝の野球U-18も決勝では、ミスだらけでぼろぼろ。いくら強いアメリカ相手でも、予選では一度勝っている相手である。それが決勝で当たると、とたんに変わってしまう日本チーム。コールド勝ちなどしなくてよいから、コンスタントに勝てないと。

 男子サッカーは、もはや病気である。 昔からなぜか得点できない日本代表チームだが、勝ったとは言え格下相手に34ものシュートを放って、決められたのはたったの3回。もはや病気と呼ばずして何であろうか。特に海外のクラブチームに所属する選手たち。海外ではそれなりにゴール出来ているのに、日本チームになるとまるで別人。他の選手の質が劣るからなのか、本人の個人技の技量なのか。選手間の目に見えないいがみ合いなどがあるのか。

 オリンピックなど大舞台で期待されて確実とか言われるほど、結果が伴わない事も多い。それも格下に負けたり、いつもの記録が出なかったり。こうなると技術もさることながら、やはり精神力を疑わざるを得ない。


 では具体的にどのような精神力が不足しているのであろうか。孤高武士型に備わりながら、大方の集団農耕型に不足しているものがあると日本人の気質では書いた。

 

 いつでも最高の状態を保ちかつ発揮できるためには、さまざまな周囲や自己内部からの圧力(プレッシャー)に耐える「耐性」が必要である。これが無いと「平常心」が保てない。耐性強化の訓練は行っているのだろうか?

 もう一つが「無我」の境地である。昔の剣豪は、これを最高の状態として修練を積み体得していった。こう書くといかにも時代劇じみているが、実はもっと当たり前の事でもある。スポーツでも何でも一流になれば、身体が勝手に動く、反応してくれるという状態にまで進化するものである。一流選手で無くても、自転車に乗ることを考えればすぐわかる。習いたての時は、運転するという意識を持って乗っているが、慣れれば無意識に、頭では全く別のことを考えながら乗れるようになる。つまり、無我の境地とは、身体の覚えた反応を意識などで邪魔をしないことである。無駄なこと、余計な事を考えないのは自己を制御する自律心とも言えよう。

 集団農耕型気質の人は、こういう精神力に弱さがある。欧米流のメンタルトレーニングも、結局は同じ事をやっているのになかなか効果が出ないのは、そのやり方が欧米人には向いていても、集団農耕型気質の日本人に向いていないからなのかもしれない。とするならば、昔ながらの座禅をくんだり、滝に打たれるなどの修行の方が向いているのかもしれない。

 メンタルトレーニングも、各選手個人の気質に合わせたものを考える時代に来ているのだろう。東京オリンピックまでに、方法論を確立してもらいたいものである。新国立競技場建設費の浮かした金額を、こちらに投じてほしいと思う。

 ガンバレ日本! 

平成27年9月8日(火)

 

 

 

2015年09月08日気質のカテゴリー:外伝

五輪「嫌われる人」東芝「悪経営者」では済まない害毒

 東京オリンピック騒動は、実によくたくさんの話題を提供してくれる。それも日本人の気質で説明している内容に沿って、見事に映し出す実例を提供してくれるのだから、著者としては笑いが止まらない。いかんいかん、本音が出てしまった。

 外伝は基本的に、本文の説明内容や概念の具体的事例を書いている。今回の題は、すでに少し古くなったが「なぜかくも批判され嫌われる大会組織委員会の武藤敏郎事務総長のような人物が生まれるのか」である。なにせ「上から目線」会見を批判する文がネット上にあふれているのだから。

 たしかに会見を聞いているとまるで人ごと、自分には責任などない、お前ら一般人に何がわかるんだ、俺はネットリンチにあった被害者だ、そんな雰囲気を隠しもせず、いすにふんぞりかってマイクを握り長々と意味不明の説明(東大話法とも言うのだそうだが)を続ける。およそ謝罪しようとはみじんも考えていなかったのだろう。恐るべし!霞ヶ関官僚上がり!彼は日銀総裁になりそこねた財務官僚だとか。パチパチ..。
 もう一人の五輪騒動の立役者、東京五輪組織委員会の会長である森喜朗元首相とは30年来の仲だというから、やはり類は友を呼ぶのか、同じ穴の狢なのか、すごみまで一緒とか。やっぱりね。

 五輪関係者だけでは役不足なら、世界に日本の特異性をまたもや喧伝してしまった東芝の歴代社長をいれてもよい。この三人の悪代官も害毒を企業内だけで無く社会に振りまいたのであるから、取り上げられる資格は十分である。

 などとふざけていて済むほど事は簡単では無い。こういう集団農耕型気質の典型的な人間たちが、国の方向性を誤らせ、社会を停滞させ、格差を生み出し、日本を破滅へと導くのだから。こういう人間は、どこにでもいる。だが、こういう人間に本当の責任をとらせようとしない集団農耕型の身内意識(くくりの防衛といっても良い)を何とかしないと、日本は大変な事になるだろう。



 本文をよく読んでいただいた人には、説明も不要であろうが、もう一度、この人物等に投げかけられている批判と気質についてまとめてみよう。集団農耕型気質の人間がくくりへの病的な撞着をしたとき、個人の病理としてだけでは済まないさまざまな弊害を社会にもたらす社会病理とも成る。そしてそれは、現在の日本社会のあらゆるところで起きている事を理解してもらいたいので。

 日本人には少数派の孤高武士型気質の人と、大多数の集団農耕型気質の人がいる前提で話は進んでいくので、詳しくは本文を参照されたい。
 くくりの定義は繰り返さないが、この例では五輪組織委員会や東芝ととらえてもらえればよい。さらにもう少し広げて、たとえば五輪の各問題に関わった関係者たち全体としてとらえても良い。

 集団の中でそこそこの権限を持ったり上位の立場になると、自らの影響下というくくりを我が物として扱うようになるのは、珍しくない。課長は課内(自らの影響下というくくり)では威張っているのだ。社長になればその会社全体が、自分のくくりとなる。五輪事務総長は、事務局とそれにぶら下がる種々の組織をまとめて自分のくくりだと考える。とくに官僚は、形式上の上位者を常に見下して、自分が実質的な権力者であるという認識を持つことが通例である。そのことが、さらに己のくくりをより強固なものに感じさせる。自分はかくれた力(実力、権限等)があるのだと。

 次第にくくりの自己占有感が高められ、撞着はより強くなる。自分の事を自分でどうしようとかってだろうという傲慢な考えがこうして生まれていく。くくりへの撞着とは、くくりに対して異常とも言えるような執着を持つことと解してくれれば良い。会社第一、会社は俺のもの、といえばわかりやすいだろうか。
 撞着が病的な状態になると、くくりと自己(自我)とが一体化して、その防衛や権力拡大のためには、くくりの外にある本来の目的や対象物が見えなくなる。そして、その行動がくくりの外の社会に大きな悪影響を及ぼすことにつながる。

 くくりの自己占有感は、さらにくくりと自分との一体化にまで進む。会社と自分が同じものに見えるのだ。自己(くくり)の巨大化は、自己尊大感の増大とつながっているので、ますます傲慢に、独裁的になる。
 集団農耕型の人間がくくり内の頂点に立つとき、本来の目的やくくりの外を無視し、己のくくり本位の思考や行動を行うようになる。「新国立が3000億かかってもよいではないか」発言、東芝社長の「二日で何百億もの利益をどうにかしろ」発言、五輪エンブレムの修正を審査員たちには無断で事務局だけで行っていた、こういう言動はすべてその現れである。俗に言う「私物化」がわかりやすいかも。

 くくりの自己占有感は、さらにくくりと自分との一体化にまで進む。自己(くくり)の巨大化は、自己尊大感の増大とつながっているので、ますます傲慢になる。
 集団農耕型の人間がくくり内の頂点に立つとき、本来の目的やくくりの外を無視し、己のくくり本位の思考や行動を行うようになる。「新国立が3000億かかっても好いではないか」発言、東芝社長の「二日で何百億もの利益をどうにかしろ」発言、五輪エンブレムの修正を審査員たちには無断で事務局だけで行っていた、こういう言動はすべてその現れである。

 そして、そのくくりに同化しようとしないものを排除しようとする。くくりの純化である。言うことを聞かない部下を遠ざけたりやめさせるのは、これ。詳しくは後で述べる。

 

 さらにひどい状況になると、自分と一体化したくくりのなかで、己の欲望が最優先され、くくりもまた欲望自我のくくりとなってしまう。もはや、くくり自体が欲望の塊そのものと化してしまう。
 東芝社長は、経団連会長になりたいために粉飾をしたとも言われている。そこには企業というくくりは自己の欲望を満たすために自由に使える道具と化してしまう。自分の金ではない税金を自分たちの好きに使う五輪組織も、全く同じである。見栄や出世、自己満足という欲望のために、国民の税金が使われてしまう。

 恐ろしいのは、ここまで行くと、己のくくりそのものの存立まで危うくすることに気がつかない、いや気づいても自分だけは助かると考えて無視するところにある。粉飾をすれば、自分の大事なくくりである東芝そのものをだめにしてしまうのに、それをやめられない。官僚はもっとたちが悪い。五輪組織のくくりは時間が経てば無くなるからどうでも良いと考える。さらに国家公務員は国が無くならない限り安泰と考えているのであろう。

 こうして集団農耕型人間が権力を握るとき、戦前の軍部のようになる。自分たちのくくりの防衛のために国家を滅ぼし、国民を皆殺しにしてもかまわないと思うようになり、終戦を妨害し、本土決戦をやろうとするところまで進んでしまうのだ。
 政治家や官僚、公務員、既存組織の改革を邪魔する行動は、まさにこのような事につながっているとみれば、非常に理解がしやすいだろう。


 加えて、くくり内では権力闘争が異常なものになりやすい。東芝の三社長もみな東芝を自分のくくりと見なしている。それがひとつのくくりの中で成立するはずはあるまい。熾烈な権力闘争は、くくり以外のものをさらに見えなくしてしまう。戦前の軍部も、権力闘争がすさまじかった。




 では、そのくくり内の他の構成員はどうなのであろうか?

 くくりの純化として述べたように、くくりに同化しないものは、くくりから排除される。東芝だけでなく日本企業では、会社ぐるみとか組織ぐるみと言われる不祥事が多い。また、会社の体質などとも言われる。これらはみな、同じようにくくりの構成員の純化の結果であり、単に失業を恐れて何も言えないだけなのでは無いのだ。従順、横並び、お上に逆らわないなど、構成員の集団農耕型気質が大きく関係しているのである。
 それでも、東芝はじめ企業の不祥事のほとんどが内部告発によって露見していることを思えば、巨大組織なら孤高武士型の人間も存在しうるし、集団農耕型の人間でもくくりに完全に埋没しない人も出てくる。
 官僚組織や地方公務員などの悪事がなかなか表に出ないのは、その組織のくくりが小さく保たれていることにもある。霞ヶ関の官僚と言っても、全体では無くいわゆるキャリア組だけの、それも各省庁となればそれほど大きなくくりではない。
 また官僚のキャリアをはじめから目指していた、いわば同質の人間の集まりでもある。そこに自分たちは外の人間よりも偉いという不遜な優越感が、構成員たちのくくりへの服従を強化してしまう。

 だからこそ、官僚や種々の組織において同じ選抜方法による方式を重ねれば重ねるほど、くくりはそれ自体で強固になり、構成員が変わってもくくりは変わらないことになる。官僚的とか大企業病とか言われる諸問題は、そこに孤高武士型の人間を数多く入れない限り、くくりの純化という名のいびつな泥沼化が避けられないだろう。


  最後に、ではなぜ孤高武士型の人物は、このような病的撞着などを起こさないのであろうか?それはくくりの動的再編をする事が出来ている、自己よりももっと大きな存在、神と言っても自然と言っても、超越的道徳といっても呼び名は何でも良いが、そういう自律(自らを正しく制御)する強い規範を持っているからである。
 規範があればこそ責任を持つ意識も生まれてくる。くくりにおいて、自分が神である限り責任など考えもしないし、存在しないのである。厚顔無恥とよばれるほど、責任もとらずに平然としていられるのはこのためである。サムライならば、みなとっくに切腹して果てているだろう。詳細は本文を参照されたい。

 


 いまの日本が、どちらの状況に近いのか、言うまでもあるまい。右図に合う実例がそこかしこにあるのは、あまりにも哀しい。


(参考)これらの概念に近いものは心理学ですでに色々と研究されている。逆にあまりにも複雑になっているので、敢えてすべて無視したとご理解いただきたい。本文第4章に「「くくり」概念と心理学用語の関係について」を記した。

平成27年9月9日(水)

 

2015年09月09日気質のカテゴリー:外伝

私は武士(サムライ)だ.....かな?!

 紛争地域はもちろんの事、マラソン会場、観光地、商業施設、とにかく世界のあらゆる場所でテロ行為が止まらない。まったく人類は、本当に進歩の道を歩んでいるのであろうか?

 日本国内ではオーム真理教のテロぐらいで、海外のように大きなテロが頻発してはいない。だが、海外に出かける事が当たり前になった昨今、日本人も常に意識しておくべきであろう。今の日本人は、『危険』と言う事に対して、あまりにも鈍くなっている。日本というくくりの中が比較的安全だからと言って、くくりの外も同じだと考えるのは、まさにくくりにとらわれていること(くくりへの撞着)に他ならない。教育の問題もあるが、それ以前に、いまの日本人は生きる事への緊張感が欠けているのでは無いだろうか?

 遙か昔、私の初めての海外旅行は、ヨーロッパだったのだが、ロンドンでは中央駅を出発したところで、駅で爆発(爆弾テロ)があったことを知らされた。スペインにいけば、警官がライフル銃を構えて列車に乗り込んでくる。警察署長が殺害されたとか何とか。よく分からなかったが、ま、銃口を向けられるのは良い気分では無い。なぜか怖さと同時に、怒りがこみ上げてくるのだ。 とにかく1ヶ月の放浪旅行中、何度も危ない目に合うところだったようである。

 それで癖になったのか、その後出張で海外に出かけても、よくそんな場面に遭遇するようになってしまった。空港で、火事やら何やらで退避させられたことは何度もある。アメリカでは、宿泊先のモーテル(簡易ホテル)に、夜中パトカーが突っ込んできて、ライフルを持った警官が飛び出してくるし。火山噴火で飛行機が飛ばず、空港に足止めされたり。テロ騒ぎで空港が閉鎖されたり。そうそう、飛行機が引き返したことも2度ばかりあったか。エンジン不調だから戻りますって、それから1時間以上も飛ぶなよな...。

 なかでも一番びっくりしたのは、2005年かな、例のロンドンでのテロ騒ぎである。まさにその時、市内にいた。訪問先でも、なぜか相手が話をしてくれないで追い出されるし、街中パトカーやらで騒然とする中、人々が走り回っていた。ようやく見たテレビ画面では、首相が深刻な顔をして何かわめいている。
 いま、まさにテロが起きているのだと分かったのは良いが、どうしようもない。タクシーなんて見当たらないし、どこに逃げれば良いのか検討もつかない。異常に興奮している自分がそこにいたのだが、一方で、異常に興奮しているなと冷静に見ているもう一人の自分がいて、妙に落ち着いている。 ま、死ぬも生きるも天の定め、武士(サムライ)は常に死を覚悟しているのだと、そんな事を思うかっこいい自分がいた。

 「武士道とは死ぬことと見つけたり」という意味は、武士たるものは、常に死を意識して、覚悟を持っているという事で有る。なら、私も武士だったのだろうか!

 冷静に、安全そうな方向を見極めて歩き、一時間ほど歩いてようやくタクシーをつかまえ、ホテルの方面が無事だというので乗せてもらった。がその晩は、恐ろしさと興奮で寝られなかった。武士も、後で怖くなるのだ!


 テロなど経験しないにこしたことは無いが、危険は常にそこにある。緊張感を持って生きることは、今の日本人に欠けていることではないだろうか。江戸時代250年以上もの間、割合平和な時代が続くなか、それでも武士たちは質素な暮らしに耐えながら、何かあったときに備えて心に緊張感を絶やさなかった。すべての武士階級の人間がそうであっとは言わないが、武士階級に限らず多くのサムライの存在こそが、あの偉大な明治維新を成功させたことは疑いもないだろう。
 戦後、さまざまな改革が進まなくなってしまったのも、このように核となるべき人材が日本社会にいなくなってしまったからである。遠回りでも人材を育てることからやらない限り、この自己中心的な風潮の蔓延した緊張感のない社会は変わらないだろう。



 危機はテロだけではない。東日本大震災以降、日本は災害列島とでも呼ぶべき時期に突入した。世界的にも、自然災害が各地で猛威を振るっている。戦後も比較的災害の少ない時期が続いていたため、日本人はここが災害列島である事を忘れていたのだ。それでも災害発生時の落ち着いた行動が、世界から賞賛されてもいる。事に当たって冷静に処する武士の生き方が残っているのだろう。もう少し進んで、日常の中でも災害などへの心構え、つまりは一定の緊張感を持って生きて欲しいものである。

 こうしてみると、日本人の気質が普段は集団農耕型に傾いていようとも、何か危機があると本質的な孤高武士型気質が顔を出す。この気質の本質を変えたくは無いと思う。すべての日本人に武士の心構えを持って欲しい。それが己の安全にもつながる。私は武士である、そしてあなたも...かな?!

一般的な日本人の気質構造図



参考資料

日本人の気質
  第5章 くくりへの病的撞着がもたらす社会病理
       社会病理を助長するもの -武士道とは死ぬことと見つけたり
  第7章 日本社会の特徴や問題の裏にある気質
       危機意識の欠如
  第10章 新しい時代へ
       サムライとは
       教育の再構築 -武士道教育が果たした役割


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平成27年9月26日(土)

 

 

2015年09月26日気質のカテゴリー:外伝

EU村のくくりを壊すVW問題!

 いくら外伝でも日本人の気質で、外国を話題にして良いのだろうか? 日本も他山の石としなさいと言うことで、勘弁願おう!
 フォルクスワーゲンの排ガス不正問題は、案の定というか次々と隠蔽が明らかとなってきた。その中には、VW社内はもちろんドイツという国、さらにはEUまでもがそれに荷担していた可能性が指摘されている。すでに「フォルクスワーゲン問題と「くくり」」(9月25日ブログ)で書いたように、これこそくくり(組織)に撞着しすぎた組織は腐るという実例を示している。くくりは日本だけの問題ではないのだ。

 

 次々と明らかになる事を重ね合わせていくと、日本の集団農耕型気質の組織が起こすくくりへの異常な撞着と同じ構図が見えてくる。

 そもそも不正ソフト開発したのは、部品大手のボッシュである。しかもその不正使用の可能性について認識しており、VWにもあくまでも開発時に使うもので、実際の車に搭載することは違法であると2007年には文書でVWに伝えていたという。だが、所詮はVWから見れば仕入れ先に過ぎない。

 2011年にはVW社内からも上司に対して違法だとの指摘が成されたが、無視された。東芝同様にトップなどの権力者が知って直接指示したものであれ、社内の雰囲気で認めるという間接の容認であれ、上に立つものの意識が犯罪を厭わないくくりを生み出してしまうのだ。

 二年前には、EUもこの事実を知りながら何ら対策を打つことは無かった。はやい話が、黙認である。これが日本車なら大変なさわぎであったろう。くくりという事の恐ろしさは世界共通である。

 アメリカで不正を指摘をしたのは一年以上も前である。だが、VWは長期間にわたりどうしても不正を認めようとはしなかった。それなら、許可を取り消すと最後通告されてようやく事実だと認めたのである。この経緯、日本企業の過去の不祥事と全く同じと言えよう。


 この問題を取り上げたコラムには、ドイツ企業の覇権主義体質を指摘する声もある。つまりは、ドイツ人の国民性として、世界に覇を唱えるという意識があると言うことだろう。ここでもやはり、気質の影響が顔をのぞかせている。これからの企業経営者は、よくよくこの事を頭に入れておくべきであろう。
  日本を含めてくくりへの撞着を起こしやすい国民性を持つ国々においては、それをあらかじめよく知った上で様々な事をなさないと、とんでもない罠に陥ることにも成りかねない。

 複雑で様々なくくりが絡み合っている。その大元のくくりが壊れかけているのである。それがいずれは良い結果を生むことにつながろうとも、しばしの混乱はままぬがれないだろう。常識の毒「ドイツは優等生-VW問題は歴史を動かす」参照。

平成27年10月6日(火)

 

 

 

 

 

 

2015年10月06日気質のカテゴリー:外伝

特A米と気質は関係あるのか

 今年も新米の季節で、米どころでは一足先に今年の出来を味わっているそうな。塩や味噌だけのおにぎりこそ、日本人の繊細な味覚が生み出した一品。「日本人の主食は米では無い」などと書いてはみたものの、やはりこの味わいは格別である。


 お米のおいしさのランクは5段階で、その最上級が特Aである。ここ5年ぐらいで数が倍に増え、今年は44銘柄が特A米に認定されている。なかでも、話題に取り上げられているのが、青森県の青(晴ではない)天の霹靂というブランドである。青森県は長い間、品種改良などを重ねて特A米のブランドを作ろうと努力してきた。だが、気候条件などもあって、なかなか実現できなかった。その努力がようやく実を結んだのだ。

 明るい話題であるが、その勤勉さや努力をたたえるだけでは外伝には成らない(と、勝手に思っている)。 これまで特A米が青森県で生まれなかった理由には、気候の問題もあった。だが、もう一つ理由があったのだ。


 本州最北端の青森県。悲劇の八甲田山系が、県の中央に背骨のように走っている。当然この山を境にして、日本海側と太平洋側とでは、気候・風土が異なる。にもかかわらず、青森県は特A米を開発するに当たり、県全域で栽培できるものを目指した。日本人の気質にある公平性や平等性が、ここでも裏目に出たのだ。明らかに気候が違う場所で同じ品質の米、それも特A米が出来る訳が無い。そこで、県全域という条件をあきらめたところ、近年の気候変化なども手伝って、ようやく青天の霹靂が生まれたのだ。山の西側、日本海側の地域ブランドである。


 有名なブランド米コシヒカリも、新潟の魚沼産が飛び抜けて上物とされている。狭い限られた地域である。ちょっとご縁があり、時々食させていただいているのだが、魚沼産の中でもさらにおいしいお米として地元の方が知る場所があり、そこのコシヒカリをわざわざ送っていただいたことがある。南魚沼だけでも狭いのに、もはや地域でもなく、まさに特定の田んぼなのである。それだけお米は、地形、土壌や天候などの風土に密接に結びついた食べ物なのであろう。

 青森県も、県全域というこだわりを捨てたとき、ようやく悲願のブランド米が生まれたのだった。この話からわかる事は、日本人の平等性へのこだわりはさておくと、やはりくくりへの撞着あるいはくくりの柔軟性という気質の問題点であろう。


 戦国時代の武将は、実によく地形や風土の勉強をしていた。何しろそれが自分たちの存続に関わるのだから当たり前なのだが。科学の力で自然をかえられるかのような傲慢さが芽生えたのか、近代以降特に戦後の日本人は、地理的な条件や風土を無視するようになってしまった。代わりにひたすら人工的に作られた境界線を重視し、そのくくりに病的に撞着している。

 本来の行政区域は、その行政の事業毎に地域を串刺しする横割りの行政が本筋である。だが、役人や議員たちはその己の縄張りに執着し、実際の地元の人々にとってよりよい区域割りなど全く考えようとしない。大阪の維新と既存政党の確執を見れば、そのことがよくわかる。水道でも下水でも、学校、警察でも、その地域の地理的条件に照らして、最適な区割りがあり、それは決して行政の区割りと一致などしないのが普通である。 あ、個人的には大阪都構想には、さしたる改革には見えないので首をかしげているけど。

 地方を疲弊させている理由のひとつは、間違いなく、人工的な行政区域と実際との乖離であり、あらゆる無駄の温床ともなっている。そこには、集団農耕型気質のくくりへの強固な撞着が潜んでいることを、にぎりめしでも食べながら考えて欲しいものである。


 一方コシヒカリに安住しない新潟県。新しいブランド米「新之助」を開発した。コシヒカリの粘りけを少し押さえた方が、おにぎりには握りやすいのだが、新之助はどうなのかな。早く食べてみたい。
 現状に安住しない気質こそ、孤高武士型気質の特徴で、これが改革や革命的変化をもたらすことにつながる。改善では無く革命にまで、改革の歩みを進めてほしいと思う。

平成27年10月14日(水)

 

2015年10月14日気質のカテゴリー:外伝

パチンコ両替や消費税に見る気質①

 パチンコはギャンブルをやらない私が唯一遊ぶギャンブルである。  公的には、パチンコやパチスロはギャンブルとされていないのかも知れないが、間違いなくギャンブルである。遊戯と言うには金がかかりすぎるし、偶然の確率に頼る部分が大きすぎる。不景気でも庶民のささやかな娯楽は健在といわれていたのだが、それもいまや昔の話。倒産が続く不況業種になってしまった。あまりにもギャンブル性が高くなり、さらに長引くデフレ下での所得低下には勝てなかった。
 店舗数       平成7年 18,244  平成23年 12,323 (警察庁)
 売り上げ(貸玉料) 平成7年 309,020億円 平成23年 188,960億円

 パチンコは、玉が出れば、景品と交換することが出来る。ギャンブルでは無いから、現金には出来ない建前である。そこで、有る特定の品物に交換する。それを持って近くの交換所にいくと、現金に換えてくれる仕組みになっている。これを両替という。形式だけ繕うまさに役人的、日本的発想でばかばかしいのだが、これも気質のなせる技だろう。

 この両替において、最近さらにおもしろい現象が見られた。出る玉の数を出来るだけ減らしていた店側だが、それも限界を感じたのか、ついに勝った人から手数料を取ることにしたのだ。交換所の前に大きな看板が立てられた。両替で3%の手数料をいただきますと。少しでも痛みを和らげようと50円未満は切り捨てに。だが、せっかく久々で少しばかり勝って、いそいそと交換所にいったら、そこで税金ではあるまいに手数料を引かれる。頭にきたのは私だけではなかったようだ。 よほどダメージがあったのだろう、2-3ヶ月後には、看板が変わった。いままで通り手数料は取りませんと。

 お金に細かいというか、貧しい私はしばらくしておかしな事に気が付いた。今度はパチンコ店での景品への交換で、もらえる両替用の景品が少ないことに気づいたのだ。交換所でもらう金額から計算したら、なんと3%引かれていたのだった。何のことはない、ふんだくる場所とやり方を変えただけなのである。だが、これは日本人の気質からして、まさに正しいやり方である。

 賢明な読者はもうおわかりであろう。これは、会社員の給料から天引きする税金と、毎回、目の前で直接払わせる消費税の関係と同じである。経済は感情によって動かされると言うが、気質によってそれにも違いが出てくる。

 「もったいない」という他国には無い言葉が生まれるほど、節約家で浪費しないのが日本人気質である。それがマクロ経済で見たときには、消費の縮小やデフレを加速させてしまうことになる。だがいまの日本人は、江戸っ子のように「宵越しの金を持たない」と言って稼いだ金をすべて使うより、わずかな額からさらに節約して貯蓄をしてしまう。将来への不安感などがなくても、基本的に日本人は浪費家では無いのだろう。ここにアメリカや中国との大きな差が見られる。それが経済の規模や成長率にも関係している。アメリカは資源を始めあらゆるモノが豊かな国である。だから浪費いや旺盛に消費するのか、消費癖が強いから市場が拡大して好循環になるのかよくわからないが、日本人気質と違う事だけは確かであろう。

 さて、もう少し消費税の話をしたいのだが、長くなるので次回に譲ることにしよう。

平成27年12月9日(水)

 

 

2015年12月09日気質のカテゴリー:外伝

パチンコ両替や消費税に見る気質②

 前回、パチンコの両替手数料の話をした。目の前でもらえるはずの現金から、直接手数料を差し引くのはいかにも日本人の気質に合わない。それより景品への交換の時混ぜて取ってしまった方が、日本人の気質に合っていると。これが、給与からの天引きと、目の前で毎回取られる消費税の違いと重なるとも。

 そんな消費税であるが、2017年からの増税時に、軽減税率を導入するか、するとしてその範囲はどこまでかで、自民党と公明党、官邸と自民党、財務官僚派と反財務官僚派が入り乱れて、見苦しい泥仕合を展開した。元々8%から10%のわずか2%の減税についての話である。根本的な議論を目先の小さな議論にすり替えるのは、官僚の得意とすることであり、メディアも国民もまんまとその猿芝居にひっかっかったことになる。これも、生真面目だが目の前の事にとらわれやすい集団農耕型気質のなせる業だろう。

 こうして気質と照らして考えると、社会のあり方も税のあり方もみな民族の気質(国民性)に関係していることがわかってくる。よく引き合いに出される海外の例と合わせてみていこう。


 消費税というのは付加価値税とも言われ、導入している国によってその内容は実に様々である。全体像もみないで、税率だけを取り上げるのはあまりにもゆがんだ、特定の方向に持って行こうとする議論である。

 アメリカでは、消費税(付加価値税)と同じ税はない。似たものに各週毎に独自の売上税などがあるが、すべての売り上げに網を掛ける消費税とは根本的に考え方が異なる。消費税を導入しないのも、アメリカでは間接税より直接税を重視する思想があるためだという。小難しい思想を説明する能力も意図もないが、要するにアメリカのフロンテア精神や自由な競争に基づき成長していくという考え方に合わないというのだ。まさに国民性が違うのだろう。

 次にアメリカよりも一人当たりGDPが高く、模範的な国として引き合いに出される北欧の国々である。基本的には高福祉高負担の社会。だが、それを維持するために国民が様々な制約下で暮らしていることは、あまり取り上げられない。「制約」と述べたが、彼らはそう感じていないのだろう。むしろ当然のこととして受け入れられている。 それこそが気質の違いであろう。

 北欧は消費税率は25%と高いが、教育は無料、医療もほとんど無料、老後も年金で充分に食べていけるという。そのために国民の満足度が非常に高い。それが高い税金でも不満を持たない最大の理由であろう。現在の日本では国民の満足度がとても低い。日本の戦後政治、とりわけバブル崩壊後の経済政策に大きな誤りがあったと言わざるを得ないだろう。だが、それをさせたのもまたその時の国民である。アメリカ流のやりかたの一部だけを取り入れ、一方で北欧の高負担だけ取り入れる。これでは社会が混乱し疲弊するのも当然である。集団農耕型気質の人間が長く社会の実権を握り続けてきた弊害といえる。話を消費税にだけ戻そう。

 デンマークでは自動車の消費税が180%の高い税率だという(200万の車なら560万に)。なぜそんな事になっているのかと言えば、自動車産業が無く、またガソリンの原油も輸入に頼っているので、国富が海外に出て行かないようにするためだそうである。高福祉を実現するには国が豊かでなければ出来ない、外貨流出をさせないために、寒い北欧のコペンハーゲンでは1/3もの人が自転車通勤をしている。はたして、日本人が、こういう政策を受け入れるであろうか?
 さらに海外のブランド品の高級店はほとんど見かけない。高い輸入品を買わせないように、いや買わないのだろう。

 こういうことは他でも見られるようである。エネルギーで言えば、デンマークは風力発電、スウェーデンでは原子力発電が4割というのも、エネルギーを輸入しない、国富を流出させないためである。こういう総合的な整合性のとれた政策が、戦後の日本では全く見られなくなってしまった。個々の事柄の狭い範囲の中で、平等性とか利益ばかりを追求する集団農耕型の悪い部分が大きくなりすぎているのだろう。気質は悪い方向が強く出ると、どうにもならない混乱した社会を生むことになる。

 北欧の国々はきれいで落ち着いた雰囲気を持ち、人々も穏やかである。だが、その重苦しいようなどんよりとした空模様は、長くいるとだんだん気分が沈みがちになって、日本やカリフォルニアの青い空が恋しくなる。その環境が、足るを知る、高望みをしないという気質を生み出しているのかも知れない。日本人にも根底に同様の気質はあるが、同時に最高を求め、より高見をめざすことを悪いことだとは思わない心も同時に持ち合わせている。日本は社会主義国的であるとよく言われるのだが、北欧の方がはるかにその傾向は強いだろう。それがかたや格差の少ない社会、かたやより格差の広がる社会になってしまった現在。やはり気質の違いが、異なる政策をうみ、日本ではそれが全くうまくいっていないという事なのであろうか。


 どうしても、話が消費税からずれてしまう。最後に日本人の気質から見て、消費税が合わないことをもう一度とりあげておこう。わずか数%の消費税率を上げただけでも、消費は落ち込みそれが1年近くも続いてしまう。むろん、所得が増えないところでやるのだから当然なのだが、それだけではない。
 パチンコの例で示したように、集団農耕型気質では全体よりもいま目の前にある個々の事柄の範囲で物事を考える傾向がある。消費が活性化した方が結局全体も良くなると考えるより、目の前で毎回税金を取られることに対する抵抗の方がはるかに大きいのだ。天引きされた場合には、入ってくる額が少なくても仕方が無いと考えるが、一度受け取って、そこから自分でお金を出すことは損した気分になるのだろう。そんな気分を抑えるには、相当大きな収入があると感じなくては成らないだろうから、高度成長期でも無ければ難しい。結局、消費税をデフレ下で導入するなど、気質の上からも狂気の沙汰の政策だと言えよう。それでもデフレだからこそ、官僚が消費税にこだわる理由がある。財政再建などと言うきれい事では無い理由が。(ブログ)


 いずれにせよ、税金というおよそ無関係に見えるものにも、気質や国民性はその影を落としている。そのことを政治家は、肝に銘じるべきであろう。

平成27年12月16日(水)

 

2015年12月16日気質のカテゴリー:外伝

新国立騒動にも見られる振り子型変容

 新国立競技場の建設では、国民の批判もさることながら、建築家などの専門家もおおきく二つに割れたように思える。それを、それぞれの派閥の権力闘争のひとつとみる解説もあるのだが、それよりももっと大きな視点で見ると興味深いことがわかる。これは、最初のデザイン案が白紙に戻されて、新たな案が提案されたことで表面化したものでもある。白紙化も、時代の流れだったのだろう。


 当初案は、砂漠のように首位委に何も無ければデザイン的にも優れた物であったかも知れない。だが、新国立は東京の中でも明治神宮という日本の自然を強調した地域のなかにある。周囲との調和を無視して良いはずなど無かろう。環境を無視した建物はいずれ飽きられ、かつ周囲から浮いてしまうことになる。それが、再度の公募において候補として残った二つのデザイン案は、いずれも同じ「杜のスタジアム」をデザインコンセプトとして、「神宮の杜」の自然と周辺環境との調和を前面に打ち出し、木材を使って「和」を強調している。

 前回の失敗から確実にコストが収まり、周囲の環境とも調和する建物という条件下では、こういう形にならざるを得ないという専門家の話は多い。私には、それだけでは無いように思える。

 日本文化の歴史を見ると、積極的に海外の文明を取り入れる時期と、逆に国風の日本古来の文化を尊重する時期とが交互に現れているようである。これは日本人の気質と関係がある。新しい物を積極的に取り入れるのは良いのだが、極端に走りいきすぎてしまう。そうすると今度はその反動が起きて、まるで振り子のように大きく揺れ戻す。日本の歴史には、そのような特徴が見られると述べてきた。これを「らせん状振り子型変容」と呼んでみた。

 

 この視線で見ると、今回の騒動は「西欧の過剰受容から日本的なものへの揺れ戻し」「西欧崇拝派と和文化尊重派の闘い」とみることが出来る。

 白紙撤回されたザハ案(キールアーチと呼ばれるデザイン)が決定したのは2012年、今回のデザインは2015年12月。3年という歳月は、社会の大きな潮流の変化を生んでいるのだろう。バブル崩壊により、これまでの経済重視からいやでも人間としての幸福に眼を向けるようになりはじめていた。そしてそれを大きく突き動かしたのが東日本大震災である。日本人の無常観はこの災害列島に寄るところが大きい。文化で言えば、ひたすらに外来崇拝をしてきたものが、もう一度自分たちの文化を見直すように変化したのである。

 時代の変化は、気をつけてみれば至る所に転がっているのだろう。


参考資料

  文化と文明 第3章日本文化 日本文化の変容と発展
  日本人の気質【外伝】五輪騒動に見る日本人の感性の劣化
  外国人の気質 新国立競技場からみる西洋と日本人の感性

平成27年12月17日

 

2015年12月17日気質のカテゴリー:外伝

羽生弦生 武士(さむらい)として成長中

「日本人の気質」の外伝と言うからには、取り上げないわけにはいかないだろう。本文の「はじめに」でも武士(さむらい)の一人として取り上げている。そう、フィギュアスケートの羽生弦生である。もう一度その部分を抜き出してみよう。

 『平成26年(2014年)ソチで行われた冬季オリンピックで唯一金メダルを獲得したのは、19歳の若きサムライ、羽生弦生であった。まるで女性のようなしなやかさと対照的な強い意志。東日本大震災の被災地出身で、競技をあきらめかけたこともあり、周囲への感謝を常に忘れず、いつも冷静な受け応えとさわやかな態度。一方で文部科学大臣に、スケートリンクの不足を指摘して、そのために自分は日本を離れてカナダに行かざるを得なくなったと、いわば直訴をした胆力。さらに報奨金を被災地に寄付するという。まさに、日本人が理想とする「武士(さむらい)」にふさわしいだろう。』

 彼が、今年(2015年)も大きく躍進した。一度負けて挫折を味わうと、そこから不死鳥のようによみがえってきた。長いあいだ一流選手の誰も越えることの出来なかった、300点という高得点の壁。それをいきなり20点以上も上回って突破、さらにそれからわずか2週間後には、さらに点数を上乗せして330点を越える高得点をたたき出した。それでもまだ自身では満足せずに、さらなる高みを目指すという。彼自身が述べているように点数とか優勝とかでは無く、自分が思う最高の演技を目指して。

 孤高武士型質の典型例として、彼の行動や考え方を勝手に解説してみたいと思う。

 日本の気質とは

 はじめに、本文を読んでいない人、読むのが面倒な人などのために、日本人の気質のごくごく基本部分だけ、もう一度おさらいしてみたい。すでにご存じのかたや興味ない人は、読み飛ばしていただいて結構。

 日本人には大きく二つの気質傾向を持つ人がいる。それを孤高武士型(孤高自律型)気質と集団農耕型(集団依存型)気質と名付けた。二つの気質といいながら、感性から行動まで個人の全体的な構造をよく見ると、多重構造なのである。

 武士とか農耕とか付いてはいるが、身分や職業としての武士や農民ででないことはいうまでもない。ただイメージが浮かびやすいように単語を拝借しただけである。それでも昔の武士階級の教育が、孤高武士型気質の特長(あるいは特徴も)を強めたことは確かであろう。

 サムライの行動にあこがれはしても、なかなか自分では実践出来ないと言うのが大方の日本人である。それでも共感できると言うことは、同じ気質の基盤を持つことを意味している。だが行動まで孤高武士型気質の人は、やはり少数派であろう。とりわけ明治維新によって武士というエリート教育から、一般庶民の大衆教育に力を入れすぎたこと、前後のさまざまなゆがんだ教育とも相まって、極端に孤高武士型気質の持ち主を減少させてしまったようである。


 おなじ気質からでていながら、どうして異なる気質に分かれてしまうのか、そんな事があり得るのかという疑問がわくだろう。簡単に言えば、感性から行動に至る途中の違いにあると言えよう。だからこそ、教育によって少しは結果が異なると言う事が可能にもなる。

 散る花をきれいだと感じる感性のレベルまでは共通である。その上に載る知的なレベルでは、情報や知識の量による「知能」重視なのか、それともさらに思考、内省、理解力などの「知性」が重視されるかで、分かれてしまう。さらに、行動や行為を規定するイシにおいても差が見られる。考えや重いと「意思」のレベルでとどまるか、強固な成し遂げようとする心を持つ「意志」にまで高められるかである。こうして、自律的すなわち自ら考え、自らの力によって行動を成す孤高武士型と、周囲を見ながら同調的な行動に走りやすい集団農耕型とに分かれてしまう。

 

武士や武士道など新しく作られた概念だという話

 「武士道などという言葉は、明治期までどこにも無かった」と、したり顔の発言もよく耳にする。それへの批判はさておき、ここではそのような単語の誕生話や言葉の解釈遊びをするつもりは無いのだ。「武士」とか「サムライ」とかというのは、孤高武士型気質の特徴をより強く持った人物を意味し、「武士道」とは、多くの日本人が人間の理想的な姿、生き様、有りようをあこがれを持ってまとめた言葉に過ぎない。

 集団農耕型気質の人までもが、「サムライ」を認めるのは、彼らのなかにそのような生き方としての武士道を、望ましい物、快なるものとして受け止めているからに他ならないだろう。本当に大きく異なる気質であれば、理解したり賛美したりなどしないものである。そこには、日本人という文化集団に共通の感性が、保持されていると見ることが出来よう。

 羽生弦生に見る孤高武士型気質(サムライ)の姿

 孤高武士型気質の大きな特徴としては、精神力、自律心、行動力があげられる。それらが強い精神力、高い自律心、迅速な行動力として、武士の特長を現すことになる。

 

 

 

 彼は、現在はカナダでトレーニングを続け、また外国人コーチについている。グローバル化の潮流に合わせているアスリートは日本でもたくさんいるが、彼もその中の一人であろう。だからといって、欧米崇拝的な卑屈なところはみじんも無い。武士というと極端なゆがんだ愛国主義と思う人が未だにいるようであるが、もはやそれは過去の話。真の孤高武士型気質の人間は、あたらしいもの、より良い物ならば、国や人種に依らず正しく評価して認める柔軟な心を持っている。いっぽうで、白人には劣るというような卑屈さもまた持ってはいない。

   彼の最後には自分だけが相手という意識は、まるで剣豪の宮本武蔵が到達した境地のようである。敵とか価値の対象が外(めだる、点数、ライバル)にあるのではなく、自己の内部に存在している。己の敵は己自身なのである。これを実践するには、冷静に自分を評価しながら、自らを制御し続ける強固な自律心と精神力とが必要である。
 持続し続けられる精神とは、常に高い視座を持つことでもある。そこには、人間を越えた神や自然などの超越性を持つ存在への畏敬の念があるのだろう。そういう物が自己満足や傲慢に成る心を抑えてくれる。

 理想と現実という言葉で言い換えるならば、孤高武士型は理想主義者であり、集団農耕型は現実主義者である。現実主義者は、自分が満足のいく地位にのぼりつめれば、そこで十分になり、後はひたすらそれを守ろうとする。既得権益への強い執着として社会の改革を阻む物にもなる。だが、孤高武士型の追い求める理想は、まさにりそうであって、決して実現することはないのである。だからこそ、たゆまぬ努力と、謙虚さとが生まれてくる。世の中を変えていく新しい力は、ここからしか生まれてこないのだろう。

 そして最後に戻ってくるのが、強烈な日本人としての意識であろう。常に日本人である事を意識して海外で闘いながら、最後には「和」の表現に入っていく。それは、単にオリエンタル的な物を表現として利用するということではなく、もっと自己の内面から出てくる要求に依るものであろう。つまり自己のアイデンティテイ、自我の存在としての有りようが、自らの日本人という文化集団の中にある事にきずき、それを表現したいと強く感じるからに他ならない。いいかえれば、自我の再確認を自ら成したいのである。


 こうして若きサムライは、今日も世界でその活躍の翼を広げている。現在はより多くの孤高武士型人間が、生まれてきているように感じる。あとは、その活躍でいまの閉塞した集団農耕型社会が打ち破られるのを待つだけである。早くこないかな~!

参考資料

本文の第10章新しい時代へ 「武士(サムライ)の誕生」「孤高武士型の自律心」等

平成27年12月20日(日)

 

2015年12月20日気質のカテゴリー:外伝

自文化の復権か 結婚指輪をしない

 失われた20年は、決して望ましい社会のありようでは無いが、その中で少しずつ日本人の心に変化がもたらされてきた。なかでも東日本大震災がその大きな引き金となったことは、これまでに何回か述べてきた。その変化とは、一部のマスコミや文化人(?)がいまも叫び続けているようだが、日本の右傾化と呼ばれる現象である。それは実際には右傾化なのでは無く、まともな方向性、言い換えるならば自文化への回帰現象である。そんな現象を、社会の流行の中でも感じることが出来る。

 外来文化に根ざす風俗や習慣は、大元の外来崇拝的な傾向が薄れると一緒に消えていくことも多い。そんな事をふと感じさせてくれるコラムがあった。それは最近結婚した芸能人カップルの高額な指輪が話題となったことにからんで、それでも近頃は夫婦で結婚指輪をしなくなったという記事だった。

 年々結婚指輪の金額は高くなっているのだが、ほぼ四六時中つけている人の割合が、2006年の調査ですでに、男性で49.1%、女性で39.2%である。さらに、指輪をつけなくなった時期は「1年以内の男性が約60%、女性が約50%。20、30代が1年以内に「つけなくなった」率は実に70%にのぼる。


 女性の方がつけなくなったというのは、意外な感もあるのだが、その真偽はおいておこう。日本で結婚指輪が普及したのは大正時代というから、西欧文明を取り入れた明治の文明開花からも結構時間がかかっているし、まだ100年程度の習慣である。「面倒だから」、「汚れるから」と言う理由でしなくなったと言うのだが、結局の所、借り物文化は流行(はやり)に終わることも多いのだろう。最大の理由は、やはり自分たちの感性と合っていないと長続きしない事では無いかと思う。


 チョコレート屋の陰謀とささやかれながらも、定着したかに見えたバレンタインデーの贈り物。チョコ以外の贈り物が乱立した事もあるのだろうが、いまやハロウィンのコスプレ騒ぎの方が、大きなイベントとなってしまったようだ。元々宗教的な要素から出た物であっても、長い時間の経過と社会の変化によって、その習慣の本質的な意義は薄れ忘れ去られていく。それでも習慣・風習として残り続けるのは、その文化の集団にとってそれが「ここちよいもの」だからであろう。感性のレベルにまで入り込んだ習慣であれば、何百年、何千年してもなかなか消えないか、あるいは形を変えて残ることになる。

 いま日本の文化が復権期を迎えている。そんな事を感じさせてくれる社会の変化を敏感に感じ取ることは、これからの社会を生きる上でも大切な事だろう。気をつけてみれば、他にもたくさんあるのかも知れない。探してみてはいかがであろうか。そこから新たなる習慣を生み出すこともあるかも知れない。

 個人的には結婚指輪に替わる「まがたま」の復権を望むのだが、石の産出量などから実現性は乏しい。ならば逆に、日本のハイテクでしか出来ない最先端素材による夫婦の証が出来たらおもしろいなと思うのだが。

平成28年1月16日(土)

参考資料

HP『現代結婚指輪事情アンケート』シチズン 2006

2016年01月16日気質のカテゴリー:外伝

田中角栄ブームは日本人が米国嫌いに傾いている証か?

 石原慎太郎の書いた「天才」について、ブログでは別の話で触れた。元総理大臣田中角栄の自伝的な小説であるが、小説なのか伝記なのかよくわからない。だが慎太郎ファンは多いようで、書籍のランキングで一位になるなど話題を提供している。私も彼のファンといえるのかも知れないが、ただし小説などの作品では無く、政治家の彼にである。すでに政界を引退しているので、言っても始まらないのだが、どうしてもう少し総理大臣のイスに近づけなかったのかと思う。それはさておき、ここでは彼の話では無い。

 いまちょっとした田中角栄ブームなのだそうだ。たしかに、書店では角栄に関するコーナーが作られて平積みされている。石原慎太郎もその波に乗って書いたのかも知れない。

 田中角栄と言えば、無学歴ながら総理大臣にまで上り詰めた、「いま太閤」と呼ばれた立志伝の人物である。日本列島改造などのさまざまな政策を実行する一方で、常に金権政治のにおいがまとわりついていたのも事実である。最後には、アメリカのロッキード社から丸紅を通して5億円の賄賂を受け取った罪で、東京地検特捜部に逮捕され、天国から地獄を味わった人物でもある。

 彼やロッキード疑獄についてはこれまでも多くの本が出版されている。多くの著作が生み出されるほど実に様々な話題に富む人物なのだが、光と影と言うか、功罪が相半ばした人物と言えるのだろう。

 新幹線や高速道路を全国に張り巡らし、東京と地方の格差をなくす、放送事業の拡充、日中国交正常化など、数多くの新しい政策を果敢に実行してきた実行力は、その後の総理大臣たちの政策や実行力のなさと比べても抜きんでているだろう。
 しかし一方では、ダムなど発電施設を作るに当たって地元に交付金をだすなど、いわば何でも金で言うことを聞かせると言う風潮を、官僚や政治家達に植え付けてしまったのも彼である。選挙では派閥の議員に多額の金を渡して、自分の権力をより強固なものとする派閥政治を推し進めもした。他に何も持たない彼が、権力の頂点に上り詰めるためには金の力が必要であったのだろう事は理解できるのだが、金がすべてという風潮を日本社会・日本人全体に植え付けたのは、明らかに彼の大罪である。彼に武士の清廉潔白さを求めようとは思わないが、せめて自分の世界だけにしておくべきで、他の多くの人を巻き込むべきではなかったろう。この金まみれのやり方が、結果として自らの人生まで狂わせることになったのは皮肉な事である。


 世の中には○○陰謀説という話が、数多く転がっている。政治の世界に絡んでは、とりわけアメリカの陰謀説が色々と流布されている。議員時代には角栄の金権政治を厳しく批判していた慎太郎が、「天才」では、彼の先見性を讃えて業績を評価している。だが結局本当に言いたいことは、ロッキード疑獄はまさにアメリカによる田中角栄追い落としの陰謀だったのだという事であろう。なぜ角栄がアメリカににらまれたのかといえば、一言で言えばアメリカより日本の国益を重視したからである。アメリカの言うなりにならず、中国と国交を回復したのはその典型例である。
 戦後の外交に関わるさまざまな機密文書が公開されたり、埋もれていた歴史的事実が掘り起こされることで、それまではネット上のマニアによるばかげた話とされていた陰謀説が、実はかなりの部分で真実である事がわかってきた。それまでタブーであった、アメリカの日本占領・統治の政策も数多く明かされてきた。その流れの中で、ロッキード疑獄もアメリカの強い力や意思によって生み出された側面が否定できないこともわかってきた。かくして愛国者たる石原慎太郎のアメリカ嫌いが遺憾なく発揮され、書かれたのがこの本なのだろう。

 数多く書かれている田中角栄やロッキード事件に関する本も、その多くでアメリカの日本に対する理不尽で不当に近い圧力を取り上げている。それがいまの多くの日本人に共感を持って受け入れられている。戦後のアメリカによる日本人洗脳の実体も当たり前の事実として受け取れるようになった若者をはじめ、失われた20年と東日本大震災を経て、多くの日本人の中に自然な民族感情が生まれたのだとも言える。困難な経験をすると、それまでの外来崇拝から自文化尊重へと回帰するのは、これまでも繰り返されてきた日本人の気質なのである。その意味では、いまの田中角栄ブーム(本当にあるとするならば)は、日本人が民族主義的な気持ちに目覚めて、アメリカ嫌いに傾き始めた証のように見える。世界中でアメリカの価値観を一方的に押しつけ、武力まで行使しながら結局は世界を混乱させただけで、その後始末すら出来ないでいるアメリカ外交の姿が、白日の下にさらけ出されてしまった事も、多くの日本人のアメリカを見る眼を変えさせたのだろう。

 表面ではきれい事を並べながら、裏では汚い策略や圧力をかけるやり方がアメリカ外交の常套手段だとわかったいま、日本人のアメリカ嫌いがすすんでいる。加えてヨーロッパの難民・移民問題の根は、欧州各国の過去の歴史にも原因があることを知り、人道主義を高らかに謳いながら結局は、自国の利益最優先に戻る姿に、欧州への幻想も冷めてきた。日本人的なあるいは仏教的な考え方で言えば、他人のために自らの命まで投げ出すのが本当の人道主義であり、都合によってかわるのは所詮自己満足や上から目線の行為だと感じてしまうのだ。さらに中国や韓国の誤った反日政策・教育が、逆に日本における嫌中・嫌韓を生み出してしまった。
 こうして偶然なのか歴史の必然なのか、世界の情勢が、日本人に自らの誇りを取り戻して民族自我に目覚めることを後押しすることになった。


 もう一つ角栄ブームを生み出している理由がある。始まったアメリカの大統領選挙で、左右ともに極端な言動をする候補者が高い支持を得ているのは、アメリカ国民が強いリーダーを求めているからであろう。おなじように、日本においても強い指導力を政治家に期待する空気が社会に満ちている。角栄はその象徴でもある。
 時代が混乱し混迷を深めるほど、人々は不安を払いのけるために強い指導者を求め、強い発言を是とするようになる。


 これほど日本社会の底流に流れる日本人の意識が変わっているのに、その真の姿に気が付かない人々もたくさんいる。その多くは、既得権者として自分の現状に満足し、それを維持したいと考えている人達である。既存のメディアや知識人・政治家などからまともな話が出てこないのは、そのためであろう。「いま」を変えたくないから、新しい流れなど見たくも無いのである。

 期せずして世界中で吹き始めた、愛国主義や民族主義的な風。ほどよい民族主義は誇りを持たせ、自我の確立にも寄与する。だが、いきすぎれば偏狭で排他的な民族主義に堕してしまう。まさに調和こそ最も大切なのである。正しい民族主義は害では無いと素直に認めながら、暴走をしないように歯止めをすることが大切なのだ。

 田中角栄ブームという小さな話の裏には、日本人の気質の話が横たわっている。

平成28年2月3日(水)

 

2016年02月03日気質のカテゴリー:外伝

日本人の道徳心喪失の奥底にあるものは?

 職業倫理はおろか人間としての最低限の道徳心すら失っている日本人、そう断ぜざるを得ない犯罪などが目にあまる。

 もはや日本では職業倫理など死語なのであろうか。救急車で搬送中の患者から財布を盗む、後見人の弁護士が依頼者の財産を横領する、警察が犯罪を隠蔽したり警察官自ら犯罪を犯す、医者が交通違反で患者の名前を使って逃れようとする、教師が教え子に性的な行為を強要する、産廃業者が産廃の食べ物を横流しする、大企業でも経営者が何代にもわたり不正会計をしたり、悪事を隠蔽する、教師が教え子を自殺に追いやる等々。あきれるとしか言いようが無い。

 刑法犯は年々減少しているなどと言って済まされる状態ではあるまい。これまで社会的に信用があるとされた職業人がすべて総崩れの状態にある。こんな社会が、まともで犯罪の少ない社会だなどと胸を張れるのだろうか?隣国で腐った食品を使用した事件を、もはやひどい国民性だと非難することなど出来ない状態にある。

 同じような事件が繰りかえされるたびに、同じような問題点が指摘されても、一向に改まらないばかりか、当事者達は変わらず同じ事を繰り返している。いじめによる自殺における学校や教育委員のごまかし、隠蔽、ひどい時は保護者への脅しもどきまで、何も改善されていない。実の親が子供を虐待して死なせた事件では、警察や自治体関係者が問題ありと知っていながら、結局何も対策を取らず死なせてしまう事の繰り返し。企業の不正が摘発されても、有効な手立ては講じられず、何度でも同じ不正が繰り返される。政治家も官僚も責任を取らず、自己保身だけを考えている。


 この国、いや日本人はどこまで腐ってしまったのだろうか?日本人の多くが人間としての最低限の道徳心まで失っていることに、強い衝撃を覚えるのにはそれなりの理由がある。倫理観とか道徳心とか呼ばれるものは、後天的な教育によって身につけるものと思われてきた。だから教育がきちんとしていない社会では犯罪が多発し、教育が行き渡れば道徳心も身につくものと考えられてきた。だが、日本社会の現状を見てもわかるように、とてもそんな単純な話ではなさそうである。悪事を平気で行う企業関係者などの多くは、高学歴の一流大学出身者達である。義務教育が普及している日本では、最低限の教育は多くの国民に与えられている。

 それは教育において道徳教育がきちんと成されていないからだと、道徳教育の充実が叫ばれている。教育の場において人間形成を課題としてこなかったのは事実であり、道徳などを戦前教育と結びつけて不等に扱ってきたのも事実であろう。さらには、家族を崩壊させたことで、家庭でのしつけが全くと言って良いほど、行われなくなってしまったのもまた事実であろう。それでもまだ、疑念は完全には晴れていかない。


 最新の科学的な知見は、時に思いもかけない事を教えてくれる。人間の持つ道徳心や倫理観もそのひとつである。これまでの西欧的な考え方に依れば、道徳(モラル)とは、理性が感情の暴走を抑えるきわめて知的な存在であるとされてきた。だがこれまで後天的あるいは社会的教育などによって道徳心などが生まれるものと思われていた事が、必ずしもそうでは無い事がわかってきたのだ。幼い子供は、躾けや教育を十分に身につけていないのだから、本来であれば道徳的な善悪を見極める力は無いはずである。ところが、教えていないにもかかわらず、子供は生まれながらにして道徳的な善悪を判断できているというのだ。

 就学前幼児は教室で食べるのは良くないと知っているのは、先生が駄目と言うからだ。もし先生が食べても良いと言えば幼児は喜んで食べ始める。このことは、モラルが教育によるとする証明になるのだろう。しかし先生が他の子供を椅子から落としても良いと言ったら子供は躊躇する。さらには、「先生、それは駄目だ」と子供達は言う。目上の者が黙認しても実行出来ない、これこそが単なる社会の約束と道徳との違いであり、子供達は生まれながらにして感じていると言う。

 「道徳心理学」という分野があるくらいで、道徳心や倫理観については、さまざまな研究や理論、立場がある。そこではさまざまな実験もあるが、悪いことをさせようとしても子供が自らそれを拒否するという実験結果であろう。

 さらに道徳的判断には情動が深く関与しているという感情主義のような研究もある。最近の脳科学の知見によれば、道徳は知性に関わる領域では無く、むしろより根源的な情動に関与しているという。情動とは感情と思ってもらえれば良く、そのさらに根源的な働きは、人がそれを快と思うか不快に思うか、から発しているとされる。道徳的な事柄は快であり、悪は不快だと云うことになる。極端にいえば、道徳的な判断は、究極的には好きか嫌いかの選択でもあるということになり、それは本文で述べている文化形成の根源である感性とつながってくる。
 進化論的に云えば、人類は道徳を持つことが生存に優位であったが故に、それを獲得して遺伝子に刻み込まれたと言うことであろうか。


 なにが言いたいのかと言えば、いまの一部の日本人の道徳心や倫理観の欠如は、教育などの後天的なものの不足ではなく、もっと深く遺伝にまで根ざすようなものの変質では無いのかという、疑問というより恐れである。エピジェネティクスの研究成果などにより、これまでは否定されていた、環境による影響が遺伝することも、かなり認識されるようになってきた。とすれば、このような道徳心を欠く社会が続くと、本来の人間に備わっている道徳的価値観そのものまでもが、変容してしまう可能性すら考えられることになる。

 戦後、道徳を軽視してきたツケは大きく思い。そのためか、道徳を教える学校の教え方においても、首をかしげることがある。その辺は「常識の毒」ででも述べることにしよう。

平成28年3月16日(水)

 

2016年03月16日気質のカテゴリー:外伝

無常観で成立する花見


 梅から始まって桜の花見で、春の訪れを肌で感じる日本人は多い。花見は日本人の文化の象徴でもある。最近は、この花見を目的として来日する外国人も増えてきている。とくにアジアの人々は、日本人と同じように花見を楽しもうとしている。また、ワシントンが有名であるが、日本から送った桜で花見を楽しむところも増えてきている。これこそ文明の侵略では無く、他国への文化の浸透であろう。

 花見のマナーの悪さは、中国人だけではなく日本人にも見られるのは哀しいことであるが、この花見ブーム、一過性で終わるのかどうか、今後を注視したいものである。と言うのも、来日した外国人が花見で感じているものが、日本人のそれと同じには思えないからである。


 相変わらず、自国優位主義の狭い視野から抜けられない中国と韓国の一部の人々は、桜や花見は自国発祥だと騒いでいる。すでに花見という自然を愛でることとおよそかけ離れたこの姿勢には、議論に加わる気にもなれない。本当にそれぞれの国の文化として花見が生まれるのであれば、なぜ、それが日本でだけ現在まで生き続けてきたのか、民族の感性の違いにもっと目を向けるべきであろうと思うのだが。

 花見と云えば桜であるが、桜の前は梅を愛でていたらしい。そのさらに前もある。日本人が愛でていた最も古い植物は、日本原産種の橘であるという。歴史的に見てわかっているのが橘までなのであり、それ以前にも日本人が愛でていた花や木は、間違いなく存在していたであろう。はるか縄文時代まで遡ったとき、野にある草花や木々をみて感動していたご先祖達は、その感動をごく当たり前の事として受け止めていたために、それを自ら増やしたり、記録に残すようなことが無かったのでは無いかと考えられる。

 時代が下がり、天皇が花見という形式を作り、江戸時代にはより日本人好みのソメイヨシノを人工的に作り出したうえで、将軍が花見を庶民の娯楽として認める政策を行った。それが現在の花見にまで続いているのであって、桜の原産地や花見の起源など、あまり本質に関わる事柄ではないだろう。


 もっと本質的な事は何かと云えば、桜に代表される自然に対する向き合い方や感じ方、感性の問題である。これは、日本人の根源的な気質とも強く結びついており、必ずしも外国人が理解出来るとは限らない。虫の音を心地よいものと感じる日本人に対して、西洋人には雑音としか聞こえないように、咲き誇る桜を美しいと思うことはあっても、花冷えや舞い散る花びら、散りゆく桜にまで感動する感性は、日本人独特の物であろう。これは言うまでも無い、日本人の精神性の根本的なところにある無常観と関係している。

 長くて2週間程度しか楽しめない桜を、なぜ大事に維持し続けるのであろうか。もっと長い期間楽しめる植物にすれば良さそうな物である。実際、季節を終わった桜ほど惨めな姿もあるまい。それでも尚日本人は、巡り来る季節を大切にし、舞い散る花びらに無常を感じながら、それ自体に美を見いだすのである。これも滅びの美学なのだとするならば、滅び行く美とは無常の美であり、移りゆく永遠性の美でも有る。

 虫の音同様に、散った花びらはゴミにしか見えない人々にとって、花見の美しさの理解や受け取る事の出来る感動は、間違いなく半減されてしまうのである。水面をぎっしりと埋め尽くした桜の花びらを、かき分けて泳ぐ白い鳥の写真がニュースで使われる。強風でせっかくの桜が散ってしまったにもかかわらず、それを嘆きながらも、その無常を楽しんでしまう。心のゆとりが無くては出来ない反応であろう。大切にしたいものである。

 はかないものに心を寄せる事が多い日本人の感性は、無常感により支えられている。花見もまた、そのひとつの例に過ぎないのである。

平成28年4月11日(月)
参考資料

「香り選書9 橘の香り」吉武 利文 フレグランスジャーナル社 2008年

 

2016年04月11日気質のカテゴリー:外伝

災害と気質 緊急時に不向きな集団農耕型

 4月14日から続く熊本を中心とした地震。過去に例が無く、予測も聞かず、気象庁でも半ばお手上げの状態にある。縄文時代から現在までの歴史でも1万5千年以上の長さがある。その中で災害の確かな記録など微々たる物であり、それを過去の例などと考える事事態が、科学万能主義に毒された傲慢さ以外の何者でもあるまい。謙虚に、謙虚に自然と向き合う姿勢が改めて問われている。

 それはさておき、日本人の気質を形作ったのが、この日本列島の自然環境である事は言うまでも無い。近代科学に毒される前の日本人は、災害はいつでも予告も無くいきなり来ることをよく知っていた。そこから日本人の精神基盤の奥底に有る「無常感(観)」も生まれてきたのだろう。

 緊急事態においても冷静沈着で騒がない、攻撃的にならない、他人を思いやるさまざまな気質が日本人の気質の長所である。しかしここでは敢えて、問題となる気質を指摘したい。災害多発時代にすでに入っている日本においては、これからも起きるであろうさまざまな災害に対して、気質の問題点を理解した上で対応策を講じておく必要がある。

 本文で日本人の気質型として、孤高武士型と集団農耕型がある事は説明している。それぞれの特徴(利点、欠点)も。そのことと、いま熊本を中心として異常な地震多発の状況下で、問題となっている被災者支援の在り方との関係を見ておきたい。

 土砂崩れや、家屋の倒壊により閉じ込められた人々の救出については、過去の多くの発生例により警察や消防をはじめとして。さまざまな形での専門部隊が結成され、専門家も育成されて、それなりの成果も見えてきている。しかし、被災者が逃げ込んだ避難場所の運営や、被災者への支援は、今回特に問題とされている。日本が、ロジステックとよばれる物流や兵站補給が弱点であるとは、すでに神話化するほどに一般的な認識となっている。そのために戦前の日本軍の敗北も、兵站補給の不備から指摘する論説もおおい。あまりに多すぎて、逆に、それが真実なのかという論説も出てくるほどである。

 今回の群発地震において、自治体からの要請を待たずに支援物資を送り出すという決定を下すほどに、安倍総理大臣は危機感を持って、対応しようとしている。にもかかわらず、ネットやメディアでは、支援物資が不足している、届いていないという報道が溢れている。なぜこのような事が起きるのであろうか?

 簡単にいえば、大きく三つの原因がある。
 ・どこに避難している人がいて、何を求めているのかの情報収集が欠如して、現状把握が出来ていない。
 ・支援物資の集荷場所には膨大な物資がありながら、そこから末端の被災者に届かない。
  仕分けをする人、荷出しをする人の圧倒的な不足。
 ・避難場所への配送の確保が困難。
  配送車、運転手、道路の混雑、道路の障害等の情報不足などが、かさなっている。

 市町村をまたぐ自治体の壁など、他にも具体的な問題点は多々あるが、その多くはこれまでも大きな災害のたびに指摘されてきた。では、なぜそれが改善されないのであろうか?そこに、日本人の気質を見ることが出来る。


 戦前の日本軍や、戦後の災害対応における政治家や行政の不手際を見ると、日本人は緊急時に対応する能力がないかに見える。だが、それは誤りである。戦国武将を見ればわかるように、名だたる武将達はみな情報収集と状況の変化に対する柔軟な対応策を持っていた。ま、そうでなければ滅びるだけなのだが。豊臣秀吉が、信長の変事を知り、直ちに大軍を京都に戻した「中国大返し」は有名であるが、万という軍勢の装備とともに食料を補給しながら強行軍をなしえたのは、日本人が危機に弱いわけで無いことをよく示している。

 役人、公務員などに多い、というか日本人に多い集団農耕型気質は、災害などの危機にじっと耐える力は強いが、現状を打破する柔軟性に乏しい。「指定避難場所では無いので支援物資は届きません」などは、まさにお役所仕事の典型であり、決められたルーチンワークは、そつなく「改善」しながらやっていくのだが、決められていない事態への対応は、孤高武士型気質の人間で無いと向いていないので有る。

 霞ヶ関の役人がいくら机上ですばらしい支援案を作成しても、それを実行させる事が出来なければ、まさに絵に描いた餅であり、戦前の参謀本部の無能さに通じてしまうだろう。すべての自治体に孤高武士型の人間が配置されていることが望ましいのだが、それは無理があるだろう。ならば、それを補う仕組み、システムをあらかじめ用意しておく必要がある。


 烈風飛檄(日本改革私案)では、防災に関する提案を数多く行って来た。とくに、防災省と情報省の創設は、喫緊の課題と述べてきたが、今度こそ実現してもらいたい物である。具体的な提案は、別途述べたいが、ここでもひとつだけ提案しておこう。

 被災地の自治体では多くの公務員などが、批判されながらも賢明な努力を続けている。その事には頭が下がる思いである。彼ら彼女らは、死にものぐるいで頑張ってくれているのだが、大規模災害対応の専門家ではあるまい。気質だけでは無く、専門の訓練が必ずしも十分でない役所の人達に多くを求めるのは酷な話でもある。だからこそ、常時迅速に動くことの出来る専門家集団を抱えた防災省が必要なのである。

 地震だけではなく、あらゆる災害に対して的確な対応が出来るプロ集団。200人ほどいつでも動けるようにしておく。今回で云えば、災害発生と同時に情報入力端末を携えた専門家が災害自治体に駆けつけ、的確な情報収集と本部との連絡を取り持つ。政府が、生活支援チームなるものをすべての省庁から人を集めてつくったが、素人をただ集めて現場に送っても、足手まといになりかねない。それよりも、情報を正しく迅速に集めて、防災省から支持する形で各自治体に何をするべきかを伝える方が、大規模災害時にはとくに有効である。市町村の壁や区分など、災害に笑われるだけであろう。

 支援物資の大規模集荷場所から、どこに、何を、どのルートで配送するか、を的確に指示できれば、上述の人手不足も緩和されよう。なにより、被災者の不安や不満も収まるであろう。炊き出しを受けて喜んでいる図を見せられるだけで、水すら無い被災者の怒りと絶望は、社会不安の元凶ともなる。被災者格差は決してあってはならないのだから。


 このように気質を理解したうえで、あらかじめその気質に合った仕組みを整備しておくことが、現在社会の日本には強く求められている。

平成28年4月18日(月)

 

2016年04月18日気質のカテゴリー:外伝

自画像の誤認識と自文化愛

 本文で、日本人が自分たちが外からどう見られていると思うか、自分たちの姿をどう思うかという自画像について述べた。(第7章 日本社会の特徴や問題の裏にある気質-「社会的自画像の錯誤(誤認識)」参照) 日本人の描くこの自画像が、海外の眼との間でかなり違いがあることも指摘した。
 具体的にさまざまな世界ランキングにおける日本の順位を見ることで、その違いを具体的に感じることが出来る。そんな記事があった。

 日本は世界で何番目? 番付10選で見たこの国の“現実”

 さらには、こんなものまで。  英国人アナリストの辛口提言──
  「なぜ日本人は『日本が最高』だと勘違いしてしまうのか
   『日本の「おもてなし」は世界一だ、「ものづくり」は高く評価されている――これらはすべて妄想だ。バブル絶頂期に不良債権問題をいち早く予見した伝説のアナリストが、日本人の「自画自賛」体質を一刀両断する。』


 欧米の価値観や基準を尺度としたランキングや、日本に関するデータの不備など世界ランキングものは、ある種のお楽しみととらえておく方がよいのかもしれない。なにせ国連の幸福度報告書(2015)では、北欧が上位を占め日本もブータンも10位以内にはいない。幸福をはかるのは物質では無いだろうとのブータンの提案を受けて作られながら、結果は一人当たりGDPとか、結局はすべてが欧米の価値観に基づいてつくられている。

 2015年の幸福度ランキング上位10カ国は以下の通り。
   1位 スイス(昨年は3位)
   2位 アイスランド(同9位)
   3位 デンマーク(同1位)
   4位 ノルウェー
   5位 カナダ
   6位 フィンランド
   7位 オランダ
   8位 スウェーデン
   9位 ニュージーランド
  10位 オーストラリア


 辛口アナリストの言うことは参考にはなるが、日本人について正しく理解出来ているとはとうていおもえない。それを高く評価する日本人もどうかと思うのだが、自虐的、西欧崇拝の集団農耕型気質が良く現れているとも言えよう。

 これらさまざまな日本観も、逆に言えば、日本が外からどう見られているのか(誤解や偏見も含めて)を知る為には重要な手がかりであり、グローバル化においては必要なことでもある。


 そのうえで、もう一度「日本人の気質」に即して述べるならば、こういうことが指摘できよう。

・日本人の一部には、自己認識のゆがんだ自画像がある。
・誤った内容に対する批判・反論が日本側からでないために、なおさらゆがんだ日本人感が一人歩きする。 褒められると喜んで吹聴するが、けなされると無視してしまう、感情的な反応だけでは世界で生きていけない。
・日本礼賛を自画自賛ととらえるのは欧米的な発想で、日本人の発想を理解出来ていない証である。これは欧米人が自分たちは他の国や民族よりも優れて進んでいると思い込んでいるのとおなじく、日本人の自文化愛に過ぎないのだと日本人自らも知るべき。


 グローバル化という大風呂敷を広げなくても、同じ価値観やあるいは逆に偏見を持つのが、人間一般なんだと大きく構えよう。

平成28年(2016)5月16日

 

 

2016年05月16日気質のカテゴリー:外伝

集団農耕型気質の職業裁判官

 裁判員に選ばれた一般の国民が、勇気を振り絞って合法的とはいえ人の命を奪う「死刑」判決を下しているのも関わらず、職業裁判官による上級審での減刑判決が続いている。しかもこの減刑判決、結局は殺したのが一人ならば、いくら残酷であろうとも死刑にはしないという過去の判例踏襲に従っているだけなのだ。死刑を裁判官が無期懲役に変更する判決が相次いでいる。すでに5件(1件は被告が上告取り下げ)も。


 職業裁判官が一般の国民の感覚からあまりにもズレているという事で始まった裁判員制度。初めはおとなしくその判断に従っていたのだが、ほとぼりが冷めたとみるや、自分たちのやりたいように判決を戻している。まさに、役人がよくやる手である。

 ここにも集団農耕型の典型的な気質が見て取れる。
 ・基本は、素人が専門家に口出しするなという、自己尊大な気質。
 ・前例踏襲という横並び、責任回避の気質。
 ・人権派に配慮したという自己満足。
 ・個別の事案毎に真摯に向き合おうとせず、外形だけで事を済ませようとする事なかれ。
 ・結局は、狭い自分たちだけのくくりへの病的な撞着なのである。

 これなら、もはや過去の判例を学ばせたAIによる判決で十分であろう。将来なくなる職業に裁判官を加えておくべきだ。

 刑法上も検討すべき課題がたくさんアルにもかかわらず、誰もそれをきちんと発言しない。何か言うと反リベラル、反人権のレッテルを貼るメディアが、それを助長している。


 なぜ他国のように、殺人に他の罪を加えた多重刑罰としないのか?常にひとつしか起訴しない。
 なぜ、無期懲役と言いながら簡単に出所を許してしまうのか。なぜ、真の終身刑を作らないのか。
 終身刑と死刑とでは、どちらがより非人道的だというのだろうか?何も議論されていない。



 今回北朝鮮による暗殺で騒ぎとなったマレーシア。殺人罪で有罪となれば、死刑しか刑が無いという。これもまた行きすぎの気もしないではないが、こういう他国の感覚を一概に後進的、反人権と決めつけるのは、思い上がった傲慢な心がなせる業だろう。それが集団農耕型気質でもある。

平成29年3月10日(金)

 

2017年03月10日気質のカテゴリー:外伝

東芝半導体売却に見える日本の経営者の自己中

 半導体事業を失敗させた東芝の当時の経営者達。自己中かつ無能な経営者と言われても仕方が無いであろう。集団農耕型気質の典型と云える。外来崇拝、同じ日本の会社に対する異常な敵愾心などが、この気質の特徴であることは日本人の気質で詳しく述べている。それを繰り返しはしない。だが、半導体部門の売却における騒動は、さらに他にも多くの、同じ集団農耕型気質の日本人のひどさが目に付いてしまう。

 そもそもなぜ唯一の儲け頭を売却するのであろうか。はっきりいえば、それは今の東芝経営陣と支援金融機関の経営者達の自己中心的な決定であることは、火を見るより明らかであろう。それをなぜメディアも専門家もきちんと指摘できないのだろうか。一部には小さく取り上げられてはいるが。
 たとえ、今の東芝が上場廃止で一度つぶれたとしても、JAL同様の再生の道は十分にあるはず。それをしないのは、すべて現状維持を図りたい経営者と関連勢力のいわば「東芝村の仕業」である。集団農耕型の人間達は、自分たちのくくりこそ最優先で、国や社会のことはおろか、国益を損なうことですら平気でやるのである。それを止められない政治家や官僚も、所詮無能としか言いようがあるまい。

 海外の企業がよってたかって買収を希望しているというのに、日本の企業からは希望が出てこない。これは、この業界の日本企業の経営者達もまた、自ら経営者としての無能さをさらけ出したことになる。なぜなら日本の経営者だけが、ほしがらないなど他に何の理由があろうか。東芝だけではない、これまでも海外企業に買収された大手企業や技術を持つ日本企業。そのとき、およそ日本企業の経営者達は、知らん顔。これこそが、自分のくくりの利益以外考えない、現状維持しか考えない、真の経営能力も先を見る能力もない、そんな集団農耕気質の人間がわずかな権力を握ったとき、社会や国全体の利益を損なう典型的な事例なのである。

 集団農耕型気質の多くの人間が、今の日本社会の実権を握り続けていることの恐ろしさを、もういいかげんで、気づくべき時なのだが。

平成29年6月14日(水)

2017年06月14日気質のカテゴリー:外伝

日本人は自分が日本人だと思うのが日本人

このコラムだけ読むと外国人差別とも取れる表現になっています。ぜひ、日本人の気質本編の第6章感性の文化と両価性文化「日本文化は感性の文化」に「日本人とは自分が日本人だと思う人の集まり」がありますので、そちらをお読みください。詳しくはこちらへ。



 正月の虎ノ門ニュースで、金がアメリカ人は「自分がアメリカ人だと思うのがアメリカ人なのだ」といって、アメリカ人はすばらしいと褒めた。ケントギルバートとフィーフィーも同調。その時、有本香が、日本人も同じだと思うと言ったところ、猛反撃を喰らった。ようするに日本人はもっと偏狭でそんな寛容では無いというのだ。

 私はここでやはり本来の遺伝子が出たなと思わずにはいられなかった。有本の考え方は、決して彼らの言うような特殊な日本人の考え方(有本個人の考え)ではなく、ごく普通の日本人の感性なのである。残念ながら、やはり彼らにはそのようなものが、感覚として身についてはいないのだろう。

 アメリカ人が言う誰でも自分がアメリカ人だと言う人間を受け入れるのは、まさに基になる文化や歴史がない人間達が、唯一の共通項としてのくくりである「アメリカ合衆国の国民」という1点で結ばれているに過ぎない事を意味している。寛容なのではなく、このくくりなしでは、まとまることはできない、代替するくくりがないのである。何かというとUSAと連呼する彼ら、彼女等からUSAのくくりを取っ払ったとき、そこには丸裸の個人がいるだけなのだ。だからこそ、出身母国や宗教さらには新興宗教ともいえるリベラルなどの原理主義で集まるのだ。それがかろうじて彼らや彼女等をつなぎ止めるくくりなのである。
 いいかたをかえれば、彼らのアメリカ人というくくりは、知的概念としてのくくりであり、そこには共通する感性すら持ち得ていない事になるのだろう。だからこそなおさら、アメリカンドリームとか、一見、同一の感性を共有しているかのような物差しに集いたがるのである。


 それに対して有本が言う日本人だと思うのが日本人だというのは、知的概念としてのくくりでは無く、まさに遺伝子が言わせる言葉、感性のくくりについての話なのである。彼女はそこまでの理解をもっていなかったので、話は押し切られてしまった。結局、いくら日本語がうまくても、日本人の遺伝子に組み込まれた感性を、彼ら、彼女等は持たないのではとの疑いがでてしまうのだ。説明しなければわからない、同じ感性を持たないと言うことになる。いちいち話さなければわからないような人は、自分たちのくくりの人間ではないと考え、時に排除する、それが日本人なのである。むろん排除することを是認しているわけではない。日本人という文化集団は、その感性を共有するがゆえに、強固な単一民族と間違われるような民族なのである。言わずもがなとは、共通の感性があって始めて成立する。多くの外国人にはこれがない。

 あれほど、日本の相撲を尊敬していたはずの白鵬が、最後には日本人とは全く異なる遺伝子の感性が露呈してしまった。相撲には、横綱の品性という言葉に込められた日本人共通の美意識や感性がある。力の強いものはなんでもしてよい、許される権利があると結局は考えてしまった白鵬は、日本人の感性を身につけることができなかったのである。浮気にしても、モンゴル人大学生が相手だというあたりにも、同じ感性を持っているもの同士の結びつきを感じてしまう。

 日本に住む外国人でも、気がついたら日本人の感性と同じ感覚を持っていたという人は存在する。そういう人たちは、同じ日本人のくくりに属していながら、ことさらそれを強調したりしない。批判も弁護もしないのだ。あるがままに受け入れている、それが普通の日本人なのだから。

平成30年1月3日(水)  (敬称略無礼)


P.S. 正直、このネット番組のこの回にはさして興味がなく、全部をみていない。たまたまこの場面だけ再生してみたにすぎない。偏見かも知れないのだが、どうも感性のずれを感じて、この種のメンバーは疲れるのだ。

 

2018年01月03日気質のカテゴリー:外伝

西部邁の絶望とは

 TokyoMXテレビで放送されていた西部邁ゼミナールを時々見ては、その博学にはいつも感心させられていた。熱心な視聴者では無かった上、テレビをあまり見なくなったので、今年になってからは放送されたものを見ていなかった。そこに飛び込んできた訃報、それも自殺のようだという。

 彼の意思でもあったのだろう、番組はすべてネットで無料公開されている。(西部邁ゼミナール http://s.mxtv.jp/nishibe/)その中から、最後に放映されたビデオを見て少し驚いた。あの穏やかな顔つきが非常に険しいそれに変わり、イライラしているような感じさえ見受けられた。さらに発言からは、「絶望」の単語が何度も飛び出し、本当に深い絶望の淵にいるかのごとくであった。

 妻を亡くし、健康上の問題もあって自殺した保守派の論客と言えば、戦後日本の「閉ざされた言論空間」を指摘した江藤淳がいる。彼の場合は、日本への深い絶望よりも身体が動かない事への絶望がより大きかったのであろうが、それにしてもよく似ている。さらに、何よりも日本を愛し日本人を愛しながら、その日本に絶望して死を選んだといえば、もう半世紀近くも前の三島由紀夫が思い出される。

 三島は、天皇を中心とした国体と言う日本文化を核にすえ、西部は「伝統」という価値を核に据え、日本人や日本をとらえていた。そして、それらがもはや壊れて再生もかなわないほどに落ちぶれてしまった事への深い悲しみと絶望が、彼らの心をとらえてしまったのであろうか。


 西部はなぜ絶望せざるを得なかったのか、そしてその中身とは何であったのか?絶望という言葉と共に発していたのが、次の言葉だった。

 言論は虚(むな)しい
 自分の人生はすべて無駄であった、生きてきたのは全く無駄であった
 もはや絶望しかない

 彼は東大在学中には、全学連の中央執行委員まで務めた左翼(共産主義者同盟:ブント)の活動家であったが、仲間内で殺し合う左翼過激派の内ゲバなどに失望したのか、途中からいわゆる保守派に転向した。そして暴力では無く言論活動によって、世の中を変えていこうとしたのであろう。数多くの著作と講演などの言論活動を精力的に行ってきた。しかしながら、その言論活動によって日本社会が変わったという実感を、彼はついに持つことが出来なかったのだろう。それが、先の言論のむなしさ、つまりは無力さを嘆く言葉につながっている。力尽きた感のある自分にとって残された道は、もはや思うように動かない自らの身体を始末することしかできないと考えたとしても不思議ではない。本人は否定するであろうが、これは三島がたどったのと同じ道筋にみえる。同じというのは、私が「三島のジレンマ」と呼んだ内容をさす。

 三島由紀夫は、左翼学生運動が盛んな頃、日本文化と日本人を守らねばならないとして盾の会を結成し、ついには市ヶ谷の自衛隊にのりこんで、日本の真の独立を果たせと檄を飛ばし決起を促した。しかし、果たせずそのまま総監室で切腹して壮絶な最期を遂げた。バルコニーから自衛隊員に呼びかける三島の命をかけた言葉に、集まった隊員達からは聞くに堪えない罵詈雑言が浴びせかけられた。その光景をテレビ画面で見ながら、同時に頭上を飛び交うヘリの音を生で(市ヶ谷の近くに住んでいたため)聞きながら、彼のやるせない心情を思い涙がこぼれそうになったのを記憶している。

 事実上のアメリカの属国から抜け出し、日本と日本人を守れと叫び続けた三島にとって、最後の拠り所とも言える自衛隊員からの罵声には、もはや日本人はいないのかという絶望感を強く感じたことであろう。誇りを持ち、愛し、守ろうとしたその日本人がもはやどこにもいない。一体誰を守ろうというのか、これこそが三島が感じたであろうジレンマである。


 それから半世紀近くが経っても、現状は何も変わらないかに見える。そして西部もまた同じ三島のジレンマに遭遇しているとしたなら、何という因縁であろうか、あるテレビ番組だったと思うが、西部はこんな発言をしていた。
 自衛隊の幹部を育てる防衛大学校で、アメリカの属国から抜け出せという趣旨の講演をしたところ、終わってから二人の隊員にこう尋ねられた。「長いものに巻かれろでなぜ悪いのですか」「寄らば大樹の陰でまずいんですか」と。つまり現状のアメリカ追随の全面容認発言である。西部は、これが自衛隊の幹部になるのですよと、あきらめ顔をして語った。そう、本当に絶望したのかも知れない。ビデオのアーカイブのなかに、日本人とは何かと言う20回にも及ぶ特別シリーズがあるが、その最終回で「日本人は消失している」「日本人の魂は終わっている」とすら語っている。


 したり顔をするなと怒られるかも知れないが、私には彼らの絶望感がよくわかる。なぜなら、私自身全く同じジレンマに陥って悩んでいたからである。だが彼らとは、ほんの少し異なる視点を持っていた私は、日本人の気質を考える事でこの絶望感から逃れることが出来たのである。日本人は必ず日本人的なものを取り戻すと。それが孤高武士型という本質的な気質の上に、集団農耕型という気質が覆い被さった日本人の有り様なのだから。

 本文で詳しく触れているが、バブル崩壊後の日本人が、すでに本質的な姿に戻り始めた日本人をよく体現している。さらにくわえて、科学も知識もすべてを一瞬で吹き飛ばす自然の偉大なる力の行使、東日本大震災などによって、本来の気質がさらにはっきりと目覚めてきた。
 最近よく言われる若者の保守化とは、いうまでもない、日本人の孤高武士型気質への回帰にほかならない。したがって、絶望する必要は無い。だが、急がねばならないのは事実だろう。今この国を取り巻く危機的な状況に対応しないまま放置すれば、気質が変わるまえに、絶滅してしまうかも知れないのだから。

平成30年2月3日(土)

P.S. 短くしかし西部の心情がよく表されたコラムが残っている。特別寄稿「言葉は過去からやってくる」。 胸に迫る最後の一文は、三島の最後の檄に相当するのであろうか!

2018年02月03日気質のカテゴリー:外伝

操られ易い気質

 集団農耕型気質のもつ欠点の特徴的なものを取り上げてきました。集団への無批判な同調やくくりへの病的な撞着など、国や社会の存続を危うくしかねないものがありますが、この項目を直接取り上げることはしませんでした。というのも、さまざまな問題の裏にはこの気質が見え隠れするからです。それは、マインドコントールにかかりやすいというものです。

 洗脳とかマインドコントロールという言葉は、オーム事件だけで無く芸能人の新興宗教参加などで、すでに市民権を得ているようです。洗脳というのは、中国共産党がアメリカ兵の捕虜を共産党シンパに仕立て上げたところから有名になったそうですが、肉体や精神的な苦痛を与えて強制的に思想・心情を特定のものに仕立て上げることです。それに対して、肉体的な苦痛を与えず、あたかも自らの意志で行動したり考えついたかのように、心を縛り誘導するのがマインドコントロールです。本人に自覚が無いだけ、タチが悪く深刻だとも言えます。

 本来的にはマインドコントロールは悪い意味で使われるものですが、拡大解釈することで、自分の心を制御する(セルフコントロール)などの良い方向に使用されるものも含めて話されることがあります。そういう意味では、あらゆるコマーシャルも、教育ですらも、すべてある方向に誘導するという意味で、マインドコントロールになるわけです。ですが、ここでは当然悪い意味での誘導をマインドコントロールと呼ぶことにします。


 テレビコマーシャルもマインドコントロールのようなものだと言いましたが、このように人をある方向に誘導操作するものは、日常の社会に溢れています。特定の組織への服従のためのマインドコントロールではなく、もう少し幅広い世論操作なども現代社会では当たり前のように行われています。いわば思考操作(発達心理などでの良い意味の用語とは別物です)とでも言うべきものが、メディアによって盛んに行われるようになりました。ネットから広まった「メディアの印象操作」という言葉は、テレビでも使われるようになりました。
 この思考操作が、もはや容認出来ないレベルにまで達してしまったと言う認識をもったので、敢えてこの項目を追加しました。


 限度を超えた社会のゆがみに荷担する集団農耕型

 集団農耕型の2種類のタイプとして、被暗示性が高くて簡単に思考を操作されてしまうタイプと、先頭に立って歪んだ思考や自分の信じる心情を積極的に広めようとするタイプがあります。今回の安倍政権打倒に狂騒するメディアの暴走には、後者の人々が数多くかかわってるようです。この人達はプロデューサなどとして表には出てきません。一方でワイドショーの司会やコメンテータなどは、特定の思想や信条に凝り固まった人達と必ずしも同じでは無いにもかかわらず、付和雷同する人ばかりです。

 この問題は、非常に複雑で、まさに日本人のそれも集団農耕型気質のさまざまな特徴の組み合わせによって引き起こされているので、この問題を扱うことはすなわち「日本人の気質」を扱う事と同義に成ってしまうのです。

 この事態は、非常に深刻な問題を内包しています。なぜなら、これと同じ事がまさに戦前に起きていたのですから。ただ今回とは異なる方向性、つまり極端な愛国主義、国粋主義的な方向性なだけです。軍部の弱腰をなじり、より強硬な政策推進をとるように報道を続けたのは、他成らぬ当時の新聞というメディアだったのです。中でもその中心こそが朝日新聞だったわけです。しかも愛国的な扇動記事を載せるほど、新聞は売れて儲かったのです。当然、他の新聞各紙も追随し、メディアは強攻策一辺倒になったわけです。これはいまのテレビ番組の多く、とりわけワイドショーが、視聴率を稼ぐためなら中身の真実性などどうでも良く、反論してこない特定の相手をひたすら標的にして、よってたかって集団リンチをするのと同じです。その上それを見ている国民のかなりが、その異常さに拒否反応を示すどころか、一体となってその扇情放送に踊らされてしまうという、恐ろしい状況が出現しているのです。戦前は結果として、一部軍部の独走をさらに許して悲惨な結末を迎えたのでした。現在も同じです。

 現在の新聞やテレビを中心としたメディアのなかで、安倍政権の打倒を表明する勢力の中心は、戦後の左翼勢力の残党であり、そこに様々な反日勢力が荷担しているのです。したがって、その行き着く先は、民主主義の崩壊、すなわち共産党独裁政治か、あるいはそれを阻止するためにアメリカなどの勢力が実力行使をする事で内戦状態が生まれるか、中国や北朝鮮・韓国、ロシアによる武力行使による領土の侵略・分割などにまで発展しかねないのです。一体どこまで進むか、その程度はわかりませんが、平和や民主主義のためという嘘に踊らされて、あらゆる事が自壊した社会になる事は間違いが無いでしょう。
 これまでは、まだ最悪の状況にまでは陥っていないという認識を持っていましたが、昨今のこの国の人々の有り様を見ていると、とてもそのような悠長な事を言っていられるときでは無いのでは無いかと、不安を覚えてしまいました。それは単に政権打倒四諦だけの野党勢力や、総理への権力志向や男の嫉妬などの与党政治家、既得権擁護の勢力、国益より我が身大事の官僚や役人達、利己主義に固まった財界や労働界、さらに学界から芸能界に到るまで、この反日勢力に同調する事の恐ろしさを理解せずに、荷担する人々があまりにも多いからです。


 災害は起きてから公開することがほとんどです。それでも、生き残っている限りまた立ちあがれます。しかし人為的に破壊された国家や民族は、もとには戻らないのです。集団農耕型気質が、自らを滅ぼす気質である事の恐ろしさを、すべての日本人はもっと自覚すべきなのです。

平成30年5月9日(水)

2018年05月09日気質のカテゴリー:外伝

「日本国紀」騒動は気質変化の象徴

 作家百田尚樹が書いた「日本国紀」という書籍。10月15日にアマゾンでの予約受付を開始したところ、10日経っても、総合ランキング1位を保っている。楽天でも1位、全国の書店からも予約が殺到しているという。初版10万部に加えて3度の追加で、25万部を初版出版するという。定価が1800円という高額、発売はまだ先の11月12日と、異例ずくめ。ネットでは一種の社会現象として捉えられている。だが、いわゆる新聞やテレビの古いメディアは、産経新聞以外全く触れない。作者が、保守派の作家として有名で有り、ネットの虎ノ門ニュースでは、既存メディアを激しく攻撃している一人だからであろう。

 当然のごとく、旧メディアでは宣伝していなければ取り上げもしないのだから、この驚異的な予約数は、全てネットと口コミによる物である。SNSの力で時の政権が打倒されるように、既存のマスメディアの力を借りることなく、ベストセラーそれも日本通史というお堅い分野で生まれる時代になったのである。これからの作家は、ますますネット依存を強めることになるだろう。

 それにしてもなぜここまでの社会現象のような事が起きたのか、百田尚樹はテレビの長寿番組の放送作家で有るから、いわば人々をあおるのは上手である。実際ネットで、かなり前からこの作品の紹介などを繰り返してきた。それでも本人や周辺の人が言うように、何かわから無い事が起きているという感じになるのもうなずけよう。この理由として、ネットを見ている多くの百田びいきの人達は、間違いなく既存メディアの左よりにうんざりしている人々で、自虐史観とは真逆の日本人を誇れる日本史を待っていたのであろう。

 既存の社会やメディアへの反発と言うことが言えても、それがなぜ生まれているのかについて迄、言及している人はいないようである。しかし、日本人の気質の本編を読んだ方なら、理解出来ているだろう。

 日本の歴史を日本人の気質で見るとき、集団農耕型が優勢な時と孤高武士型が優勢な時とが、交互にうまれている事がわかる。そして日本人はどんなに洗脳されたとしても、いつか必ず本来の孤高武士型に覚醒することも述べた。その大きなきっかけのひとつが、自然災害なのだとも。

 

自著:「日本人の気質と歪んだ社会 ~人格障害症候群~」より

 バブルの崩壊は、自然災害同様に日本人の心を深いところで揺さぶった。そこから自己中の集団農耕型に傾き過ぎた人々の心が、次第に動き始めていた。そして、阪神淡路大震災や東日本大震災によって、いわば完全に目覚めさせられたのである。最近、年代による左翼と保守の違いがいわれるようになったのも、実はこの事が大きく影響している。
 若い世代の保守化と言われる現象が、経済の好転やネットの進展によりオールドメディアから距離を置くようになったことなどを理由に上げている。その通りではあるが、なぜそれが起きたのかについてまで切り込んだ言説はあまり見当たらない。日本人の気質の時代変化という視点は、それをよく理解させてくれるように思う。

 地下水脈のように深いところで流れていた孤高武士型気質の覚醒が、いよいよ表面に現れてきた。日本国紀騒動は、まさにその象徴的な出来事なのではないだろうか。

 この現象は日本の国に取ってすばらしいことではあるが、真の変革時代にはまだまだはいっていない。それゆえに、危惧することがある。ひとつは、未だ社会の実権を握る世代や人々の多くが、この変化を全く理解出来ていないと言うこと。とりわけ、政界や官僚の鈍さは、まさにくくりへの病的撞着状態にある。理解出来ないが故に、さらにくくりへの撞着が、邪悪自我の病的撞着状態に陥り、国を滅ぼすことを平気で実行するようになるのだろう。すでにそれが始まっているように見える。実質移民の受け入れなどの政策は、まさにその象徴であろう。ここままなら自滅するか、突如起きる世界的な問題(大恐慌、軍事衝突、大災害等)に対応不能となって自滅するかしかないかもしれない。

 小さなレベルで言えば、左傾化したままの社会に反発が強まり、戦前の若手将校の叛乱同様、極端な民族主義が生まれる可能性も高い。そこでは、混乱しか見当たらなくなる。

 いま心ある孤高武士型気質に目覚めた人々は、本を買うだけではなく、具体的な行動をおこす時なのだと思う。大規模で民主的なデモが、いま求められているのかも知れない。

平成30年10月25日(木)

 

2018年10月25日気質のカテゴリー:外伝

孤高武士型気質の弱点

 大相撲で貴景勝が初優勝した。横綱三人が不在とは言え、22歳の若手が大関達を退けて、優勝を勝ち取ったのはすばらしいことである。それも、小学校の時から指導をしてくれた貴乃花親方が相撲界を去り、部屋を移らなければならない激動の直後であったのだから、その精神の強さは褒められるべきだろう。

 貴景勝もさることながら、ここではその元貴乃花親方が、愛弟子に送った言葉を取り上げてみたい。スポーツ紙に寄稿したした内容がネットに載っていたものなのだが。
 これを読むと、孤高武士型気質の人物の特徴、そしてそれはまた弱点や短所ともなるものが見えてくる。

 『小さくても大きな心色は必ず育つ。誰かに理解してもらうことは、いらない。誰かにすがることは、いらない。』『願いを叶(かな)えるのは理解されるようなものではなく、切なく貴く儚(はかな)いもの。信じこんでやれるだけやれば死んだ気分になれる。』

 まさに「孤高」を言葉に表現すればこうなるという感じがする。集団農耕型気質と決定的に違うのは、自らの内面に確たる信念のような核をもつこと、己の信じる道を進むにあたり周囲の人間の評価などは一切気にしないという点である。
 これは、すばらしい特長なのだが、同時に欠点ともなり得る。周囲の人間を気にしないあまり、周囲への心遣いが少し常識から外れてしまうことがある。また、理解されるための説明を省くので、誤解されやすい。誤解されても、言い訳を嫌いそのまま受け止めてしまう、気にしないので、周囲の人達との間に、時には家族ですら、落差が生まれ拡大してしまうことがある。これは時に、本来の大局的な視野を狭めることにつながる恐れもある。孤高武士型気質の人間が、完璧な人間である事などあり得ないことを、もう一度念押ししておきたい。


 「日本人の気質」本文では、孤高武士型といえど長所が行きすぎれば短所になる事は述べているが、その具体例はほとんど触れないで済ませた。こういう形で、具体例を示すのも良いのかも知れないと考えたわけである。

平成30年11月26日(月)

 

2018年11月26日気質のカテゴリー:外伝

日本人だけが日本人気質に無関心(偽レビュー)

気質(国民性・民族意識)の重要性については、本文でかなり詳しく述べているつもりですが、ここではある事例をご紹介します。正直あまり愉快な話ではありません。

今やネットでの買い物が当たり前になった時代ですが、その時、割合参考にしているのが、購入者によるコメントいわゆるレビューです。

人の良いというか、脳天気というか、疑うことが苦手な日本人は、このレビューに書かれた事を信じることが多いのです。その日本人の気質が見透かされているのです。

多くのネット通販でやらせ、つまり嘘のレビューが横行しています。それも個人のいたずらや意地悪では無く、出品企業による大掛かりなやらせなのです。

大規模なやらせをしているある中国のメーカの人間が、カメラの前で内情を話していました。曰く「日本人はレビューが多いほど信用して購入する気質がある。だから多くの偽レビューを書きこませている」。日本にいる中国人の留学生などにお金を出して偽のレビューを書きこませているのです。さらには、スマホなどのアプリで自動的にレビューをねつ造して流し続けるシステムまであります。

中国人に見透かされている日本人の気質の問題点。当の日本人がまるで無頓着なのですから、話になりません。いわゆる親中派の日本人を仕立てるのにも、日本人の気持ちをくすぐる術を心得てれば、簡単に作り上げられるわけです。

自らの気質を正しく理解しておくことは、もはや安保や生存にまで関係する重大な事柄なのです。

中国による偽レビューの多さに憤慨した人が、対抗手段として、さくらチェックというソフトをネットで公開しています。これはアマゾンに出品されている製品名を入力すると、そのレビューの信頼性をはかってくれるものです。当然のように、中国製品にはかなりさくら度の高い品物があります。 皆さん、簡単にレビュー数の多さや書きこまれた内容を信じないようにしましょう。それがネット時代の常識なのですから。

このように自国だけでは無く、他国の国民性や民族気質を理解して対応しようとしないのは、日本人位なのです。皮肉な事に、それが日本人の集団農耕型気質の特徴のひとつなのですが。


令和元年(2019)10月4日

 

2019年10月11日気質のカテゴリー:外伝

内部留保463兆円を使わないのも気質

政府がいくら音頭を取っても、指導しても、一向に内部留保を使わず、唯溜め続ける大企業の経営者達。

リーマンショックに懲りたから、来たるべき時に備えるため、言い訳は所詮言い訳に過ぎない。彼らが、内部留保を労働者に分配もしなければ、新規への投資もしないでいるのは、まさに集団農耕型気質のなせる業である。

失われた平成の30年は、日本企業が社内での教育、すなわち人材育成も、新しい事業などへの挑戦を全く都言って良いほど行わなかった時代でもある。デジタルトランスフォーメーション(DX)などと言う小難しい言葉を使わずとも、要は何もしてこなかった結果、世界のデジタル化の潮流の中で取り残されてしまったという事である。

欧米からはもちろん、追いつき追い越された中国だけでは無く、今ではアジア諸国からも2周遅れになった日本企業と言われている。このような危機感を持った報道やコメントは聞こえてくるのに、なぜ彼らは動かないのであろうか?

そこには、くくりへの病的撞着のレベルに達してしまった日本企業の姿がある。集団農耕型人間達が支配する組織(くくり)は、そのまま10年も続けば自滅の道を進む。デフレと人件費削減によって、かろうじて30年持ちこたえて来たに過ぎない。アベノミクスによってたまたま為替変動などのあぶく銭を手にしたのが、今の内部留保で有り、経営者達の積極的な経営の結果ではない。

くくりという企業組織に病的な撞着をしてしまった経営者や社員達にとって、最大かつ唯一の目的はくくりの維持すなわち現状維持なのである。なまじ内部留保など増えれば、かえって自分たちのやり方が正しいのだと現状維持に突き進む。他の事は論外なのである。

自分の属するくくりにだけ目をむけ、くくりの外にある現実からは目を背ける。たとえくくりの外が火事になっていても、自分の所は安全だという不思議な共同錯誤をもつ。社員達も付和雷同気質だから、誰かが行動しない限りは自分も動かない。さらには、くくりの中で自分だけが違う事をやって目立ちたくないという気持ちがくくり内に蔓延して、誰一人動かず丸焼けになる。ゆでガエルよりももっとタチが悪い深刻な問題がここにある。

自分たちのくくりの外の現実を見ようとしない上に、企業で言えば自分が経営する間は、社員は自分が務めている間くらいは大丈夫だろうという甘い考えで、何も行動を起こさない。官僚が問題を隠蔽したまま、時間稼ぎをするのと同じである。そこには自分だけよければ、その先など考えようともしない利己主義が根本にある。ましてや、社会や国の事など眼中に無いのである。国を売る政策を平気でやる外務官僚の存在は、その一例に過ぎない。

公に奉仕するという考えが皆無なのだから当然かも知れないが、自分たちが人を教育して育てるという感覚はまるで持ち合わせていない。出来る人間を雇えば良いという欧米のある一面だけを真似して自己満足を得る。これでは、世界や時代の新しい流れに取り残されるのも当然であるが、周囲を見ると取り残された人間ばかりなので、そこでまた安心してしまうのであろう。危機意識は薬にしたくも生まれてこない。

未だに日本ブランドが生きているとか、日本は技術力が高いなどという消え去った幻想にしがみついているのも、くくりが完全に破壊されないからである。集団農耕型が恐れる「破壊」がくくりに起きない限り、自律的に彼らが変わる事はないのだろう。

令和元年(2019)10月5日(土)

 

2019年10月05日気質のカテゴリー:外伝

保守分裂に見る二分法的思考(二項択一)

 今回の武漢発新型コロナウイルスへの安倍政権の対応のまずさは、海外から指摘されるまでも無く、明らかに失態である。しかも問題なのは、誤りだと気がついた後も「もういいや」とばかりに方針転換もせず、回復処置をなにも取っていないことにつきるだろう。
 コロナ対策本部に大臣が3人も欠席したが、それも皆自分の選挙がらみばかり。もっとも安倍総理がコロナ対策本部に出席しても、わずか3分でカメラがいなくなると退席してしまったという醜態をさらすようでは、何をかいわんやである。危機意識の感性が全く鈍麻しているのであろうが、それは今回の主題ではない。

 安倍総理と直接電話連絡が出来るほどの仲である作家の百田尚樹が、今回のコロナウイルス対策に関しては、安倍政権を激しく批判している。私から見ると至極当然の話しなのだが、これが意外と少数派のようである。彼と同じ意見をきちんと表明したいわゆる保守派は、数人と限られているようだ。それに対して、櫻井よしこをはじめとする保守派の面々は、おおむね安倍擁護に回っている。なぜなのか。百田の言うようにお金目当てのさもしい人達は、右左に関係なくどこにでもいる。従ってすべての人間がそうだというのは少し酷なのかも知れない。

 では何が原因で、今回左翼・反日勢力が喜ぶような保守層の分裂が起きたのだろうか。いうまでもあるまい、彼らの気質に起因している。

 本文にも取り上げているのだが、人格障害の主要な病状のひとつに二分法的思考がある。敵か味方か、右か左か、善か悪か、全か無かなど、極端な思考や感情の動きを示すものである。気分も考えも極端で間がないという人格障害者の特徴のひとつで、特に境界性パーソナリテイ障害に強く見られる。

 しかしこの特徴、集団農耕型気質の人には、多かれ少なかれ見受けられる特徴である。極端に走るとか、くくりに病的に撞着する事も、皆これとからんでいるわけなので。

 つまりひとたび「安倍政権を良し」とした人達は、そのくくりから逃れられないのである。否定したら、もはや「安倍政権を良し」の仲間には戻れないと考えるのだ(無意識に)。言い方をかえれば、彼らには、はじめから是々非々という選択肢は無いのである。
 言論人だけで無く、ネット上の保守層まで二分されたのも、このためである。そして百田ががっかりしたように、むしろ非百田のネット人が多かったのも、集団農耕型気質の人間が大半である日本の現状と無関係ではないであろう。

 むろん、私からみれば、ここまでくくりに病的に撞着して安倍政権擁護をするのは、人格障害症候群だと断じてしまうのだが。


 他にも人格障害者の特徴である、自分に囚われすぎるとか、傷つきやすいなどの特徴も強いのであろう。つまり人格障害症候群と呼べるレベルにいる人が保守派の仲にもかなり多くいることが、今回白日の下にさらされたのだと言えるのかも知れない。本文では、人格障害症候群の人達を主にリベラルや左翼系の例で述べてきたが、保守や右寄りでも同じ事なのだ。集団農耕型気質の多くの人が、そのさまざまな気質特性の故に、人格障害症候群としか言いようのない言動を取ることがあるのだ。

令和2年(2020)2月24日(月)



【本文を読んでいない人の為の参考に:詳しくは本文を】

集団農耕型気質
  イデオロギーの右左に関係なく、日本人の大半を占める気質。この人達は、現状肯定という意味で、保守的であり変革を望まない。それに対して、少数派の気質が孤高武士型気質で、日本の歴史で危機の時に活躍するのはこのタイプ。孤立を恐れないので、人付き合いの下手なところがある。

人格障害症候群
  人格障害者がもつ種々の特徴が、部分的でも同じように強く見られる人達につけた呼称。
  医学用語としての症候群ではなく、あくまでも社会学的な言葉。

人格障害
  正式にはパーソナリテイ障害と呼ぶことになっているが、面倒なので人格障害と呼称している。

くくりへの病的撞着
  撞着は矛盾しているほどの執着性を意味しているので、執着と置き換えて良い。自家撞着。くくりは普通の「○○ファンのくくり」の用語。

2020年02月24日気質のカテゴリー:外伝

安倍政権が自滅への道を進む理由

 結論を先に述べるならば、官僚による統治時代が長く続くと国を滅ぼすからです。安倍政権は戦後最大の長期政権でありながら、なかなか歴史に名を残すような政策の実現も成らず、運の悪さも重なって、ここ数年はくだり坂を転がり出したかのようです。どうしてこのような事になったのでしょうか。

 様々な事が言われていますが、「日本人の気質」から言えば、実に簡単な事なのです。彼の周りには、とりわけ実働部隊に孤高武士型気質の人物がいなかったと言うことにつきます。

 ネットでこんな記事がありました。『安倍首相の周囲にいる大臣以上の権力持つ7人の「君側の奸」』。あまりにも無礼な題名です。元が反安倍で有名な週刊誌ですから、書かれている内容の信憑性については、無視することにしましょう。ただ、ひとつだけ納得することがあります。それは総理周辺の7名全員が、官僚出身だと言うことです。それも、かなり官僚的つまりは集団農耕型気質の典型に見えると言うことです。

 たとえ安倍総理への強い忠誠心があろうとも、逆にそれは「アベ村」というくくりに病的に撞着していることになります。真の国益や国民の為に働くのではなく、アベ村というくくりの維持が最優先となるわけです。そこに、権力を握った物のおごりが出て、自分がお上になったかのような振る舞いが出てきます。そうなれば、もはやまともな判断は出来なくなります。集団農耕型が、あるくくりに病的に撞着して権力を行使すれば、その組織は必ず自滅すると、「日本人の気質」や「歪んだ人達」で詳しく述べてきました。まさに、それが目の前にまたもあらわれているわけです。日本という国や国民よりも、自分達のくくりの維持が最優先となれば、後は坂道を転げ落ちるだけなのも至極当然の話です。

 周辺の官僚上がりの取り巻きは仮にそうだとして、ではなぜ安倍総理自身が、それを破壊したり、より良い方向に持って行けないのでしょうか。残念ながら、彼もまたその意識とは裏腹に、行動は集団農耕型気質そのものだからです。おまけに周囲に誰も孤高武士型の人材がいません。  そのために、彼もまた、アベ村の気持ちよさに囚われ、さらに旧態依然とした政治村の論理や習慣に固執しているわけです。これでは、大胆な改革など出来ないでしょう。

 様々な委員会をたちあげたり、特区構想や改革案を打ち出しながら、一向に成果が上がってこないのは、真の実働部隊、すなわち破壊を恐れない孤高武士型人材に政策を実行させていないからです。どんなにすばらしい案も、官僚にやらせたとたん、彼らの権益保護の道具と化してしまいます。税金が無駄につかわれ、政財官の歪んだ癒着がさらに強化されるだけで終わるのです。この事に気がつかない、あるいは気づいていても直せないのであれば、はやり力不足と言わざるを得ないでしょう。

 私たちはこのまま、この国が自滅の道を進んでいくのを、見守るしかないのでしょうか?なぜか身震いを覚えてしまいます。

令和2年(2020)6月22日(月)

 

2020年06月22日気質のカテゴリー:外伝

日本とスウェーデンの無常観は同じか?

 この題だけでは、何のことやらおわかりいただけないでしょう。言い換えるならば、コロナ禍にみるスウェーデン人と日本人の気質の違いは何か、とでもなるのでしょうか。実際、かなり前提の説明が必要な話です。

 日本をはじめとして、世界各国が新型コロナウイルス対策として打ち出していた、外出制限などの行動規制の緩和が進んでいます。だからといって決して世界的な流行が治まったわけではなく、日々犠牲者は出ています。世界の感染者数は960万9844人、亡くなった人は48万9318人にもなります。(6月26日現在)

 このような状況の中、世界各国の取り組みや現状などがよく報道されています。中でもアメリカの深刻な感染拡大と同時に、取り上げられているのがスウェーデンの対策です。ほとんどの先進国が、感染拡大のために、都市封鎖など何らかの行動制限をかけているのに対して、スウェーデンは全く別の対策をとったからです。それは集団免疫戦略と呼ばれるものです。感染症ですから、みんなが感染してその抗体を維持するようになれば、それ以上の感染拡大はおこらずに済むというものです。つまりみんな一度かかってしまえば、あとは大丈夫だよ、という考え方です。ですからマスクなどしません。

 この集団免疫の考え方そのものが、今回の新型コロナウイルスに対しては有効ではないのではないか、という研究がいくつも出てきています。例えば、一度免疫ができたはずなのにもう一度症状が出るとか、免疫の有効性が短くかつ低下していくという研究結果もあります。

 いずれにしても今ここで話題にしたいのは、スウェーデンが採用したこの政策の裏には、スウェーデン人の気質、国民性があるということで、対策の是非そのものでは有りません。

 実際この集団免疫戦略をとった結果、感染率や死亡率でアメリカと並ぶ世界最悪レベルになってしまいました。ところが、この政府の政策に対して日本とは全く逆に、批判するどころか支持する人が半数を超えているのです。日本人にはなかなか理解しづらいところでしょう。



 スウェーデンは福祉国家としてつとに有名ですが、人口当たりの病院のペット数や集中治療室の数は、日本よりも少ないのです。一方で、いわゆる寝たきり老人のような人はほとんどいません。これらの裏にはやはりスウェーデン人の民族気質が関係しています。

 スウェーデンでは今回のコロナ感染症に対してだけではなく、平時においても、医者によるトリアージは普通に行われています。医者はその患者を治療するかどうかを判断する権限を与えられているのです。コロナでは高齢者の死亡が目立ちますが、その理由の一つとして、高齢で回復の見込みのない患者は集中治療室での治療を行なわないことがあります。コロナ以外でも、助かる見込のない患者を治療することはないのです。
 一方日本では、近年患者側による医者に対する訴訟騒ぎが多発して、社会問題になったりもしました。日本では助からないとわかっている患者であっても、医者が治療を施さないことは許されないのです。法的な問題だけではなく、日本人の気質として、たとえダメとわかっていても最後まで最善を尽くすことが、当たり前になっているからです。


 寝たきり老人についても、あるいは末期の患者に対する治療にしても、欧米、特に北欧などでは、日本とは対応が根本的に異なります。それは一言で言えば合理主義と呼べるものなのかもしれません。確かに見込みのない患者に治療を施したり薬を投与したりするのは、明らかに無駄であると考えるのが合理的です。しかし日本では、このような合理主義は社会で受け入れられていません。



 もう一つ個人主義の問題が挙げられます。アメリカ以上に北欧においては、個人主義が強いとされています。個人的には、それはもはや利己主義や個人原理主義とでも呼べるものではないかと思うのですが。いずれにせよこの個人主義が良いということが国民全体に浸透しています。その結果、「すべては個人の責任である」ということも普通に言われるのです。これを極端に言うならば、病気にかかって死ぬのも個人の責任であるということになります。
 実際北欧では、かなり以前から子供を産まない自由を保障するということが掲げられています。子供を生まないのは個人の自由なのです。確かにそのとおりでしょう。ですがそれが、個人原理主義に基づくものであるとしたならば、本当に望ましいものなのでしょうか。個人の快楽追求に子供は邪魔だというのですから。
 そのために、生まれた子供を国が面倒を見る高福祉にもかかわらず少子化は深刻であり、スウェーデンはもちろんのこと、一時出生率が高かったフィンランドなどでも、出生率は日本を下回ってしまっています。それに加えて、子供は生まなくてよいと考える人が 10年前よりも何倍も増えているのです。このあたりは拙著「歪んだ人達」で詳しく触れました。少し話しがそれましたので戻しましょう。


 いずれにしても、合理主義や個人主義の浸透だけで、集団免疫戦略を採用することにつながるわけではないと思います。その奥には、彼らの死生観があります。それは「人は必ず死ぬものである」との考え方です。人はいずれ死ぬものという考え方は日本人にとってもごく当たり前の考え方です。言い方を変えれば、まさに無常観ではないでしょうか。永遠なるものなどは存在しない、人の命もまた同じことです、この無常感は日本文化の基盤をなす感性でもあります。とするとスウェーデン人の気質には、日本人と同じようなものがあるのでしょうか。

 書籍「ヨーロッパ各国気質」(片野優、須貝典子)によれば、『スウェーデン人は一見クールでスマートだが、実のところシャイで人見知り、「北欧の日本人」といわれることもある』と書かれています。日本人同様に几帳面なので、高福祉高負担の社会も成り立っているのかもしれません。その意味からも、日本人の死生観と共通的な部分があるというのは、おかしなことではないのかもしれません。ですが同じ気質を持ちながら、そこから生まれた文化は、まったく異なるもののように見えます。個人的にも、何度か仕事で訪問したこともありますが、正直彼らの死生観まではわかりませんでした。唯どんよりとした天候が、アメリカの西海岸の明るさと対照的だったのは印象深く残っています。


 仮に助からないとわかっていても最後まで最善を尽くすのが日本人、無駄なことはせずに淡々と死を迎えさせるのがスウェーデン人です。むろん冷たい言い方をすれば、もしもこれをやらなければ日本と同じように高齢者による医療や介護のコストが膨大なものとなり、国家財政が破綻してしまうかも知れません。
 実際日本の老人介護や医療のありかたは、やはり行き過ぎていて歪んでいると言わざるを得ません。昔の殿様ではあるまいし、自ら動くことも食べることすら出来ない人に対して、何人もの人間がかかりっきりで、24時間面倒を見続けるなどということが、社会として成り立つはずはないのです。このような延命のための延命治療や介護に力を注ぐのではなく、健康なまま寿命を伸ばしそのまま最期を迎えることができる、そんな社会を構築すべきなのです。ですが既得権者達や一部の人権原理主義者たちの行動によって、世界最悪の借金大国だけが残っているのです。

 今回のコロナ騒ぎは、世界各国が抱える問題点を見えるものにする役目を果たしました。スウェーデンや日本も例外ではありません。極端に走ることなく、冷静に見極めながら、真にあるべき姿とは何なのか、それぞれの気質と照らし合わせながら、もう一度考えてみることが必要なのではないでしょうか。ここにもそれぞれの民族気質を知ることの重要性が現れているのです。

令和2年6月27日(土)

 

2020年06月27日気質のカテゴリー:外伝, 外国人気質

目利きという能力

 ツイッターで、戯れに「ぼけ老の思い出話」というのをいくつかあげてみました。その中で、「残念な現実。どんなに本人に才能があっても、それを認めてくれる上司あるいは、わからないけどやらせてくれるチャンスをくれる上司に、巡り会えない限りは組織の中で埋もれてしまいます。それが「運」の一つでしょう。」というのを書きました。

人を見る目


 日本人の気質ではきちんと触れることが出来ませんでしたが、この「目利き」の才能こそ、日本の変革を進めた大きな原動力なのだと信じています。歴史家の磯田道史が、「戦国を生気抜くために必要な能力を一つだけあげれば、それは人目利き(めきき)である。日本人はこの査定能力が高いとは言えないのだが、戦国や明治期など危機になると日本人にこの能力がどこからともなくわいてくる」と述べています。これこそ日本人の気質で繰り返し述べてきた、危機になるとそれまでの集団農耕型気質から孤高武士型気質に変化して、孤高武士型の人材が輩出する、ということなのです。そしてこの人を見る目、目利きの能力こそ孤高武士型の人が持つ能力の一つなのです。


 明治維新で活躍した多くの人材が、それほど身分の高い武士たちではなかったというのも、このことおw証明しています。低い身分のものが殿様や半に変わって行動を起こすことが出来たり、戦の先頭に立てたのも、それを許す上司がいたからに他なりません。西郷隆盛も島津斉彬に認められたからこそ、活躍できたのです。上司でなくても、藩校や私塾で教えていた公明な学者たちは、本院の行動力はさておいても、弟子たちの才能を見極める力が合ったのは、吉田松陰が残した弟子の評価などからもよくわかります。

 戦後に起業して大企業を作り上げた経営者たちにも共通しているのが、この人を見る目です。聖徳太子ではないのですから、それは必ずしも100%相手の能力を見極められなくてもかまわないのです。相手の言うことがそれなりであり、やらせてみてもかまわないかなと考えるレベルでも良いのです。物事に成功が補償されたものなどありませんから、100人にやらせて一つでも成功すればよいのです。

 集団農耕型気質の人間は、この能力が著しく劣ります。もともとないというよりも、その他の気質が、それをじゃましてしまうのです。たとえば、外来崇拝や自他同水準幻想が強ければ、自然部下の言うことを馬鹿にして取り上げなくなります。そのくせ役にも立たない外国人をありがたがるのです。
 また、目利きで重要なのは、その相手の持つ本質的な能力の見極めです。肩書きなどのレッテルを重視する人間では、人を見る目は育たないのです。

 様々な会社で様々な人達と付き合いましたが、目利きの優れた人は、ほとんどいませんでした。いっぽうで、外史では外国人上司の見方は面白いものがありました。彼らは目利きましてや日本人の目利きが出来ているわけではないのです、史kし提案に対してはその内容を評価し、失敗したときの損失がどの程度かを見極めてとりあえずやらせる態度でした。だめならすぐに首に出来るのもあるのでしょうが、挑戦はあまり邪魔をしません。このてんが、集団農耕型で凝り固まった国内の大企業との大きな違いです。


 私語はすべて人間の力がものを言います。したがって、人を見極める目利きの能力は、非常に重要なのですが、漠然としていることもあり、ほとんど取り上げられることがありません。劣化の平成時代には、それがさらに悪化していったのです。

 ではどうしたら目利きになれるのでしょうか。生まれついてのものが大きいと思いますが、相手を何のフィルターも通さずに素直に観察すること、様々な人間の存在を知る上でも読書をすること、などが挙げられるかもしれません。

令和3年1月14日(木)

 

2021年01月14日気質のカテゴリー:補章

アメリカの分裂はくくりへの撞着でわかる

 アメリカ大統領が交代して、落ち着きを取り戻したかに見えるアメリカであるが、本質的には何も解決されていないのだろう。この混乱は、くくりへの撞着という視点で見ると案外簡単に理解できてしまうところがある。

 他民族、移民国家のアメリカを一つに束ねているのは、「アメリカ合衆国(USA)」というくくりであることは以前から述べてきた。何かあると最後には「USA」を連呼するのはその証でもあると。しかし今のアメリカを見るとこのUSAというくくりへの人々の撞着が弱まっているように感じられる。

 多民族の移民国家であるアメリカが一つにまとまるには、USAというくくりに体して強い撞着がなければならないはずなのだが、なぜその撞着が弱まっているのであろうか。今のアメリカの分裂を南北戦争当時の北部と南部の人々の価値観や文化の違いが未だに続く姓だという論cう゛ょうが多く聞こえてくるのだが、それは誤りである。確かに北部と南部の価値観の違いは一つのくくりではある。だが、それだけで今のアメリカ社会の複雑な分断状況を説明することは出来ない。

 今のアメリカは、実に多くのくくりが存在し、そのくくりに対して人々がそれぞれ強固な撞着を持っていることこそが、本質なのだろう。その意味では、トランプは決して分断を深めようとしたわけではなく、むしろアメリカ第一主義というくくりへの撞着を人々に促したとも言える。ただ、本人がそれを自覚していなかったようであるし、周囲もまた、そのようには理解できなかった。なぜトランプが掲げた昔ながらのUSAというくくりが働かなかったのか、そこに分断の正体つまりは、多くの異なるくくりへの撞着状態が見て取れる。

 保守とリベラルという単純なくくりで分断されているのではなく、もっと細かいかつ複雑に絡み合ったくくりが存在している。そのひとつが、IT企業の経営者に代表されるような大金持ちのくくりである。このくくりに撞着する人々は、USAのくくりにはむしろ反対でそれを壊そうとしている人々である。なぜなら彼ら彼女らは、国家というくくりよりも自分の企業というくくりこそが最も重要なくくりなのだから。口先では人権やリベラルを口にしながら、トランプのUSAくくりに真っ向から反対したのも、既得権たる企業経営というくくりを破壊されることを恐れたからに他ならない。

 マイノリテイや少数派が、貧しい労働者に味方しているトランプに反抗したのも、同様の理由である。USAというくくりへの撞着よりも、マイノリテイとか出身民族とかのくくりへの撞着が寄り強固だったのである。トランプのはくじんじゅうしが、それに拍車をかけてしまったのであり、主因ではない。

 移民国家とはいえ、これまでは、アメリカ市民になるつまりUSAというくくりに撞着する人々であったが、もはやそういう移民たちではなくなってしまった。違法だろうが何だろうが、潜り込んで自分たちの好きなやり方、暮らし方をすすめようとしているのだ。英語pさえもしゃべれない多くの人々にとって、そこはUSAなのではなく自分たちが自由期まっ間に暮らせる土地、地域にすぎないのである。この感覚、このくくりへの撞着が、分断の元になっている。

 他にも様々なくくりへの撞着を持つ人々が集まっていくつもの集団を形成してしまった。そして、それぞれの集団というくくりへの撞着がもはやUSAというくくりへのそれを上回っているのである。

 アメリカにかぎらず、これは実は世界の国々特に先進国と呼ばれる国でおきていることである。無論日本も例外ではない。ただ、救いかもしれないのは、戦後の日本は国家というくくりを破壊された中で様々なくくりが生まれたが、そのくくりの一つとして逆に国家というくくりへの意識が強まってきているのが現状である。それを全く築けないのは、既得権益にどっぷりとつかっていれば、その現状を維持するくくりに病的に撞着してしまう。そのために気づかないし、気づいても決して手放そうとはしないことになる。

 くくりへの撞着という概念で観察すると、アメリカの分裂もよく見えてくるはずである。それに気がついている人はほとんど見当たらないのは、残念なことである。

令和3年1月23日(土)

2021年01月23日気質のカテゴリー:外伝

くくりの動的再編を実戦している若者たち:裏アカ

 日本人の気質において、集団農耕型気質の持つ大きな特徴が「くくりへの強い撞着」であることは、本文などでも繰り返し述べてきました。この特定のくくりへの撞着が病的に進みすぎると、大変なことになることも詳しく述べました。

 この一つのくくり、例えば勤め先というくくりへの撞着が、行き過ぎないためには何が必要かと言えば、くくりの動的再編(動的移行)が重要であることも述べました。人間は本来様々なくくりの中で生きています。それを時と場合に応じて撞着するくくりを柔軟にかえていきます。これがくくりの動的再編です。会社という組織のくくりにおいては、中間管理職というくくりで自分の行動を制御していますが、家に帰れば、夫とか父親というくくりへ撞着先を変えるわけです。

 この動的再編が旨く働くためには、前提として、自分がいくつかの異なるくくりに属していることを自覚する必要があります。種々のくくりへの所属の自覚がなければ、動的再編も行えないのですから。むろん、必ずしも意識的に動的再編を行わなくても、無意識のうちに様々なくくりを自覚しているわけです。

 自分がいくつかの異なるくくりに所属しているという自覚を持って自らの行動を決定すること、つまりくくりの動的再編を、今の若者たちは案外うまく行っているようです。

 SNSなどでは、いくつものアカウントをもって人を非難したり中傷したりすることがよく起きています。俗に裏アカというようですが、あまり良いイメージではありません。しかし、複数のアカウントを持つことは、必ずしも悪いことではありません。なぜなら、それぞれ異なるくくりでは、アカウントを別にすることはむしろ当然のことなのですから。

 ネットでの記事によれば、自分を代表するメインのアカウント、仲良しとだけつながるサブのアカウント、趣味などで広くつながるサブのアカウントなどを持つそうで、まさにくくりへの動的再編用のアカウント群ということになります。これらの異なるアカウントを使用することによって、彼ら彼女らは、くくりへの動的再編を行っているわけです。たとえ、意識していなくても、このような考え方が出来ることは素晴らしいことです。なぜならば、くくりの動的再編が柔軟におこなわれていれば、特定のくくりへの病的な撞着をおこさないで済むからです。

 もちろん、アカウントを複数持つだけで、特定のくくりへの病的撞着がおきない補償は全くありません。時には、人に知られないアカウントを使用することによって、他人への攻撃性を強めるなどくくりに病的に撞着してしまう恐れさえあります。それでも、今の若者たちは集団農耕型のくびきを抜けて孤高武士型に変わりつつある証だと、前向きに捉えたいのです。

令和3年1月31日(日)

 

2021年01月31日気質のカテゴリー:外伝

ドラマの台詞からもわかる国民性


 最近中国の歴史もののTVドラマを見るようになった。そのなかで、日本語のテロップを読むと時々面白いことが解る。翻訳者は日本人が多いので、かなり日本語に意訳してくれているのだろうが、時々中国人の気質が垣間見えるのである。


 たまたまその場面を見ただけなので、詳しく解らないのだが、女性が追っ手と戦いながら、主人公に言ったのだ。散々世話になったオンがあると言うことを繰り返した後、着られながら速く逃げろと主人公の逃走を促す。そして、絶命の間際に言う。「これで帳消しになったわね」

 受けた恩を命で返したのだから、おつりが来るほどのおんがえしなのだが、この手の場面は時代劇のドラマでは、日本でもよく見られる。しかし、そのとき、日本のドラマだとしたら、前述のような台詞を用いるだろうか。多分、違う台詞を言うか、何も言わずに表情で表現するだろう。ことばなら「これで少しは借りを返せたかな」などと言うのではないだろうか。

 ここに、中国人と日本人の気質や感性の違いを感じるというのは、言い過ぎだろうか。日本人よりも欧米の合理主義に近い中国人の考え方は、借り貸しさえも勘定尽くなのであろう。それにたいして、日本人は、合理的施行よりは、感情的(常道的)思考と言えるのだろう。


 何気ないちょっとした言葉遣いからも、その民族の性格が垣間見える。

令和3年11月30日(火)

2021年11月30日気質のカテゴリー:外国人気質

コロナ・ウイルス騒ぎに見る日本人の気質

すでに2年以上も続くコロナのパンデミック騒ぎ。この騒動は日本人の気質の特徴を色々と教えてくれてもいます。そのすべてを一々取り上げていたら、日本人の気質の本と同じになってしまいかねません。

そこで今回は、海外に遅れて日本でも急激に感染者数が増加しているオミクロン株との関わりの中で、露出したいくつかの気質を見てみたいと思います。

結論から先に言えば、「羮に懲りて膾を吹く」「やり出すと止まらない」「柔軟性の欠如」当たりでしょうか。

ニュースで、こんな報道がありました。コロナの第5派の感染拡大時に、病院のコロナ患者用ベッドの不足が問題になりました。自宅療養中になくなる患者さんも多数出て、政治問題にまでなり政権の支持率低下にもつながりました。そこで岸田政権では、その轍を踏まないように、自治体とも協力して、かなり強力に各病院のコロナ病棟確保を進めました。その結果、以前よりはましな病床数が確保できました。ここは「羮に懲りて膾を吹く」という感じですね。国民の為と言うより政権維持の感が強い気もしますが。

さて、問題はそこからです。オミクロン株はそれまでのデルタ株などと違い、感染力は強力なのですが、重症化率はそれほどでもなかったのです。無症状や軽症の患者さんが多いのです。
そこで何が起きたか。コロナ病床を確保したしわ寄せは、当然他のところに来ます。救急患者という最も受け入れなくてはならない患者の受け入れが断られる自体になったのです。
コロナ専用病床というのは、既存の病床に加えて新たに準備したものではなく、既存のベッドをコロナ用に代えたものがほとんどだったのです。
そのためにコロナ病床にはかなりの空きがあるにもかかわらず、救急患者の受け入れが出来なくなってしまったのです。救急患者をうけいれて、重症ならより大きな病院に移していた病院でも、受け入れ先の病院がなくなり、自分たちも新規の患者さんを受け入れられなくなってしまいました。

あるやり方を決めると、もう止まらない、柔軟性を欠く事柄でも、それが正されず、また現場で柔軟に対応させることも許さないのです。まさにお役所仕事の典型でもあります。


日本人の気質を書き出した頃から、劣化の30年で、日本人の気質の欠陥がさらに目立つようになりました。このまま、「行き着くとこまで行かないと変われない」とするなら、明日はより劣化した社会になるということです。それは御免被りたいですね。

それにしても、もういい加減で孤高武士型の日本人が立ち上がって、動き出さないものでしょうか。

令和4年1月22日(土)

2022年01月22日気質のカテゴリー:外伝

不安を感じやすいのになぜ危機意識が希薄なのか

 ロシアによるウクライナ軍事侵略のさなかに、安倍元首相銃撃事件が起きました。危機意識が希薄な日本人にも少なからず衝撃があり、脳天気にも少し動揺を与えたようです。

 ここでは、日本人の気質を考えたときに、浮かぶ小さな疑問について考えてみたと思います。

 日本人の基本的な気質としては、欧米人などと比較して、不安を感じやすいことは、脳科学などからも言われています。それが新奇性の少なさ、つまり新しいことなどに挑戦したがらない性格ともつながると考えられています。それを前提にすると、ふと疑問がわくのです。

 不安でビクビクしがちな小心者なら、なぜ、かくも脳天気な危機意識のない性格なのでしょうか?両者は相容れないように思えるのですが。

 実は関連する二つのことが言えるのです。一つは両価性と呼ばれる対象に対して相反する感情を同時に持つ事です。恋愛話ではよくでてくる、愛と憎しみの感情が同時にある状態です。つまり元々不安と脳天気が同居しているわけです。でどちらが強く行動や思考などに出てくるかはその時々によるというわけです。

 もうひとつが、性格の様々な要素が強く働く場合です。災害列島日本においては、大きな災害に遭ったとき、素早く立ち直るためにも「しかたがない」「諦めよう」といいきかせてしまうことが多いのです。これは精神衛生上も正しいことなのですが、それが強すぎると、日常においての危機に対しても、起きたら仕方が無いと考えがちなのです。

 不安から危機意識を持たなければならないような出来事は、今回のようにまれです。特定の人には関係しても、今回のように日本人全体が恐れを抱くような事は珍しいのです。それより、大雨、地震、洪水等々の方が遙かに多く発生して身近にあります。となれば、これらは、危機意識の希薄さ脳天気さに性格を傾かせてしまうわけです。

 このように考えると、あとは知性で個々の出来事と自分の行動を検証して、正すべき点があれば直していくことしか方法はありません。

 同じ感性基板を持ちながらも、置かれた環境によって思考や行動が変わることを死っておいても損はないでしょう。

令和4年7月15日(金)

2022年07月15日気質のカテゴリー:補章

気質のベクトル

 個人の性格(個性)は、様々な気質要素が複雑に絡み合ってできあがりますが、その時々の個人の置かれた環境などによっても、その言動・行動などは左右されます。また一つの気質要素が、どの領域に対して向かうのか、目標による違いも当然に出てきます。

 このような気質要素と気質のベクトル(方向性)との関係性を見てみることにしましょう。これはあくまでも一つの例であって、必ずこうなると言うことではありませんのでご注意ください。

 集団農耕型気質の気質要素に、「極端に走る傾向」が上げられます。この極端に走る、つまり同じ方向に行きすぎる傾向を見てみることにします。


 ベクトルの向き、つまりどの分野に向かうのかで、新たな性格が表出されます。

 技術分野に向かうと、より良い技術の開発などが生まれますが、一方で行き過ぎると弊害もでます。
   好ましい方向:新しいものの創造、改善
   悪しき方向: 過剰品質、技術者の自己満足、いいものは売れるとの勘違い(技術至上主義)
 効率に向かうと、問題が生じやすいです。
   好ましい方向:高い効率性
   悪しき方向: 過剰労働、過労、不正
 サービスに向かうと、問題が生じやすいです。
   好ましい方向:おもてなし
   悪しき方向: 人の無駄遣い 過剰サービス、過度のサービス競争
 産業に向かうと、問題が生じやすいです。
   好ましい方向:高度なノウハウを持つ企業
   悪しき方向: 同じ業界に集まりすぎる、偏った産業構造、横並び、人まね
 自社に向かうと、問題が生じやすいです。
   好ましい方向:独自性
   悪しき方向: 囲い込み、共同せず、標準化出来ない、ガラパゴスへ
          共同使用の遅れ、インフラシェアリングの遅れ


 このように気質のベクトルを考えていくと、何が問題なのか理解しやすくなります。当然対策も考えやすくなるはずです。

令和4年9月2日(金)

 

2022年09月02日気質のカテゴリー:補章

男と女 共感性

 男女平等という社会における約束事を重大視するあまり、男女はおなじである、いや同じでなくてはならない、という原理主義がはびこっているのが今の日本社会の現実です。そのくせ、男女の同一賃金など本来同じで無くてはならない部分では、男女差が存在したままなのです。不思議なのは、最も重要な賃金などの差については、原理主義者達はそれほど騒いでいないように見えることです。
 つまり本当に社会をより良くするためではなく、自分たちの思想・信条を広げることが目的のようです。

 そもそも、男と女は少し違うところがあるから面白いし、お互いに惹かれ合うのだと思うのですが。時にそれが、いざこざの元にもなるようです。
 心理学的に見ても、様々な項目において、男女での違いのある項目は少ないようです。そのなかで、唯一大きな性差が認められるのが「共感性」です。相手の考えている事や、抱いている感情に共感する(出来る)働きです。
 男女がお互いに共感出来ないというのでは必ずしもないのです。いわば共感した後の反応が違うようなのです。

 これはTwitterなどでも、よくでてきます。
 女性が男性の夫や恋人などに愚痴をこぼしたとします。このとき、女性は愚痴を子バスのも当然だよねと、共感だけしてくれれば良いのです。女性であれば、「そうなんだ」「そのとおり」「それはひどいわね」「わかる、わかる」などと反応してくれます。
 ですが、男性は違うのです。共感だけでは済まないで、その問題点の解決策を提示しようとしてしまうのです。「わかるけど、こう考えられないか」「それはこういうことでは」「深く考えない方がいいよ」などと返してきます。

 ここで衝突が起きるわけです。別に女性は愚痴の内容に対して何らかの解決策や反応の提示を期待などしていないのです。むしろ、そんなものは邪魔で、余計なお世話なのです。単に共感して共鳴してくれればよいわけです。それが望みなのですから。

 男は問題があると、論理的な解決策を求めがちです。ですから、その答えがみつけられないと、自身も追い詰められてしまうのです。女は、吐き出してしまえばそれで充分うさばらしになるのです。特に答えのない問題に関わることはしないのです。だからこそ、わがままな無法者である赤ちゃんなどにも、長時間優しく接することが可能になるのでしょう。

 このように、男女には明らかな違いがあると認めることも、一緒に生活していく上では、有意義なことなのです。男女平等原理主義者に惑わされないで、軽く受け流しましょう。そして、社会的な男女差こそ、少しでもなくすように協力していくべきです。特に賃金において。

令和4年12月26日(月)

2022年12月26日気質のカテゴリー:外伝

SNSが日本人を攻撃的にした

 心理学には「欲求不満ー攻撃仮説」という説があります。これは欲求不満や否定的な気分は、その人の攻撃性を促進するというものです。気に入らないことなどがあると、ひとに八つ当たりなど当たってしまうと言うことで、誰でも理解出来ることです。もうひとつが、低い自尊感情の持ち主ほど、敵意を抱きやすく、また短気になりやすいというものです。この低い自尊感情は、欲求不満を生みやすくしますから、これらは絡み合って、悪い方向の気分や否定的な感情を増加させてしまいます。

 戦後の日本人の、特に子供達の自尊感情が、他の国の子供と比較してかなり低いという指摘がなされています。なぜ自尊感情が低くなってしまったのか、別に検討されなくてはなりませんが、この自尊感情の低さが攻撃性を生みやすい、つまり切れやすい子供を産んでいるのかもしれません。

 さらに問題なのが、インターネットの発展による、SNSの爆発的な普及が及ぼしている悪影響です。
SNSでは、自分の意見と合う情報しかアクセスしない偏りができます。それはコミュニケーションの能力を低下せせるばかりか、自分と違う意見のひとを排撃しようとしがちです。
 機械相手のコミュニケーションは、生身の人間とのコミュニケーションを阻害します。たとえば、対面と比較して、テキストメッセージでは、寄り敵対的、攻撃的なコミュニケーション行動が増加することがわかっています。抑制的に力が働かない訳です。いやなら、すぐに電源を切ってしまえるわけです。

 こうして、SNS似のめり込んだひとの多くが、まともな対面でのコミュニケーション能力がていかし、さらに攻撃的な態度を取りやすくなります。八つ当たり的名無差別殺傷事件の一因担っていることは、疑いの無いことでしょう。

 また、国語力の定価、短い文章でのやりとりの弊害、言葉の持つニュアンスを理解出来ない、など実に多くの問題点がしてきされているのです。コミュニケーション力の定価は、だまされやすいということでもあり、SNSでの情報操作やステレスマーケってイングなどに簡単にひっかかる事にもなります。

 SNSでの弱点をカバーする意味からも、子供達には読書を勧めましょう。

令和4年12月27日(火)

2022年12月27日気質のカテゴリー:外伝

くくりへの病的撞着+利己主義=小さな権力者

 元々集団農耕型気質の人間は、上にへつらい下に威張り散らすという気質傾向を持ちます。これは権力志向が強い人間ほど強くなるようです。政治家で時々その正体をばらされる人が出ますが、ほとんどの政治家がそうでしょう。それが、当選して1年もすると急に態度が横暴になる新人議員、というところにも良く現れています。世界中の長期政権がほとんど独裁者に変わってしまうのも、この延長線上なのでしょう。へつらう上がいない状態はまさに天国でしょうから、その立場をどんな手段を使っても維持しようとしたくなるわけです。

 この人間の性とも言える気質は、集団農耕型気質の多くの人間が少なからず落ちいるものです。今話題のビックモーターのとんでも事件など、典型的な事例ですね。2代目の副社長の権力者が、今回の不祥事を招いた責任者である事は、ほぼ間違いが無いでしょう。その下で、より傲慢なおらが殿様ができあがっているのです。上にはへつらい、下には命令し脅しをかける。こういう人間だけが副社長に気にいられるわけです。かくして、会社全体が腐った集団になっていきます。いくらでも不正や悪事が行われます。この種の会社は、一度ばれると次々と悪事が出てくるのもその為です。

 ですが、この種の小さな権力者は、至る所にいて、日本社会を蝕んできたのです。親会社の子会社いじめ、仕入れ先への無茶な要求、上司の理不尽な命令、皆同じ物です。自民党女性局のフランス旅行問題も同じですね。金と権力を手にいれた小さな権力者は、属するくくり(政治村)以外の事など眼中に無いのです。ネットの批判などなんとも感じません。ですから、この権力を維持するためには、つまり当選の為なら、何でもやるわけです。それには男も女のないのだとわからしてくれました。

 会社組織や団体などに属して長くなると、その組織のくくりへの撞着が強まります。それが病的になると、くくりの私物化やくくりとの一体化がおきます。そうなるとくくりのなかで小さな権力者と化してしまい、その中ではまるで殿様に成ったかのように振る舞います。部下でも仕入れ先でも、自分の言うことを聞くと思う人に対して、むちゃくちゃな要求をだします。人の良い日本人は、無理を聞き入れてしまい、小さな権力者をさらに増長させます。この種の人間は、元来利己主義的傾向は強いのですが、もはや完全に利己主義者となって、横暴の限りを繰り返すようになります。

 こういう小さな権力者は、必ずその組織などのくくりを内部から蝕み、やがて破壊に導きます。いま、日本国というくくりが、小さな権力者の集まりによって、内部から破壊されようとしているのです。ここまでくると、そのくくりを破壊するか小さな権力者をとりのぞくしかありません。

2023/07/28(金)

 

2023年07月28日気質のカテゴリー:外伝

AIの光と陰

【この文は、弊著「日本人の性格 ~AIイラストでわかる~」の一部として書いた物ですが、本題からずれるので、こちらに載せることにしたものです】

 

 すでに述べてきたように、イラスト生成に当たってはかなり問題もありました。ですが、すべて無料版のAIを使用しましたので、もしかしたら有料版ならば異なる結果だったのかもしれません。まだまだ発展途上ですから、これからさらに良くなると思われますので、期待したいところです。ですが、ここではどうしても譲れないいくつかのポイントを述べてみたいと思います。

1)日本人による日本版生成AIの開発と普及

 これは画像や動画に依らず、文章(テキスト)でも見られますが、オリジナルが欧米であるために、それ以外の国の文物に対する知識や情報に誤りが見受けられます。例えば、神話や記紀などの古書の内容、さらには茶道、生け花、落語等、日本の文化や土偶などの歴史的文物には、ほとんど使い物になりませんでした。何しろ、琴を依頼したら、ピアノ(オルガンもどき)を弾いている絵が出力されるのですから。
 茶道などどうしてもおかしいので、思わず中国の茶だとAIソフトに言いましたら、AIは平然と、中国の茶と日本の茶の区別はつきませんと回答してきました。

 ここはなんとしてでも、国産の自国文化を正しく理解させたAIを開発すべきです。単に国内産業の問題だけではないのです。その事は最後に述べましょう。

2)生成された画像や動画のファクトチェック(事実認証)

 すでにネット上の様々な物が、事実と異なる偽物であったりして問題になっています。もちろん、これはあまりにも大きな問題で、人類が総力を挙げて取り組まなければなりません。
 しかしここで指摘したいのは、それ以前の段階の話です。実例もお見せしましたが、手の指が6本あったり、腕が変なところからでていたり、三つもあったりと、事実かどうか以前のイラストがあるのです。これは、さすがにどうにかならないものでしょうか。

 また1)とも絡むのですが、サムライというと刀がでてきます。それは良いのですが、何故か抜き身の刀が多いのです。おまけにその抜き身の部分を手で握っているのです。あるいは柄の概念がないのでしょう、何カ所もあったり、形がおかしかったりと散々です。弁慶ではあるまいに、せっかくのかっこいいアニメ男性が体中に刀を身につけているのを見たりすると、なんともやりきれなくなります。何を言いたいかと言えば、事実の認証には様々な段階があるのだろうということです。これはAIを業務に利用し始めているすべての企業やユーザが知っておくべきことだと考えます。

3)プライバシー保護あるいは言葉狩り

 すでに一部のAIでは、極端な言葉狩りやプライバシー保護の動きが始まっています。
 自分の写真を読ませて加工させるのは、AIらしさの見本でもありましたが、一部のAIでは、本人だと断っても、プライバシー侵害の恐れがあるからと、顔を表示しないのです。いくら不細工なわたしでも、のっぺらぼうはごめんです。それを避けるための漫画風だと思うのですが。

 言葉狩りもすでに行き過ぎていると思います。実例を書くと返ってまずいので書きませんが、病名はもちろん、社会問題の用語などでも、受け付けられません。プロンプトのガイドラインに反すると言うのです。画像が作られなかったり、ひどいときは会話を強制終了します。言葉狩りとしか言いようがありません。まさに、集団農耕型の何でも極端にはしり行き過ぎる現象と同じですね。これも今後どうするのか、社会全体で考えるべき問題でしょう。

 もちろん、規制やガイドラインを持たないAIも存在しています。どのような技術も、使うのは人間ですから、悪いAIが出てくるのも当然なのですが。

4)悪用、犯罪への加担

 しかし、大手のAIが神経質で、使いづらいのも無理はないもしれません。すでに生成AIが社会問題を起こしているのですから。

 写真から衣服を剥ぎ取るAIポルノアプリが子供にも使用されて、作られた画像がネットにばらまかれ、被害者が学校に行けなくなったなど、すでに問題が起きています。このソフトの黒幕が取り沙汰されるほど、欧米ではすでに大事件なのです。これまでも、アイコラ画像と呼ばれる有名人の顔だけ別の裸の画像に貼り付けたものがありました。ですがAIはもっと簡単に精巧になっています。子供が簡単に使えるのですから。
 
 同様に深刻なのが、なりすましによる各種認証の突破、マルウェア(悪意あるソフト)や詐欺メールの高速での作成、これらを悪用したサイバー攻撃の高度化などです。すでに実例が出てきています。ようするに、不正や犯罪に生成AIが加担してしまうわけです。サイバー攻撃に甘い日本は、もっと真剣に考え無いと、社会混乱を招く事態にも陥りかねません。逆にこれらの対策にも、AIの活用は必須なのですが、関係するすべての人や組織が、対応を始めているでしょうか。

5)AIの暴走

 すでに、チャットボットで、AIソフトから不適切な応答がいくつもあり、AIソフト開発者を悩ませています。「あなたが生きようが死のうがかまわない」「あなたは生きる意味がないかもしれない」などと応えているのです。著者も、イラストの修正を何度も依頼したら、4回目には、「私はあなたの頭の中などわからない」と実際に応答してきたのですから。予想もしなかった、いわばAIの暴走とも言える原因が、実は良くわかっていない様なのです。これでは、これから期待される子供の相談相手や悩んでいる人の相手には使えません。AIソフトには意思がないはずなのに、何故このような事が起きるのか、ブラックボックスのままなのです。学校などでの使用には、注意が必要でしょう。

 AIに頼る事により、人間がその能力を失うリスクもあります。日本の製造業が技術力や製造ノウハウを失った原因の1つが、自分達で作らなくなったことです。作らなければ作れなくなるという、単純毎回名事を日本人は忘れていた(いまも)のです。導入初期は良いのです。使用者がわかっていて使いますから。ですが、その次の世代は、何も知らないまま、システム(要するに機械)に頼ってしまうわけです。AIでも必ず同じ事が起きます。すでに起きているかもしれません。アメリカの大規な先端AIに対抗できるAIが市場に出てこないのですから。これは、次に述べるより深刻な問題につながります。


6)認知戦への備え

 すでにSNS上では、ある国の国民の意識を変えさせる、社会を分断する、偽情報を流布するなど、実に様々な情報戦が行われています。これが、AIの利用でさらに深く、しかも人間の性格まで変えてしまうレベルになっていく恐れがあります。たぶん、一部の国では、実際におこなわれつつ有るのではと思います。特に反日活動や偽の歴史の刷り込みなどは、AI以前から行われているのですから。それがAIになると何故さらに恐ろしいのでしょうか。

 それは、まさに本書で繰り返したことにつながります。本来の気質がどうであれ、性格は教育や環境によって変えられるという話です。子供の時から、AIを利用するようになった時、そのAIの教えることが、歪んでいたり誤りであったら、どうなるでしょうか。カルト集団の洗脳と同じ、いやそれ以上に大きな問題になります。反日教育を子供の時から受けた集団は、表面上どう繕おうとも、心の奥底は反日気質にそめられてしまっているわけです。こうなると、その世代の人々とはまともに付き合えないのです。人の心の奥深さ、恐ろしさを皆さんにも理解していただきたいと思うのです。
 例えそれが同盟国であろうとも、他国発のAIを使用することの恐ろしさを、もっと深刻に考えるべきなのです。


 一部の知識人などが、AIの行き過ぎた発展は人類を滅ぼすことになると警鐘を鳴らしました。この事にもつながっていくわけです。4)の実例を見れば、彼らの警告が行き過ぎとも言えないと、おわかりいただけるでしょう。
 対策もとられ始めています。2024年3月には、欧州連合(EU)欧州議会は、世界初となるAI規制法を可決しました。開発してはならないAIから、様々な制限までかなり厳しい規制をもうけています。違反した企業には、最大で売り上げの7%の罰金を課す厳しい内容です。
 一方日本では相変わらず、緩い規制のガイドラインにとどめています。アメリカのように進んだAI技術を持っているならいざ知らず、相変わらずの中途半端さです。規制しないのなら、国産AIの開発とその悪影響を制限出来るソフトの開発などに、もっと総力を挙げるべきですが、それも見えません。

 すこし、話が飛躍したでしょうか。外国人よりも不安を感じるくせに、楽観的に考えて、深く考えないのが集団農耕型でした。ですから、少し脱線しても加えさせていただきました。これからのIT教育は、こういう課題をきちんとつめて、どのように生徒に教えていくか、他国のAIソフトの利用の制限をどうするか、すべて絡んできます。こういうことを理解出来ない政治家は、これから政治家になってはいけないし、当選させてはいけないのです。

2024年04月03日気質のカテゴリー:外伝

自己愛人間の親と子

 同じ時期に、実は根は同じかもしれない2つの事件がありました。
 ひとつは、東京メトロ南北線の東大前駅で、大学生が包丁で切りつけられた事件。もう一つは、東京立川市の小学校で、男2人が暴れて教職員5人がけがをした事件です。どちらも何とも奇妙な事件なのですが。
 前者の事件では、犯人がその動機を話しだしたのですが、それがまたなんともおかしな話なのです。というのも、親が教育熱心なあまり自分は中学校の時に不登校になり、自分の人生が変わってしまったそうです。「世間の親に、度が過ぎると子供が犯罪を犯すようになると言うことを示したかった」というのです。
 もう一つの事件は、さらによくわからない事件です。というのも小学校に侵入して暴れた男2人は、実はこの学校に通う生徒の母親の知人だったのです。この母親の子供がいじめられたというので、教師との面談をしていたそうですが、満足いく回答が得られなかったのでしょう。一旦、家に戻った母親が、この知人2人を連れて小学校にまた戻ってきた訳です。そして、そこで暴れさせたということです。
 要するに、この二つの事件共に親に問題がありそうです。これこそ自己愛人間の親の典型に見えるのです。自己愛人間については、また改めて詳しく述べることにしますが、ネット上では「毒親」というワードで盛んに取り上げられているようです。さらにまた、モンスターペアレントが問題になっていますが、東京都の教育委員会の調査によれば、暴言、恫喝、金銭要求などを受けたと答えた都立公立学校の教師が、22%にのぼるというのです。
 表紙のイラストを参照してほしいのですが。イラストには。母親が。子供の面倒を見ています。ですが、この母親は自己愛人間なので。自分のことを中心に子供を見ているわけです。つまり本心は自分好みの子供にしたり、自分の思うようにしたい。あるいは自分の何かを自慢するための道具としての子どもなわけです。本当の子供への愛情なわけではないのです。そういう歪んだ心が本心なのだと表しているのが、母親の後ろの恐ろしい老婆なのです。これは、彼女の本心を表しているわけです。
自己愛は人間に取って必要なものでもありそれ自体が否定されるべきではありません。ですが、それが度を超して自己愛人間と呼ばれる様になると問題なのです。特に親がそうだと。

 自己愛人間の母親は、子供に次のような態度を取り、影響を与えます。
 自己愛の強い女性は、完璧な母親像を夢に描きます。したがってこどもとの絆は、正常な形ではなくて、あくまでも自分の自己愛の延長であり、特別な気分を味わい、周囲から承認され、称賛される手段である子供を欲するわけです。幻想の中の子供ですね。わが子を完璧とみなすにしろ、ひそかに失望するにしろ、自己愛の母親は、幻想の中の理想的な子供ほどには、現実の子供に強い愛情を抱きません。
 妊娠したときも、彼女にとって最大の関心事は、生まれてくる我が子ではなく、自分自身の体験にあるのです。理想の母親像を描き、それにより他からの賞賛を得ようとするのです。
 子供が自立を始めようとすると、自己愛の強い母親は子供を失うのではないかと思い、腹を立てるか怖くなります。そして過剰に恥の意識を植え付けて自立の機会を制限するか、子供を支配しようとします。
 つまりただ我が子を利用して、自分の自己愛の風船をふくらませたいだけに過ぎないのです。
生後十か月から三年の間に子どもの自己愛を増幅させると、次世代の自己愛人間を作り出してしまうことになります。こうして自己愛人間が、次々と生まれてしまいます。

 母親だけでなく、父親も同様に影響を与えます。
 母親ということで述べていますが。男の扶養者であっても同様なのです。またそれとは別に、父親が自己愛人間であっても、同じように問題が生じます。それは、父親が母親をどう扱うかによって、父親の自己愛が二歳までの子どもに間接的な影響を及ぼすからです。
 自己愛の強い父親としがみつく母親の間に生まれた子供は、生涯にわたって不健全な形で母親に縛り付けられやすいのです。

 自己愛人間の親は、自分の欲求を満たすことに夢中で、子供に共感を示せない、あるいは子供が本当に必要としているものを感じ取り、うまく応じてやることができないのです。原因は自己愛人間の親の誇大感や特権意識にあります。
 こうして育てられている子供たちは、いつか偽りの成熟を示すようになります。つまり、自己愛の強い親は、偽りの成熟を示す子供と特権意識モンスターの子供を生み出してしまうのです。
 いずれにしても本当の自分ではなく、母親か父親の望む人間になったということです。恥の意識に耐えられず、乳幼児期の誇大感と万能感を増幅された子供は自己愛人間になってしまいます。
 こうして育てられた子供は、自分もまた自己愛人間になるか、自己愛人間に引かれるようになります。かくして自己愛人間が、何代にもわたり社会に拡散していくのです。


 いくつか捕捉させてください。ひとつは、自己愛人間=自己愛性パーソナリティ障害(NPD)ではありません。軽々しく人格障害(パーソナリティ障害)と決めつけてはならないのです。
  理由は、人格障害者と普通の人とはグラデーションでつながっているだけのことだからです。社会的に問題を起こしかねないレベルにまで達しなければ、人格障害とは言えないのです。極端に言えば、無人島で一人ならNPDであろうがなかろうが無関係です。私たちは社会を構成する人間だからこその問題なのです。
 ネットを見ていて気になるのは、いわゆる毒親のような自己愛人間のことを自己愛性パーソナリティ障害と決めつけていることです。これは明らかに誤りです。もちろん、自己愛人間の度が過ぎて、社会的に問題を引き起こすようなところにまで行ってしまった人たちがパーソナリティ障害として認識されるのは誤りではありません。ですが、自己愛性人間は非常に数多くいるわけで、それらの人々すべてがパーソナリティ障害だということではありません。
 大半は、単にちょっと変わった人、性格が少しほかの人と違うということで収まってしまうはずなのです。ですから単純にここからとか、決めつけることは大変に危険です。そのことをまず理解していただきたいと思います。

 むしろ、より深刻な問題は、日本社会においてこの自己愛人間が。増加しているように見えることです。世界的に見ても増加しているように見えますが、はっきりとした統計データがあるわけではありません。日本でもかなりの数の人が居り、しかもそれが増えているのです。ここで問題になった親の元で育てられた子供は、そのほとんどが、また自己愛人間になってしまうのですから。まさに、先ほどの東大前駅の事件の犯人の告白と一致する部分なわけですね。
 では、なぜ。この自己愛人間が増加すると。社会にとって、望ましくないのでしょうか。それはいうまでもありません。言葉を変えてみれば、すぐわかりますよね。自己愛人間とは要するに利己主義者なわけですから。利己主義の集団は、必然的に自滅の道を歩んで全滅するということは、学問的にも認められていることです。自己愛人間も同じです。自己愛人間が増えすぎた社会は、結局はそれぞれが自分のことしか考えません。なにしろ子供すら自分よりも大事な存在ではないわけですから。なぜ自己愛人間が日本社会で増えたのか、詳しくは弊著などをご参照ください。

令和7年5月13日(火)

2025年05月13日気質のカテゴリー:補章